ついでに(笑)、渡辺淳一のブンガクについても少々。正直、私は
渡辺淳一なんぞ一生、読まないで終わるもんだと思っていた。
どーも、『失楽園』やら、『愛の流刑地』のイメージがあり、セックス
描写が得意な大衆小説家、って印象からはみ出ていなかった。まぁ
その両方の小説が連載されていた日本経済新聞を愛読している私
は、いつのまにか、ちゃぁ〜んと、新聞で読んでいたんだけど(笑)。
で、この『冬の花火』も、主人公の奔放な男性遍歴が有名なものだ
から、私は読む前は、その男性遍歴を利用してセックス・シーンを
書きたかったのか?などと、みごとにゲスのかんぐりんぐしてた。
ところが、この小説の最初のセックス・シーンは、こうだ。
十月の末に、諸岡から十勝川温泉に誘われて以来、二人は単
なる恋人同士ではなくなっていた。
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・・・おいおい、これだけかよ(笑)。これじゃ、テレビじゃん。
それが、小説が進むにつれ、少しづつ、表現が大胆になってゆく
のだ。左に引用した箇所も、文学的技術の向上が見られる。
つまり、この1970年代初期、渡辺の40歳前後に書かれた本作は
書きながら作家が文学的成長をした時期なのではないだろうか。
それが分るぐらい、前半と後半ではブンガク度数がグンと違うのだ。
そして医療小説家としてスタートした渡辺のブンガク的「成長」を
準備したのが、
描くことによって擬似的伴走者となった中
城より
子であったのではないだろうか。実際、『冬の花火』の書き出しは、
まだ存命中のモデルが多い中、必要以上の気配りにより、小説とい
うよりも、読者の興味を引くために演出を少し加えたノンフィクション
という色合いが強い。
ところが、1年8ヶ月に渡る連載の中で、渡辺は中城の短歌に強く
影響されていったのだと思う。さらに、連載されたのが雑誌『短歌』
であったことにより、歌人たちからの注目も意識せざるをないだろうし
その環境の中で短歌を吸収する能力も開花していったのだと思う。
そして、小説は時系列に進むのだが、それは当時の中城の短歌
が深みを増してゆく時間でもあり、渡辺が短歌の深みにより堕ちて
ゆく時間でもあったのだ。
俳句と比較しての
短歌の「過剰」さとは、小説家にとっては、
ず
ばり「物語」のことなのだ。中間小説
家、渡辺にとっ
て、あまりにも純
文学な中城の短歌はまぶしい存在として日々、光を増してゆき、それ
がフラクタルに創作中の渡辺の作品に「物語」の魔境を超えさせたの
だと思う。
そして私は、『冬の花火』と同時期に書かれた渡辺の青春時代の
甘く厳しい回顧小説『阿寒に果つ』を想い出す。ここで描かれた高校
3年生で自殺する渡辺の恋人、天才美少女画家を思い出して、彼は
2006年に朝日新聞のインタビューでこう回顧している。
「常
識を覆す芸術な
るものと、女性の不可解さを教えられた」
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この言葉は、そのまま中城にも向けられるはずだ。それを証明した
のが、小説『冬の花火』でもあったと思う。
つまり、『冬の花火』は作家=渡辺淳一自身の「成長小説」でもある
のだ。
二人の子供がいながら次から次へと肉体関係をともなう恋愛を重ね
る中城の日常生活は、帯広のような田舎では常識ハズレであり、反
モラルであったはずだ。しかし、だからこそ中城は自分の反モラルぶ
りを肯定も否定もせずに、短歌という美をともなった「物語」にとじこめ
ることで「生」のバランスを保ち続けたのだと思う。
渡辺が『冬の花火』を書き出した当初は、スキャンダルのデパートの
ような中城に芳醇な「物語」を求めたのだろうが、書き進み、短歌の奥
に触れられるようになった時、既存の存在であると思っていた「物語」
とは中城が命がけで生きた「虚構」であり、それこそが「文学」であると
気がついたのであろう。もちろん、渡辺が気がつくことができたのは、
高校時代の天才美少女画家との「常識を覆す」体験があったからだ。
小説を本気にさせる純粋な「物語」を抱え込んでいる「短歌」。そこ
にこそ、短歌論の中心があるような気がしてならない。
そして、大塚陽子もまた、そんな短歌の歌い手の一人だったのだ。