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言の葉を燃やすもの。短歌★念写された情念

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   名作落語大全集#489   発行者:越智月久
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発行日:2010年4月23日(金)

 ご来場ありがとうございます。マクラでは落語史の研究として、古典文学を調査しております。
 さて、掛詞ってのを紹介しておきましょう。平安時代に成立した『古今和歌集』、この時代はやっ
かいでね……『万葉集』は感動を素直に詠んだといわれます。まあ日本の自然が150年経って変わっ
ているということでもなく、同じことを詠んでも新しくない。それで、色々な技巧を使うのを喜んだ
のです。例えば、在原業平さんの有名な歌がありますね。

  から衣きつつなれにし妻しあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ

 これは「から衣」が「着」の枕詞、「から衣きつつ」が「なれ」の序詞、
「なれ」「つま」「はる」が「衣」に関係の深い言葉で縁語、
しかも五七五七七の頭の文字を拾って読むと「かきつはた」と植物の名前が隠れている、折句って技巧まで使われています。
 すごいと感じるかも知れませんがね、この頃の人は教養として歌を詠むのは当たり前、年がら年中
こんなことしかやっていないのだから、即興で簡単に出来ちゃうんですよ。

2010年4月9日 金曜日 午前1時57分午前4時、座禅、終了!気温-0.7℃←■北海道新聞の夕刊で、穂村弘の連載エッセイ「目が覚めたら、」が始まった。こんな世の中でも、いいこともあるもんだ(笑)。
「安住」「甘え」を引き換えにしてもいいから、そんなものを求めない。
端居して
ここが宇宙の
入口だ
(久保元宏 2001年8月)

★日付をクリックすると、♪好きな時代に行けるわっ♪あん♪アン♪歴史から飛び出せ!
たとえば→2月16日の歴史

ハウス・バァ〜モント・カレェ〜だよ〜♪

Mr. Saigyou
has been dead !

→ちゃんとそう思えるように私もほんとに頑張らなくちゃ〜。と、年頭の挨拶ぽい事言う。

人間は
養殖ばかり
鮎嗤う
(久保元宏 2001年7月)

★日付をクリックすると、♪好きな時代に行けるわっ♪あん♪アン♪歴史から飛び出せ!
たとえば12月15日の歴史

でも、幽霊のところは読まないようにしなくちゃ(夜は)。

Mr.Takamura Ono
was exiled to the Oki island !

★日付をクリックすると、♪好きな時代に行けるわっ♪あん♪アン♪歴史から飛び出せ!
★たとえば→5月25日の歴史★
Japanese Government
arrested
a lot of Anarchists !
どこまでも、考える幸徳秋水。
1910年(明治43年)5月25日、「大逆事件」

悲しきカナリヤ石川啄木は、アナーキストたちへのシンパシーをもち、
クロポトキンの著作、大審院公判記録を研究、作品にも結実させた。

新聞社勤務の啄木は、連日、「大逆事件」の新聞記事を集めつづける。

6月、日記に「幸徳秋水等陰謀事件発党し、子の思想に一大変革ありたり。」

7月1日、社用も兼ね、入院中の夏目漱石を見舞う。

7月26日、庶民階級の苦悩煩悶を伝えた短歌を作る。
「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりちつと手を見る」

8月8日、作った短歌に時代が現れるようになる。
「何もかも行末の事見ゆるごときこのかなしみは拭ひあへずも」

8月の朝鮮併合後の作として
「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」
があるが、歌集には収録しなかった。

8月下旬に評論「時代閉塞の現状」を執筆するが、『朝日新聞』は掲載せず。

9月9日、大逆事件下の時代を鋭い感性で描写した短歌を作る。
「秋の風我等明治の青年の危機をかなしむ顔撫でて吹く」
「時代閉塞の現状を奈何にせむ秋に入りてことに斯く思ふかな」

9月15日、『朝日新聞』紙上に朝日歌壇がつくられ選者となる。

10月4日、長男真一が誕生、しかし27日には病死する。

12月、第一歌集『一握の砂』刊行、東雲堂、満24歳。

1911年(明治44年)1月、友人の平出修弁護士と会い
幸徳秋水の弁護士宛「意見書」を借用する。

1月10日、アメリカで秘密出版され日本国内に送付された
ピョートル・クロポトキン著の小冊子『青年に訴ふ』(大杉栄訳か?)の寄贈を
歌人谷静湖より受け愛読する。

こんなふうに終るのは
なにも戦ひや恋だけでなく
夕映えもさう

大辻隆弘 (1961年生れ、歌人)
「イラク戦争でアメリカの”一人勝ち”への複雑な心境を詠んだ。」


戦争の終わる日に降る
灰色の雪は
無数の耳なり消える

加藤治郎 (1960年生れ、歌人)
2003年4月19日 NHK衛生第二『列島縦断短歌スペシャル』
「現実感の薄い心象風景に犠牲者が幻のように消えるイメージを投影し、
終戦への願いを込めた。」


送信日時 : 2004年7月21日 1:41Am
宛先 : 久保AB-ST元宏
件名 : Re: 吉野先生の追憶文を読んで一言お礼を。

久保さん、こんにちわ!!
昨日、東京は40度の暑さ、幸い私はもう働らなくても良い、狭心症持ちの67歳男性。
お陰様で日中は息子夫婦の自宅に留守番をしています。
最初は受験参考書の「万葉、古今、新古今」から取って、掲示していましたが、
徐々に図書館から万葉本を借り出し、その著者の感動をコピーしています。
   出来るだけ美しい言葉、親子、男女の優しい愛の言葉等を力強く切々と歌いあげているのを拾っています。
  中西進先生の「万葉集」1,2,3,4巻が調べものに良く働いてくれます。650円×4冊の安さです。
  このところはウェッブサイトから写真を貰っていますので、これも参考にさせて戴いています。
こんなに勉強になるとは思いませんでした。知れば知るほど面白い。

■吉野秀雄(よしのひでお 1902-1967・明治35年-昭和42年)


 歌人。1902年高崎生まれ。両親が柏崎出身、妻が高田出身と、新潟につながりが深い。
会津八一の「南京新唱」にひかれ、唯一の門弟となる。また、『万葉集』(629〜759)と良寛に傾倒し、
「苔径集」「早梅集」「寒蝉集」「良寛和尚の人と歌」などを発表する。
1967年(昭和42年)7月13日歿、鎌倉で病没。65歳(艸心洞是観秀雄居士)。 鎌倉・瑞泉寺。
旧図書館(現在は柏崎ふるさと人物館:柏崎市東本町1−4−11)の前には歌碑が建っている。
【参考文献:新潟県大百科事典 新潟県県民百科事典】

書 名 発行年
歌集「苔径集」出版広告 昭和11年
苔径集(河) 昭和11年
歌集「苔径集」 昭和11年
世界一巡紀行 昭和16年
鹿鳴集歌解 昭和22年
早梅集(歌集) 昭和22年
うつし身の孤心の極まれば歎異の鈔に縋らまくすも         (早梅集)

寒蝉集(歌集) 昭和22年
寒蝉集(歌集)互評自注歌集) 昭和24年
真命の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ

これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹

ひしがれてあいろもわかず堕地獄のやぶれかぶれに五体震はす

今生のつひのわかれを告げあひぬうつろに迫る時のしづもり (寒蝉集)

良寛歌集 昭和27年
短歌とは何か 昭和28年
砂丘
良寛和尚の人と歌 昭和32年
吉野秀雄歌集 昭和33年
やわらかな心 昭和41年
含紅集(歌集) 昭和42年
たなうらにみ墓をさすりつつゐたり堪へねばわれはかくのごとしつ

死を厭ひ生をも懼れ人間の揺れさだまらぬ心知るのみ

わが庭に今咲く芙蓉紅蜀葵眼にとめて世を去らむとす

青葉木菟夜更けになくを冥々の彼土の声とし聞くはわれのみか (含紅集)

吉野秀雄歌碑建立記念誌 昭和46年
吉野秀雄書 昭和46年
越佐文学散歩 下 昭和50年
吉野秀雄全集(全9巻) 昭和52年
吉野秀雄歌解 昭和53年
吉野秀雄論 昭和53年
わが胸の底ひに(吉野秀雄の妻として) 昭和54年
秋艸道人會津八一(上下) 昭和55年
吉野秀雄全歌集 平成3年
百日紅の花ゆらぐ 平成5年
ふるさと文学館 19 平成6年
吉野秀雄 高橋元吉宛書簡 平成9年
柏崎・刈羽人物報事典
柏崎文人山脈    吉野秀雄−その1吉野秀雄−その2   吉野秀雄−その3 平成12年
吉野秀雄と柏崎 (柏崎市立博物館調査報告書 第2集) 平成13年

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「もしも自分に歌がなく、自分の歌が自分の精神を昂揚することがなかったならば、どうして自分に今日の存在があったらうか。」と感慨するように、詠み出された歌は、
戦時下での妻はつ子との死別、生涯を通しての宿阿肺患との闘いなどに苦しみながら、己の全精力を注ぎ込んだ所産であった。
昭和42年のこの日、詩人八木重吉未亡人であった二番目の夫人登美子に見守られ、
鎌倉の自宅近くの雪の下教会から聞こえてくる正午の鐘の音につつまれて、心臓喘息の発作により亡くなった。





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鎌倉二階堂の瑞泉寺、「月観むとたどる山路に峡の門の夕映え雲をふりさけにけり」と詠んだ愛惜の地にある墓は、墓地左手隅の崖の岩肌を背に静寂そのものといった趣で立っていたが、湿気を帯びた靄がゆらいでいるこの谷に、庫裏の方から参詣客の嬌声が時折降ってきた。





「小説 吉野秀雄先生」の光明寺

 「週刊新潮」の「男性自身」で小説を読まない読者にも知られていた山口 瞳が、生涯の師と仰いだ歌人、吉野秀雄と「鎌倉アカデミ−」での出会いから、死に至までを自分の青春と重ねあわせて書き記した師の鎮魂譜である。

「鎌倉アカデミ−」は、昭和21年の4月に材木座の光明寺に開校したユニ−クな学校であつた。将来は大学としての構想があったが、文部省から大学の認可が降りないまま、4年余で廃校になった。

 しかし教授陣は当時の錚々たる学者、作家、評論家がいた。その中に歌人の吉野秀雄が、万葉集を講じ、短歌の指導にあたった。そうした教授陣の中でも学生に抜群の人気があったのが、吉野秀雄であった。

 19歳の山口 瞳は入学当初歌を作って、吉野秀雄に添削、や批評して貰ったりしているうちに、自己の歌の才能に見切りをつける。同じアカデミ−の同級生の夏子とここで知り合いになり、恋愛の末、結婚したのが後の山口夫人である。夏子は当時18歳であった。

 吉野秀雄は山口 瞳に「恋愛をしなさい。恋愛をしなければ駄目ですよ。山口君、いいですか。恋をしなさい。交合(まぐわい)をしなさい。」「若くとも、貧しくとも、恋ぐらいすべし」と盛んに吹き込んだ。

 山口 瞳は妻子を捨てた父親と駆け落ちした母親の間に生まれた子であるが、家庭内での躾は厳格で、性に関して口に出して言うことはタブ−視されていた。山口 瞳は性に対して偏頗な考えから抜けきれなかっただけに、この天真爛漫で開放的な性を謳歌する歌人の真に立ち向かう姿勢に圧倒される。

 吉野秀雄は慶応大学在学中に結核に冒され、経済学を断念し、歌道に精進した。子供四人を残して死んだ夫人の後に、偶然に吉野家に家事の世話に来たのが、夭逝した不遇の詩人八木重吉の妻、とみ子である。その時肌身放さず持ち歩いていたのは、八木重吉の書いた詩のノ−トであった。

 とみ子と重吉の間に出来た二人の遺児も年若くして病死した。とみ子は自活しながら天涯孤独の身であったが、秀雄の兄の所で、とみ子の姪が働いていたことから、歌人吉野秀雄と巡り合うのである。経済的に潤沢とは言えない家庭で、献身的に家事に精を出して務める。とみ子がただ一心不乱に盥の中に洗濯板にごしごしやっている姿を秀雄は、斜めに見下ろしている時急に好きになったと言う。秀雄は「われに嬬(つま)子らには母のなき家にえにしはふかしきみ来りける」と詠んだ後に請われて吉野秀雄の妻になる。

 終戦後のインフレの中で、「鎌倉アカデミ−」の俸給が遅配になって来て、いつも生活は逼迫していた。「一皿の乾パンに水の昼飯は机のうへにすぐに済みたり」「食はんもの全く絶えしゆうべにて梅干一つしゃぶり水飲む」で分かるように清貧の生活であった。

 周囲の幸福を常に願って止まないとみ子ではあるが、まだ正式には吉野家の籍こそ入っていなかったけれど、娘との葛藤は避けられなかった。益荒男で知られた秀雄も、とみ子と娘の板挟みにほとほと音を上げて、或る時山口瞳の母親のところに哀訴する。

 気風のよい瞳の母親は、「人の妻傘と下駄もち夜時雨の駅に待てるをわれに妻なし、、、、、、そりゃ、あたしは泣きましたよ。泣いたけれどねえ、いつまでもあんな歌ばっかり作ってちゃいけない。第一ズルイよ。

それにね、とみ子さんが可哀相じゃないか。相聞でいきなさいよ。なんだい、男のくせに。ねえ、吉野先生、元気だしてちょうだいよ。あんたはねえ、日本の一番偉い歌詠みなんだ。歌詠みってのは男のなかの男なんだ。なんだい。泣いたりして、、、、、。え?吉野先生、なんだい。めそめそしやがって、、、なんだい、、、、」

 そう言う瞳の母親も泣き出してしまう。山口 瞳は長谷の家から、小町の吉野の家まで送り届けるが、途中で吉野が電柱に抱きつき、路上に寝てしまうと言う乱酔状態にてこずる。

 吉野秀雄は容貌魁偉、手も大きく、巨体で誰が見ても偉丈夫であるが、それでいて心根の優しい、柔らかな人であった。その前にいると春の日を浴びているかのようであったと、山口 瞳は書いている。

 家庭の不和にさらに追い討ちをかけるように、手術8回の長男の発狂事件が突発する。吉野秀雄は在学中に結核に冒され、その後も喘息、糖尿病、リュウマチと闘病生活に加えて、長男の病気と四面楚歌の中にあっても歌を詠い続けていった。

 会津八一に師事し、松岡静雄に古典を学んだ吉野秀雄が、世に広く知られるようになったのは昭和22年1月の雑誌「創元」創刊号に「短歌百余章」が発表された時に始まる。

 「創元」の実質的編集長の小林秀雄は、吉野秀雄の原稿を読むなり、当時八幡神社の脇の山上に住んでいたが、凄い勢いで山を降り、小町の吉野の家に駆け込んで絶賛した。その中の2、3首を上げれば、「おさな子の服のほころびを汝(な)は縫えへり幾日か後に死ぬとふものを」「病む妻の足頚にぎり昼寝する末の子みれば死なしめがたし」「おさな児の兄は弟をはげまして臨終(いまは)の母の脛さすりつつ」

 吉野秀雄が鎌倉アカデミ−で講義をしている時に、大学を卒業していないから、大学教授の資格がないと言い出す教授が出てきた。そして終には教授から講師に格下げされてしまった。そしてあらぬ噂が広まっていた。

 吉野秀雄はこうした理不尽、屈辱,妬心、讒謗を忍ぶために、ある夏の日に、光明時の裏山にとみ子と行き、学校を見下ろして思いっきり「バカヤロウ−。この大馬鹿やろう。」と叫んで鬱憤を晴らした。そしてまぐわってからもう一度ありったけの声を張り上げて「バカヤロ−」と叫んだ。

 吉野秀雄ととみ子は昭和22年10月22日に正式に自宅で結婚式をあげた。誓詞の代わりに歌を詠んだ。その一つ。「恥多きあるがままなるわれの身に添はむとぞいふいとしまざれや」その日は偶々八木重吉の祥月命日であった。

 山口 瞳は初めて結婚式に参列し、吉野秀雄の挿話を皆の前で披露し、近く自分も恋愛中の夏子と結婚する積もりだと言うことを公言する。

 結婚しても貧困は相変わらずであるが、とみ子の稀に見る優しい心は家庭生活に暖かみで包んだ。その様子は次の歌にも表れている「在り経つつ貧しかりとも朝な夕なやさしき妻が声は澄むなり」

昭和25年になると教授に月給が支給されなくなった。教授も一人去り、二人去り、学生が大量に退学していき、最後まで残ったのは三枝博音と吉野秀雄他数名であり、そして9月に廃校となった。

 「鎌倉アカデミ−」は正式には大学としての認可が得られずに終ったが、その後ここに学んだ学生の中からは、学界、映画界、音楽界、タレント等で活躍した者は少なくない。

 現代の大学もその濫觴は寺子屋であったものが、当時の政府や各方面の支援を受けて近代の大学に昇格していったものであるが、「鎌倉アカデミ−」の場合は、惜しいかな人材は揃っていても財源と文部省の認可が得られなかったことから、経営を続けていくことが出来なかった。しかし戦後の寺子屋式専門学校として「鎌倉アカデミ−」の名は逸することは出来ない。

 昭和27年に吉野秀雄ととみ子は、八木重吉の二十五周忌にその生家を訪れ、秀雄は墓前に捧げた。「重吉の妻なりしいまのわが妻よためらはずその墓に手を置け」「われのなき後ならめども妻しなば骨わけてここにも埋めやりたし」

 山口 瞳は二十歳前から、鉄火場に出入りし、賭博に血道をあげていたが、或る時汗水たらして働かなければいけないと自分に言い聞かせて、肉体労働を選ぶ。そして歌も学問も師の吉野秀雄とも離別する。資格のない学校にいつまでいても将来が開けないと判断して、「鎌倉アカデミ−」を去る。

 山口 瞳は国土社を振り出しに、いくつかの弱小出版社を転々とするが、最後にサントリ−の宣伝部に籍を置き、「婦人画報」に連載の「江分利満氏の優雅な生活」で直木賞を受賞する。

 山口 瞳は、晩年の吉野秀雄を世間に喧伝するのに尽力する。吉野秀雄は随筆をあまり書かなかったが、随筆「やわらかな心」は多くの読者に読まれた。吉野秀雄は病床にあって山口 瞳の書いたものを愛読し、山口の好意を徳とした。

 昭和37年から吉野秀雄は起きられない状態になり、昭和42年7月13日に死去した。そしてその一月前に吉野秀雄は、友人達の力添えで特選塾員として慶応大学の卒業者名簿に名がのることになった。それを聞いて病床の吉野秀雄は喜んだと言う。

 山口 瞳は嬉しいに違いないが、遅すぎたと言って「時の流れ」に対して恨みを述べている。そして吉野秀雄の脳裏には光明寺の教員室における屈辱的な事件が思い浮かんだであろう。それが悲しいと付け加えている。

 山口 瞳は生前吉野秀雄に関係した人々はすべて鬼籍に入られたと書いていたが、その山口 瞳も今は泉下でその仲間入りをしている。「小説吉野秀雄先生」によって吉野秀雄の実像が後世に残ることになった。山口 瞳は良き師に巡り合ったことは幸福であり、吉野秀雄は良き教え子を得たことは教師冥利に尽きよう。

 光明寺は毎年10月のお十夜には、名物の植木市で賑わうが、半世紀前の「鎌倉アカデミ−」の面影は何処にもない。当時の若い学徒も老境に入り、幽冥境を異にしている人も少なくない。

灯の数のふえて淋しき十夜かな(たかし)

 


中山義秀


 小説家の中山義秀は明治三十三年(1900)福島県に生まれました。本名は議秀です。
早稲田大学在学中に、横光利一らと同人雑誌「塔」を創刊し、小説「穴」を発表します。大学卒業後昭和八年まで、中学校で教職に就き、そのかたわら創作に励みました。
昭和十一年最初の小説集「電光」を刊行し、十三年「厚物咲」で第七回芥川賞を受賞します。
続く「碑」の好評により、ようやく文壇での地位を獲得し、「清風颯々」「風霜」などを出版します。

 戦後は、郷里に題材を得た「残照」「信夫の鷹」などの歴史ものに新境地をひらき、また剣豪もの、戦国武将ものを執筆し、「平手造酒」「新剣豪伝」「咲庵」などの作品があります。ほかに「花園の思索」「二つの生涯」「私の文壇風月」等の随筆集もあります。昭和四十四年(1969)六十八歳で亡くなり、連載中の「芭蕉庵桃青」が未完となりました。

 鎌倉には、昭和十八年から没年まで極楽寺に住み、貸本屋「鎌倉文庫」や出版社「鎌倉文庫」に参画し、活躍しました。