吉本隆明 ★ Around the Brain in my Life |
で、2007年10月は青木昌彦の登場であり、また一ヶ月、楽しめる♪ 青木の肩書きは、「スタンフォード大学名誉教授」であり、ノーベル経済学賞に最も近い日本人経済学者ともいわれて いる。 連載初回で青木は、
と、書いている。う〜む、他人とは思えない(笑)。 ★青 木の最初の「コミットメント」は、1958 年12 月、20歳の東大生であった時、 全国の学生運動を日本共産党などの旧左翼から自立させて、 まとめあげた組織ブントの結成だ。
いよいよ、60 年安保の年を迎えた1960 年1月、雑誌『中央公論』 に詩人の吉本隆明が、論文「戦後世代の政治思想」を発表。 『現代詩手帖』の1972年8月「吉本隆明」特集号は、「この論文は、時代をふりわけるほ どの意味を もって提起された。」と位置づ けている。
当時は、「旧左翼の流儀に従って、ペンネームを考え」るのが流行であったようで、青木は、姫岡玲治の名で論文をガリ版刷りなどに書き 散らしていた。 特に、東大在学中に姫岡玲治の筆名で執筆した 論文「民主主義的言辞による資本主義への忠勤−国家独占資本主義段階におけ る改良主義批判」は、 「姫岡国独資」と 呼ばれ、日本中の運動家に読み込まれ、ブントの理論的支柱となっていた。 ★とにかく、先行世代である日本共産党 を否定してきた青木にとっても、さすがに吉本隆明に取り上げられたことは嬉しかったらしく、 日本経済新聞「私の履歴書」でも下記のように回想している。
★そ して吉本論文のおかげもあり、青木は「姫岡玲治」として一気に有名になり、この1960年に『日 本国家独占資本主義の成立』という新書も出した。 その後、「姫岡玲治」名でトロツキーの著作集を訳するが、その時に、同じシリーズの別の分冊 トロツキーの自伝『わが 生涯』を訳したのは、なんと、澁澤龍彦で ある。 ▲い
やー、今じゃぁ考えられない!雑誌の論文が社会現象を呼び起こすなんて!
それだけ時代が「若かった」?・・・いや、真剣だったんだろーね、みんな。
★樺美智子の死の直後、小説家の埴谷雄高も、 ヤジウマのように国会の周辺にいた。 そこで埴谷が見たのは、ブント学生に混じって装甲車の上でマイクロフォンで 伏目がちながらもアジ演説をしている、吉本隆明の姿であった。 すでに小説家として大家になっていた埴谷にとっては、まだまだ若い新人にすぎない吉本が60年安保の中央にいたことを目撃した事実は衝撃 だったようだ。 ★こ
の樺美智子が殺され、吉本や東大ブントのメンバーたちが逮捕された夜の一週間前、埴谷は第
一回「近代文学賞」の受賞者を選考する大激論をしていた。
★そして最後に、青木、島、森田、生田、佐伯、そして国会正門前で殺された樺美智子ら学生が通っていた大学、二時間を超える大激論の末、受賞者はようやく吉本隆明に 決まった。 授賞式は6月25日ごろに予定されており、吉本の逮捕を知った埴谷が一番気になったのは授賞式までに吉本が釈放されるかどうかであった。 吉本は無事に釈放され、授賞式に出席する。その後、『擬制の終焉』、『共同幻想論』などの問題作を連発し、日本を代表する思想家となる。 ★一方、青木昌彦は学生運動から離脱 後、東大大学院に進学して近代経済学に転じた。 マルクス経済学から近代経済学に転じた理由について青木は「マルクス主義の知的貧困に愛想がつき」たからだと書いている。 1967年スタンフォード大学助教授、1969年京都大学経済研究所助教授、1977年同教授、1984年スタンフォード大学教授、 2001年京都大名誉 教授。 1997年から2004年まで経済産業研究所第2代所長。一橋大学大学院国際企業戦略研究科客員教授等も務めた。 ちなみに、平尾昌晃は、 中学時代のクラスメイト。 「カナダからの手紙」とは、カナダで数学の教授になったブントの先輩、佐伯秀光からの手紙のことか?・・・まさか(笑)? 東京大学の学長の1960年6月15日をめぐる声明を紹介したい。 |