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てく&てく歩いた、世界☆ Poland

連帯の夢、
共犯の

実験された大地、
ポーランド。
世界どこでも Around the World in my Life
▼久保元宏のヒッピー逍遥
アーメーリカァ。ごっ・ぶれぇええすぅー。アメリカ◎U.S.A. 憧れ!HAWAII◎ハワイ NEW YORK◎ニューヨーク
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アイルランド (更新日;2006年12月18日)
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Poland 連帯共犯の
実験された大地、ポーランド。
text by.うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (更新日;2008年7月9日 0:39Am)
Sula vie dilejo
Sula vie milejo

Cheli venco deho
Cheli venco deho
Malio

Helibo seyoman
Cheli venco raero
Malio
Malio

「ワルシャワの幻想」
by. ♪そどみ〜デヴィッド・ボウイ (1977年)
1977年
Yeah! ★ポーランドで生きる意味♪
1977年5月22日
「これを記す日、
外国紙の報道を友人が知らせてくれた。
一週間あまりまえの金曜日から土曜日にかけ、
クラクフの街頭で学生祭が大荒れに荒れた。
政府に批判的なある学生の不審な事故死に怒って、
祭の学生たちが喪章をつけるなどで
当局に抗議したという。
ポーランド魂は今も生き、
これからも生きつづけるでしょう。」
工藤幸雄パラパラ・・・『ワルシャワの七年』
(1977年7月10日、初版、新潮社)
の、「あとがき」より。

1981年
Yeah! ★ポーランド文学者で翻訳家、詩人の工藤幸雄(くどう・ゆきお)♪
1981年12月13日 ポーランドに戒厳令がひかれ、多くの逮捕者がでる。
戒厳令にいたった原因は、1980年7月1日の食肉の値上げに反対するストライキから
レフ・ワレサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が活動を活発化し、
政府は翌1981年「連帯」を非合法化。それでも「連帯」は国民の支持を増やし、
いらだったヴォイチェフ・ヤルゼルスキ首相が戒厳令で国内の治安維持をはかった。
オレの存在を頭から輝かさせてくれ!
おまえらの貧しさに乾杯!
メシ喰わせろ!

ワルシャワからの
プレゼントは
血のりの ついた
クリスマス・カード

モスクワからの
カードには
なにも書いて
なかった
♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Die「核シェルターのメリークリスマス」
by. うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (1983年)
1983年
Yeah! ★ポーランドのワレサ♪
1983年 ポーランドで戒厳令が解除。
非合法とされながらも「連帯」は以降も活動を続け、
国内改革と民主化を要求し、ポーランド共産党による政権を揺るがし続けた。
「連帯」のワレサ代表は、同年、ノーベル平和賞を受賞し、国際的な注目が一気に増す。

1985年
Yeah! ★ポーランドの、灰とダイヤモンド!
映画監督アンジェイ・ワイダ、
1958年の名作『灰とダイヤモンド』。
ワイダ監督には反ソ連的な作品が多く、
「連帯」運動に参加したため、
1981年に引かれた戒厳令で、
ポーランド映画人協会長などの職を追われ、
フランスなど海外での映画制作を
余儀なくされる。
Yeah! ★ポーランドの、愛の歴史!
ワイダ監督は1985年、
『愛の記録』にて
ポーランド映画界に復帰した。
以後、ふたたび精力的に活動。
2007年の最新作『カチン』は、
カティンの森事件を描いた。
ワイダの父親もこの事件で
虐殺されている。
嫌いな事 お辞めなさい
お泣きなさい可愛いよ
僕の目の届く処でなら

シャララララ 許してあげる
シャララララ お前のすべて

訃報 工藤 幸雄 (くどう・ゆきお=ポーランド文学者、翻訳家、詩人)

2008年7月5日夕、肺がんのため東京都清瀬市の病院で死去、83歳。
中国・大連生まれ。自宅は東京都調布市入間町。
葬儀・告別式は14日午前11時から
調布市布田2の34の6、セレモニアル調布で。
喪主は長男堀切万比呂(ほりきり・まひろ)氏。

 著書に、『ワルシャワの七年』『ワルシャワ物語』など。
訳書にアダム・ミツキエビッチの長編叙事詩『パン・タデウシュ』などがある。
オシャレなオジイサンだった・・・。
おしゃれな
オジイサン。

★日付をクリックすると、♪好きな時代に行けるわっ♪あん♪アン♪歴史から飛び出せ!
たとえば→7月5日の歴史
意地でも?自分がもう、私に対する興味が失せていることを 認めたくないんじゃないかと思うんだ。

Mr. Kudo Yukio has been dead !

うぇ〜ん!私が、工藤幸雄パラパラ・・・『ワルシャワの七年』(1977年7月10日、初版、新潮社)を→
古本屋で買って読んだのは、私が東京都調布市に住んでいた1981年のことだ。
当時、活動が活発化していたワレサひきいる東欧初の労働組合「連帯」について
興味を持った私が、当時(も、今も)出回りが少なかったポーランド関係の本、
とゆーことで、定価780円を、古本屋で400円で買った(笑)。

「連帯」について知りたかったのに、この本には、まったく書かれていなかった。
それも&そのハズ、連帯が誕生したのは、1980年で、
この本が書かれたのは1977年だった。がくっ。

しかし、私がこの本を手に取ったグーゼンに今は感謝している。
Yeah! ★ポーランド文学者で翻訳家、詩人の工藤幸雄(くどう・ゆきお)♪
ナチス・ドイツの時代では、ない。1968年のことだ。

Yeah! ★ポーランド文学者で翻訳家、詩人の工藤幸雄(くどう・ゆきお)♪
ラインマーカーを引いた部分は、当時の社会主義への距離感が透けて見える。
この本が書かれた1977年は、
まさしくデヴィッド・ボウイが「ワルシャワの幻想」を発表した年であり、
忘れ去られていた(がくっ。)名監督アンジェイ・ワイダが、
共産党のあり方を問う問題作♪大理石の男ぉ〜『大理石の男』を発表し、
またしても映画史戦線に復帰した年でもあった。

そー考えれば、1977年に日本人によって
ポーランドの現状が
リアルに紹介され、記録されたのには大きな意義があった。

ついでに、1977年と言えば、
ロンドンでセックス・ピストルズがデビューした年。
セックス・ピストルズ♪片手にピストルズぅ〜
それまでの重厚長大こそが価値があるとゆー常識が
ひっくり返されてゆくターニング・ポイントでもあった。

ちなみに私は1977年から3年間、
愚かな高校生をやっていた。がくっ。

それではこの本が日本で熱狂的に受け入れられたかと言うと、
そこには、当時の時代ならではの微妙な温度差が
いろんなレベルで発生していた、と思う。
それは、発行当時の1977年も、
私が購入した1981年でもまだ同じだった。

つまり、著者がこの本で報告したり主張していることが、
社会主義への単純な批判である、とゆーとらえ方だ。

当時の日本には、社会主義の欠点をあげつらうことは、
そのまんま、社会主義の批判(だけ)をしているとする
見方が左派陣営に根付いていた。

もちろん、冷静に読めば、
著者が行っているのは単純な社会主義批判ではなく、
より理想的な社会主義をめざすための
ケース・スタディ(=反面教師?)としての
ポーランド社会主義の現状批判なのだ。

むしろ、社会主義の欠点とゆーよりも、
「権力」の欠点とゆー本質を見抜いている。
「権力」の問題は、どんな体制や、サイズであっても、
常に検証し、批判的に乗り越えねばならないのだ。

それを、単純に左派が大好きな
社会主義の悪い点を少しでも書いただけで、
「反動的」と切り捨てる空気そのものこそが、
悪しき「権力」の問題の中心なのだ。

おそらく、著者は、そこまでも見抜いていながら、
この本をあえて書いたのだと思う。
すばらしい。
Yeah! ★ポーランド文学者で翻訳家、詩人の工藤幸雄(くどう・ゆきお)♪
今から読めば、すげー・まっとーなご意見。今でも通用する論旨。

Yeah! ★ポーランド文学者で翻訳家、詩人の工藤幸雄(くどう・ゆきお)♪
著者はなんと、三月事件の現場にいた。そのことも書かれている。
ポーランド、と言えば私は2007年7月1日(日)3Pmに江別市のシアター「ども」での、
北海道ポーランド文化協会主催 ★just imagine...♪アートだ!あん♪アン♪『ポーランドの寺山修司』に参加してたんだった。
★寺山っ♪
★寺山♪ポーランドの歌声。
客席にいたポーランド人がステージに上がり、
ポーランド民謡「森へ行きましょう」
私は同年の1月に聴いた
スロバキア人によるスロバキア民謡「おお牧場は緑」
思い出した♪

寺山修司が劇団『天井桟敷』を引き連れてポーランドに訪問したのは、1973年。
工藤幸雄がワルシャワ大学の講師としてポーランドに滞在したのは、
1967年〜1974年の7年間だから、彼も『天井桟敷』の舞台を観たり、交流をしたのだろうか。

まぁ、死んでから、いろいろと思い出すのもやや不毛かもしれないが、
死が思い出させてくれることもあるんだから、
すばらしい人は、ただじゃ死なないんだな、やっぱし。