前田勉 「窓枠大の空」
墨を磨る
注ぐ
懐かしい形の硯を机に置いて
その墨海に
数滴
水をそそぐ
と
熟(な)れた時間を重ねて
すみずみに固まってしまった残滓が
かすかに
ゆるやかに溶けだして
硯の丘まで伝わってゆく
石は
生
を吸い込み
閉じ込められていたものを
静謐な時間から
甦らせようとしているかのように
見事に美しく装うのだ
何事もなかったように今へ現出させ
己の色に自ら染まり
漆黒の光に
あやしく身を紛らわせてゆく
呼び戻した硯の
黒く澄んだ墨海に
短い墨の斜めになった先を濡らし
磨る
押すことと引くことの
単調な動作に呼吸を合わせ
時に
まぁるく円を描きながら
少しばかり気取って
今そのものの思念を確認したりする
墨の先から溶け出す膠成分が
わずかに粘着してゆくかのように
ただ墨を磨る
秋田魁新聞「あきたの賦」2015.12.28掲載