■『氷点』は、かなりドロドロした物語世界である。
そして、「ドロドロ」とは、
「こんがらがっている」ことであり、
「得体の知れない物」では、ない。
『氷点』も、次から次へと不幸が連鎖されてゆくが、
その全体像が見えた時、
いくつかの
法則が「ドロドロ」の中にあることがクリアになる。
すなわち、「関係」と、「時間」である。
ふだん、アタリマエであると思われている「関係」に亀裂を入れ、
その横への広がりに「時間」を組み合わせることにより、
「関係」をより複雑に見せているのだ。
そして読者(&視聴者)は、
その「関係」の全体像が見えないことの欲求不満を膨らませ、
それを知ろうと、集中してゆく。
それが、「物語」の力だ。
■実際、『氷点』は1966年1月、新珠三千代、内藤洋子主演で
テレビ朝日が連続ドラマ化すると、すぐさま大ブームになった。
平均視聴率30%以上を獲得し、最終回(1966年4月17日)は
視聴率42.7%という、とてつもない記録を樹立した。
テレビ朝日で放送されたドラマの歴代視聴率の1位の座を、
いまだに守り続けている、
そんな「伝説のドラマ」らしい。(←
テレビ朝日『氷点』公式HPより。)
■『氷点』のテーマは、「許し」、である。
まさに今、沼田町で話題の
「更生保護施設」も、犯罪少年を
沼田町民の「許し」の心で迎えることにより、
「更生」にまで結びつける、という施設だ。たぶん。
■しかし、テレビドラマ『氷点』を観た視聴者は、
敬虔な「許し」の聖者となるかと言うと、それは疑わしい。
おそらく、いわゆる「昼メロ」的ソープ・ドラマとして
『氷点』は多くの大衆の支持を得たのだろう。
そこにあるのは、「「関係」の全体像が見えないことの欲求不満」を、
「好奇心」に変換させただけの、
「のぞき見」趣味のバリエーションにしかすぎない。
敬虔な三浦綾子も、
その情況に気が付いていたのではないだろうか?
だから彼女のその後の作品は、『母』、『銃口』など、
テーマが明確なものとなってゆくのだ。
■そう。「物語」とは「テーマ」の奴隷でなければならない。
我々が、教師や政治家などから
「ありがたいお言葉」を聞かされることは多い。
しかし、残念ながら「ありがたい言葉」と、「心に届く言葉」は違う。
その時、テクニックとして使われるのが「物語」なのだ。
そして、「物語」は、
自分自身をもふくむ世界への興味をふくらませる装置なのだ。
「物語」を前進させる優れた燃料が、いわゆる「喜怒哀楽」、だ。
我々が「物語」を求める時、
日常の中で「喜怒哀楽」のどれかに餓えているからなのだ。
■「物語」でなければ伝わらないもの、ではなくて、我々は、
伝えなくてはならないのだ。
そして、その時に「物語」は有効な伝達ツールとなる。
「関係」を知りたい時には、「物語」を壊せ。
伝えたい時には、