Kenzaburou Ooe(1930-)
NY911
大江健三郎(作家)は発言する。 「『絶望しすぎず、希望を持ち過ぎず』。 人間の歴史はこれまでそうやってきたのではないか。」 「国内の難局を国際的な難局に重ねることで、 積極的な展望でもひらけたかのように勇み立つ首相。」 「いつまで続くやも知れぬ成果の疑わしい戦争」 「被爆者たちが苦しみつつ鍛えた声の伝達が、現実の世界での連鎖を押しとどめてきた」 「しかし人間らしい思想、たとえば寛容は、それを信じぬ者にとっては力となりません。」 「私が最も恐れるのは、崩壊する世界貿易センターの向こうに 幾つものキノコ雲が見える光景です。」 |
小説★『大江健三郎「取り替え子(チェンジリング) 」』 2002,1,28 まず、『新潟県立三条中学校・高等学校同窓会』ホームページの掲示板に、私が書き込んだ文章 を引用しよう。 ■一読されるとお分かりになられるでしょうが、 これは2週間ほど前の2002年1月中旬に、予定されていた大江健三郎の高校での講演会が、 直前に校長からの大江への「当校は、日の丸・君が代を容認しているので、政治的な発言は控えて下さい。」という趣旨の要望により、 当初、日の丸・君が代について講演で触れる予定も無かった大江がキャンセルしたことからの、意見交換のカキコミです。 ↓ -------------------------------------------------------------------------------- ★この機会に、大江さんの本を読んでみよう。 久保AB-ST元宏 - 2002年1月26火(土) 20:13 - ■皆さんの意見に混じって、 「売国奴」とか「校長が大江=左翼のマインド・コントロールから救った」とゆー時代錯誤(すぎる!)意見もあり、 学校を「管理」する立場のヒトの「工夫」の必要性も感じないでは・ありません。 ■しかし、私の様な部外者が少ない情報から察しても、三条高校の現役生徒は、 「知識欲」と「知識「判断」能力」を持っている(⇒または、持ちたい=持とうとする努力・を持っている)と思いました。 ■大江さんがノーベル賞を受賞されたとき、それを報道したジャーナリストさえ、 彼の本を読んでいなかったものが多いと聞きました。 ■私の結論は非常にバカバカしい提案かもしれませんが、 皆さん、この機会に、大江健三郎の本を読んでみましょう!ということです。 ■「講演会」なんて非常に前近代的なものです。 私のようにイナカに住んでいますと、講演会は補助金の捨て金みたいな利用先であ る場合もあります。 この掲示板に、(良くも悪くも)不特定多数のヒトが参加しているのですから、 講演会よりも、インターネットのパワーは時には有功です。 そして、それでも、「講演会」を目指すのであれば、 皆さんで大江さんの本を読み、有志で「感想文」を大江さんに郵送してはいかがで しょうか? なんだか「青臭い」意見のようですが、 膠着してしまった時には直球勝負が一番です。 ■ミンナで大江さんの本を読んでみて、 「なんだ、つまらん」と思ったら、講演の必要はありません。 もし、「おっ!」とか、「もう少し具体的な意見を聞きたいなぁ」と思ったら、 講演会をすべきです。 その時の講演会は、学校の「管理」者主導のそれではなく、生徒主導のものである べきです。 もし、それが実現できたのであれば、前近代的な「講演会」にも、新しい意味が附 加されると・思います。 だから、まず、読んでみようよ。 -------------------------------------------------------------------------------- ■本来であれば非常に牧歌的な”同窓会・掲示板”なのでしょうが、 この「出来事」に、関係者(在校生も含む)&無関係者(私も含む)が数多く参加することになったようです。 最近では「なぜ、現役教師は意見を表明しないのか?」といった踏み込んだ意見もありますし、 掲示板以外は牧歌的なHPですので、 このHPの主宰者があえてこういった「場所」をパブリックに向けて開いていることに、敬意を表します。 ■さて、「まず、読んでみようよ。」と書いたからには、 私も大江の読後感を述べることによって、この「出来事」に対しての自分の態度を表現してみたいと思うのです。 もちろん私のこんなヒトリヨガリは、相変わらずダァ〜レも読まないとは思いますが・ね。 ■さて、大江健三郎『取り替え子(チェンジリング)』は、2000年12月5日に発行されました。 大江の小説は、彼が学生作家としてスター的存在であった1950年代から、 まるでサルトルの日本人バージョンとして注目された政治の季節の1960年代には、 純文学としては異例のセールスを続けていました。 しかし、知的障害児を長男に持ち、テーマがそれに添って超・内向&求道的になり、 内容も文体も当時の世界文学の潮流に乗って複雑になる一方の1970年代から1980年代には、 あまりにも「難しすぎる=暗い」ということで、当時の「軽チャー」気分からは倦厭されました。 もちろん、売れませんでした。この時期から私は大江の愛読者になりました。 そして1990年代、すっかり「大衆」から忘れ去られた作家=大江は、ノーベル文学賞を受賞。 一気に日本一の文科系セレブの頂点に立つ。 が、そこで出版された小説『燃えあがる緑の木』三部作は、長すぎる&難しすぎる、 オマケに、これまでの大江作品を読んでこなきゃ意味ワカランという不親切。 「大江センセでも、読んでみようザァ〜マス、おーホホホホ」的購買で売れた(らしい)が、 最後まで読んだ人の率は、マルクス『資本論』の売上と読破の率と競うであろう。 そこで2000年12月。20世紀「最後の小説」として『取り替え子(チェンジリング)』が出版された。 ■この小説は、モロ、芸能ネタがベース。 『マルサの女』や『たんぽぽ』の映画監督、伊丹十三は、大江の少年時代からの友人であり、妻の兄でもある。 伊丹は義弟がノーベル賞を受賞したのを祝い喜ぶかのように、 大江の小説『静かな生活』を映画化している。 その映画は、知的障害者を中心に生活する小説家の家族の話であり、 つまり「私小説(?)」なのだが、 伊丹の他の作品のようにハデな題材ではなかったので、おそらく、伊丹作品中、最も観客動員は少なかったのではないのだろうか? そして1977年。伊丹は、飛び降り自殺をする。 頭の悪い芸能ジャーナリズムは、伊丹の死を愛人問題と結びつけてセンセーショナルに書き立てる。 ■作中の名前は変えてあるし、ノンフィクションにフイクションが複雑に絡んで、物語は大江作品らしい高密度を構築している。 が、元ネタは上記の、「義兄の自殺」をめぐる秘密の解明だ。 ■フツーであれば、あれほど書きたてた芸能ジャーナリズムは、またコレで盛り上がるのだろうが、 「消費」が原動力のハイエナには、3年前のネタはもう古い。毛布類。・・・・・・ぎゃふん。 あれほど正義感をマイクにぶつけて、不倫を糾弾したジャーナリストたちで、 この小説を最後まで読んだヤツなんか・いねーだろーな。ケッ! 実際、私も今、コレを書きながら、伊丹十三を読者に説明しようとしている。 もう&すでに、伊丹十三は「過去の人」なのだ。 今日、フジテレビでは人気番組『SMAP×SMAP』で、稲垣五郎の復活「新ビストロ」。 先週はゴローちゃん復活☆第一弾で、視聴率は35%! 私は伊丹十三の生きている最後の姿を、この番組で見た。 女優の後妻と仲むつまじく、アイドル・グループSMAPの作るスパゲッティを食べていた。 グルメかつ薀蓄好きの伊丹十三は、イタリアのパスタは何故美味しいかをテレビで説明していた。 それは、「温度」らしい。イタリアで出てくるパスタは、めちゃくちゃ熱いらしい。 だから⇒うまい。 ホントかどーかはワカランが、伊丹十三がアドリブでこう言うと私の記憶には残っちゃう。 そして、その番組が放送されてまもなくだったと思う。彼は自殺した。 ニュース番組には、伊丹十三の自宅玄関に出入りする大江健三郎夫妻も映っていた。 ■ゲスな言い方を承知で言えば、ノーベル賞で売上を少々もどした大江にとって、「売れる」ネタである。 しかし&さすが、内容はディープ。彼の小説にしては読みやすい・にしても。 テーマが芸能ネタに近いせいもあり、作中、ビートたけしや、おすぎとピーコに間違いない人物も登場する。 しかも、難しい二文字熟語によって糾弾する対象として・だが。 同様に、作曲家の武満徹、ジャーナリストの本多勝一らのように、 長年、大江と深い関係にあった人物も、名前は伏せてあるが、それぞれへの批評と共に触れられている。 そして大江と伊丹の出会いから現代までの関係が深い思考と共に、複雑な時系列で語られる。 そこに使われる小説的アイディアとして、 ①伊丹が残した大江へのメッセージを語った30巻のカセット・テープ、 ②伊丹が大江と体験した思春期のオゾマシイ体験をモチーフにした映画の台本と絵コンテ、 ③伊丹がドイツで性的つきあいをした若い日本人女性の告白、 が用意されている。 これらは、事実なのか創造なのか? そのどちらかは分からないし、あれほど自分の作品を語る大江もこの作品だけには発表直前に、 今回は「沈黙したまま、出版します」と断りの書簡を各文藝記者に送った。 だから、この作品は、「小説」なのだ。 重い事実を、普遍的な「世界小説」へ昇華することによって、巨大なメッセージを浮かび上がらせるチカラワザは、 さすがノーベル賞級(?)である。 ■小説のクライマックスに用意されているのは、 「コクトーの『オルフェ』から想を得」たのではないかと、作家の松浦寿輝が日本経済新聞における書評で書いた、 青春時代に伊丹が撮影した大江の若き美しい一葉の写真だ。 「写真」という現物の突然の登場に、読者は「小説」と「現実」の境に再び不安にならざるをえない。 そんな知的スリリングを味わわせてもらいながら、小説は、小説家の妻を主人公に変換して一気にエンディングへと向かう。 小説家の妻とは、大江と伊丹をつなぐ「ちょうつがい」みたいなものであったハズだ。 その「ちょうつがい」が二人の天才から離れて、画家として自立し、 女としての「再生」の特権に参加してゆく。 ■「チェンジリング」とは、ブッキッシュな大江ならではの、ヨーロッパの物語からの引用だ。 つまり、美しい赤ん坊と、醜い子供を妖精が取り替える・というもの。 私は常々、大江は、埴谷雄高の言うところの「精神のリレー」を信じつつ&期待&希望している者であると思ってきた。 そこに重なる視線として、「チェンジリング」もある。と、思う。 時に大江と伊丹が交換されたり、大江と知的障害者の息子が交換されたり、そして今度は妻、 さらには、伊丹の愛人が身ごもった赤ん坊が・・・・・・。 ■ふたたび、私が先のとは違う「掲示板」に書き込んだ文章を下記に引用する。 ↓
↑ ■以上、カキコミの引用でした。 ■大江健三郎の「考える」思考回路とは、彼の小説のように複雑な入れ子状態になっている。 だから、単純に「君が代・日の丸」はYESか、NOか、 といった「部分」だけの拡大では、全体は見えない。 その全体の複雑さとは、大江の複雑さというよりは、現代の複雑さなのだし。 そんな「複雑」を考える=感じるスイッチとして、母国語で大江健三郎を読めるラッキーさ! ※参考ホームページ ◎大 江健三郎フアンクラブ・・・・・・非常に真摯な取り組みの個人によるホームページです。 ↑ 大江の小説「取り替え子(チェンジリング) 」に、このホームページらしきものに触れた場面もあります。 ホームページの管理者による書評が、それにも触れていますので、下記に引用いたします。 ↓ ・「あなたのファンクラブのインターネットに帰国スケジュールが載っていたので」(p.209)は、このサイトを指したものだろうか? 昨年末から今年前半にかけては、何度か掲示板のプリントアウトを送ったりサイン会に行ったりと、 積極的にコンタクトを取らせてもらっていたので、たぶん間違いないだろう。 嬉しい反面、登場の仕方としてはちょっとネガティブな印象を与えるものなので、ちょっと複雑な気持ちもある。 |