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The secret of the botanical garden
植物園の秘密

marijuana(マラフワ!ーナ) 名)麻、タイマ、マリファナ

Jumping Jacques Derrida Flash !
同時多発テロから間もない2001年9月22日、フランクフルトでジャック・デリダにアドルノ賞が授与された。Derrida & Marx、読め。
デリダにマルクスの影を見た!?
久保AB-ST元宏も20年前、
熱心にデリダを読んでたよ。
訃報:哲学者ジャック・デリダ氏、死去

フランスの哲学者ジャック・デリダ氏が、
2004年10月8日深夜に膵臓(すいぞう)ガンのためパリ市内の病院で死去。74歳。

デリダ氏はポスト構造主義の代表的哲学者として、
1960年代後半から80年代のの思想界に大きな影響を与えた。
中でも「脱構築(デ・コンストラクション)」と呼ばれる分析法では、
文学などの表面的な「テキスト」をいったん言語学的に解体し、
作者自身も気づいていない多重な意味を読みとる解読法を提唱した。

デリダ氏は1930年7月15日、アルジェリア生まれのユダヤ人。
高等師範学校の哲学科出身で、1960〜64年にかけてソルボンヌ大学で哲学を教えた。
70年代以降は米国での活動を増やし、ジョンズホンプキンス大やエール大学などで教鞭をとった。

著作は『グラマトロジーについて』、『エクリチュールと差異』、
『たった一つの、私のものではない言葉—他者の単一言語使用』など多数。
☆誰だ 誰だ 誰だ〜  空のかなたに踊る影♪ガッチャマンの歌!


ガッチャマンの歌
☆お前は亡命者!The song for Mr.Derrida
替え歌;久保AB-ST元宏(制作日;2004年10月16日)
オリジナル作詞;竜の子プロダクション文芸部
作曲;小林亜星
1番★NY戦争を語る。
デリダ デリダ デリダ ジャック・デリダの響く声
誰だ 誰だ 誰だ〜  空のかなたに踊る影

脱構築の  エクリチュール
白い翼の  ガッチャマン

ロゴスにたよる同一性  形而上学 血祭りだ
命をかけて飛び出せば 科学忍法 火の鳥だ

差異 差異 差異 さいでガス
飛べ 飛べ 飛べ ガッチャマン 

言葉 理性 論理 フッサール
行け 行け 行け ガッチャマン

意識は同一 主観も同一  ヘーゲル批判  絶対知
地球は一つ 地球は一つ おーガッチャマン ガッチャマン

2番★NY戦争を語る。
デリダ デリダ デリダ 「意味」の地獄に潜む影
誰だ 誰だ 誰だ〜  海の地獄に潜む影 

「言葉」というものの 侵食
強い勇気の ガッチャマン

「表象」つまり 現前を 再現前に 依存する
嵐をさいて 雲きれば 科学忍法 火の鳥だ

差延 差延 差延 グラマトロジー
飛べ 飛べ 飛べ ガッチャマン 

有形 無形 唯物 ドゥルーズ
行け 行け 行け ガッチャマン

世界も欠如  私も欠如   ゲーデル定理  不完全性
地球は一つ 地球は一つ おーガッチャマン ガッチャマン

3番★NY戦争を語る。
デリダ デリダ デリダ ビルの谷間の同時テロ
誰だ 誰だ 誰だ〜  ビルの谷間に忍ぶ影 

ホワイト・ハウスの スローガン
赤い血潮の    ガッチャマン

「限りない正義」とは    NY911に とどまらない
夕日を浴びて駆け出せば 科学忍法 火の鳥だ

過失 失策 免責 ガロセントリズム
飛べ 飛べ 飛べ ガッチャマン 

論争 共同 追求 ハーバーマス
行け 行け 行け ガッチャマン

要約は暴力 答えより設問 デ・コンストラクション 脱構築
地球は一つ 地球は一つ おーガッチャマン ガッチャマン
When
you
painted
me,
I
change
into
different
me
!
◆アカバの赤い花◆
久保AB-ST元宏が
山中湖にあるバンド合宿所の密室にこもって
ジャック・デリダを読んでいた時に
作曲した曲、「植物園の秘密」。
今、歌詞を読み返すと
ポスト・モダン思想の影響があり&あり。
植物園の秘密
☆お前は亡命者!The secret of The botanical garden
作詞&作曲;久保AB-ST元宏
製作日;1983年8月27日
編曲;テラダヤ、坂田、池上、飯島、久保

(Intro) C / Em / C / Em /
Em         
植物園で 育てられた
C     A      Em
僕は 赤い毒を持つ花

ビニール・ハウスは サ・イ・コ・ウ
日に三度の 水も う・ま・い
 C         Em
 「さびしくなんて ない」
    だけど……

今日 君は 植物園に
マリワナの花を 捜しに 来た

君は 僕の前で 立ち止まり
「きれいな花ね」と 僕を指す

 G        Am
 咲き乱れる 草花に
 G        Am
 見とれる 君がいる

 D
 嬉しいなんて
  Em
  感じない 思わない
 悲しいなんて
  感じない 思わない

 Dm  C
 ここは すてきな
 Bm A Em Bm A Em
 植・物・園 植・物・園

遠くでガラスの割れる音
静けさは 別の静けさに 変わる

君は 僕の絵を描く
僕は 別の僕に 変わる

 「さびしくなんて ない」
    だけど……

僕とあなたの距離を計ろう
あなたを 本当に 知るために

僕らの物語を 壊してしまおう
あなたを 本当に 知るために

 咲き乱れる 草花に
 見とれる 君がいる

 嬉しいなんて
  感じない 思わない
 悲しいなんて
  感じない 思わない

 ここは すてきな
 植・物・園 植・物・園
 Em     Em
 植物園! 植物園!
クリックすれば、一番右端が、久保ですよん。♪I'll follow you wherever you may go to the lost hyacinth !
▲Illustration by minkici.


(5) ガダマー−デリダ論争やハバーマス−デリダ論争に見られる独仏の哲学者の間の抵抗と誤解の歴史。ここでデリダは例によって過度とも見える外交辞令を尽くして近年の「友情に満ちた和解」*[5]を強調するが、その要因として、「未来に直面して共有すべき政治的責任の意識の高まり」を挙げ、それがたんにヨーロッパの未来にとどまらないことを指摘して、ふたたび9月11日の事件に触れる。「私は9月11日の犠牲者に絶対的な同情を寄せるが、それでも、この犯罪における何人も政治的に無垢だとは思わないと言わねばなるまい。そして、すべての無垢な犠牲者に対する私の同情が限りないものだとすれば、それは、私の同情が9月11日にアメリカで死んだ犠牲者にとどまりはしないということでもある。これこそ、昨日からホワイト・ハウスのスローガンに従って『限りない正義(infinite justice)』*[6]と呼ばれているものが何であるべきかに関する私の解釈である。自らの過失、自らの政策の誤りについて、自己を免責しないこと——ありえないほど割に合わない形でその恐ろしい代価を払っている瞬間であっても。」デリダらしい慎重な言い回しではあるものの、彼の立場——とくに一方的な報復戦争への批判は明確に見て取れるだろう。
(6)文学の問題。それにはさらに音楽や美術の問題も加わるだろう。

『続・ペンギンの日々』
第14回
2005年6月13日UP

作者の言葉
久保AB-ST元宏さま

ご無沙汰してます。
マンガを描いてから
どんどん日が経っていき、
気がつきゃ賞味切れ!
…になる前に、送ります。

ギロ男爵の日本脳炎
じゃないですが、
我がまちでも宇田川さん
(地元の庄屋どん)の所有地
だった、区民農園および
我が家の隣の自主農園も、
ついに相続税対策の為、
宅地として物納されるべく
着々と準備が
進められています。

まちの景観が変わります。

ご近所のCo2濃度
一気に上がりそう

すべては
うつろいゆくものなんですね。

で、「集合住宅建設予定地」の
看板とともに囲いがされた
元区民農園は
今、うっとりするような
カモミール畑と化しています。

毎日幼稚園へ行く通り道、
りんごに似た
甘ーい香りが漂ってきて
小さな赤紫の花を
咲かせる雑草との、
色のハーモニーも美しい。

野に群生する草花の美しさを、
ベランダに箱庭として
切り取ってきても
(鉢やプランターなど)
所詮本物ではありえないのだと
痛感させられます。
Oh ! Yeah ! お元気?なんとまぁ、ひろみ嬢〜!これは、アナログ版『共犯新聞』から続く、伝統のある連載(笑)♪のら猫にさぁああえー、なれないぜぇええ〜〜っ・てか!?
いやぁ〜ん♪カモミール畑と化しています。 ◆カモミール◆

 【科名】 キク科  

 【分類】 一・二年生草本  

 【学名】 Matricaria recutita

 【英名】 Chamomile  

 【和名】 カミツレ  

 【原産地】 南ヨーロパ・北アフリカ

 【花言葉】 逆境におけるエネルギー









09/05札幌
札幌彫刻
美術館
企画展『北の彫刻展2004−新しい具象−』
伊藤三千代「私と石と意志」(2004、大理石)
神話になる手前のメルヘン。作家の人柄?
岡部亮「丘(歯)」「姉妹(乳歯)」(2004、木)
高村光太郎と比べれば彫刻でなく模型。
笠原昌子「蛹Ⅱ」(2004、石膏)
本展は男より若い女性が素晴らしかった。
川上加奈「交響曲第5番」(2004、乾漆)
過去の名作を連想させるが独自の境地。
椎名澄子「輪生」(2004、テラコッタ)
女性作家に共通する文学性の最高峰。
野又圭司「ポストモダン スラム」(2004、木)
気持ちは分るが古臭い。咀嚼が必要だ。
野村裕之「幸福の背中−死霊」(2002、岩)
埴谷雄高の題だがウンコに見えた。失礼。
伴翼「あかり−ⅰ」(2003、大理石、真鍮)
意識の余裕がありすぎるのではないか?


常設展『本郷新記念館』彫刻651点絵762点
いつか同じ作品が新しくなって再会する。

09/05札幌
大丸
札幌店
7階ホール
写真展『GEOマガジン 動物写真展』
動物が好きな人は多い。ただし動物を見
て「かわいい」と思うのは、彼らが擬人的行為
をした時ではないだろうか。動物本来でなく。

09/12深川
mini gallery
うなかが
めーゆの
美術館
個展『富田知子 展』
正月にギャラリーどらーるで観た「羽ある」
のようなロマンの匂いは新作からは消えて、
反(アンチ)ロマン風な抽象画が多かった。
変化していく女性作家に同時代性を感じる。

09/16深川
深川
アート
ホール
東洲館
企画展『第3回 具象の新世紀展』
さすがに、それぞれの世界を構築されて
いる方々ばかりで圧倒された。無理に共通
項を探せば、「物語性」か?全体的な印象を
ひと言で言えば、「ドイツ的=種村季弘的」。
矢元政行
幽玄なパノラマは大胆なほどドキリ効果。
吉川聡子
籐椅子に寝た女性の曲線と鳥が魅力的。
伊藤光悦
静謐な空間が目を無口にさせる技術力。
森山誠
いつもの激しい部分より平板部分に狂気。
川畑盛邦
どらーるGでの作品よりも有機的な人物。
平向功一
アングルの冒険にどんどんハマルと良い。

個展『幸田尚子展』
大きな作品に魅力は無い。その理由とは?

09/12深川
mini gallery
うなかが
めーゆの
美術館
個展『島津 明美 展』
ダンボールを切り貼りして、平面と立体の
中間のような作品を色を塗らないで仕上げて
いる。ダンボール自体がマチエールを持って
いるのでリズミカル。マンネリ化の甘い罠あり!

10/12深川
mini gallery
うなかが
めーゆの
美術館
個展『北島 裕子 展』
鑑賞者参加型のインスタレーションもあり、
意欲的。パステルカラーの淡い色の組合わ
せは音楽で言えばドヴィッシーか?しかし、
物足りない。色の快楽が色の力に頼りすぎ。

10/24札幌
ギャラリー
どらーる
個展『富田 知子 展』
もはや私(たち)は「成熟」に魅力を感じる
ほど若くは無い。退屈な答えよりも、野蛮な
質問に可能性のヒントを求めようとする。そん
な時、優れた絵画は私の前に野蛮な質問と
して立ちはだかる。記憶の重層が小説である
とすれば、感情の重層が絵画なのだろうか。
しかし残念ながら私には、「記憶」とは何かを
説明することはできるが、「感情」とは何かを
説明する能力は持ち合わせていない。例え
ば『否んだ祈り』(F130)の画面上を右上から
左下に向けて不安定なドロッピング・ラインの
ように引かれた厚みのある細い線。その線は
当然のように漆喰のような絵具で塗り消され、
線の厚みのみが遠い記憶のように印象的に
残されている。ここまでは現代絵画の常套句
なのだろう。ところが、その消された線の右上
のほんの少しの部分のみに、ためらい傷のよ
うな茶色い線がかすかに慎重に引かれつつ
途中でその作業が止められている。いわゆる
「ストロークの快感」があるとすれば、これは
「末端過敏症の病歴」であろう。画家の持つ
野蛮は衝動的に見える大胆な筆さばきだけ
ではなく、どうしようもなく細部にこだわる習性
にも宿っているのだ。このように野蛮は、相反
する方向の力学にも宿っている。画家の孤独
な作業の途中で自らの野蛮に気が付いた時
に、それに対峙する理性を置こうとすれば、
絵画が持つことができる唯一の言葉の場所
は絵の題ということになる。しかしそれは危険
な場所でもある。必要以上に画家の弱味を
見せてしまう場合もあるからだ。富田の場合
は、その危険に無防備に乗る。そもそも先に
あげた『否んだ祈り』という題などは、過剰な
説明をしてしまっている。直線を垂直と水平
に重ねれば十字架になり、それを45度傾斜
させれば否定を意味するバツになる。その
発見こそが富田のパテント(?)である。本来
は相反する概念である「祈り」と「否定」とは、
たったの45度傾斜の差しかない、と言う発見
は強烈に現代的なメッセージを持つのだが
それを題=言葉にしてしまわなければ気が
すまない過剰さが富田の身の上である。だが
こうして弱点になる危険性を犯してでも、成熟
よりその手前の偉大なる未完成のまま路上の
店開きを繰り返す作者の意志を感じる。この
ように今回の個展の絵の題は形容詞や副詞
で名詞を説明するパターンが繰り返されてい
る。たとえば、『渇いた領域』(F100)、『渇い
た伝言(翼)』(F100)のように。ポジティヴな
名詞をネガティヴな装飾で別の意味にする
のは初級詩人の好む作業だが、富田の作品
の前で重要なのは、あえて説明に近い題を
選んでいる作者の切なる触媒への強い意思
であろう。そうであるならば、富田は観る者に
何を伝えたいのであろうかという方向へ興味
は動く。富田の作品に登場する魅力的な形
状として、十字架の他に楕円がある。それは
雲なのか、卵なのか、繭なのか。十字架や×
がどんなにそれぞれの固有の方向性で主張
しようとも重力の中での相対に過ぎないという
男性的な社会的存在に対峙するかのように、
その楕円は重力にも方向性にも自由に描か
れている。そう気が付いてから『渇いた領域』
を見直すと、画面いっぱいに大きく描かれた
十字架と背景との間にあるいびつな隙間に
ドキリとさせられる。十字も円も外へ向かおう
とする運動が生む形状である。しかし何故、
十字架やバツは死の匂いがするのに、円は
生の可能性を感じさせてくれるのだろうか。円
には外に向かう運動と同時に、内側に向かう
運動も内包されているからではないだろうか
と思う。そう考えれば、十字架が隙間(=渇い
た領域?)を背負う構図が、富田の選ぶ独特
の色で描かれた時の凄みが理解できるような
気がする。論旨がいきなり図式的になって恐
縮だが、十字架と×が男性社会及び男的な
ものの象徴であるのに対して、楕円が女性的
なものの象徴であると考えてしまいたい。この
楕円は、繭なのだ。繭、つまり生命が育まれ
る場所。または豊潤なスタート・ライン。富田
が少女を描こうと模索していることと同じ作業
である。やや目の吊りあがった硬質な印象の
少女は、繭から出てきて十字架とバツが共存
する社会に立たされた存在なのだろうか。絵
に登場するモチーフは、こうして次から次へ
前出のイメージを相対化してゆく。『渇いた伝
言』(F150)では、もはや人間そのものが繭と
なり、人間とは卵から生まれた卵なのだと言う
入れ子状態の「希望」が厳しく描かれる。そこ
では十字架すらも繭化しようとしている。浮か
ぶ繭は天使なのか?確かに少女と天使のイ
メージは重なるが、『渇いた伝言(翼)』では
脆弱しきった翼が死のイメージで描かれる。
こんなに厳しい画風で翼を描いた画家は、か
つていただろうか。ここに至って今回の個展
の最重要作品を、私たちは脳裏で反芻する
権利を獲得する。それは個展に飾られない
ことによって、最大の役割を果たす作品『羽
がある』だ。同じギャラリーどらーるの1〜2月
に本展の予告として飾られながら、今回には
合わないと最終段階で展示されなかった絵
だ。春をイメージさせる暖色を背景に繭のよう
な豊潤な腰を持った女性が大きな羽を掲げる
作品である。今回の『渇いた伝言(翼)』が、
その絵と対になって冬をイメージさせると感じ
るのは私の妄想だろうか。展示されなかった
絵がポリフォニーを演出しているのだ。こうし
て偉大なるゆらぎが作家の中から螺旋状に
放出されてゆくのを、「感情の重層」であると
説明するのは薄っぺらであろうか。いつもの
ように私は個展の最後に最も気に入った絵の
前に立ってから会場を去った。それは『作品
No.1』(25×30)。中央の白いしたたりが、繭
のように見えながら、さらに全体が繭の部分
のようにも見える。この絵の記憶を深く自分に
刻み込み歩き出すのは幸福なことだ。おそら
く、作者自身もこれからの自分の目標は完璧
な曲線の繭を描くこと、と感じているのではな
いだろうか。そう思い会場を出て、遠くを歩く
人の輪郭がぼやけて、繭が歩いているように
見えたのは私が二日酔いのせいか?それと
も全ての人が十字架とバツを背負っているの
と同じ理由で、全ての人は再び生まれてゆく
繭であるからなのか?何度でも生まれてゆく
繭には、もはや成熟する必要は無い。
どんなヤツでも、「甘えたい」という感情を持っ
ている、と・思う。たとえば、新潟中越地震に
溢れるボランティアたち。ボランティアされる
側が甘えているのではない。ボランティアする
側が甘えているのだ。避難民が「救われる」の
ではない。ボランティアしている側が「救われ
ている」のだ。この定義は普遍だ。人はなぜ
旅行をするのか?答えは簡単だ。甘えたい
からだ。旅行先で観る風景や、出会う人々。
それらは、旅人を「癒す」。つまり「甘やかす」
のだ。そして重要な結論は、「甘える」ことは
悪いことではないということ。甘えることによっ
て、避難民が救われるし、旅行という豊かな
相互扶助が地域住民との間に成立するから。