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偉大なる文学者としてのマルクス
マルクスは、歴史の共犯行為。
哲 学
ジャッ ク・デリダ(更新;2006年7月15日)
吉本隆明(更新;2007年10月4日)
2008年4月12日 土曜日 午前10時47分←■マルクスを読み返していると、今回はシュティルナーのド壺。なか&なか、全体にたどりつけない。
2008年4月10日 木曜日 午前0時28分←■ちょいと、廣松渉を読みながら、シュティルナーやらヘスのお勉強(→復習?)。
「厳密さ」と「全体構想」
Karl Heinrich Marx脳味噌の木
おお♪ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770年8月27日 - 1831年11月14日)
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
Georg Wilhelm Friedrich Hegel
1770年8月27日〜1831年11月14日
♪ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach, 1804年7月28日 バイエルン州ランツフート Landshut - 1872年9月13日 ニュルンベルク)
ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ
Ludwig Andreas Feuerbach,
1804年7月28日〜1872年9月13日
♪マックス・シュティルナー(Max Stirner, 1806年10月25日 - 1856年6月26日)
マックス・シュティルナー
Max Stirner
1806年10月25日〜1856年6月26日
♪カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818年5月5日 - 1883年3月14日)
カール・ハインリヒ・マルクス
Karl Heinrich Marx
1818年5月5日〜1883年3月14日
フォイエルバッハにとってヘーゲルは、
ユダヤ教に始まってキリスト教へと
流れてくる西欧精神の哲学的完成
「人間」の概念に欠陥。→
実存としての個人から出 発す る。


ヘーゲル左派の最北端に位置 し、
ある種の凶器と もいわれる
パラパラ・・・『唯 一者 とその所有』
既存社会の打破のための
結社の自由を謳い、
偶像の思想を破壊することを奨め、
国家の生存を真っ向から否定
1841年パラパラ・・・『デモクリトスの自然哲学とエピクロス の自然哲学との差 異』
 ここで指摘された「個別性の形式でしか捉えられていない」自己意識が、
次にフォイエルバッハの「類的存在」という思想を学ぶことにより、
普遍的な立場へと進んでいく
 この時期のマルクスは完全に観念論の圏内に いる。
 この当時のマルクスは、
ヘーゲル哲学の解体で生まれた
青年ヘーゲル派
(ヘーゲル左派)の中の
バウアー(バウエル)派に 属し
エンゲルスまんが♪バウアーだもん。
エンゲルスが描いたマンガ「青年ヘーゲル派」。
左から、ヘーゲル左派のメンバーの
ルーゲや
ブルーノ・バウアーの弟のエトガー・バウアー(1820年10月7日〜1886年8月18日)、
マックス・シュティルナーらが描かれている。
黒いモグラ社は秘密のアジールです。AIN♪アナーキストだもん。 マックス・シュティルナーは
ベルリン大学を中退し、
よく大学街のヒッペル酒場で
ヘーゲル左派の連中と
たむろしていた。

エンゲルスとエドガー・バウアーの『信仰の勝利』に は、ヒッペル酒場 の場面が出てくる。
『いまのところシュティルナーはビールを飲んでい る。
だが、まるで水を飲むように、ブランデーをあおる や、
他の連中が声をあらげて「王を倒せ」と叫ぶと、
すぐシュティルナーはとことんまで突っ走る「法律もだ!」
シュティルナーは『唯一者とその所有』以後、2、3 の本を出版しただ けで
後はベルリンで牛乳屋などを経営しては破産を繰り返 し、
最後は虫 に刺されて死んだ


シュティルナーは、インディビディアル・アナキズム にカテゴライズさ れているが、
やはりシュティルナーの思想は、ニヒリスティック・エゴイズム(笑)。
シュティルナー自身がアナキストとはいっていない し、
エドガー・バウアーの無政府的見解を超越した思想が シュティルナーに はあったので、
もはやシュ ティルナーにはアナキズムさえ必要なかったの だ。
言葉遣いは
ヘーゲル哲学そのもだが、
自己意識という概念は
人間の主体性、
あるいは主体的な人間
という意味になる。
1842年、マルクスと
エンゲルスが出会う。
♪バウアーだもん。
ブルーノ・バウアー
Bruno Bauer
1809年9月6日〜1882年4月13日
♪フリードリヒ・エンゲルス(独:Friedrich Engels,1820年11月28日 - 1895年8月5日)
フリードリヒ・エンゲルス
Friedrich Engels
1820年11月28日〜1895年8月5日
初期マルクスの思想的先行者。
ヘーゲル左派ではもっとも
シュティルナーに近い立場。
孤独死したシュティルナーの
遺骸を引き取り埋葬した。
世間から無視された孤独な頃の
ニーチェへの数少ない注目者。
つまり、マルクス、
シュティルナー、ニーチェという
近代ドイツの思想の交差の
深源の消息を示している。
敬虔なクリスチャンだった
エンゲルスは、
自由主義神学者である
ブルーノ・バウアーの
著書を読んでから、
キリスト信仰を疑いはじめた。
1842年、エンゲルスと出会った当時のマルクスは、『ライン新聞』の編集者をしていたが、
1843年、対プロイセン政府批判のために受けた同年3月の「ライン新聞への弾圧」により、失職した。
マルクスは、友人とともに、パリで『独仏年誌』を出版し、500ターレルの収入を得た。
1843年6月、イエニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚すると、11月にパリへ出発した。
♪ハイネは、いいね。
ハインリヒ・ハイネ
Christian Johann Heinrich Heine
1797年12月13日〜1856年2月17日
ハイネがハンブルグからパ リに 戻った1843年12月から、マルクスがパリを去る1845年2月まで、
一年余の親密な交友があった。
この時ハイネが46才で、マルクスは25才。ちなみに、両者ともユダヤ人であり、ミドル・ネームは、ハインリヒ。
ハイネは、浪漫詩人として叙事詩人詩人として、革命的政治的詩人としてすでに国際的な名声を得ていた。
そして未成熟で粗野な段階の共産主義であったが、それに強く共鳴していた。
若いマルクスは、ヘーゲル左派の自由主義左派の政治評論家であったが、
ちょうどこの時期、パラパラ・・・『ヘーゲル法哲学批判序説』を 執筆し、共産主義 者へと移行しつつあった。
★セイゴオ♪読む、想う、書く。
「この国家、この社会が、宗教という倒錯した世界 意識をうみだ すのは、
この国家、この社会が倒錯した世界であるためであ る」と いう冒頭近くの文章をはじめ、
「だから、天上への批判は地上への批判にかわり、宗教への批判は法律への批判に、
神学への批判は政治への批判にかわるのである」や、
「批判は頭脳の情熱ではない。それは情熱の頭脳で ある」を 読んだときは、
正直いってほんとうに胸が熱くなった。

★セイゴオ♪読む、想う、書く。
ハイネには「おそらくすべての革命家のうちで最も 断乎たる革命 家である私」という有名な自己規定がある
のだが、ぼくにはハイネになぜそんな自信が湧いていたかということが謎だった。
1830年のパリ七月革命に魂を震わせたハイネは
すぐにパリに移り住んで、心の中では祖国ドイツにおける革命を確信していたのである。
そこはマルクスとほぼ同じ判断をもっていた。しかしハイネは結局は「革命」も「政治」も振り切った。
1840年の著作『ルートヴィヒ・ベルネ』中に
「宗教とは、救いのない、
苦しむ人々のための、
精神的な阿片である」とあり、
後にカール・マルクスが
『ヘーゲル法哲学批判序論』で有名になる
言葉「宗教は阿片だ」の引用元。

1844年、マルクスはパラパラ・・・『経済学・哲学草稿』におい て、
実体であるとともに主体である絶対精神の自己外化と自己回復の過程として歴史をみる
ヘーゲル的な疎外論を 使い、
労働を実体=主体と設定してその疎外として私有財産を説明しようとした。
しかし労働の疎外そのものがどのようにして発生するのかを説明できなくなって破綻した。
それに対して『ドイツ・イデオロギー』は、
分業に基づく社会関係を歴史の基軸とみる視点により、ヘーゲル的な疎外論から脱却した。
この転換は実体主義から関係主義への世界観の転換であり、近代思想の地平の超克であったという。
1845年、マルクスが
パラパラ・・・『フォイエルバッハに関するテーゼ』
というメモを書く。

ヘーゲル学派から出発し唯物論に
たどりついたフォイエルバッハが
宗教を批判し、
地上と人間の問題に目をむけたことを
評価しつつ、
フォイエルバッハの唯物論は
「抽象的な人間一般」にとどまっており、
人間は抽象的な存在ではなく、
いつの時代でも、
ある歴史的に規定された社会に暮らす
具体的な存在であり、
具体的な現実社会に対する変革の
働きかけ(実践)こそが必要と書いた。

マルクスの唯物論の立場を
萌芽的に示したものとして、
後にエンゲルスが
「新しい世界観の天才的な萌芽が
記録されている最初の文書」と評し、
エンゲルスはこのメモをヒントにして
1888年に『フォイエルバッハ論』を書いた。
♪モーゼス・ヘス(Moses Hess, 1812年6月21日 ボン - 1875年4月6日 パリ)
モーゼス・ヘス
Moses Hess
1812年6月21日〜1875年4月6日
1845年〜1846年
パラパラ・・・『ドイツ・イデオロギー』
マルクス・エンゲルスの
生前は刊行されず、
草稿・原稿の集積として終わり、
死後に刊行された。
草稿のほとんどは
エンゲルスによって執筆された、
マルクスとエンゲルスとの共著作。
ヘスも協力した。
青年ヘーゲル派の批判を
通じて、
唯物論的な歴史観の
基礎を明らかにした
フォイエルバッハにおいては、
自然と人間とが
乖離していると、批判。

ここでマルクスは
疎外か ら物象化へ と
基本的な考え方を変える。
晩年は、
イスラエルの地に建国される
ユダヤ人国家を
社会主義国家とすることを計画。
テーオドール・ヘルツルに
影響を与えた
政治的シオニズ ムの創設者

ヘーゲル的な疎 外論
「社会にとって良きこと」のために
ないがしろになっている「個人にとって良きこと」を
優先すべき。
または「社会にとって良きこと」が
「個人にとって良きこと」を最大化するようにすべき、
とする考え方。
物象化論
「社会にとって良きこと」よりも「個人にとって良きこと」を優先するとしても
「個人にとって良きこと」とは
社会やシステムが反映した結果ではないのか、
という考え方。
社会・秩序を優先させる立場に対抗するために
個人・自由を推奨する態度(疎外論)はあまり有効ではない。

つまり、物象化 とは、人と人との関係が物と物との関係として現れるこ と。
 疎外論 が人間そのものを求めるとしたら、物象化論 は人間と人間の関係を求める。
人間と人間との関係は、それぞれのおかれた世界の中で形成されている。
資本主義は人間関係を、「もの」のようにした。(=まさしく、「唯物」。)
その人間関係とは、主体と客体との二項対立である。
だから、物象化 を乗り超えるためには、資本が作り上げている関係そのものを乗り超えなければならない。

 この関係=つまり 物 象化 を乗り超えるということは、近代を乗り超えることでもある。
なぜなら、資本主義が生み出した世界、すなわち近代は、
それぞれの地域にあった共同主観的世界構造を破壊し、世界を均一的な、薄っぺらい「もの」に変えてしまったから。

 物象化論 を乗り超えるためには、主体と客体との二項対立の思考を乗り超える必要がある。

だから主体による認識という問題を超えた問題設定が必要になる。
マルクスがそこで持ち出したのが、主体と客体との間にある関係。この関係を 間主体 という。間 主体はどち らも主体ではない関係の場として現る。
酒と薔薇♪アナーキー・イン・おフランス。
ピエール・ジョセフ・プルードン
Pierre Joseph Proudhon
1809年1月15日〜1865年1月19日
★セイゴオ♪読む、想う、書く。
プルードンからマルクスとバクーニンという二人の反抗児が出てきた
1846年パラパラ・・・『経 済的矛盾の体系、または貧困の哲学』を出版。
このころ、ロシアのバ クーニンとも知り合い、ヘーゲル弁証法について徹夜で議論

1848年のフ ランス二月革命で、チュイルリー宮の無血 占領に参加。
2月7日から『人民の声』などの新聞を発刊し、人民銀行と相互主義的交換 組織を試 み、
6月の補欠選挙で国民議会議員に選出される。
1849年に大統領ルイ・ナポレオンを反動の権化と自分の新聞で攻撃した ため、
3年の懲役と罰金刑を宣告された。
獄中生活の中で裁縫師と結婚して、子供を作った。牢屋で子供を作るって (が くっ。)。
 若い時期、マルクスはプルードンを
フランス社会主義の最も良質の部分と見なし、
「彼の著作はフランス・プロレタリアートの科学的宣言」
であると言ったが,
1846年を境に評価は 一変す る。
1847年、あからさまにプルードンを批判するパラパラ・・・『哲学の貧困』を発表。
「彼は資本と労働のあいだをたえずうろつく
プチ・ブルジョアであるにすぎない」
♪アナーキー・イン・USSR
ミハイル・アレクサンドロヴィッチ・バクーニン
Mikhail Aleksandrovich Bakunin
1814年5月30日〜1876年7月1日
★セイゴオ♪読む、想う、書く。
 1848年の革命。この革命の前後でいっさいが起動した。フ ランス二月革命で ある。
 ルイ・ブランが工場労働者を産業軍の内側に逆編成する計画を発表し、
マルクスとエンゲルスがパラパラ・・・『共 産党宣言』を刊行し、そしてアナキズムが狼 煙を上げようとしていた。
 そこへロシアにいたバクーニンが、急ぎ足で燃えるパリに戻ってきた。これで準備が整った。
1864年、マルクスはロンドンで結成された第一インターナショナ ルの存在を 知り、
遅ればせながら参加し、バクーニンと主導権争いをする。
バ クーニ ンは多数派を形成し、マルクス派と戦ったが、事 務局を握るマルクスにより謀略的に除名さ れた。
超絶リストに、入れとくれー。
フリードリッヒ・リスト
Friedrich List
1789年8月6日〜1846年11月30日
♪エンゲルスからバカにされよーとも。
オイゲン・カール・デューリング
Eugen Karl Duhring
1833年〜1921年
1875年、ドイツの2つ の労 働者党
(アイゼナハ派とラサール派)が合同し、
ドイツ社会民主労働党が結成されたころ、
カール・マルクスやエンゲルスの理論を基礎とするグループは、
アイゼナハ派の一部でしかなかった。
そのとき、この政党内で理論的影響を広げつつあったのが、
ベルリン大学の私講師であったオイゲン・デューリングだった。
デューリングはマルクスの理論を1つの仮想敵と して おり、
さらに「彼のまわりに1つの派閥、すなわち将来別個の党になる
中核を公然とつくりはじめた」(エンゲルス の序文) ので、
エンゲルスはこれを批判する論文を
機関紙『フォルウェルツ』で連載。
これが1878年に出版されて、
パラパラ・・・『反デューリング論』
(正式名は「オイゲン・デューリング氏の科学の変革」)となった。

1880年、さらにエンゲルスは、『反デューリング論』を抜粋し、
社会主義への入門書として
パラパラ・・・『空想から科学へ』
(正式名称は、『空想から科学への社会主義の発展』)を作った。
ドイツ統一の提唱者。
保護関税の理論家。
ドイツ歴史学派の先駆者。

政治的な見解のため、
1825 年に投獄され、国外追放。
1837年にはパリに旅行。
そこでパリ学士院の懸賞問題の
「保護関税より自由貿易への推移の
もっとも合理的な方法について」に
刺激され、
『政治経済学の国民的体系』が書かれ、
帰国後の1841年に完成。
1843年以後、『関税同盟新聞』を編集。
1844年にハンガリーを訪問し、
1846年にロンドンで議会を傍聴している。
オーストリアのクフシュタインで
ピストル自殺

同時代の歴史家アダム・ミュラーと
「国家は人間が基本的に必要とするもの
であるのみならず、
人間が必要とする至上最高のものである」
という見解を共有。

経済の「段階論」を考案。
ドイツ歴史学派にとっての青写真となる。
ドイツの盲目の経済学者で、
ルネサンス人。
階級の調和を説明するにあたり、
自由放任的楽観主義を主張。
ヘンリー・チャールズ・ケアリー
(1793年〜1879年)と同じく、
←リストに深く影響され、
外国向けの保護貿易と、
国内の自由企業を
組み合わせて主張。
残念ながら、かれの業績は
反ユダヤ理論の主張者というおかげで
影が薄い。
たとえば1881年、
アーリア精神に
ユダヤ的「熱狂性」を導入したことで
キリスト教をけなしている。

そして、デューリングの
今日の知名度は
エンゲルスによる
1878年の論争の書
『反デューリング論』の
攻撃の的として残るのみだ。
1871年のパリ・コミューン以降は『資本論』の執筆に専念。
1881年12月2日妻イエニー死亡。パラパラ・・・『資本論』第一巻を出版。
1883年3月14日、 自宅の肘 掛け椅子に座ったまま死去。享年、64歳。
膨大な草稿を残していた。
葬儀は家族とエンゲルスら友人で計11人で行なわれた。
このときのエンゲルスの弔辞は、『カール・マルクスの葬儀』として残されている。
墓はイギリスのアーチウェイ駅の近くハイゲト・セメタリにある。
1956年に有志によりスエーデン産の黒御影石の胸像形の墓にされた。
没後に残された草稿に基づいてエンゲルスが1889年に『資本論』第二巻を編集・出版し、
1894年に第三巻を編集・出版した。
text by. うぇ〜ん!久保AB-ST元宏(2008年4月11日 0:59Am)
Max Weberを燃やして、ぬくもりを得た♪
マックス・ウェーバー
Max Weber
1864年4月21日〜1920年6月14日

1904年、
パラパラ・・・『プロテスタンティズムの倫理と
資 本主義の精神』を発表。
マルクスが主張した
「計画経済」と、「巨大な行政」は
結局のところ行政を肥大化
それを管理する
官僚達の社会的地位が向上
新たなる階級社会を迎える
という懸念を示した。


2009年10月2日 金曜日 午前5時37分山羊も大好き、おはぎ♪気 温9.9℃←■マハトマ・ガンジーと、グルーチョ・マルクスと、グレア ム・グリーンが同じ誕生日って、なんだか面白いね(笑)。
俳句は、パンク。今日の一句
彼には「野狂」という呼び名があって、要するに常識にとらわれず簡単に妥協しない人、ということで

炉に双葉
京の祭りの
燐火待つ

(久保元宏 2001年5月)

★日付をクリックすると、♪好きな時代に行けるわっ♪あん♪アン♪歴史から飛び出せ!
たとえば10月2日の 歴史
マルクスはいつも兄弟だから、貧しいお前を笑い飛ばそう♪

Mr. ららら、Lovely Linda♪Groucho Marx
was born in
New York City !

2005!2008年←映画館と、マルクスから始まる、読書リレー♪古本屋。鑑 賞日;2008年1月20日(日)
2003年3月22日 土曜日 マル クスをめぐるMr.竜馬@DORALへのメール
She's A Rainbow♪ Mr.竜馬@DORAL comes in colors everywhere♪
>そうですか、久保さんは仕事もしているのですか?知りませんでした。

■「仕事」のお陰で、「仕事」が無ければ知り合えられなかった人々と会話(=商談)したり、さわりもしなかったであろう大金や物品、工具や機械類 を操るこ とができたりと、
楽しい日々です(笑)。だいたい私は今の仕事についた時に体重は53kgだったのですが、自分より重い60kgの米をかつぐ仕事を得た不思議な新 しい世界 でした。
でも、それは「趣味」や「遊び」と置き換えても広がる世界です。
ですから、「仕事」とは「趣味」や「遊び」では不可能なことを可能に変える生活のチャンネル(=システム)ですね。
■特に私の会社は玄米を数十トン単位で道外に売ったり、ガス器具の配管をしたり、灯油の配達をしたりと、
仕事がバラバラなので常に巨視的と微視的、大金と小金、売り手と買い手などのスィッチをガチャ&ガチャと切り替えながらの日々なので、タイクツし ません (笑)。
それは、竜馬@DORALさんのカラフルな生活&仕事も私以上にそーでしょうーねぇ!

>「共犯新聞」の一面が幼稚な反戦論で飾られたらブックマークから外すかな?

■昨日から今日にかけて『共犯新聞』のカウンターが通常よりも回っているのは、連休の前だから?
それも・そーでしょうが、世界が混沌に向かう時に言葉を求める指が『共犯新聞』とい う電脳ツ ブテに向いた気まぐれに個人主義の永久過渡期としての共犯幻想を想いながら深夜の国会中継を虚しく見る自分に気がつかせてくれた政治屋部落のノン キな観客 席のスマシ顔に後ろ向きのクッキーを大島弓子のマンガに出てくる母親のように夜の裏庭にそっと埋める欲望にかられる私です。
■先日の3月6日に私の住む沼田町で座・ジローズのライブがありました。招聘側の実行委員会であった私は、ライブ終了後にメンバー たちと打 ち上げで酒を飲みました。ここのゲストブックの3月7日早朝に書き込んだように、午前5時30分まで飲んだ日のことです(恥)。
メンバーの杉 田二郎(スギタ・ジロウ、56歳元はしだのりひことシューベルツ= 「風」、元ザ・ ジローズ)は、『戦 争を知らない子供たち』(北山 修 作詞&杉田二郎 作曲)という日本で最も売れた「反戦」歌の当事者で す。
杉田二郎さんと交わした会話を、江別市の 田原さんに伝えたメールを下記に添付します。田原さんとは、貴ギャラリーの東画伯オープニング・パーティにJIMONO氏と共に私が招待した電脳 プロ デューサーです。彼は当日は残念ながら来れませんでしたが。

件名 : 座・ジローズとの酒宴

日付 : Sat, 08 Mar 2003

Hi,TAHARA Hiroaki@シャチョ、さん。
おいらは、久保元宏@沼田、こんにちは。

>> ■昨日というか、今朝、5時までライブ後に細坪基佳(ホ ソツボ・モトヨシ50歳元ふきのとう=「白い冬」) さんと、しゃべくりました。
>> 杉田二郎さんは、さすがに午前1時にホテルに戻りました。
>> 二郎さんに、
>> ①頭脳警察「戦争しか知らない子供たち」の感想
>> ②なぜ、今回、「イムジン河」を歌わなかったか?
>> が聞けました。

>うー、頭脳警察、聞いてません。勉強不足ですみません。


■頭脳警察の発売禁止になったファースト・アルバムに入っている替え歌です。
「♪戦争を知らない〜」を、
「♪ジュッテン・ニイ・イチ〜」と、全共闘用語に代えて歌っているんですよ。
■当時、あの曲は毀誉褒貶が激しかったようです。
2年間悩んで、作詞をした北山修と音楽を止めようかとまで話し合ったそうです。
私は二郎さんに「売れたからじゃあないですか?」と聞くと、「うっ」とゆー感じでした。
ただ、1975年に沖縄のコザ市で歌って、大合唱になり、ベトナム戦争を体験 中の人にも受けたことにより、 ふっきれたそうです。


>「イムジン河」いつも歌ってらっしゃるのですね。
>ぼくは、杉田二郎さんのことより、久保さんがなぜそのことを
>あえて二郎さんに聞いたのかということが、気になります。


■二郎さんは2年前に「イムジン河」を吹き込んだばかりなのです。
二郎さんがホテルに戻ってからの深夜、細坪さんとの話ではやはり、北山修さんとの関係も大きくあるようです。
二郎さんは、「戦争を〜」で自分はイラクを歌うからフォークルは「イムジン河」で朝鮮半島を歌って欲しい役 割分担だ・と言ってはいましたが。
そんな簡単な図式に歌を置き換えるのもどーゆーもんかと私は思 いま した。
それに、実際に今回のライブでは「戦争を〜」は細坪さん一人のソロで歌いましたし。
結局、二郎さんは両方とも歌っていないんですよ!

>> > あー、ぼくは議論は苦手です。
>> ↑
>> ■議論も作品。

>あー、なるほど。そういうものかもしれませんね。

>ただ、当事者が作ること自体を楽しむにはよいかもしれませ んが、
>第三者に「これはよい」と思わすことが大変に難しい「作品」の形ではあろうと思います。


「議論」に「セッション」とルビを打って、気軽になればよい

私は時計台ギャラリーに、これから行きます。

じゃ、またね!

Oh! jacks-vacant-world.jpg!■ さて、私にとっての「反戦」歌ベスト1は、1968年6月20日にジャックスが録音した「敵は遠くに」かな?
この曲のサビは「♪もうたくさんだ 俺たち 傷つき合ったって 何も生まれてこないよ 敵はもっと遠くに いるんだから」というもので、「反戦」 というよ りは「内ゲバ」の不毛さを歌ったような気もしますが。
「内ゲバ」というのも距離感の問題だけであって、たとえば、アフガニスタンで考 えると、
東部=パシュトン族(人口の約半分) → さらに「ギルザイ支族」(北部系=1978年に政権をとった社会主義政党PDPA)、「ドゥラニ支族」 (南部系 =1978年以前の支配者)に分かれ、
西部=イラン系、トルコ系
と、どんどん細部に分かれていき、さらにここにイデオロギーや外交条件などで複雑にからみ合っていきますよね。
逆に巨視的に見ると、アメリカもイラクも、同じ人類としての「内ゲバ」であるとも見ることができます。
さらに、視点をズラせば、「政治」で争うよりも、「経済」の中にこそ真の敵がいるという見方も可能です。

>いえ、全て否定している訳ではありません。血を流さずに国家、民族、宗教、巨大利権、そして“自由”という幻想が相克しないで済むものな らそれに 越したことは無いでしょうから。

■東画伯が貴ギャラリーのオープニング・パーティで「自称ニヒリストの私も・・・」とスピーチするシーンが印象的でした。
PANTAが頭脳警察を解散して最初に1976年に発表したアルバムには「♪ろくでなし野郎赤い羽根/ミシンをかついだギタリスト/傘をかぶった ベーシス ト/おいらは銀河のニヒリスト」という歌詞がありました。当時の私は、まだロートレアモン『マルドロールの歌』の有名な一節「手術台上におけるミ シンと蝙 蝠傘との不意の出会いのように美しい」すら知らなかったのですが、確かに1976年という時代は世界中でニヒリストが大量生産されていました。竜 馬 @DORALさんもその一人であると想像するのは失礼なことですが、1962年生れの私と東画伯にとっては挫折の必要&権利すらなく、最初からニ ヒリスト を気取ることしかできなかった世代であると嘯いてみるのです。
八雲町の郵便局員でもある東画伯が、あれほど腰が低いのは、郵政民営化が近いから(笑)だけではありまえんよね。21世紀のニヒリストは腰を低く すること によって得る安全なアトリエ(=アジト)で準備をしているのでしょう。
■アメリカ製のミサイルがバクダットに降る今日、フランスが「反戦」をしているからと言って、フランスパンを降らせてみた東画伯の絵が「血を流さ ずに」獲 得しえたものとは何だったのでしょうか?

>四十数年前に貪り読んだマ ルクスの『共産党宣言』の序文に、下記の様な内容(細かな部分は記憶が定かでない)の小節がありました。

■約20年前の1985年2月21日に調布大映スタジオ第4ステージで解散コンサートを行ったロック・バンド「ザ・スターリン」は、当日、「お母 さんいい 加減—先天性労働者」という曲を演奏しましたが、その歌詞はマ ルクスの『共産党宣言』の引用を全共闘のアジ演説風に(←今で言えば、ラップ?)歌ったものでした。

♪今日まで、あらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である。
♪今日まで、あらゆる階級闘争の歴史は敗北の歴史である。

■なんと、このライブ録音は今でもCDでもビデオでも普通のCD屋で入手できます。内ジャケットには観客席からステージを罵倒している私の顔も撮 影されて います(笑)。

><太古の土地の共有が崩壊して以来、世界の全ての歴史は、階級闘争の歴史であった。社会形態の発展のさまざまな段階において、搾取 階級と被 搾取階級、支配階級と被支配階級の闘争の歴史であった>

■「太古の土地の共有が崩壊」しないまでも、全ての「関係」は「階級闘争」と言い換 えること が可能です。恋愛も、流通も、芸術も、個人の内面の葛藤ですら「階級闘争」です。
■と、私が今書いたことが誤読という意見があるとすれば、竜馬@DORALさんが引用した「社会形態の発展のさまざまな段階」という部分にマルク スの普遍 性が準備されていることに注目していただきたいのです。たとえば、労働者VSブルジョア階級として「闘争」を作ることだけがマルクスの関心の全て ではな かったんですよね。それは、『共産党宣言』の中で「ブルジョア階級は、歴史的にきわめて革命的な役割を果たした」と記述しているところでも明らか です。す なわち、「ブルジョア階級は、権力を握ったところでは、封建的な、家父長的な、牧歌的な関係をひとつ残らず破壊した」、「個人の尊厳を交換価値に おとしめ た」、「宗教的、政治的な幻影で覆われていた搾取を、あからさまな、恥知らずな、直接的な、ぶしつけな搾取に置き換えた」、「医者、法律家、僧 侶、詩人、 学者を、ブルジョア階級のお雇いの賃金労働者に変えた」。つまり、歴史上、次々と現れる全ての「階 級」は、 全て「革命的階級」であった・とゆーワケです。まぁ、よく考えればアタリマエなんですけどね。
■ついでに、「太古の土地の共有が崩壊」と前提したことで、マルクスが個人の所有を否定したという誤読が「妖怪」のように徘徊していますが、『共 産党宣 言』の中では「資本が共同の財産に、社会全員に属する財産に変わったとしても、個人の財産が社会の財産に変わるわけではない。変化するのは、所有 の社会的 性格だけである。つまり、所有はその階級的性格を失うのだ」としているのみです。そ して、こ の発想のほうが個人所有の否定よりも、より「過激」であると私なんかは思うのですよん。

>マルクスの言う階級闘争と全く違う次元の要因の歴史の形成を感じた時、「マルクスちゃん。あんた間違えていたよ」と呟いたことがありまし た。

■古典的な反論かもしれませんが、やはり私は「マルクス」と「マルクス主義者」は違うと 思う のです。1990年以降、世界中でレーニン像が倒されましたが、マルクス像は倒されませんでした。なぜか?マルクス像などは、レーニン像のように 乱造され なかったからです。
マルクスは今でも読むに値します。ただし、政治書や革命書としてではなく、文学書として。
ただ、竜馬@DORALさんも読まれたでしょうが、1845年にマルクスは有名な『フォイエルバッハに関するテーゼ』の中でヘーゲル左派を批判す る文脈で 「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのはそれを変えることで ある」と書いていますが、この文章に背中を押された若者はゴチャマンといたでしょうねぇ。
さらに、それを補助する言葉としてマルクスの人気書物『ドイツ・イデオロギー』の中の文章「現状を 止揚する 現実の運動を共産主義と名づけよう」を加えてもよいでしょう。
■共産主義イデオロギーが破産しても、マルクスは繰り返し読まれ続けるでしょう。一度目は悲劇として。再読される時は、マルクス・ブラザーズの喜 劇として (笑)。

■いやぁ、私も久し振りに『共産党宣言』を読み返しました(笑)。いや、実は読み返したかったんですよ。それは、今の北海道知事選挙の乱立候補た ちが、 「マニフェスト」を「政策要綱」という意味でキーワード的に流行(?)させているのを聞くたびに、ゾッとしていたからです。彼らの世代では「マニ フェス ト」とは、マルクスの『共産党宣言』を意味していたのですっよね!
■今からちょうど10年前の1993年に『共産党宣言』が『共産主義者宣言』として太田出版から新訳で出版されましたよね?それの解説を柄谷行人 が書いて いるのですが、いくつか示唆的な記述があるので、抜書きしておきます。

・イタリアの思想家ネグリが、communismとは単独性singularityの解放だ と言った
・プロシアのフランスに対する勝利にかんして、ニーチェは、勝利したのは文化ではなく、国家にすぎないと言っている(『反時代的考察』)。
・1960年代の「新左翼」は、「マルクス=レーニン主義」によって抑圧された諸可能性を取り戻す運動だったと言える。だが、それらをすべて呑み 込んでし まったものがある。それは、事実としての高度資本主義である。

■『共産党宣言』の中の文章、「かれらはすべての民族に、いわゆる文明を自国に輸入することを、す なわち、 ブルジョア階級になることを強制する」を読み返した私は、文中の「ブルジョア階 級」を「アメ リカ」と置き換えてみて、そのあまりにものフィットさに、もう一度、ゾッとしました。←こんなのって、「幼稚な反戦論」?

>プラカート抱えて、自分たちしか共感しないシュプレヒコールをすることを揶揄する資格は私には無いし、止めもしない。が、それに加わる自 分は想像 できない。ただそれだけのことです。

■党派を組織しようとするとき、より多くの賛同者=洗脳者をオルグするために、最大公約数に近い理念を捻出するとゆー方法がありますよね。
3〜40年前の前衛政治運動が過激であれば&あるほど魅力的に見えたのは、当時はまだ直線的な成長神話=進化史観が純粋に信じられていたからで しょう。
もっとも過激な位置に立つことに使命感を持つのと、自分の理念を保留にしてでも最大公約数の捻出でより多くの「大衆」を組織することを使命とする ことは、 似ているようでも、まったく違った立場になります。ある意味、個人の美学の問題なのかもしれませんね。
 
>『野鴨料理か〜』『美味そうなもの喰っているな〜』

■昨日の夕食後、同居している私の父(1934年生れ・男)が突然、「カルメ焼き」 を作って 家族の者たちに喰わせました。
普段、台所に立つことすらない人なので、「ついにボケたか?」と思いきや、日中にカルメ焼きの話題になり「俺も作れるぞ」と無駄な自慢を家庭内で してみた よーです(笑)。
■カルメ焼きと言っても『共犯新聞』の愛読者は、竜馬@DORALさん以外には(笑)分からないんでしょーね。
第二次世界大戦後の1950年前後まで食べられたお菓子(?)だそーです。
小説家の古井由吉(1937年生 れ・男)が日本経済新聞に毎週日曜日に連載しているエッセイの中に、カルメ焼きの説明があったので下記に紹介しましょう。

 当時また、食糧不足とて、主食の代用のつもりか、赤砂糖がどっさり配給になり、その中にダニが棲息するとやがて伝えられた。
火を通せば済むことだが、しかし甘味ばかりで腹がくちくなるものではない。じきにもてあましたこの赤砂糖から、人はカルメ焼きと いうものをこしらえるよう になった。
火鉢などに寄って、汁をすくうオタマジャクシ状のものの中で赤砂糖をあぶって、とかして、泡立たせ、掻きまわしながらそれがふく らむ汐時(しおどき)をう かがう。
そんな大人たちの、とくに閑をもてあました男たちの姿は子供が見ても貧相な ものだった。 (『日本経済新聞』2003年1月12日 日曜日)


■で、この話題は当時、日曜の夜9時からラジオで放送されていた三木鶏郎(←私が敬愛する三木のり平の師匠。)グループによる人気番組『日曜娯楽 版』にお けるギャグへとつながります。
こんなギャグです。→「あなたは、いま、何をしてますか?」「いま、カルメ焼きをやいています。」
笑える?まぁ、そんなことよりも、古井由吉の 思い出は「とたんに襖(ふすま)のむこうで、同じ屋根に幾世帯も暮らしていた頃のことで、隣の男性 が暗いよ うな声を立てて笑い出した」と続くのです。
■私は1月12日にこのエッセイをここまで読んで「あれ?これ、どこかで読んだぞ!」と思いました。
すぐに分かりました。古井が1993年7月4日に同じ日本経済新聞の日曜に連載していた文章と同じなのです。私の蔵書の単行本『半日寂寞』 (1994年 刊)の最初に収録されていたのです。
10年前とは言え、同じ新聞の同じ曜日のエッセイに、同じモチーフで文章を書くとは、古井氏も忘れた=ボケたのか?とも思いましたが、本当にそー であれ ば、新聞社の担当編集者がそのダブリを指摘し、書き直させるでしょう。ですから、このダブリは意図的なのです。
■そこで私が思い出したのは、ちょうど今月一周忌を迎えた小説家、古山高麗雄(1920〜2002.3)の遺稿集『妻の部屋』です。この私小説の 短編集 は、明らかにボケ老人作家によるモチーフの繰り返しです。先立った妻と参加した戦争の思い出。これをシツコク繰り返す。なぜか?ボケた老人は書い たことを 忘れて何度も同じことを書くからです。
んで、ソレだけでしたら、これは悲しい喜劇です。私もそう処理しかけていました。ところが、小説家の清水義範(1947年生れ)の批評は違いまし た。彼 は、ボケて繰り返すのは事実としても、繰り返されるモチーフに対する作家の思い出の角度は毎回違うという意見なのです。つまり、同じ曲でも演奏す る度にそ の時点の感情&感性が違う曲にするということ。なるほど!もちろん、それを可能にするのは優れた文学者のみの実力&才能が成し得る特権です。
■そう考えて、古井由吉の10年を挟む「カルメ焼き」をめぐる似た文章を比較してみますと、こーゆー違いも発見できました。
・1993年のエッセイ=昭和24年頃、ラジオの政府CMが「あなたは今、何を していますか。これからは、物よりも金の時代です。」と言っていたパロディが「いま、カルメ焼きをやいています。」であったが、もしも「これから は、金よ り心の時代です。」といきなりそう呼びかけられたら、あなたは、どうする。
■2003年のエッセイでは、カルメ焼きを作る「大人たちの、とくに閑をもてあました男たちの姿は 子供が見 ても貧相」とか、ラジオのギャグを聴いた「隣の男性が暗いような声を立てて笑い 出した」 が強調されていました。ここに、この10年の時代の変化と著者の関心事の変化を読み取ることもできるのかなぁ〜っと思うわけです。単純な図式にす ると、 1993年「ポスト・バブル」→2003年「リストラ」ですか。
■「マルクス」も「反戦」もモチーフにしかすぎません。モチーフを目的化することを、イデオロギーと言うのでしょう。
■ところで、私の父が突然にカルメ焼きを思い出したのは日中の会話からだそーですが、その会話の環境に自身が体験した戦争の記憶をよみがえらせる 今回の戦 争があったと私は想像しています。

>とか、『アイルランド展て何だ?』とかボヤーッと考えておりました。

■ああ、せっかくJIMONOさんから紹介していただいたのに近所の葬式の手伝いが入って行けませんでした。
アイルランド=ケルトは、JIMONOさんとここ数年、地味に研究(?)しているテーマです。確かきっかけはJIMONOさんがアメリカ在住時に 体験した アイルランドの40年続いているバンド、ザ・チーフタンズのライブで得た興奮からでした。今、JIMONOさんは手作りでアイルランドの民族楽器 を作って 演奏活動をされたりしているようですよ。

>北 アイルランドの宗教闘争IRAケルト 伝説アー サー王伝説そして、あのなだらかな起伏の大地などを脈絡なく思い出しておりました。

■そして、ジェイムス・ジョイスやオスカー・ワイルド。
ニューヨークやパリがそうであるように、自分が興味があってもバラバラであったものが、同じ土地でくくることができて嬉しい発見をすることがあり ます。

>久保さんも仕事をしているらしいので(笑)、私も仕事のことを言いますと、本日50期の決算の日を迎えました。
>この二週間は営業部員のケツを叩くので精一杯でした。体重も3%落ちました(笑)。余り変わりませんね。

■竜馬@DORALさんの会社の営業部員でなくて良かった(笑)てゆーか、こうして仕事抜きで20歳上の人から接近していただける幸福ですね。

>お二人が「絵画を欲しくなる」と言うことは素晴らしいことです。やっと文明人の仲間入りが出来ると言うものです。

■私の書斎には2枚の油絵があります。1枚は以前説明した神田一明さんの1962年の作品。これには本人も驚いていました。
もう1枚は私より5歳年上の地元のスーパーマーケット経営者が書いた油絵です。私はコレを一目見て欲しくなり、買いました。1,000円で。スミ マセン、 安すぎて。
どんな絵かと言うと、よく言うとアンリ・ルソーのような素朴な絵。
作者の子供時代の人物が大きなサニー・サイド・アップを食べているのですが、背景の窓の外は恐竜が闊歩する原始時代。
つまり、子供時代の作家が原始時代に恐竜の卵を料理して食べているとゆー絵です。
実は私は東画伯の一連のポップよりの絵を見て、私の書斎にあるあの絵を連想したのでした。
で、沼田町で毎日のように見かける彼に、座・ジローズのライブ終了後、どら〜るギャラリーの東さんの展覧会の紹介をしました。
彼はギャラリーには興味はあるのだが、どこに行ってよいか、入りにくくはないのか・と、まるで数ヶ月前の私(笑)のような質問を私にしました。
彼は翌日、私の家に来て詳しく札幌のギャラリー事情を聞いていきました。今月末には、どら〜るに行く予定だそうです。記名帳に沼田町の男がいまし たら、彼 かもしれません。

>冗談抜きに、欧米では家を買う、造るという時には建築費の5%程度を初めからその家の壁に合った絵画を買う費用として計算していると言い ます。

■まぁ、そんなワケで、とりあえずは私はシロートの絵で魅力的なものを発掘して、安く買うことから練習(?)しております。だめ?

>ただ問題なのは、絵画を買い出すと、どうしても収集癖に陥りがちな危険性があります。

■でしょ?そーそー。ソレなんですよぉー。絶対、私はそうなるタイプ。だから、最初の1枚を買うのが怖い。
そーでなくても日々、書斎に増殖してゆく、本、CD、ワイン、書類、新聞の切り抜き、意味のない雑貨・・・・・・。あー、北海道の田舎は土地が安 くて良 かった&良かった。
町田康が図書館を自分の書斎であると想像して通っているように、私も美術館を自分の部屋の壁と思っては、だめ?

>私なんかもそうですが、毎月1〜2枚の絵を買ってしまう状態で、我が家の経済は国債ならぬ「家債」を発行しなければならない状態なのにつ い絵を 買ってしまいます。

■ウォーホールの巨大な『ミック・ジャガー』が画廊で飾ってあるのに、画材が剥がれかかっているのを観たことがあります。
多くの絵を持つとゆーことは保存にも気を使わなければならないのですよね。だらしのない私に可能か?

>作家は「売ってもらいたい」という気持ちもありますし、買い求めてくれた方には喜びを与えることが出来るのですから、売らないのは犯罪に 近いと反 省する日々です。

■なるほど・です。この世に貨幣制度という感謝のシステム化があって良かった&良かった。

>その点では、エルエテの渡辺さんを尊敬しております。売れているのか、売れていないのかと言うこと以前に、彼は売ることに熱心です。高く 評価して おります。

■そうですね。私も数回しか会ってないのに多くのことを学ばさせていただいております。私も大きくなったらエルエテ渡辺さんのような立派なオトナ になりた いと思います。

>もう直ぐ3月も終わり、又1日のオープニングパーティーが参ります。

■ああ、そうか。毎月1日に違う画家のオープニングパーティーをするシステムって、今更ながらにス・ゴ・イ。
きっと、そのシステムで、作家も参加者も、ご自身も楽しんで&成長してゆくのですねぇ。暴力的に設定された「毎月1日」が、やっぱ、すごい。 はぁ〜。
竜馬@DORALさんが北海道に住んでいることに今は感謝したい気持ちで一杯です。