2008年の北海道美術、最大のイヴェントは『藤田嗣治展』だろう。 もちろん、晩年に「日本に捨てられた」とまで考えていた「世界の フジタ」が没後38年を経て、よーやく日本との和解をしたかの よーだった、 2006 年の東京国立近代美術館での『生誕120年 藤田嗣治展』ほどの「事件性」は無いが、それでも、このタイミングで、このボリュー ムは、うれしい。 もちろん、日本が生んだ偉大なるエコール・ド・パリ(=パリ派)の巨匠、レオナール藤田の名前も作品もいくつか知っていた。 しかし、「知っていた」ことと、「出逢い」は、また別のものだ。 それは、1990年か、せーぜーその翌年ぐらいの年、私は旭川市のデパートの中にある小さな画廊に行った。 それは目的もなく、単に、そこに画廊があったから入っただけで、 その画廊そのものも、テーマもなく、バラバラの画家のバラバラの絵(→実際、薔薇の絵が多かった・笑。)が、 いかにも「新築祝いに最適ですよ♪」みたいな顔で売られている、だけであった。 その無駄にゴージャスな薔薇の絵や、銀行のカレンダーのよーな風景画が、「絵」よりも「値段」を売っているような営業努力を展開していた。 そんな中に、ぽつんと、B5のわら半紙にエンピツで無愛想に描かれたスケッチが売られていた。陰影も無く、少ない線で丸い顔のみが描かれてい た。 むせかえる「営業努力」の中にあって、まるで屋上のサボタージュのような絵。いや、絵、とゆーよりは、そこだけ絵が飾られていない壁だけのよ うな透明性すらあった。 驚いた。なんだ、これは。そして、欲しい、と思った。 画家の名前は・・・・・・、なんと、藤田嗣治。もう一度、驚いた。 こーゆー、画家は大きな美術館でしか観ることができないのではないのか?気軽に「金」で手に入れて良いものなのか?とゆー甘い犯罪の匂いまで してきた。 それと同時に、自分が今まで藤田嗣治の絵をきちんと観てこなかったことに気がついた。 それも&そのはず、後で知ることになるのだが、「日本に捨てられた」国際画家フジタは、日本では冷遇され、体系的な回顧展や画集すら存在して こなかったのだ。 そして値段を見た私は、3度目の驚きを体感する。もう忘れたが、それは、3万円とか、30万円とか、とにかく自分で買えそうな値段だったので ある。 当時、結婚したての私は、自分の結婚記念に・と、まるで都合のいい理由をインスタントにでっち上げて、フジタのこの絵を買おうと思った。 しかし、買わなかった。 まぁ、ゲップが出るほど絵を観るようになった今ですら絵を積極的に買わない私だが(がくっ。)、 なんだかその時は、その恵まれすぎた偶然の、その絵との「出逢い」が怖くなったのだ。
▲「寝室の裸婦キキ」(1922年) ”モンパルナスの女王”と呼ばれたキキがモデル。この新鮮な画風により、パリでのフジタの人気が決定的となった。 私は、『パリ日本館における藤田嗣治の絵画の修復作業への寄付募集』を 知った。 何のためらいもなく、寄付した。 後で知ったが、我が「株式会社 久保商店」以外は、超大企業ばかりの寄付だったようだ(笑)。
この2つの巨大な壁画を完成させてフジタは1929年9月、17年ぶりに日本へ帰国する。 それは栄光の「凱旋」であったが、フジタの後を追うかのように戦争も日本へ上陸し、フジタはまたしても時代に巻き込まれてゆく。ただし、今度 は不幸な時代に。 戦争中に、「戦争画」を描いたと、戦後になってから非難されたフジタは、ついに1949年3月、日本を
捨てる。・・・いや、日本がフジタを捨てたのだ。
ねじれた砂糖菓子のような日本列島から吐き出されたツバのように、フジタはニューヨークへ向かい、やがてフランスに落ち着く。 フジタが日本での最後の言葉として、羽田空港で語った 「絵描きは絵に誠実に、絵
だけを描いてください。
仲間喧嘩をしないで下さい。 一日も早く日本の画壇も、国際水準に達することを祈る。」は、 有名だ。 その後、フジタが日本の土を踏むことは無かった。
もうすでに、あのすてきだったモンパルナスは見る影もなく、1953年、キキの葬儀に参列した有名画家は、フジタ、ただ一人であった。 1955年、フジタはフランス国籍を取得し、日本国籍を抹消する。 1968年1月29日、癌でフランスにて死す。享年81歳。 北海道近代美術館での、没後40年の「和解」に立ち会おうか?
『没後40年 レオナール・フジタ展』 9:30Am〜5Pm(入場は4:30Pmまで) 会期中の金曜日は、夜間開館 9:30Am〜7:30Pm(入場は7Pmまで) 休館日;月曜日(7月21日を除く)、7月22日(火) \1200 この展覧会は、北海道から始まり、全国5ヶ所を回る。 |
歴史から飛び出せ! ★たとえば11月27日の歴史★ |