沢田 研二 オフィシャル ◎ 沢田研二の公式サイト。アルバムリリース情報、DVDリ リース情報、ライブ情報 。 |
「真面目」って、なんだろう。 「考える」って、ことだ。 |
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「考える」って、なんだろう。 「置き換える」って、ことだ。 |
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「置き換える」って、なんだろう。 「名付ける」って、ことだ。 |
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「名付ける」って、なんだろう。 「歌う」って、ことだ。 |
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「歌う」って、なんだろう。 「自由」って、ことだ。 |
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■つまり、阿久悠の作詞の特徴とは、
「堕落への誘惑」であった、と、私は思う。
そこには、何でもアリ&何でも見てやろう的な、小田実・的な1960年代が終わってしまって、 それ&ぞれが、それ&ぞれの収まるべき枠に収められた、あまりにもスクエアな1970年代への反語でもあったのだろう。 だからこそ、阿久悠の作詞が受け入れられたのだ。 もし、時代が「堕落」に満ちていたら、阿久悠の作詞にはアコガレの魅力などないのだから。 ■また、阿久悠の作詞方法にはパターンがあって、過去の名作の詩や映画などから たくみに拝借し、時代のニーズに合う加工作業を的確に行なった。 だからこそ、あそこまでの多作が可能でもあったのだろう。 今風に言えば、コトバの概念のリミックスである。それが許されたのは彼の偉大なる才能と、彼以外の多くがレベルの低い作詞業界であったのだろ う。
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今日の一句 端居にて
毛の長き猫 思索せり (久保元宏 1999.7)
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歴史か
ら飛び出せ! ★たとえば→1月24日の 歴史★ |
歴史か
ら飛び出せ! ★たとえば→6月25日の 歴史★ |
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▲PYGの曲を1975年のライブで歌う。演奏も歌唱力も
付いた沢田のコダワリ、か。
▲アレンジは、ふつー。歌は良く言えば誠実?個性かもしれないケド、ボクトツ(笑)。 |
■あえて、シングルA面曲を除いたアルバム曲による選曲です。曲名の後にアルバム名を記載いたしました。 ①耒タルベキ素敵 (CD『耒 タルベキ素敵』2000) ②気になるお前 (LP『Julie Ⅵ ある青春』) ③シャワー (LP『ス・ト・リ・ッ・パ・−』) ④ノン・ポリシー (LP『ノン・ポリシー』1984) ⑤君が泣くのを見た (LP『架空のオペラ』) ⑥ミュータント (LP『TOKIO』1979) ⑦あの女 (CD『Co-Colo1 夜のみだらな鳥達』1987) ⑧護り給え (CD『告白 CONFESSION』) ⑨ノイズ (LP『GS.I LOVE YOU』) ⑩次のデイト (LP『ミスキャスト』1982) ⑪お前は魔法使い (LP『Jewel Julie』) ⑫SCANDAL!! (カセット『ジュリー・ソング・カレンダー』1983=カセット・テープのみの発売。) |
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■こう自分の選曲を振り返ってみると、1990年代の楽曲が抜けているのに気が付く。 無意識かつ無作為に選んだのに。けっして1990年代の作品を聴いてこなかったワケでもないのだが。 ■むしろ、こう並べてみると、見えてくるモノがある。 それは、沢田研二が歌う時に、「歌詞=詩」がリアリティを帯びるかどうか・という私の基準だ。 この場合のリアリティというのは、1987年『Co-Colo1 夜のみだらな鳥達』からの2年間のバンドCo-Colo時代における、 沢田の「私小説」時代のみを指しているわけではない。 例えば、「ノン・ポリシー」における歌詞「♪雨が降っても 晴れになっても 問題なのは シャワーを浴びる温度くらいだよぅおう」と、 「♪アア Oh 良くもない 悪くもない ノンポリシー」を歌う時のリアリティを出せるのは沢田ぐらいだ。 1970年代の後半の百恵&ピンクレディーとの壮絶な巴戦で演じた沢田のキャラクター創造力を思い出すだけで、 彼にとってのリアリティとは、単純な「私小説」的リアリティを超えた特権的才能の上に立つものであることは容易にご理解いただけるであろう。 ■しかし、そんな才能にも落とし穴があった。それは「歌唱力」だ。 もう一度、先ほどと同じアルバム『ノン・ポリシー』を通して聴いてみると分かる。 沢田は歌が上手になってしまったのだ。布施明的ドツボにはまる危険性を持ってしまったのだ。 上手に歌いあげる彼の声は時に、「歌わされている」歌になってしまう。 このアルバムに関しては井上鑑の安易なサビのアレンジがさらに失敗を深めている。 このアルバムでリアリティがあるのは「ノン・ポリシー」と沢田の作曲による「眠れ巴里」の2曲のみだ。 ラストのシングル曲「渡り鳥はぐれ鳥」は、巧妙なスタッフにより「ノン・ポリシー」のコンセプトを分かり易い物語にした作品だ。 その職人技は成功しているが、残念ながら、それまでの沢田のスタッフが成し遂げてきた「時代」を読むリアリティに成功していない。 |
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■沢田にとって1979年のアルバム『TOKIO』の成功は重要なマニフェストであったのは間違いない。 ザ・タイガースで最初からブレイクできた彼。 その後の彼の経歴をいちいちここでは述べないが、驚異的なのは彼のブレイクスルーの回数である。 多くのGS出身者がそうであるように、ザ・タイガースの経歴だけで人生を終えたにしても非常に充実した人生である。 ところが、沢田研二は、充実した情況をその都度、ブレイクスルーすることによって新しい情況を何回も作ってきた。 その中でも1979年のアルバム『TOKIO』は重要だ。つまり、沢田はこのアルバムから、シングル曲歌手からアルバム作家に変わったのだ。 ■その「作家」性に最も大きな協力をし、おそらくは最も興奮して情況を楽しんだのがアートディレクターの早川タケジであろう。 であるから、『TOKIO』の次のアルバム『バッド・チューニング』のサウンド・クリエーターのダラシナサを早川タケジはがっかりしたと思う。 それほど、シングル『恋のバッド・チューニング』とアルバムのジャケットと歌詞カードのアート・ディレクションは完璧だった。 アルバム『TOKIO』は同年に出したベスト・アルバム『ロイヤル・ストレート・フラッシュ』によって沢田のソロ活動の第一部を自ら終了させた後 の第二部開始のマニフェストだった。 だから『TOKIO』の中には旧来のレコード大賞向けシングル「ロンリー・ウルフ」と、エッジーな曲「TOKIO」「ミュータント」が並ぶ。 たしかに「ミュータント」はザ・ビートルズの「ヘルター・スケルター」からのアイディアの引用が多いが、これがアレンジャー後藤次利のギリギリな のだから・しょーがない。 それでも、それまでの井上孝之の1960年代センスから、さらに時代追従しようという狙いの元の後藤次利の登用だったハズ。 ■ライブもスタジオ録音もゴチャマゼのバッド・チューニングでいいやというコンセプトも早川タケジの気合の入ったデザインの前では虚しくも情けな くもあった。 そのリヴェンジに成功したのがコンセプトと時代性を止揚して完成した次のアルバム『G.S I Love You』だった。 ■又、アルバム『G.S I Love You』の収録曲では、 ザ・スパイダースの1966年のデビュー・アルバムの曲「ビター・フォー・マイ・テイスト」のモロ焼き直しである「午前3時のエレヴェーター」の 絶妙なテイストが、 沢田のキャリアが豊かな鉱泉でもあることをスタッフに「再」発見させたと思う。 ■『G.S I Love You』のコンセプトは、タイトルが示す通りにグループ・サウンズであるが、 それが一筋縄でいかないのがこの時期の沢田及びスタッフの凄いところである。 アルバム1曲目の「ノイズ」は加瀬邦彦によるディストーションの利いたギターリフが1960年代を彷彿させるが、 2曲目の「彼女はデリケート」とのブリッジのSEは時代先取りのニューウェーブ・テイスト丸出しであった。 つまり、沢田の出生元である60年代サウンドと、当時の最先端の80年代ニューウェーヴが見事に融合したわけだ。 「ノイズ」のギター・リフは1978年のヒット・シングル曲「カサブランカ・ダンディ」の井上孝之によるそれも彷彿させ、 やはり沢田の声に合うのはバンド・サウンドであることの印象を決定付ける。 アルバム『TOKIO』から始まったアルバム主義のひとつの到達点が『G.S I Love You』であったワケだ。 ■そして、「彼女はデリケート」「ヴァニティ・ファクトリー」という佳曲を提供した佐野元春の登用の成功は、 後藤次利の古さを浮き彫りにする装置でもあった。 ■佐野元春の登用の成功は、「歌詞=詩」に対する感性の持つミュージシャンを登用する方向への傾斜として、 1982年のアルバム『ミスキャスト』における作詞&作曲を全て井上揚水に委託するという極論へ向かう。 この目論見は成功し、『ミスキャスト』は名曲揃いのお化けアルバムであった。 ■しかし調子に乗りすぎたシングルカット曲「背中まで45分」は、 当時の世界の頂点にあったロキシー・ミュージックの「アヴァロン」を意識&パクったのであろうが、 やはり調子に乗りすぎた。 ここで、沢田とスタッフのバランス感覚の弱点が見え隠れし始める。 沢田のバック・バンドの中心的存在のベーシスト吉田健も、「シングルは「次のデイト」まで過激にしてもよかったのではないのか」と語っている。 ■この時期、沢田はTBSラジオの番組を持っており、そこで毎月、女優や少女漫画家など、キャリア・ウーマンの作詞に彼が詩を書くという作業を毎 月1曲づつ行っている。 ここで作られる曲はシングルやアルバムとして発表する予定が無かったせいか、アレンジをバックバンドのメンバーが交互に担当し、 レギュラーの録音では有名人アレンジャーの命令(?)に欲求不満になっていたのか、かなり自由に実験精神を持って製作している。 当時のロンドン・ニューウェーヴ風のポップなアレンジが主体であるが、「ほとんどビョーキ」が流行語であった時代の病気サウンドの毒がちゃんと含 まれている。 のちにこれらの曲は『ジュリー・ソング・カレンダー』としてまとめられて、カセットのみで発売された。 そこでの「歌詞=詩」は、やはり詩人としてはシロウト女達が担当しただけのレベルではあるが、それも一つの「詩」へのアプローチであったのだ。 ■シングルカット曲「背中まで45分」の選曲ミスキャスト(笑)の反省は、次なる「歌詞=詩」に対する感性の持つミュージシャンのトレンドとし て、 1983年に流行のジャングル・ビートを利用した大沢誉志幸の「晴れのちBLUE BOY」として展開する。 ■しかし、もう時代は沢田の試行錯誤のペースにだまって着いて来る情況ではなくなっていた。 本来、沢田のファンとなるべき層は、チェッカーズ、吉川晃司へと分散され、さらにロック志向の強い層はRCサクセションを経て萌芽した日本語ロッ クの世界へと流れる。 ■大沢誉志幸の「晴れのちBLUE BOY」で少し浮上した沢田はさらに同年1983年に、先頭を走る者の宿命として既成のテーマ、 佐野元春以降の「歌詞=詩」に対する感性の持つミュージシャンを登用する方向への傾斜の極北としてのアルバム『女たちよ』を発表する。 ついにここで作詞家として、現代詩の高橋睦郎を起用する。 源氏物語をモチーフにした極北のコンセプトアルバムとしての評価は分かれるところだが、私としては最も有名なポップスターによる果敢な実験として の評価以上は感じない。 高橋睦郎の詩も、彼の作品と考えても魅力に乏しい。 結局、1970年代のシャンソン・コンプレックス丸出しの時期のアルバムに近い完成度しか持っていないのではないのか。 そして、最も重要なのは、沢田が「歌っている」のではなくて「歌わされている」のだ。 ■その揺り戻しとして、冒頭に触れた1984年のアルバム『ノン・ポリシー』が製作&発売される。 ここで再び佐野元春を登用したのには、スタッフの迷いが正直に現れている。 しかし、この佐野の曲においてでも沢田は、かつてのアルバム『G.S I Love You』で歌った「彼女はデリケート」「ヴァニティ・ファクトリー」並みのリアリティを表現できていない。 最もポツプな存在が最もエキセントリックであることによって、時代の表層を剥いできた沢田は「歌唱力」が付いたことによって、そのリアリティが剥 き出しにされなくなった。 |
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■長年付き合ったポリドールから、東芝に移籍する間、メディアへの露出を数年控えることになる。 この事情には複数の原因があるのであろうが、沢田の再婚をめぐるプライヴェートの情況も無視できない。 スターである露出と、プライヴェートの隠蔽は沢田のとってきた戦略であった。 他のスターが家族写真や家族でのメディア登場を営業品目として利用するスタンスを、沢田は慎重に拒否してきた。 しかし、「年上の女」ザ・ピーナッツから、女優・田中裕子への妻の座の委譲には、沢田を聴いてきた者には納得できるものがある。 それは、シングル曲「危険な二人」に代表されるマザコン美青年を演じた沢田が、 アルバム『バッド・チューニング』の「プリテンダー」によってもはやマザコンを演じるには中年になり過ぎた男を嘆きだした時期に並行する。 それでも、それらの曲は作詞家への外注の詩であった。同時に、沢田は「演じる」スタンスであった。 ■しかし、東芝移籍第一弾のシングル曲「灰とダイヤモンド」の生々しさは、 それまでの沢田の「演じる」リアリティと違う、私生活のリアリティをリスナーに想像させるのに充分な内容であった。 ■さらにバックバンド、Co-Coloをバックに製作した3枚のアルバムは沢田による「私小説」三部作であった。 アン・ルイスへの曲の提供も含めて、作曲が中心であった沢田の創作活動は、この時期は作詞に重点をおく。 Co-Coloによる1987年の1枚目のアルバムは、ジャケットに沢田の顔写真が使われないという彼にとっての初体験からも、このプロジェクト の特殊性と沢田の決意が感じられる。 そのCD『Co-Colo1 夜のみだらな鳥達』の1曲目「She's B side girl」は明らかにA面の妻と、B面の愛人を想像させる。 同アルバム収録の「あの女」は、浮気相手の女性との交際に人目を忍びながらも、公衆電話に頼ってしまう程に愛を深めている男の心情を見事に表現し ている。 ■もちろん、この時期、沢田のCDセールスは伸び悩んだ。 |
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■レコード会社サイドの要望だったのか、まるで全盛期の1980年前後を自己模倣するかのようなアルバム、『彼は眠れない』が1989年にリリー
スされた。 ここでアート・ディレクションに早川タケジ、アレンジャーにエキゾティックスの吉田健と西平彰を揃えたのも、明らかに戦略の復帰である。 サエキけんぞう・作詞、奥居香・作曲というシングル曲「ポラロイドGIRL」のスタッフ選びは、明らかにかつての佐野元春の成功の経験によるビ ミョーな先物買いである。 しかし、「これを沢田に歌わせたい」といった1980年前後の実験と、 「沢田はこれを歌ってきた」という自己模倣とでは、同じ路線でも、ベクトルがまるで違う。 しかも、同じスタイルに復帰しても回りの時代は変わっているのだ。 ■このアルバム最大の成功曲は「DOWN」であろう。ループ・ドラムのような村上ポンタ秀一の仕事は、その繰り返しによって生れる狂気を増幅させ ている。 ニヒリズムは沢田の得意のカードの一つだが、ここでは温度を上げない歌い方によって見事にその世界を構築している。 後日、あわててこの曲をシングル・カットし、NHK『紅白歌合戦』でもこの曲を歌ったのは、おそらく吉田健を中心とする世代からの提案であったと 私は想像する。 ここにきて、ようやくアルバム『ミスキャスト』のスタッフから世代交代してきたのだ。沢田にとって幸運であるのは、それがバック・バンドのメン バーであったことだ。 ■楽曲は、過去の沢田テイストを模倣したシングル曲「ポラロイドGIRL」」よりも、それに続く、「彼は眠れない」「噂のモニター」、 忌野清志郎とのキース・リチャードのフレーズも入ったデュエット「KI・MA・GU・RE」の3連発の方がリアリティがある。 ■このアルバムから、沢田のアルバムもCDスケールになり、13曲も4〜5分の長尺の曲が並ぶようになったのは、アイディアが採用される確率も増 えたということだった。 |
連載『沢田研二の、そんなんこんなん』★毎週月曜日の
ジュリー夜話。 なんといっても「芸能生活35年突破記念」ですからね。 それから何度もこの番組でもお話させていただいていますが、 今年は、ボクは、阪神タイガースをとにかく応援させていただいています。 最新アルバム「明日は晴れる」でも 「六甲おろし」をカバーした「ROCK黄WIND」を収録させていただいています。 もちろん今回のコンサートツアーでも歌っていますが、 「この曲をどこで歌う?」これがちょっとした問題です。 やっぱり軽い能書きをしゃべってから歌うというわけです。 まぁ、全国各地で「ROCK黄WIND」わけですが、 やっぱり全国的には巨人ファンの方が多いんです。
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