毎日、いろんなコトが、ある。 それは、君と同じだ。 ついでに、あいつ(ら)とも同じだ。
そして、これは2006年7月28日(金曜日)の、私。
この日が始まった時、私は焼き鳥屋で焼酎の梅割りを飲んでい
た。
『共犯新聞』ゲスト・ブックにに書かれていた 「んで、とりあえず、法務省から、8月3(木曜日)、4(金曜日)日に我が町の全町民向けに説 明会に来る前の、 7月27日(木曜日)午後7時から沼 田町PTA連合会の緊急拡大役員会議を開くことにしました。」の結果を「生で(笑)」聞きたい方からのお声がけ(?)で、あった。 たぶん、午前1時過ぎ、焼き鳥屋「のらくろ」から帰宅。 『共犯新聞』をチェック、ちょいと更新。 吉村昭『プリズンの満月』を読み返しながら、ここ最近の昭和天皇の富田メモや、昨日のA級戦犯・廣田弘毅元首相の孫の発言など を、アメリカ牛のよーに、反芻。 午前3時過ぎに寝る。 朝、7時。電話。「昨日の沼田町 PTA連合会の緊急拡大役員会議の帰り際に久保さんと話した、夜高あんどん祭りでの、小学校・中学校・高校での合同企画について、 久保さんの家におじゃましてもいいですか?」 そして、2時間の激論(笑)。 そして夜、高石ともやのライブに行った。 |
『共犯新聞』スクープ(?)の話題になっている、裸の
ラリーズの1960年代初期メンバーであった昆野正紀と、高石の不思議なすれ違いが、ある。
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↑ この年、私は札幌に住んでいた。北海道大学のキャンパスや、喫茶店に豊田勇造ライブのポスターが貼られていた、確かに(笑)。 その手造りっぽいポスターには、「ジャマイカ帰りのフォーク・シンガー!豊田勇造」みたいな感じのキャッチ・コピーが書かれていた。 そして、この1980年、滝川西高校で昆野正紀は国語の教師をしていた。 私がソレを知ったのは、『共犯新聞』ゲストブックへの某主婦からのカキコミから、であった。 上記のカキコミから、早や4年。 2006年6月になってから、ひょんなきっかけで、その後の昆野正紀を調べ、彼に会ってみようと思い立った。下記は、その経過。
裸のラリーズは、私が東京でバンドをやっていた1980年代前半、私のバンドが出演していた渋谷のライブハウス「屋根裏」によく出演してい た。 「屋根裏」の月間予定表に、自分のバンドと、<伝説の(?)>裸のラリーズの名前が並んでいることに、不思議な感覚が少しあった。 豊田勇造も、昆野正紀も、同志社大学に同時期、通っていた。 ついでに、歌手・加藤登紀子の旦那、故・藤本 敏夫(2002年7月、没。)も同志社大学に1963年に入学し自治委員長をしていた。 藤本は1968年、反帝全学連委員長。1972年から3年余り、学生運動をリードした責任を問われ、服役。72年、加藤登紀子と獄中結婚。 1960年代後半の同志社大学は、こんな感じであった。 ↓
豊田勇造は、1949年7月、京都生まれ。1966年、高校2年生のときに自作曲「ヒロシマ」がフォーク・コンテストに入賞。 1969年に同志社大学に入学するが、後、除籍。 以後、ベ平連の一員として反戦活動を続けながら、京都のライブ・ハウス「MAP」、「拾得」などで歌手とし ての活動を継続する。 このベ平 連(=「ベトナムに平和を!市民連合」)において、豊田は先輩フォーク・シンガーであり当時の人気者であった高石ともやと交流を 深める。 んで、私が今回行った高石ともやのライブの共催が「九条の会」。つまり、憲法 9条を守る会。 高石はMCの中で、「なぜ自分が憲法9条を守る会に参加したのか?」について語った。 それは意外に単純な答えで、九条の会の呼びかけ人に、「鶴見俊輔さんが加わったから。」だ、そーだ。 鶴見の職歴は、こーだ。
高石のMCは続く。
「鶴見さんは、同志社大学に機動隊が入った時に、学校の前に一人で立ち、両手を広げて、機動隊 入るな!と、叫びました。 しかし、機動隊は大学のキャンパスに入った。学生を守れない教師の反省として、鶴見さんは同志 社を辞めたのです。」 このコトの真偽や、鶴見の行為がパフォーマンスとしてのみ優れていたとか、そんな歴史の検証よりもまず、 その鶴見俊輔が教授として在籍していた時代に、豊田勇造も、昆野正紀も、同志社大学に同時期、 通っていた、という事実が面白い。 高石ともやは同志社大学の出身ではなく、滝川高校を卒業後、東京の立教大学に入学している。 しかし、彼は在学中の1966年に歌手デビューし、1967年に『高石音楽事務所』とゆー会社を作り、関西を中心に活躍していた。 この時期に、ベ平連を通じて豊田勇造は高石と巡り会うのであろう。 つまり、当時の「反戦フォーク」は、ナウいヤングのトレンディなアイテムであったのだ。 さて、高石ともやはMCの中で自分がベ平連で活動していたことにはプライドを持っているが、 ベ平連の最大のスター(?)であった小田実との距離感を何気なく語る。 「ベ平連のスゴイところは、小田実さんと同時に、鶴見俊輔さんがいたことです。色んな人がいる ことが、自由な組織の魅力なんです。」 小田実と鶴見俊輔を並べることにによって、相対的に自分の立ち位置を決める、ってゆーのは、 豊田が「高石(=有名人)と昆野(=裸のラリーズ=アングラ)」、同時に、 昆野が「高石(=有名人)と豊田(=アングラ)」をあえて比較した行為にも、私は同じセンスを読み取ってしまう。 高石はライブの冒頭の譜面台や衣装のことを含めて、ニューミュージック以降の歌手とフォークの違いを何度も語ったが、それも同じ心理からだろ う。 私は、『フォークゲリラとは何者か』(1970 年1月1日初版、推薦;小田実、編著;吉岡忍、表紙;橋本治)とゆー本を持っている。 そのの推薦者が小田実であることも時代だが、その小田との微妙な距離を公言しておかねばならない、とゆー高石の心理にも興味深いものがある。 ▲上記が、その本だが、巻末には「歌声運動」の時代らしく、当時のプロテスト・ソングの代表曲が収められている。 高石の場合は、彼の最大のヒット曲「受験生ブルース」の替え歌(がくっ)、「機動隊ブルース」が収められている。 この替え歌の元歌の作詞者が、フォーク歌手の中川 五郎だ。 なぎら健壱は、著書『日本フォーク私的大全』の 最初の章「高石ともや」の中でこう書いている。 「若くして才能を発揮した中川にもう少しカリスマ的な要素があれば、高石(ともや)や岡林(信 康)の存在はなかったかもしれない。」 この言葉は、当時の高石のカリスマ性と、これから続く長い日本の自作自演の音楽史の最初期の最重要人物としての意味をも明言している。
豊田の日記には、高石は「自分の生まれた滝川」と語ったと書かれているが、正確には 高石は1941年12月9日に北海道雨竜郡雨竜町の魚屋の息子として生れてい る。 その前日、1941(昭和16)年12月8日午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)、 日本軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲攻撃し、3年6ケ月に及ぶ大東亜戦争対米英戦(太平洋戦争)が勃発した。 そして、雨竜町は、私の住む北海道雨竜郡沼 田町から、車で10分ほどの隣町だ。 高石の母親は90歳の今もなお、元気に雨竜町に住んでいるらしく、この日も会ってきたそうだ。 彼の祖父が開拓農民として、雨竜町にやってきたのが彼とこの土地との関係の始まりだそうだ。 当時、10歳代で結婚すればわずかながら田んぼが国家から分け与えられたのだそうだ。 少年時代の高石は祖父が好きで、よく遊びに行っていたそうだ。 そして、田んぼの小さなスペースを与えられた。そこを彼が管理するのだ。 田植えの時、一生懸命に田植えをする高石少年に祖父は、こう言った。 「ともや、できるだけ、ゆっくり、やれ。」 学校では何でも早くやることが美徳とされていたので、高石少年は驚いたそうだ。 しかし、「できるだけ、ゆっくり」やることの難しさと、重要さを実感し、その後の彼の行き方にも大きな影響を与えている。 彼の祖父は、80歳で亡くなったそうだが、死ぬ直前まで、田んぼの端の木の切り株を掘り起こす作業をしていたそうだ。 その姿に、開拓農民のプライドと使命感を感じる。 しかし、祖父の死後、祖父が人生の大半を使って切り開いた田んぼは、今では雨竜小学校のグラウンドに なっているそうだ。 確かに、私も何度もこのグラウンドの前を車で走っているが、そんなコトは知らなかった。 高石は、今でも、このグラウンドの前を通過する時、正視できないそうだ。 高石のライブは、彼が最近はまっているアイルランドの民謡から、ジャニス・ジョップリンの曲、なつかしのフォークまで満載に進行した。 ライブの終盤を告げるときに、高石が歌ったのは、ジョン・レノン「イマジン」。 オノ・ヨーコから許可された、高石による訳詩で歌った。 MCで、「ジョン・レノンが死んでからもう20年以上、たちますねぇ。」と、言った。 それが、滝川の楽屋で高石と豊田が会い、豊田と昆野が会った、あの1980年なのだ。 その時に豊田が感じた、「ただ、「敵」が何なのか、果たして知ってるのか、 わからん。」という高石への批判は正しいのだろう。 ベトナム戦争時に、「戦争反対」と歌い時代のヒーローになった高石へ、富田は戦争が無い時代にプロテスト・ソングを歌う意味を問いたかったの だろう。 その「問い」は重い。そして、たぶん、正しい、のだろう。 しかし、同じ問いは、「表現」する全ての者に平等に向けられるべきだ。もちろん、豊田自身にも。 もし、「敵」が「改憲論者」であるとするのならば、もうそれで答えなのか?
ジョン・レノンが1980年12月8日に射殺されたのが日本に報道された時、日本時間は12月9日だった。 高石は、39歳の誕生日を迎えていた。 |