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読め。Literary Criticism
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フォーク 高石とも や
毎日、いろんなコトが、ある。
それは、君と同じだ。
ついでに、あいつ(ら)とも同じだ。

そして、これは2006年7月28日(金曜日)の、私。
この日が始まった時、私は焼き鳥屋で焼酎の梅割りを飲んでい た。
『共犯新聞』ゲスト・ブックにに書かれていた
「んで、とりあえず、法務省から、8月3(木曜日)、4(金曜日)日に我が町の全町民向けに説 明会に来る前の、
7月27日(木曜日)午後7時から沼 田町PTA連合会の緊急拡大役員会議を開くことにしました。」の結果を「生で(笑)」聞きたい方からのお声がけ(?)で、あった。

たぶん、午前1時過ぎ、焼き鳥屋「のらくろ」から帰宅。
『共犯新聞』をチェック、ちょいと更新。
読め。吉村昭『プリズンの満月』を読み返しながら、ここ最近の昭和天皇の富田メモや、昨日のA級戦犯・廣田弘毅元首相の孫の発言など を、アメリカ牛のよーに、反芻。
午前3時過ぎに寝る。

朝、7時。電話。「昨日の沼田町 PTA連合会の緊急拡大役員会議の帰り際に久保さんと話した、夜高あんどん祭りでの、小学校・中学校・高校での合同企画について、
久保さんの家におじゃましてもいいですか?」
そして、2時間の激論(笑)。

そして夜、高石ともやのライブに行った。

高石ともや
音楽・平和を歌う交流会
に、行って来た。
鉄砲をかついで、得意になって♪ 2006年7月28日(金) 7Pm
北海道深川市4条9丁目
喫茶「ふれっぷ」電話;0164-23-4757

★just imagine...♪護憲・ミュージック・フェスティバル(GMF)♪高石ともや
音楽・平和を歌う交流会
\2000(ワンドリンク付き)
■思想信条や政治的立場を越え、
「憲法9条」を守ることを目的に、
2005年6月に発足した
「きたそらち九条の会」の呼びかけで、
沼田町の近所、雨竜町出身の
高石のライブで戦争と自由を考える。
高石はジャックス、遠藤賢司の恩人。
▼これ、絶対に聴け!クリックするだけで聴ける未発表音源!めっちゃ、カッキー!
★just imagine...♪護憲・ミュージック・フェスティバル(GMF)♪高石友也+ジャックス(早川義夫)の「明日なき世界」
♪クリックして、見よっ!「明日なき世界」のオリジナルは、 この人、バリー・マクガイアっス。
年の差、1歳(笑)。
▲左から、観客の若林博士(1942年3月9日、福島県生れ)、
ドラムのマー ティ・ブレイシー(1954年9月17日、アメリカ生れ、元もんた&ブラザーズ!)、
高石ともや(1941年12月9日、北海道雨竜郡雨竜町生れ)。
観客は60人ぐらいか。
喫茶店のフラットなステージに、「ららら〜♪」と歌いながら、登場。
おいおい、まだ6時45分だぜ。演奏開始予定時間は、7時なのに。
んで、おもむろにギターを取り出し、速弾き(?)。
と、思ったらギターのチューニングだった。
それからバイオリンを取り出し、アイルランド民謡を演奏。

「えー。ふつーのライブは演奏前にCDやテープをかけるんです。
私、ソレ、嫌いなんですよ。
1970年ぐらいからソニーが大きくなって、今やCDがエライ。
CDは文化ではなく、文明です。
フォークは、文化です。
ライブの前に文明を聴かされるよりは、文化を聴きたいでしょ(笑)?」

それがコダワリらしーんだけれど、首尾一貫して、
こーゆー自分で決めた価値観を披露する。

「私、譜面台は使いません。譜面台を見て演奏するのではなくて、
皆様に向って演奏するのだから。」

「服装は清潔にしています。音楽を届ける姿勢のために。」

なんだか、1970年代の吉田たくろう以降を批判しているのかな?

それにしても、演奏はスゴイ。
私のお目当ての「明日なき世界」は、パンクだった!
スネアとバス・ドラムだけのドラマーとの打ち合わせは無し。
客の反応に合わせて、魅力的なグルーブが作られてゆく。

『共犯新聞』スクープ(?)の話題になっている、★just imagine...♪護憲・ミュージック・フェスティバル(GMF)♪裸の ラリーズの1960年代初期メンバーであった昆野正紀と、高石の不思議なすれ違いが、ある。

読め。豊田勇造 『歌旅日記 ジャマイカ—日本』

◇1980年9月13日 小樽→滝川〈滝川文化センター小ホール〉

 久しぶりに日本酒を飲んだせいで、頭がちょっと痛い。ジャマイカから帰っ て、日本酒が苦手になり酒の量が減った。
 ビショップのところで朝めしをよばれ、駅まで見送ってもらう。車中、ビ ショップの体がこの1年ほど悪くて
「酒をほとんど飲まんので、きのうは先に失礼しました」との伝言を奥さんから 聞く。昨夜のビショップが白湯を飲んでたわけがわかった。
「また来年是非来て下さい」と言われる。
 小樽12時発鈍行、札幌からこの汽車が急行になる。
 札幌までしばらく窓を開けたまま海を見ながら走る。汽車に乗ったら、海の方 に俺はいつも座ってしまう。
 滝川に2時に着く。主催の大和屋喨君、出迎えてくれる。伊郷は札幌によって 後の便で来る。
 滝川みたいな小さな町で(人口5万)コンサートが初めて2つ重なったという ので、新聞もとりあげてくれたという。
そしてその相手は、なんと高 石友也とナターシャ・セブン。かたや文化センター大ホー ル、かたや小ホール。
 まず滝川映画サークルのインタヴュー。そしてリハ。リハを終えて食堂に行く と高石氏とこのスタッフらしき人がいて、食い終わってから高石氏に会いに行く。
 まず、榊原と変名した元京都フォークソング連盟の平井さん、ランニングをし てるとのことで一時よりやせていた。
そして、いろいろなこと話しかけるけど、何か雑な聞き方。例えば「どこに泊 まってるの?」と聞き、答も待たず次のことを聞く。
 高石氏、はにかみながら握手。自 分の生まれた滝川で俺に会うのは奇遇と言う。以前と変わら ず、一つのことを大ゲサに言うクセはそのまま。
もっと自然に欲張ったらええと思う。
 コンサートの方(俺の方)は風邪がまだぬけず体がぼてっとした感じやったけ ど、途中何とかペースあがってやりとげる。
 終わって、高石氏の方へジャマイカ録音のLPを持って行き、平井さんに渡 す。「どんなサイン書くか見たい」とまた大ゲサなこと言う。
高石氏のコンサートの方は思いのほか声が出てた。ただ、「敵」が何なのか、果たして知ってるのか、 わからん。
 ホテルでシャワー浴びる。良いホテルを奮発してくれて有り難い。シングル・ ルームやと気が楽。シャワーで体がとても楽になる。
 打ち上げへ行く。飲み屋の入口にまだ入れんかったスタッフやら10人ほどい る。
 高石氏のコンサートでものすごうこっちの客集めがやりにくうなったこと、こっちの学生¥1200をみてからむこうは、学生¥900と付け加えたという。
ホールのキャパ1100対100を比べたら、俺らの方が入場者率多かったとい う。むこうは実質300。
 聞きに来ていた人の男が「実 は昔京都にいて、元ラリーズ〔※1〕の水谷といつも一緒にいた人間です」と 言い出し、びっくり。
伝説、では無い。
俺、名前何やったろ、とボンヤリ考えてて「昆野さんとちゃうか?」と言うと、 今度はむこうがびっくり。
 昆野さんちゅ うたら、元同志社でバリバリと先頭に立ってたものすごう怖い人やっ たさかい。
 きょうは人に出あう日。
 今こっちで国語の教師やっているそうな。穏やかな人柄の美人の奥さんのお腹には子供が いる。
皆調子づいてのり出し、俺『青函連絡船』『ブルーズをやろうぜ』『大文字』を 手拍子でうたう。
 昆野さんに関しては、何か言葉にするよりただ懐しく、こうして逢いに来てく れたのが嬉しい。高石氏より、こういう人に逢うのがなんぼ 嬉しいことか。
 ホテルに帰っても少し興奮気味。洗濯して気を鎮め、カセットでローリング・ ストーンズの『エモーショナル・レスキュー』を聞きながら寝る。

〔※1〕「東のジャックス、西のラ リーズ」と並べられた、水谷孝率いるロック・バンド、〈裸のラリーズ〉。


この年、私は札幌に住んでいた。北海道大学のキャンパスや、喫茶店に豊田勇造ライブのポスターが貼られていた、確かに(笑)。
その手造りっぽいポスターには、「ジャマイカ帰りのフォーク・シンガー!豊田勇造」みたいな感じのキャッチ・コピーが書かれていた。

そして、この1980年、滝川西高校で昆野正紀は国語の教師をしていた。
私がソレを知ったのは、『共犯新聞』ゲストブックへの某主婦からのカキコミから、であった。

お前は共犯者! 『共犯新聞』ゲストブック★
スクープ情報!

みづき - 2002/10/13 12:36:14

息子の高校にラリーズメンバーだった昆野氏が 居ます。
もちろん、先生で・・なんと!担任でした♪

(私は)ラリーズのファンというより、昆野先生のファンなんです。
初めての学級懇談会の席で、先生の自己紹介は・・
「実は、昔ロッ クをやってまして・・・よど号の犯人が友人で・・」
その内容に母たちは唖然・・・・・・
帰宅してからさっそくネットで『裸のラリーズ』を検索しまくりました。
・・・というわけで、生のラリーズは、残念ながら私も知らないのです。
もう、あと数年 で退職される年齢ですが、
かなりユニークでステキな先生です。
知る人ぞ知る『裸のラリーズ』・・
あらためてその凄さを実感しています。
裸のラリーズ★1969年
日 本最長寿の
現役ロックバンド「裸 のラリーズ」
1969年4月12日
京都大学A号館地下「バリケード・ア・ゴーゴー」
(当時の雑誌『平凡パンチ』記事より)
写真は水谷氏、加藤氏、多田氏ら。

上記のカキコミから、早や4年。
2006年6月になってから、ひょんなきっかけで、その後の昆野正紀を調べ、彼に会ってみようと思い立った。下記は、その経過。

jimono >例の人探しは完了しましたか

『共犯新聞』超スクープ!なんですが、どー発表しようかと 思っていたのですが、何気なく下記に書いちゃいます。
裸 のラリーズの1960年代初期メンバーであった昆野正紀については、はる先生から下記のような報告をいただきま した。

差出人 : はる
送信日時 : 2006年7月11日 10:52Am
宛先 : 久保AB-ST元宏
件名 : Re: ありがたいありがたい〜。

山口富士夫、わかりますよ〜。それはすごいバンドですね。
ところで、はる情報では、そ の人は今、札幌稲雲高校にいることがわか りました。
まだ詳しい情報がいるのであれば、稲雲の知り合いを捜すこと も可能かと思いますが…。
羊蹄山、I jerous you!!!!!HARU
差出人 : はる
送信日時 : 2006年7月15日 9:35Am
宛先 : 久保AB-ST元宏
件名 : Re: You Tubeって知ってる?

おはようございます。では思い切って、火曜、私が電話をしてみます。
PTAで公言してるくらいなら、大丈夫でしょう。
教員の定年は60才です。水谷孝さんより年下ではないかと思 うので、大丈夫かな、と思います。
緊張しますが、頑張ってみます。どんな人なんでしょう。若い時の写真は見まし た映像もみてみます。はる
差出人 : はる
送信日時 : 2006年7月20日 4:35Pm
宛先 : 久保AB-ST元宏
件名 : Re: You Tubeって知ってる?

久保さん、少し遅すぎたようです。昆野さんは今年退職さ れ、誰も連絡先がわからないそうです。
同僚などで知ってる人が本当にいないのか、少し疑問ではあり ますが…。
あと、組 合をやっていたかどうか調べて、そちらがわのネットワークを 使う手があります。
動いてみますが、期待は薄いかもしれません。
悲しいっす!

■ってなワケで、今年の3月末で情報は途切れてしまいました。
なんだか、あまりにもできすぎた探偵小説みたいです。

裸のラリーズは、私が東京でバンドをやっていた1980年代前半、私のバンドが出演していた渋谷のライブハウス「屋根裏」によく出演してい た。
「屋根裏」の月間予定表に、自分のバンドと、<伝説の(?)>裸のラリーズの名前が並んでいることに、不思議な感覚が少しあった。


豊田勇造も、昆野正紀も、同志社大学に同時期、通っていた。
ついでに、歌手・加藤登紀子の旦那、故・★just imagine...♪護憲・ミュージック・フェスティバル(GMF)♪藤本 敏夫(2002年7月、没。)も同志社大学に1963年に入学し自治委員長をしていた。
藤本は1968年、反帝全学連委員長。1972年から3年余り、学生運動をリードした責任を問われ、服役。72年、加藤登紀子と獄中結婚。
1960年代後半の同志社大学は、こんな感じであった。

はる先生(高校教師)>私の知り合いで、同志社出身の元活動家はどこにも就職できませんでしたよ。

久保AB-ST元宏■関西の1970年闘争は、「京都市内の同志社大学に集合」→「そこでアジ演説」→「デモに出発」→「河原町通で両手を広げてフランスデモ」→
「シュプレヒコールは、”安保粉砕、日帝打倒”」→「祇園の石段下ではジグザグデモ」→「祇園の円山公園で集会後解 散」、っーパターンだったらしいですね。

はる先生(高校教師)>教員がOKだというのは救われる気がしました。

久保AB-ST元宏■同志社の紛争の主な原因は、「学長選挙民 主化要求」だったそーですから、
そんな彼らが教員にあるってことは、ある種の闘争の潜伏化であったのかな?
(2006年7月16日のEメールから)

豊田勇造は、1949年7月、京都生まれ。1966年、高校2年生のときに自作曲「ヒロシマ」がフォーク・コンテストに入賞。
1969年に同志社大学に入学するが、後、除籍。
以後、ベ平連の一員として反戦活動を続けながら、京都のライブ・ハウス「MAP」、「拾得」などで歌手とし ての活動を継続する。
この★just imagine...♪護憲・ミュージック・フェスティバル(GMF)♪ベ平 連(=「ベトナムに平和を!市民連合」)において、豊田は先輩フォーク・シンガーであり当時の人気者であった高石ともやと交流を 深める。

んで、私が今回行った高石ともやのライブの共催が★just imagine...♪護憲・ミュージック・フェスティバル(GMF)♪「九条の会」。つまり、憲法 9条を守る会
★just imagine...♪護憲・ミュージック・フェスティバル(GMF)♪
高石はMCの中で、「なぜ自分が憲法9条を守る会に参加したのか?」について語った。
それは意外に単純な答えで、九条の会の呼びかけ人に、「鶴見俊輔さんが加わったから。」だ、そーだ。
鶴見の職歴は、こーだ。
  • 1948年 京都大学嘱託講師
  • 1949年 京都大学人文科学研究所助教授
  • 1954年 東京工業大学助教授
  • 1960年 日米安保条約決議に抗議し東京工 業大学教授、退官
  • 1961年 同志社大学文学部社会学科教授
  • 1970年3月 大学闘争において大学側の機動 隊導入に抗議し、同志社大学を辞職。 48歳。
高石のMCは続く。
「鶴見さんは、同志社大学に機動隊が入った時に、学校の前に一人で立ち、両手を広げて、機動隊 入るな!と、叫びました。
しかし、機動隊は大学のキャンパスに入った。学生を守れない教師の反省として、鶴見さんは同志 社を辞めたのです。」

このコトの真偽や、鶴見の行為がパフォーマンスとしてのみ優れていたとか、そんな歴史の検証よりもまず、
その鶴見俊輔が教授として在籍していた時代に、豊田勇造も、昆野正紀も、同志社大学に同時期、 通っていた、という事実が面白い。

高石ともやは同志社大学の出身ではなく、滝川高校を卒業後、東京の立教大学に入学している。
しかし、彼は在学中の1966年に歌手デビューし、1967年に『高石音楽事務所』とゆー会社を作り、関西を中心に活躍していた。
この時期に、ベ平連を通じて豊田勇造は高石と巡り会うのであろう。
つまり、当時の「反戦フォーク」は、ナウいヤングのトレンディなアイテムであったのだ。

さて、高石ともやはMCの中で自分がベ平連で活動していたことにはプライドを持っているが、
ベ平連の最大のスター(?)であった小田実との距離感を何気なく語る。
「ベ平連のスゴイところは、小田実さんと同時に、鶴見俊輔さんがいたことです。色んな人がいる ことが、自由な組織の魅力なんです。」

小田実と鶴見俊輔を並べることにによって、相対的に自分の立ち位置を決める、ってゆーのは、
豊田が「高石(=有名人)と昆野(=裸のラリーズ=アングラ)」、同時に、
昆野が「高石(=有名人)と豊田(=アングラ)」をあえて比較した行為にも、私は同じセンスを読み取ってしまう。

高石はライブの冒頭の譜面台や衣装のことを含めて、ニューミュージック以降の歌手とフォークの違いを何度も語ったが、それも同じ心理からだろ う。

私は、パラパラ・・・『フォークゲリラとは何者か』(1970 年1月1日初版、推薦;小田実、編著;吉岡忍、表紙;橋本治)とゆー本を持っている。
そのの推薦者が小田実であることも時代だが、その小田との微妙な距離を公言しておかねばならない、とゆー高石の心理にも興味深いものがある。
教典?
▲上記が、その本だが、巻末には「歌声運動」の時代らしく、当時のプロテスト・ソングの代表曲が収められている。
高石の場合は、彼の最大のヒット曲「受験生ブルース」の替え歌(がくっ)、「機動隊ブルース」が収められている。

この替え歌の元歌の作詞者が、フォーク歌手の★just imagine...♪護憲・ミュージック・フェスティバル(GMF)♪中川 五郎だ。
なぎら健壱は、著書パラパラ・・・『日本フォーク私的大全』の 最初の章「高石ともや」の中でこう書いている。
「若くして才能を発揮した中川にもう少しカリスマ的な要素があれば、高石(ともや)や岡林(信 康)の存在はなかったかもしれない。」
この言葉は、当時の高石のカリスマ性と、これから続く長い日本の自作自演の音楽史の最初期の最重要人物としての意味をも明言している。

2005年5月22日
PANTA中川五郎 with SKi
ライブ イン 札幌「COLONY」
頭脳警察の戦略★\1,000(税込)「理 想と現実」

★すげー組み合わせ!
中川五郎と PANTAの二人だけの共演は、なんとこの夜が始めて
そんな中川五郎のライブも、私は去年、観ている。
なんと、あの頭脳警察のPANTAとの共演だ。
しかも、その時のテーマも、今回と同じ「護憲」!!

PANTAは1975年まで頭脳警察というバンドで、日本赤軍シンパ系の歌を歌っていた。
頭脳警察は一旦、活動を休止するのだが、1986年、久しぶりにメンバーが再会している。
♪クリックして、見よっ!Panta&Toshi −銃を取れ!(1986 年12月14日、新宿LOFT)

そして1990年、頭脳警察は正式に「再結成」された。
当時の再結成ライブに、なぜか私はテラダヤと招待席で無料で観た。
また、頭脳警察は、昆野や豊田の母校、同志社大学(!)でライブも行なった。
♪クリックして、見よっ!頭脳警察−世界革命戦争宣言〜銃を取れ!(1990 年10月12日、同志社大学)

豊田の日記には、高石は「自分の生まれた滝川」と語ったと書かれているが、正確には
高石は1941年12月9日に北海道雨竜郡雨竜町の魚屋の息子として生れてい る。
その前日、1941(昭和16)年12月8日午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)、
日本軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲攻撃し、3年6ケ月に及ぶ大東亜戦争対米英戦(太平洋戦争)が勃発した。

そして、雨竜町は、私の住む北海道雨竜郡沼 田町から、車で10分ほどの隣町だ。

高石の母親は90歳の今もなお、元気に雨竜町に住んでいるらしく、この日も会ってきたそうだ。
彼の祖父が開拓農民として、雨竜町にやってきたのが彼とこの土地との関係の始まりだそうだ。
当時、10歳代で結婚すればわずかながら田んぼが国家から分け与えられたのだそうだ。
少年時代の高石は祖父が好きで、よく遊びに行っていたそうだ。
そして、田んぼの小さなスペースを与えられた。そこを彼が管理するのだ。
田植えの時、一生懸命に田植えをする高石少年に祖父は、こう言った。
「ともや、できるだけ、ゆっくり、やれ。」
学校では何でも早くやることが美徳とされていたので、高石少年は驚いたそうだ。
しかし、「できるだけ、ゆっくり」やることの難しさと、重要さを実感し、その後の彼の行き方にも大きな影響を与えている。

彼の祖父は、80歳で亡くなったそうだが、死ぬ直前まで、田んぼの端の木の切り株を掘り起こす作業をしていたそうだ。
その姿に、開拓農民のプライドと使命感を感じる。
しかし、祖父の死後、祖父が人生の大半を使って切り開いた田んぼは、今では★just imagine...♪護憲・ミュージック・フェスティバル(GMF)♪雨竜小学校のグラウンドに なっているそうだ。
★学校は何にも!
確かに、私も何度もこのグラウンドの前を車で走っているが、そんなコトは知らなかった。
高石は、今でも、このグラウンドの前を通過する時、正視できないそうだ。

高石のライブは、彼が最近はまっているアイルランドの民謡から、ジャニス・ジョップリンの曲、なつかしのフォークまで満載に進行した。
ライブの終盤を告げるときに、高石が歌ったのは、ジョン・レノン「イマジン」。
オノ・ヨーコから許可された、高石による訳詩で歌った。

MCで、「ジョン・レノンが死んでからもう20年以上、たちますねぇ。」と、言った。
それが、滝川の楽屋で高石と豊田が会い、豊田と昆野が会った、あの1980年なのだ。

その時に豊田が感じた、「ただ、「敵」が何なのか、果たして知ってるのか、 わからん。」という高石への批判は正しいのだろう。
ベトナム戦争時に、「戦争反対」と歌い時代のヒーローになった高石へ、富田は戦争が無い時代にプロテスト・ソングを歌う意味を問いたかったの だろう。
その「問い」は重い。そして、たぶん、正しい、のだろう。
しかし、同じ問いは、「表現」する全ての者に平等に向けられるべきだ。もちろん、豊田自身にも。
もし、「敵」が「改憲論者」であるとするのならば、もうそれで答えなのか?
★just imagine...♪1960年代の正しい若者?♪
★国旗の下で♪ 最近ではマラソン・ランナーとしても有名な、高石ともや。
MCの話題は、2001年9月11日 のニューヨークでの同時多発テロへ。

「あのテロの翌日、ニューヨークのジュリアーノ市長は、
ニューヨーク・シティ・マラソンは実施します、と宣言しました。」

多くの死者を想い、ロウソクに火を付け、人々が「イマジン」を静かに歌っていた。

高石は、事件から55日後の2001年11月4日、第32回ニューヨークシティ・マラソンに参加。
炭疽菌騒ぎで不安が渦巻くニューヨークを大量の人間が、走り抜けてゆく。

そこでは、ジョン・レノンの「イマジン」は放送禁止だった。
アメリカはアフガニスタンへの進攻を行い、戦争状態であった。
国家をあげて戦争をする時、戦意を失うわさせる音楽は封じ込める必要があったのだ。

ジョン・レノンが1980年12月8日に射殺されたのが日本に報道された時、日本時間は12月9日だった。
高石は、39歳の誕生日を迎えていた。