1902年
明治35年 |
▼小林秀雄の
遍歴
(0歳) 4月11日、東京市神田区で誕生。 |
▼中原中也の遍歴 |
1907年
明治40年 |
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(0歳) 4月29日、父謙助、母フクの長男、
山口県山口市湯田温泉一丁目11-23で誕生。 |
1909年
明治42年 |
(7歳) 4月、白金尋常小学校入学。
芝区白金志田町十五番地に住む。 |
(2歳) 3月、父の転勤で広島に転居。
青木健『中原中也—盲目の秋』(2003
年)より
後に中也の恋人となる長谷川泰子は、
時代が違うが同じ広島市内に住んでいた。
しかし、両者の家庭における境遇は
陽画と陰画のように異なっていて、
それが後の出会いを宿命的にさせ、二人の
近親相姦的な精神の構造を作り上げた。 |
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1910年
明治43年 |
(8歳) 作文「おやのおん」。 |
青木健『中原中也—盲目の秋』(2003
年)より
中也が通った広島の幼稚園はミッション系
だったが、当時の古い写真によると、
園児たちがみな着物の上に膝まで隠れる
西洋風の真っ白いエプロンを掛けていた。 |
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1912年
明治45年
大正元年 |
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(5歳) 9月、父の転勤で金沢に転居。
青木健『中原中也—盲目の秋』(2003
年)より
「空の奥処(おくが)」にはためく「黒旗」を
歌った詩「曇天」も、幼稚園時代に出会った
明治天皇の大葬の際の半旗の黒旗か? |
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1914年
大正3年 |
(12歳) 秋、学芸会で、
世界大戦の原因から、現状を演説 。 |
(7歳) 3月、山口に帰る。
4月、下宇野令小学校に入学。 |
1915年
大正4年 |
(13歳) 3月 白金尋常小学校卒業
4月 東京府立第一中学校入学、
一期上に蔵原惟人、富永太郎が在学 。 |
(8歳) 1月、弟の亜郎、病没。
亡弟亜郎を歌ったのが詩作の始まり。
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1918年
大正7年 |
(16歳) 一年上級の河上徹太郎を知る。 |
(11歳) 5月、山口師範附属小学校に転校。 |
1920年
大正9年 |
(18歳) 3月 府立一中卒業。
一高入試に失敗し、浪人。 |
(13歳) 2月、「防長新聞」に投稿した短歌が、
入選。
以後投稿を続ける。
4月、県立山口中学に入学。
文学に耽り、次第に学業を怠るようになる。 |
1922年
大正11年 |
(20歳) 11月 「蛸の自殺」を『跫音』に発表、
志賀直哉から賞賛の手紙を受け取る。 |
(15歳) 5月、山口中学の上級生宇佐川紅萩、
防長新聞の若手記者吉田緒佐夢と共著で
私家版の歌集『末黒野』を刊行。 |
1923年
大正12年 |
(21歳) 9月1日 神田須田町で、
関東大震災に遭遇。
9月6日 船と徒歩で鎌倉に、
療養中の母に会いに行く 。 |
(16歳) ダダイズムを知
る。3月、落第。
4月、京都の立命館中学第3学年に編入学。
12月、表現座に所属していた、
3歳年上の女優長谷川泰子を知る。 |
1924年
大正13年 |
(22歳) 2月? 母と妹の三人で、
豊多摩郡杉並村馬橋226番地に転居。
2月27日 荻窪の波多野完治宅で、
永井龍男と初めて会う。
4月8日 京都山科の伯父清水精一郎の招きで
妹と上洛、従兄の西村孝次に会う。
4月? 京都山科の志賀直哉の家に行く。
4月? 奈良に行く(従兄と妹と)。
春? 神田の本屋で、
ランボオの「地獄の季節」に初めて出会う?
6月10日 「一ツの脳髄」を書き上げる。
7月 「青銅時代」に「一ツの脳髄」を発表。
8月11日 「飴」を書き上げる。
8月26日 京都の第三高等学校で、
一高対三高の野球試合を観戦。
8月27日? 京都山科の志賀直哉を訪ねる。
9月 京都の富永太郎に、
『地獄の季節』の「別れ」の一節を送る。
9月14日 「断片十二」を書き上げる。
12月 石丸重治らの「山繭」に参加。
*この年、堀辰雄に伴われて、
田端の芥川龍之介を訪ねる(?要調査)。
*この年、青山二郎と知り合う。 |
(17歳) 4月、長谷川泰子と同棲。
大岡昇平『朝の歌
中原中也傳』('66年)より
冨倉徳次郎氏は中原が二度目か三度目に
来た時、女を連れて来たこと、
また「あれはおれの柿の葉十三枚だ」といった
のを記憶してをられる。
これが長谷川泰子、小林佐規子、中垣泰子
等の名で、中原が死ぬまで中原の身辺にあり
彼の生涯と作品に重大な影響を及ぼした
女性であるが、今は当時彼女が中原より
三つ年上の十九歳、マキノ・プロダクションの
大部屋の女優であったことだけ記しておく。
広島の家出娘で、蒲田撮影所にゐたが、
十二年の震災で、京都へ都落して来てゐた。
河原町の喫茶店で、中原が詩を朗読するのを
賞めたら、
「おれの詩をわかるのは、君だけだ」
と喜んださうである。彼女の貸間へ来て、
「殆ど強姦されちやったやうなものだよ」と
彼女はいつている。
中原の生涯で成功した恋愛は、
私の知る限りこれ一件である。 |
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1925年 |
東大仏文科卒。 |
(18歳) 3月、泰子と共に上京。
小林秀雄と知り合う。 |
1926年 |
佐々木幹郎『中原中也』(1988年)よ
り
小林秀雄のもとに泰子が去ったことは、
中也には「女という物語」からの敗北だったが、
そこに物語から分化した歌が成立した。
置き去りにされて「無」になった男(=子供)が、
なすすべも知らずに子守歌を歌いだしたのだ。
自分は壊れた人間だと
中也は考えていた。
他人によっては自分は救済されない。
しかし他者との相互性の中で自己実現したい
という欲求も強い。
この宙づりの喪失感の中で歌い出された
中也の詩は子守歌になった。 |
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(19歳) 4月、日本大学予科文科に入学。
5月〜8月「朝の歌」を書く。
小林秀雄のもとへ恋人が走り去ってしまい、
彼は、大きな失意と喪失感にうちのめされる。
その中で生まれた詩が、「朝の歌」である。
9月、家族に無断で日本大学を退学。
11月、フランス語を学ぶため、
アテネ・フランセに通う。 |
1928年 |
『Xへの手紙』で知られる長谷川泰子との
深刻な恋愛事件に疲れ果てて、
関西に逃げ出す。 |
(21歳) 5月、音楽団体スルヤ発表演奏会で
「朝の歌」「臨終」が歌われ、
歌詞として機関誌「スルヤ」に掲載される。
父謙助病没。 |
1929年 |
雑誌『改造』の懸賞文藝に
『様々なる意匠』が
入選。
以来、評論家として活躍。
「批評とは、意(つい)に
己の夢を懐疑的に語る事で
はないか!」 |
1929年(22歳) 4月、同人誌『白痴群』創刊。 |
1930年
昭和5年 |
(28歳)4月 『文藝春秋』で「アシルと亀の子」、
以後文芸時評の連載開始。
10月 ランボオ『地獄の季節(翻訳)』(白水社)。 |
(23歳) 4月、『白痴群』が6号で廃刊となり、
主要発表誌を失う。
12月、長谷川泰子の息子の名付け親となる。 |
1931年 |
(29歳)1月 「マルクスの悟達」を『文藝春秋』。
7月 最初の評論集『文藝評論』(白水社)。
ボードレール『悪の華』の一部翻訳を『作品』。
「プロレタリアの星」を
『東京日日新聞』に発表。 |
(24歳) 4月、東京外国語学校専修科仏語部に
入学。
9月、弟、恰三、病で没。
のちに小説「亡弟」を書いている。 |
1932年
昭和7年 |
(30歳) 1月 「正宗白鳥」を『時事新報』。
2月 「梶井基次郎と嘉村磯多」を『中央公論』。
4月 ヴァレリイ『テスト氏・』(翻訳、江川書房)。
新設された明治大学文芸科の講師になる。
9月 「Xへの手紙」を『中央公論』に発表。 |
(25歳) 5月、詩集『山羊の歌』の編集に着手。
6月、『山羊の歌』の予約募集をするが、
10名程度の申し込みしかなかった。
9月、母からもらった300円で『山羊の歌』の
印刷にかかるが、資金不足で刊行に至らず。 |
1933年
昭和8年 |
(31歳)2月 ランボオ「渇の喜劇」を『本』に、
「作家志願者への助言」を『大阪朝日新聞』。
10月 「私小説について」「二科展を見る」
12月 「『未成年』の独創性について」を『文芸』、
「批評家の悪癖」「批評家無用論」
「『春琴抄』その他」を『大阪朝日新聞』に。 |
(26歳) 3月、東京外国語学校専修科終了。
5月、同人誌「紀元」に加わる。
6月、同人誌「半仙戯」に作品を発表する。
12月、遠縁の上野孝子と結婚。
訳詩集『ランボオ詩集(学校時代の詩)』を
(三笠書房)刊行。 |
1934年
昭和9年 |
(32歳)5月6日長野県の森
喜代美と結婚。
8月 「断想(上田進氏訳...)」を『文藝春秋』に、
「中原中也の「骨」」を
『文学界』に発表。
『文学界』で、「政治と文学に関する座談会」 。 |
(27歳) 9月、ランボオ全集の企画の一環として
ランボオの詩の翻訳を始める。
10月、長男文也が誕生。
12月、生前唯一の詩集『山羊の歌』(文圃堂)。 |
1935年 |
(33歳)1月 「ドストエフスキイの生活」(1)、
「谷崎潤一郎『文章読本』」、
「中原中也の『山羊の歌』」、を『文学界』に、
「文芸時評に就いて」を『行動』に。
『文学界』の編集責任者となる。 |
(28歳) 1月、小林秀雄が『文学界』の
編集責任者となり、
中也は自由な発表の場を得る。
5月、『歴程』の同人となる。
12月、『四季』の同人となることを承諾。 |
1936年 |
(34歳)2月 「ドストエフ
スキイの生活」で
第一回文学界賞受賞。
「岸田国士の『風俗時評』其他」を『讀賣新聞』。
(→文藝懇話会をめぐって中野重治と論争)
柳田国男の諸作を広く世に知らしむ。
|
(29歳)6月、訳詩『ランボオ詩抄』(山本書店)。
9月、NHKの入社面接を受けるが、就職せず。
11月10日、文也、病で、没。
12月15日、次男愛雅が誕生。
12月神経衰弱が昴じる。 |
1937年
昭和12年 |
(35歳)3月6日 長女明子(はるこ)生まれる。
4月 「『日本的なもの』の問題」を
『東京朝日新聞』。
野田書房から『ランボオ論』限定49部刊行。
5月 「小熊秀雄君
へ」「窪川鶴次郎君へ」
「グウルモン『哲学的散歩』」「後記」を『文学界』。
6月 野田書房からランボオ『渇の喜劇』
(翻訳・限定版)。
11月 「戦争について」を『改造』に、
「中原中也『ランボオ詩集』」を
『文学界』。
12月 「死んだ中原」「中原の遺稿」
「佐藤信衞『近代科学』」を『文学界』に、
「中原中也」を『手帖』
(野田書房)第十六号に、
「不安定な文壇人の知識」を『讀賣新聞』。
「宣伝について」(発表誌未詳) |
(30歳) 1月9日、千葉市の中村古峡療養所
(現・中村古峡記念病院)に入院。
中村古峡は一高から東大英
文科に学んだ、
夏目漱石門下の一人。
漱石没後の1917年、文学を放棄して
自ら日本精神医学会を組織し、
月刊の機関紙『変態心理』を創刊した。
2月15日退院。
鎌倉扇ヶ谷に転居。夏、帰郷を決意する。
9月、訳詩集『ランボオ詩集』(野田書房)刊行。
詩集『在りし日の歌』を編集、
清書して小林秀雄に託す。
10月、結核性脳膜炎を発病、入院。
10月22日、鎌倉で永眠。 |
1938年
昭和13年 |
(36歳)3月
「文藝春秋」特派員として中国へ。
6月 明治大学教授に昇格 、
「蘇州」を『文藝春秋』に発表
(→内務省により一部削除を命じられる)、
「雑記(支那から...)」を『文学界』に発表。
8月 ランボオ『地獄の季節』を岩波文庫で刊行。
「ボードレール『悪の華』 」を『知性』。
10月〜12月 岡田春吉と朝鮮などを旅行。 |
1月、次男の愛雅、病で、没。
4月、小林秀雄によって、
第二詩集『在りし日の歌』(創
元社)刊行。
生前、郷里に引き揚げようとしてまとめていた。
中也の名声は、死後いよいよ高まり、各社から
出版された詩集や全集は数十冊以上。
また、多くの詩選に収められ、海外にも紹介。 |
1983年 |
没。 |