イタリーの片田舎に 一人の左官屋が住んでゐた 壁の塗り方も丁寧だし 手間賃も安く勉強し 仕事も実直で働き者だった、 小さな村中の評判になった、 あの男に壁を塗ってもらつたことが なにか自慢なやうな気になった、 みんながチヤホヤするもので 左官屋はすつかりウヌボレて 左官屋をやめて軍人になつた、 (中略) 隣り近所の国と喧嘩を始め アフリカの黒ン坊とまで戦争をいどみ 理屈につまると 剣をふりまわし さりとて切り合ふ度胸もないので、 左官のコテで他国も自分の国も 自由も意志も みんな塗りこめてしまつた。 彼はコテで他人を壁に塗り 圧倒したと考へてゐたが、 自分の体をだんだんと 土で塗りこめてゐるのを知らなかった。 |
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▲小熊秀雄(詩人・文学者 1901.9.9-1940.11.20) 小樽生まれ、旭川育ちの流浪の文学者。 1931年(昭和6年)プロレタリア作家同盟員となる。 しかし、彼の才能が開花するのは1934年に 作家同盟が解散してからの文学界の右傾化の時期。 それまで勇ましくもかっこつけていた 「左翼」詩人が沈黙しはじめた時に、 彼は大胆に自由と反逆と人民的精神の活気とを歌った。 長編叙事詩や風刺的な詩にも独自の展開をみせた。 日中戦争下の追い詰められた抵抗を歌った 『流民詩集』(1940)は第2次世界大戦下の日本詩の 芸術的に最もすぐれた作品であるが、 検閲のために刊行できず、 敗戦後、彼の死後になって中野重治の手で初めて世に出た。 (以上、小田切秀雄の評論を参考にした。) |
文学者★『小熊秀雄』 Text by. 久保元宏 (2001年9月16日) |
田口ランディの小説の表紙の女性のヌードは、まちがったセンスだと・思うが。 最近の小説家が、表紙に自分の顔写真を使うことに不快を示す人も・多い。 柳美里のナルシズムに不潔な印象を持つ・私では・ある・が。 しかし、大江健三郎の初期から、作者の顔写真を表紙に使う歴史は意外と古い。 だから・これは、単に「印刷技術」の問題なのかもしれない。 技術さえ可能であれば、芥川龍之介なんかは、全国講演行脚をした「スター作家」であったワケだし、表紙に顔写真を使った可能性は・高い。 太宰治なんかは、自分から使いたがった・かもね。 じゃあ、柳美里の文壇(?)仲間らしい、町田康の場合はどうか? 町田の芥川賞受賞・第一作の『実録・外道の条件』の表紙は、荒木”アラーキー”経惟による、 作者のド・アップ! これは、出版社がメディア・ファクトリーという冬樹社→太田出版と続く確信犯-出版社の系譜だから・か? だが。 実は町田康は、かつては町田町蔵。パンク歌手。 ミュージシャンが作品の表紙(=ジャケット)に顔写真を使うのは、アタリマエ。 「芸能」と「芸術」の違いは、顔のエロスに関係ある? で、 (いつものよーに)前置きが長くなった・が、小熊秀雄であ〜る。 小林秀雄の誤字、と思うヒトも多い、今日この頃。 彼は1901年生まれ、1940年死亡。 レノン、コルトレーンのように40歳死亡組。 (ちなみに、私は来年、40歳。) 北海道小樽生まれ。 中学校を出てから、カラフトなど、北海道各地で肉体労働。 その間、パルプ工場で、右手の中指を2本失う。 で、21歳に旭川の新聞社に入社。 それから、詩、童話、評論、絵、マンガ原作など、第1次世界大戦後のマルチな雰囲気で活躍。 私が1990年に、北海道沼田町に住みだした頃から、 近くの旭川市がらみで、小熊秀雄の名前を聞くようになる。 でも、地方の2流作家程度の印象だった。 が、 ある日、小熊の顔写真を見た。 パーマをかけたような左右に広がる長髪。長い顔。美形かも。 当時、丸坊主の男がアタリマエの時代、写真、特に集合写真では、かなり・目立つ。 別にミーハーじゃあないが、この写真を観てから興味が沸いた。 ダダの洗礼を受け、マルチに活躍。しかも、日本の辺境で。 今日、札幌の北海道立文学館で、小熊・生誕100年の展示を観た。 ちょっと、付き合いたくなる作家だ。 少し、考えた。 「みかけ」? あー。髪型も、表現のうちのヒトツだ。 地方で、表現の欲望を捨てられない者は、全てに意識的になるんだろう。 恋、 ってやつも、そーいった者にとっては、無意識のうちに「表現」になっているのだ。 |