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『共犯新聞』
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エメ・セゼール
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優しい植民地の時代の
詩
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肌の色は、共犯のプラカード。
詩
金子光晴
(1895年12月25日〜1975年6月30日) (更新;2008年4月21日)
中原中也
(1907年4月29日〜1937年10月22日) (更新;2007年5月1日)
寺山修司
(1935年12月10日〜1983年5月4日) (更新;2008年4月21日)
もはや我々の目の前に、
植民地
は無い。
しかし、
植民地
は、そっと、やさしく、静かに、
広く、深く、多層的に、そして、より巧みに、
我々の内部に根付いてしまっている。
text by
久保AB-ST元宏 (2008年4月21日 2:43Am)
★
訃報
エメ・セゼール
(Aime Cesaire、1913年6月26日〜2008年4月17日、享年94歳。フランスの詩人、政治家。)
▲
セゼールは、フォール・ド・フランス市長を引退後も、
マルティニーク島に多大な影響力を保った。
島を訪れる重要人物には政治色に拘わらず、
全員と面会するのが習慣であった。
しかし、2006年にはニコラ・
サルコジ内相(当時)の面会要請を拒絶
した。
このため、サルコジはマルティニーク島訪問中止を余儀なくされた。
面会拒絶の理由は、政権与党である国民運動連合(UMP)が
植民地主義を肯定する内容の教育カリキュラムを促進していることと、
サルコジ自身がフランス暴動において若者を「社会のくず」呼ばわりしたことにある。
2007年、フランス大統領選挙では
社会党のセゴレーヌ・
ロワイヤル候補と面会
している。
フランスの植民地であったカリブ海小アンティル諸島の
マルティニーク
島(現在、フランスの海外県)出身。
1931年、フランス本土へ渡航、パリのリセ・ルイ=ル=グランへ入学。
1934年、
サンゴール
らと共に学生新聞『黒人学生』を創刊。
ここで
ネグリチュード
(=黒人性)という言葉を初めて使った。
セゼールの一生は、ネグリチュード運動の展開にささげられた。
レオポール・セダール・サンゴール
(1906年10月9日〜2001年12月20日)は、
セネガル共和国初代大統領
(1960年9月6日〜1980年12月31日)を務めた
政治家で詩人。
1939年、マルティニークへ帰郷。
母校シェルシェール高等中学校の文学教師になる。
教え子に、
フランツ・ファノン
がいた。
フランツ・ファノン
(1925年7月20日〜1961年12月6日) は、
植民地主義を批判し、アルジェリア独立運動を指導。
1941年、セゼールは妻らと文芸雑誌『熱帯』 tropiquesを創刊。
同年、
ナチス・ドイツ
によるパリ陥落で、マルセイユから海路ニューヨークへ
亡命
途上の
アンドレ・ブルトン
と偶然、出会う。
アンドレ・ブルトン
(1896年2月18日〜1966年9月28日)は、
フランスの詩人、文学者、シュルレアリスト。
1924年、「シュルレアリスム宣言」の起草によって、
シュルレアリスムを創始した。
ブルトンはセゼールの『帰郷ノート』を絶賛し、
次の詩集『奇跡の武器』の序文を書いた。
黒人詩人セゼールと、文芸雑誌『熱帯』はニューヨークなどで評判となった。
終戦を迎えた1945年、セゼールは、マルティニーク島の首府である
フォール・ド・フランス市長に当選
。
なんと、2001年に引退するまで、56年間も同職。
それも、どーかと思うが(笑)、セゼールの現地でのカリスマ性が分かる。
カリブ海のフランス県、
マルティニーク
島は、
エメ・セゼール、フランツ・ファノンを
産み、育てた島であるだけではない。
ラフカディオ・
ハーン
(小泉八雲)は
1887年より2年間、マルティークに滞在し、
『真夏の熱帯行』、『荷運び女』などの作品を残した。
画家ポール・
ゴーギャン
は、
マルティニークを題材に
『熱帯の植物』などの作品を残した。
また、1796年に年下の
ナポレオン(1769年8月15日-1821年5月5日)の
妻となった、
バツイチの
ジョセフィーヌ
・ド・ボアルネ
(1763年6月23日〜1814年5月29日)も、
マルティニークの生まれ。
さて、
私にとって
エメ・セゼール
について書かれた文章で最も印象深いのは、昨年、古本屋で200円で買った、
今福龍太 『クレオール主義』
(1991年オリジナル、増補2001.9.3初版、青土社、定価\2520→古本\200)、である。
▲
同書の213〜214ページ。ピンクのライン・マーカーは、久保による書き込み。