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知性の殺され方。Wow! ★グルメ・ジャンキー♪
田中千博の世界

The World of
Mr.Kazuhiro Tanaka

2007年1月31日 水曜日 午前0時52分←■東京から届いたダンボール箱、5つ。なか&なか、開ける時間が無い。
訃報
さよなら、田中千博さん。
Goodby, Mr.Kazuhiro Tanaka.
病室で朝から普段着って、ちょっとスゴイ。
2005年11月20日(日)午 前9時 久保が最後に会った姿。
末期癌の病棟で、パジャマも着ずダンディを保つ田中さん。

差出人 : ★クリックすると、♪言葉のインタラクティヴ!雑誌 『しゃりばり』 編集長 大沼 芳徳
送信日時 : 2006年10月23日 9:37Am
宛先 : うぇ〜ん!久保AB-ST元宏

久保  様

大活躍のご様子何よりです。

一昨日、田中千博さんの奥様から
お手紙をいただきました。

今年のサクラが見れた、とのメールを
いただいていたことや、原稿の準備を
していた話とそれの出版についての
ご相談もいただいておりました。

残念としか言いようがありませんが
一番弟子の久保さんは、最近ではどのような状況
把握をされていたのでしょうか?

1年間続いた、札幌での田中さんの月に1回の
勉強会を主宰されていたグランドホテルサービスの
縄田(前)社長からも聞かれていますが
隙間のようなお時間がありましたら、少しご教示賜れば
幸いです。

札幌・大沼   拝

田中千博の世界久保の食文化の師匠。

★北の大地からの、贈り物! うかつ、だった。
今年の秋を迎えた時、去年いただいた田中さんからの電話を想い出していた。
「久保さん、アジウリ、手に入りますか?ふふふ。なんだか、懐かしい 味を食べてみたくなりましてね。」
その電話を受けた時はもう秋であり、アジウリは夏の果物なので、いろいろ探したがもう手に入らなかった。
「田中さん、すみません。色々と農家を当ってみましたが、もう無いよ うでした。また、来年、送りますよ。」
「ふふふ。そうですか。」
田中さんの声は、なんだかあっさりしていて、残念そうではないので私は少し拍子抜けしてしまった。
アジウリなど農家にとっては売れる作物ではないので、作っている農家すら少なく、私はかなり探したのだ。
それなのに、あまり残念そうではないとは、田中さんの気まぐれか?とまで私は思ってしまった。
今から思えば、去年の田中さんからの電話には二つの意味があったのだろう。

1.「来年」は、もう無いかもしれない。
2.久保の声を聞いておきたい。

そして、あの時の、残念そうではない声は、上記の「2」が主な目的であったことを証明している。
そんなことに、今頃、気が付くとは、やはり、私は、うかつだ。

そして今朝、雑誌『しゃりばり』編集長の大沼さんから上記のメールが届いた。
大沼さんは私を田中さんの「一番弟子」とまで書いてくれていて、当然、田中さんの死の前後のことは一番詳しいように尋ねてこられた。
しかし、うかつな私は、その大沼さんのメールで田中さんの死を知ったのだ。

あわてて、すぐに田中さんの自宅に電話をした。
電話は話し中だ。数回かけても、話し中だ。きっと私のような電話が全国から、東京の田中さんの自宅の電話に殺到しているのだろう。

何度目かの電話が、つながった。
「田中です。」
「私、北海道の久保です。奥さんですか?ご主人・・・。」
「ああ、久保さん。」
「私、知らなくて、今、雑誌『しゃりばり』の大沼さんからメールが届いて、びっく りして、もう・・・。」
「・・・そうなんです。」
「大沼さんには亡くなられたお知らせの手紙が届いたとか。」
「あら、久保さんにはまだ届いていないの?」
「え?私にも手紙を出されたのですか?」
「もちろんですよ。21日の土曜日には一斉に、みなさんに出しましたから。」
「ああ、私の住んでいる町は日本の果てのド田舎ですから、今日当たりに届きます ね。・・・ところで、いつ、お亡くなりになったのですか?」
「10月12日、木曜日の朝6時30分でした。」
ああ、私が長谷川洋行さんから提案された『スロバキア国立オペラ公演』を沼田でやるか、やらないか悩んでいたピークのころだ。
初七日も、とっくに終わり、10日間が過ぎていた。うかつ過ぎる。
「ずっと入院されていたのですか?」
「癌研の有明病院へ5月の下旬から、43日間。」
電話で奥さん(=もう、未亡人、か。)と話しながら、コンピュータのメール・サーバーから田中さんのメールを引き出す。
差出人 : 田中千博
送信日時 : 2006年5月23日 8:54Pm
宛先 : うぇ〜ん!久保AB-ST元宏
件名 : Re: 6月15日、東京で。

久保元宏様
 明日から癌研の有明病院へ入院します。
今度の個室は携帯電話が使えるというので、いちど試してみます。しばらく免疫性の低下やら貧血などで、外へは出られないでしょう。
病院名は他言無用にして下さい。田中千博

ああ、入院されたのは5月24日、か。そして、このメールが田中さんからの最後の私へのメールとなった。
筆マメであられた田中さんは連日、長文のメールを私に送ってくれた。話題は食文化が中心だったが、文学や映画など多彩だった。
今ではメール・サーバーに残った田中さんの私だけへの数々の文章は貴重な宝物となってしまった。

「私が去年、東京の病院にお見舞いにうかがった時は田中さんはすごく元気そうに見 えたんですが・・・。残念です。」
差出人 : 田中千博
送信日時 : 2005年12月6日 6:8Pm
宛先 : うぇ〜ん!久保AB-ST元宏
件名 : Re: 退院、おめでとうございます。

>From: うぇ〜ん!久保AB-ST元宏
>To: 田中千博
>Sent: Tuesday, December 06, 2005 2:18Pm
>Subject: 退院、おめでとうございます。
>
>田中千博 様
>北海道の久保です。
>
>>酸っぱいのが好きなので、 すこし涼しいところに置いて、乳酸発酵を待って戴きます。

>↑
>■退院とは、とても嬉しい驚きで す。もう、全快と判断してもよろしいのでしょうか?

>■ニシン漬けは、まだ漬かりが浅い ので一日おいてからとも思いましたが、
>まさかもう田中さんが病院にはいな いとは、やはり驚きました。
>自宅であれば、「ぬかニシン」な ど、もっと入れたいものも多くありましたが。
>■しかし、それも「次がある」とい う幸せの持続と解釈させていただきます。
>■結果的に私は、「お見舞い」にギ リギリに間に合ったのですね(笑)。
>■これからも無理をせず、ご自愛く ださい。
★北からの、贈り物!

久保 元宏 様
 見た目が変わらないので驚かれたでしょう。寝たきりではないので、朝晩、着替えをして過ごして来ました。
退院といっても一時的な治癒で、癌細胞が消えてしまったのとは違います。内視鏡で見ると「有ったはずの患部」が消えたのは事実です。
大学病院の医者は「治療効果があった」と喜んでいますが、全快したとは言っておりません。
 それどころか余命期間も分からないと言います。今回の成果は3通りの療法(西医、漢方、気功)の、相乗効果と思っています。
こんど再発したら、放射線は目いっぱいかけてしまった(50グレイ)ので、もう使えないと言ってますし、化学療法と称する、24時間の点滴しか療法は残っ ていません。
 まぁ冬の1日だけの小春日和というところでしょう。時限爆弾の爆発が直ぐかどうかくらい、分からないのかと不満たらたらです。
書くための材料を山ほど仕入れたのに、アウトプットしないのも残念です。やる気はあっても長くパソコンに向かっていられません。どこまで出来るか気力の戦 いです。
 まだ行ってないバルト3国やウクライナは、調べた限りでは東欧なみの水準かと想像してますが、やはり行ってみたいですね。
家内が「ベニスに行ったことがない」と言うので、北イタリアと スロベニアを結んで連れて行かなければと、脚力のリハビリに努めるつもりです。
 「おめでとう」は海外旅行が復活したら、それに相応しい回復になるでしょう。 田中千博

奥さんからの田中さんの病歴の詳しい説明が続く。
「7月6日には一度、退院したのよ。通院で過ごしたのですが、体力がどんどん落ち て、7月24日に再入院。
この間に、2回、危ない時期がありました。そして、81日後に・・・。」
「お亡くなりになられた時の病名は?」
「元々、食道癌の転移だったのです。亡くなった時には食道癌は消えていて、皮膚癌 が左側の全身に目で分るようになっていました。」
「目で分る・・・とは、オデキみたいなものなのですか?」
「ええ。最初は赤い発疹が出て、それがじょじょにオデキになって。最後には左の肺 の壁にまで転移していました。
皮膚癌は左の上腕からはじまって、体中のリンパにそって、どんどん広がっていった んです。体力が回復したからこそ、癌の進行も早まったようです。
お医者さんは、”皮膚癌は患者さんが自分の目で症状が分るので、癌の中でももっと も辛いんです。”と言ってました。」
「そうですか・・・。田中さん、70歳ですよね。」
「はい。9月5日が誕生日で、看護婦さんたちが病室でハッピー・バースディを歌っ てくれて、本人も喜んでいましたわ。古希ができてよかった。」
「お痩せにはならなかったのですか?」
「かなり痩せました。体重は量ってはいないのですが、最後には50kgほどでしょ うか。出ていたお腹もひっこんでいましたよ。」
「食事は、どうだったんですか?」
「牛乳が禁じられていましたので、好きなチーズ類が制限されていました。亡くなる 直前はカステラを食べていました。」
「そうですか。これからも住所や電話番号は変わらないんですよね?」
「あはは。そのツモリです。」
「私、もう10数年前に一度だけ、お宅に行ったことがあるんです。残念ながら留守 でしたが。」
「ああ、そうですか。あ、そうそう、久保さん、主人の蔵書、もらってください ね。」
「ええ?もう今までに、貴重な本をたくさんいただいていますし。あとは奥さんの大 切な思い出の品にされてはいかがですか?」
「いえいえ、すごーく、まだまだ、たくさん本があるんですよ。落ち着いたら送りま すから。」
「は、はぁ。ありがとうございます。」
「主人が生前、書斎の書棚の背表紙を私にデジカメで撮らせて拡大して、それを病室 のベッドでいちいち、チェックして、
”これは久保クン、これは誰々・・・”と、全部の本をあげる人ごとに分けて名前を 書き込んでいるのよ。もらってくださいね。」
「分りました。ありがとうございます。あ、そうそう、本と言えば、田中さんが生前 に出版したがっていた本はどうなったのですか?」
「おかげさまで、高文堂から出版されることになりました。11月24日に東京で出 版記念会がありますので、久保さんも来てくださいね。」
また私は電話で話しながら、コンピュータで「高文堂」のホームページを検索で探し出す。
おお!あった、あった。
★高文堂高文堂
     《2006年11月10日発行予定》
 パラパラ・・・『 食 の 鳥 獣 戯 画 』
  -江戸の意外な食材と料理-

 田中千博 著 (フードシステム研究所所長)
 A5判・上製カバー 168p 定価2,500円(税込)
 4-7707-0762-2

服部幸應先生 推薦
 (医学博士、学校法人服部学園理事長、服部栄養専門学校校長)
 「江戸260年、食肉文化の核心に鋭く迫ったわくわくする興味深い内容と構成。
 これからの食肉文化を探ろうとする者への道先案内人の役目を果たす書。」
★高文堂からの、贈り物!

「そうですか。田中さんは最後の著作を見ることができなかったのですね。でも、出 版されることが決まって、本当によかった。」
私は田中さんと何度もメールで、その著作の意見交換をしたことを思い出した。
差出人 : 田中千博
送信日時 : 2006年3月13日 8:35Pm
宛先 : 久保AB-ST元宏
件名 : 垂涎の香味
添付ファイル : 食べる鳥獣戯画 目次のみ.doc (0.03 MB)

久保元宏様
 いま3つの療法を続けているなかで、その1つを担当する医師から「牛肉と乳製品」を禁じられています。
その代わりというのもおかしいですが、酒は「百薬の長」程度なら飲んで良いと言われました。いま牛乳のチーズに代えて、羊や山羊のチーズを食べています。
やはりワインを飲みたいと思い、ぶどう果汁にワインを少々加えて試してみました。40年ぶりに禁酒した後なので動悸がしました。
 ニュージー産なら手に入りますが、蝦夷鹿とは遠慮できない誘惑ですね。なにしろ「欧州の最上の鹿にも負けない美味さ」と褒めてきたのですから。
戴けるなら「ステーキで一回、つまりブロック状」。「スキヤキで1回、つまり部位や大きさを問いません」と、2回ほど食べることが出来たら大満足です。
昨年は小樽から所望した山葡萄やコクワが、浜松から真桑瓜が届いて大満足でした。
 食べるのも話すのも一期一会ですから、毎度、食事を真剣に食べています。
おやつは滅多に食べませんが、それでも今まで食べなかった甘い物も、ともかく味わうことにしています。酒がない分だけ甘味に傾いたのかもしれません。

 なにかジビエについて言ったでしょうか。もう覚えていませんが、いまようやく添付の原稿(目次のみ)を、仕上げたところです。
長いので目次だけ送ります。興味があれば「添付」でも送れますし、CDを差上げても結構です。
この元原稿を何人かの編集者に見せましたが、だれも「出版しようか」と言ってくれません。
 もはや出版界も世代交代で、私の知る編集長はリタイアしていませんし、知っている若い世代は「売れる商品でなければ」と、当然の判断しかしません。
私も「売ることよりも残すこと」を目的に書いたのですが、出版ルートに乗らないと、読んでくれる人数が違うのが残念です。
 いま流行りの共同出版という方法があって、見積もり計算をさせてみたところ200万円でした。今まで原稿料を貰うだけで自費出版は考えてませんでした。
一般書なら売れるようですが、これの特長はデータを時系列に記した点です。
 類書のような「おいしいところ」だけ、たとえば化政期だけとか、天保だけの「つまみ食い」したようなものを、江戸の研究書として出したくありません。
まあ「売れないけど残すことが出来た」ことになれば良いのですが。
 では宜敷。田中千博

「ええ。出版記念会には主人も車椅子で出席するつもりでした。9月までは、この日 のために、歩く練習をしていたんですよ。」
去年、お見舞いに行った私を病院の外まで見送ってくれて、「本当は一緒に食事をしたかったのだが。」と田中さんが残念そうに言ったのを思い出した。
その田中さんが「歩く練習」をしなければならないほど、数ヶ月で一気に弱ってしまったことに私は改めて驚いてしまった。
「私は毎日、病院に行ってたのですが、10月10日だけは、出版の打ち合わせで出 版社に行かなければならなかったので病院には行けなかったんです。」
「ああ、奥さんが出版の打ち合わせをされていたんですか!」
「それで前日に病院に行けなかったので、翌日の11日に私は病院に泊まったんで す。」
「あっ!その日は・・・。」
「そして、翌朝、早い時間。主人はいつも痰がつまったりして、のどがゴロゴロ、 ゼーゼー言うのですが、急に言わなくなったんです。」
「・・・。」
「体は温かいけれど、静かでした。看護婦さんがいらして、脈が止まっていると教え てくれました。」
「そうですか。」
「お医者さんは、田中さんガンバリましたね、と言ってくれました。何度もモルヒネ を打って痛みにこらえていましたし。」
「奥さん、長谷川洋行さんという方、ご存知ですか?」
「え?知りませんが。」
「田中さんと同じ小樽の方で、同じ70歳なんです。今、スロバキア国立オペラを日 本に紹介する仕事をされています。
田中さん、小樽の詩人の方とかとズッと交流されていましたから、直接の交流は無く ても間接的にどこかでつながっているかもしれませんね。」
私が、このクソ忙しいのに(笑)、長谷川さんからの「オペラ公演」の企画が断れなかったのは、長谷川さんの熱意のどこかに田中さんの影を見ていたからかも しれない。
と、今さらながらに気が付いた。またしても私は、うかつ、だった。
「詩人の方は、萩原さんですね。彼からも何度も手紙が着ましたよ。
そうそう、久保さんからのメールも後半は返事ができませんでしたが、私がプリント して田中は読んでいましたよ。」

田中さんの奥さんとの電話の間中、何人かのお客さんが私を待っていた。
その中の一人が、北空知新聞の記者の方だ。
先週末に私がお願いしていた『スロバキア国立オペラ』沼田公演の後援について、いくつか確認に きていた。
その打ち合わせ中、NHKから電話が入り、「是非、オペラの後援をさせてください。」という嬉 しい内容。
北空知新聞の方に、「すみませんね、長い間、待たせちゃって。さっきまで、田中千博さんと話を していたんですよ。ご存知ですか、その方?」と聞いても、知らないよなー。
きっと、世界中の、ほとんどの人が「田中千博」を知らずに、何喰わぬ顔で生活しているのだろ う。
彼が帰ってから、数分後、郵便配達が2通の手紙を届けてくれた。

1通は、田中さんの奥さんからの、田中千博さん死亡の案内。
もう1通は、「服部栄養料理専門学校」校長の服部幸應さんからの、11月24日の東京での『田中千博氏をしのぶ会』への招待状と手紙。
★いつか。
それぞれの手紙には、まさに田中さんらしい、いくつかの印象的な言葉があった。その二つだけを 紹介しよう。

それまでは、生活習慣病の兆候何一つなく、またそういう原因で病気になるのは”食のプロ”として恥ずかしいと思っ ておりました。

尚、田中氏は東京医科歯科大に献体されますので葬儀等はなされません、ご了承下さい。

田中さんは、いなくなった。
しかし、田中さんが書かれた芳醇な著作は、今も元気に生きている。
田中さんの文章がいつでも読める喜びに、今夜は献杯。

text by. 久保AB-ST元宏 (2006年10月23日)



蝦 夷鹿しか・・・・・・・・・死?喰う!

田中千博さんも、食べたんだよな。
久保AB-ST元宏2006年1月3日、蝦夷鹿ハンター自らが燻製にした蝦夷鹿肉。
これを、沼田町のブドウ・ジュース(がくっ)と一緒に食べると、うめぇええっ!
んで、あまりに美味しいので、狩猟後すぐに冷凍した大き目の蝦夷鹿肉をいただいて、
東京の食文化研究家、田中千博さんに送ってみた!
彼は特に、肉とイタリア・ワインに関して、業界の第一人者であるので、どのように食べたのか興 味津々♪

蝦夷鹿肉、到着!Oh! ★田中さん家の食卓♪
差出人 : 田中 千博
送信日時 : 2006年5月6日 1:26Pm
宛先 : 久保AB-ST元宏
件名 : 鹿 肉賞味しました

久保元宏様 
昨日、家内の甥(23歳、105㌔)が来たので、ようやく賞味できる機会ができました。
と言っても意外に小食なので、一塊を料理しました。事前に丁寧に掃除(筋取り)しないとなりま せんね。
今回はマリネしないで(乳製品禁止なので)オリーブ・オイルで焼き、塩・胡椒して焼き上げた肉 のうえに、スペイン(GIRONA)産の<フォワ・グラ>の輪切りをのせ
付け合わせは「栗のピュレ、焼いたふじ(りんご)、カラントのジュレ」です。(フォワ・グラ 259㌘の缶入りは、全て食べて、完売。)
 赤ワインは安くて美味しいイタリアのDOCG、と言えば判るでしょう。
大量の野菜も別に焼きました。本来ならアルザス風の卵麺を添えるべきところ、作っている時間が なくて省略。
結局、(朝・昼食抜きの)甥が頑張って食べてくれました。

一見、ステーキ風の料理の写真を撮りました。
食卓には前菜と冷製の「焼きリンゴ・ふじ」は出ていません。冷しているので写真にはありませ ん。
ワイングラスの背後にピュレとジュレの鉢があります。よほどの大皿でなければ乗りませんし、こ んな小さい皿では持っても様になりません。
家内が血の滴るのを嫌うので、自分用のタレを作らせ(左の緑の平鉢)、焼肉サイズに用意させま した(ロースター手前)。
 中央の皿が私用で成形後の形のわるいステーキです。左の缶詰フォワグラを切って1片のせました。全面を覆うと肉 が見えなくなります。
黄色の付け合わせが栗のピュレ(季節はずれの生は打ってないので、瓶詰めの甘煮を裏漉しにしたもの)、
赤黒いのは黒スグリのジュレ(これも生は手に入らないので、粒の入った酸味のある是李で代用)。
右手の甥が肉にフォワグラを塗っているので、「遠慮しないで厚切りを乗せなさい」と指導的助言 をすると、塩・胡椒だけのステーキを前に、
「付け合わせは甘いものばかりですか」とふしぎそうな顔をする。
「豊富に採れる栗は薯の代わりだよ、肉に浸けて食べてごらん。」というと、まあまあと行った顔 になる。
 「果実もきつい酸味と果糖でちょうど良くなる。アルザスなら腹持ちのいい卵麺の、ヴァッサー シュトリヴラを付ける。
これは練粉を湯に押し出して、どこの国にで何かパスタを付けるがその1種だ」 これは作るのに 手間がかかる。
今日は甥が空腹で来たというから、「パンと肉を腹いっぱい食べなさい。野菜の焼いたのもある が、ハーブ入りの熱いオリーブ油に浸しても良い」。
鹿料理に限らず、内外の料理はオーソドックスなレシピを探し、それを試したうえで、手持ちの材料を使うと良いでしょう。
この手順を飛ばす料理人は、おかしなところでバランスを崩し、馬(鹿)脚を著わします。
次の入手に備えて前処理やマリネ、付け合わせなど、資料を見つけたら送ります。
その時間が手に入るよう願いつつ。

また頑丈な本体と癌研な癌慢との対決が、風雲急を告げ公私ともに、整理すべき仕事が増えてしま いました。
 3月中から転移らしき病状が現れ、検査すると肩と腋など、「場所によって曇り時々晴」のよう に良性と悪性が入り交じり、
また治療計画を作るのに、前からの病院と癌研、そのサテライトの3者の調整で日を過ごした、お かげで悪性の箇所が広がってしまいました。
今日、癌研に入院申込をして来ましたが、「部屋があくのが先か悪化するのが先か」と、明日の紙 芝居をお楽しみに待っている感じです。

田中千博


★パーティの田中さん♪渡辺貞夫氏と一緒にダンモで♪アン♪ 差出人 : 田中千博

送信日時 : 2006年2月6日 3:03Pm
宛先 : 久保AB-ST元宏


 今日は歯科に行ってきました。
気功の方の助言では、
使っている重金属が不良だそうで、
取り替えるほうが良いと言われました。
いまさらパーツの取り替えに、何十万円も
かけるのはどうかと思いましたが、
いままで「細部あっての総体」と
言ってきたこともあり通院してい ます。



東京は朝の7時。
睡眠時間2時間で、活動再開。
おっ、遠くまで見えるよ。高いね〜。なんでも(笑)。
▲2005年11月20日(日)午前8時 

ホテルパシフィック東京 30階 レストラン「ブフドール」


東京は朝の9時。
田中千博さんに会った。
病室で朝から普段着って、ちょっとスゴイ。
▲2005年11月20日(日)午前9時
東 京のは、早い(笑)!

text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏

んで、2005年11月20日、『共犯新聞』パーティ、午前5 時、お開き。

パーティ会場の部屋が8階。
私の宿泊しているのが、同ホテルの6階。
ああ、便利(笑)。
企画してくれた月見猫、ありがとー。
東京に住んでいるとは言え、埼玉近くや、中央線西側などから
駆けつけてくれたみんな、あんがとな。

部屋に戻れば、相部屋の巨漢男が、グー&グー。
私も屋形船から連続アルコールで、バタン&Q〜。

が、午前7時に「もとひろー、朝だぞ、起きろ!」との声で起きちゃう。
窓際に、風呂上りの巨漢が腰にタオルを巻いて座っている。
おお。ここは、相撲部屋か(笑)?

私もシャワーをあびて、目をパチ&クリ。

タオルで髪の毛をグシャ&グシャしてると、ベッド横に赤いランプが・・・。
「ん?何々?メッセージがあります?」
フロントに電話をしてみりゃぁー、
「8階の部屋に飯田様のジャケットがお忘れになっております。」だと。
おお、飯田とは同室の巨漢じゃ。
名前を間違えてくれて、あんがとさん(笑)。

それからホテル30階で朝食。
うむ、さすが30階。
見晴らしがイイ〜♪

コンシェルジェに、御茶ノ水への最短ルートを聞いて、チェック・アウト!
フロントに、
「あの〜、飯田さんのジャケット忘れていませんか?」
と、ばっくれて聞いて、ゲット(笑)。
それを同室の巨漢に言うと、「まったくもー。」ってな顔。
とにかく、この旅行では携帯電話を持っていない私は、
彼に月見猫の連絡をつないでもらったりして、
「まるでオレ、もとひろの秘書じゃんかー。」だって(笑)。
ごめん&ありがと&ごめんね。
で、二人でJR山手線に乗り込んだ。
ここで、午前8時。

JR駅から徒歩数分の大きな病院へ、お見舞い。
高層ビルでもある病院のほぼ最上階の病室は、
朝食を食べたホテルのレストラン並みに素晴らしい見晴らしだ。
この絶景を独り占めしているかのような入院患者とは、
知る人ぞ知る、日本の食文化の大物、田中千博氏。
特に、肉、イタリア・ワイン、江戸食文化などの知識はすごい。
なぜか私をかわいがってくれて、もう20年のお付き合い。
この日は一度戴いた
藤沢周平の直木賞 受賞の署名本を届ける役目もあった。
「ワイフが、あの本を形見に欲しいと言い出して(笑)。」
彼と藤沢周平はご近所の友人であった。
しかも、藤沢周平はかつて食品業界の業界紙の編集長であり、
深い交流があったのだ。

それにしても田中さん、病室でもパジャマではなくて私服!
あまりにもダンディすぎ〜。本当に、入院患者か!?
前日、沼田消防団の研修(?)をした池袋消防署のそばの
カフェ「La Famille(ラ・ファミーユ)」で買ったシ フォン・ケーキを差し入れ。
ケーキ、飲んでいるレモンティー、そのたびに食文化の話題が広がる。


2005年8月末で、HPは閉鎖していたが、再び 2005年末に復活!
★田中さんに捧ぐ!♪あん♪アン♪フード・システム研究所田中千博氏は、久保の食文化の師匠。


■私が北海道へ帰宅後、田中さんは執筆のために退院したらしい。
なにしろインプットが想像を絶するほど膨大にある方なので、
アウトプットをどんどん行わないと、
脳味噌の動脈硬化になりそうなぐらい(?)。
とにかく、電話などで聞いていた病状よりも
外見は、本当にお元気そうだった。
もちろん、病気である限り、他人の安心など何の意味も持たない。

■それでも田中さんが執筆を再開したことを喜びたい。
下記は、トリノ・オリンピックを記念して書いた
田中さんの最新エッセイである。


< 国家といようりは、個性集団! トリネーゼ(トリノっ子)の世界 > The world of Torinese !

text by 田中千博(2005年12月12日)


 1861年、イタリア統一による建国のとき、首都として計画的に建設されたトリノは、
札幌に似た整然とした街並みです。
その後、首都はフィレンツェからローマへと移り、いまトリノはピエモンテ州の州都です。
オリンピックの開催が決まると、市内のホテルの改修や新設が始まりました。
ミラノから来る列車が着く"ポルタ・ヌオーヴァ"の駅裏も整地を始めました。
始めたとはいえ工事はさっぱり進みません。
気忙しい日本人が見ると心配なテンポでしたが愈々本番です。

 ピエモンテ州は、Piedi di Monti(山裾)を意味するように、アルプス山脈の麓にあり、
隣のヴァッレ・ダオスタ州(アオスタ渓谷)も、スイス、フランスと接して
4000㍍級の山に囲まれ、古代から戦略的要衝で城や見張り塔が残っています。
トリノのシンボルは<モーレ・アントネッリアーナ>という167㍍の巨塔です。
見晴らしの良いところなら何処からでも見えますが、
離れると尖塔のある上半分しか見えません。
注射?ぴゅっ、ぴゅっ。
トリスを飲んで、トリノで会おう。

  ここで著名なワインは、何故か「B」の頭文字がついています。
バローロ(Barolo)、バルバレスコ(Barbaresco)、バルベーラ(Barbera)な どで、バローロへの有名な讃辞「王のワインにしてワインの王」の通り、
その風格と味わいが際だっています。その評価の高さに比べ値段が安いので驚きます。日本でも手に入る超高級(DOCG) の銘酒ですが、
行かれたら産地の味わいに浸って下さい。料理にも「牛肉のバローロ煮」や、「バローロ風味のリゾット」があります。
白トリュフ(Tartufo Bianco)に、しろ!  アルバ名産の白トリュフ(Tartufo Bianco)は、フランスの黒トリュフを凌駕する香味が評価され、
名声は値段にも比例して数倍もします。
欧州では野鳥獣が好まれますが、その野性の風味に負けない香りです。
トリノの市場に出てくるジビエは、隣のヴァッレ・ダオスタ(アオスタ渓谷)の獲物です。
日本でも稀に白トリュッフを口にする機会はありますが、
毎年、地域の旬の食材に熱狂する、トリネーゼからみれば
「白トリュッフが食べたければ、輸入するより産地に来たら」と言われそうです。

1袋5本以上位は入っているこのグリッシーニですが、こちらもイタリアを代表するパンの一つです。通常のパンというと、中がふんわり外は香ばしくというイメージですが、こちらはそんなイメージが全くありません。  どのレストランに行っても卓上のパン籠に「スティック状の堅パン」が納っています。
17世紀にトリノを支配したサヴォイア家の、医師が考案したという30〜50cmほどの<グリッシーニ>で す。
「ボナパルトが好んだ」という逸話から"ナポレオンの杖"という異名があります。
今は日本でもお馴染みのパンですが、この製法を初披露したのは1993年です。
ボローニャの講師による公開講座を、服部栄養料理専門学校など、都内5か所で開きました。

 街には老舗のカフェが多くあります。
まるでフランスのカフェの雰囲気を感じるのは、フランスと縁浅からぬサヴォイア家の影響でしょう。
創業1763年の「アル・ビチェリン」は、名物の<ビチェリン>が有名です。
このコーヒー、ホット・チョコレート、クリームで作る飲み物は、誰もが必ず試す一品です。
一杯のビチェリンを前にして、イタリアの統一を画した志士のなかに は、
イタリア王国を実現した初代首相のカヴールや、ニーチェ、デュマ、プッチーニたちがいました。
創業1763年の「アル・ビチェリン」は、名物の<ビチェリン>が有名です。

 1873年創業の「バラッティ・エ・ミラノ」にも、名物の三日月 型のチョコレート<バラッティ>があります。
このほか名店の「カフェ・トリノ」もあります。
<ジャンドウィオッティ>を試してみて下さい。
デザートは日本でも知名度の高い、マルサラ酒風味のザバリオーネ(Zabaglione)が あります。
これにディジェスティフ(食後酒)をとるなら、甘口の白ワイン、モスカーティ・ダスティ(Msocati d'Asti)でしょう。
1873年創業の「バラッティ・エ・ミラノ」にも、名物の三日月型のチョコレート<バラッティ>があります。


飲み口が数カ所ついたケトルで作り、これを数人で回し飲みします。  冬は体が暖まる飲み物"グロッラ"があります。
これは材料さえあれば、何処でも試すことが出来ます。
ホット・コーヒーにグラッパを加え、
レモン・ピールと砂糖を加えて火をつけ、アルコールを飛ばします。
トリノでは飲み口が数カ所ついたケトルで作り、
これを数人で回し飲みします。
"グラッパ"はワインのマスト(絞り滓)を、蒸留した透明のブラン ディで、
フランスのマールと同じです。


こ、これ、何だ!?
ラルドとは、
ラード(脂肪)の
イタリア語読みです。
 アオスタ渓谷には隠れた名産があります。
白い雪片のように薄切りにして、パンにのせて食べる<ラルド>です。
これは硬質の豚背脂肪を、香草と塩水に漬けたものですが、
雪片のように口溶けがよく、生クリームのように美味な逸品です。
生産者のベルトリン氏は
「この製品が欧州で唯一のDOC(原産地統制呼称)の<ラルド>です。
われわれは産地Valle d'Aostaを、名乗ることを誇りにしています」と 語ってました。
こうして、各種のメーカーが商品化もしています。


『岩野貞雄のワイン逍遙・フランス編』
岩野氏は、まじめ 過ぎるほどの学者の一面と、
風土と対話する実務家の情熱を持ち、
彼の活動にささやかな支援を続けました。
彼の入院後は電話で話し続けました。
没後、遺族の希望でお別れの会の司会をつとめました。
「ワイン逍遙」は、そのとき参会者に配った遺作です。
 トリノには思い出が息づいています。
いま日本でもワイナリーが各地に見られます。
このワイナリー造りを指導されたのが岩野貞雄氏で す。
多くの著書を残されましたが、
最後に『岩野貞雄のワイン逍遙・フランス編』
(1998年11月19日初版、実業之日本社)を遺して逝かれました。
その岩野氏の母校がトリノ大学で、
亡くなるまで毎年教えに来ておらました。
トリノを歩いていると、次の街角から「やぁ、いつ来たの」と、
岩野氏が現れるような気がします。
トリノ大学出身。ワイナリー造りを指導されたのが岩野貞雄


 80年代末からブラに本部がある、"スローフード" に参加しました。
その隔年に開かれる大会の、会場がトリノのリゴット・フィエラです。
数年前まで会期中に日本人を見かけませんでした。
ここには欧州各地の生産者が出展します。
いずれも珍しい手作りの食品を持って来ていますが、
なかには巨大な塊りのパンや、一抱えもあるチーズ、
100㎏のソーセージもあります。
お馴染みの肉製品やチーズも多様で、用いる原料も
幅広く製法も独自で、その形態も独特のもがありますから、
日本人には名前を言っても実物を見せても、ちょっと分からない実態です。
トリノの食文化。


トリノの「スロー・フード」。  偶数年に開かれる大会には、世界から参加者が集まります。
会期中に300ものセミナーが催され、
生産者・レストラン・学者の発表があります。
ほかの国際食品展と違う特長は、
ピエモンテ州やトリノ市が後援していることです。
会場には引率された幼稚園児・小・中・高の生徒が来ます。
会場には年齢に応じた展示や、
食育プログラムが用意されています。


 広い会場をまわり、試食したり作り方を教わったりで、
疲れてしまった幼稚園児が、
座り込んだり寝てしまっても驚く人はいません。
かわいいので写真を撮ると、みんなが集まって来たりします。
週末には一家をあげて市民が訪れ、
試食して即売の品を買う人も大勢います。
また市内や近郊のレストランを会場にして、
地域の特産品メニューを試す、会食のプログラムも毎晩あります。
トリノの子供たち。どうも。パレードが始まるよ!

トリノの子供たち。どうも。食え!
子ども達が、手に している変わった形のパンは<BIOVE>です。
アチェート・バルサミーコを発見したとき、同時にモデナで発見した無味のパンで、
「水さえあれば他に何も要らない」と思わせる最高の美味なパンです。
これもグリッシーニと同じく、1993年に日本で紹介しましたが、
まだ何処も作っていないようです。
 クリスマス・カードに代えて、メールを寄越すホテルがあります。
始めてトリノに行ったとき泊まった駅裏のホテルです。
イベントでホテルが混むときは、便利で親切なので頼りになります。
トリネーゼは商売でも気が早いのか、
クリスマスの飾り付けなどは、10月に始めるのを見ています。
ここから「11月になって<ルーチ・ダルスティスタ>が始まった」と
連絡がありました。
この「芸術家の光」という仕掛けを見たことはありませんが、
古都の大通りや広場や建物を、光りで飾る大がかりな仕掛けといいます。


"Luci d'artista" a Torino
(トリノの『ルーチ・ダルティスタ(芸術家の光)』とは、
毎年11月から翌年1月にかけて行われる光を使う野外芸術展)

光に憧れて。


 2000年の大会が終わった後、コート・ダジュール経由でマルセイユへ行こうと、ロビーで時刻表を広げ調べていました。
列車の接続が悪いので、「ミラノへ戻って乗っても、ジェノヴァ経由でも不便だなあ」と嘆いていると、
親切なマネージャーが「ニースへ行くなら直通列車があるよ」と、トーマス・クックにはない時刻表を、PCからプリントしたのを貰いましたが、
このとき「統一戦争の頃、イタリア領のニースがフランスへ割譲された」ことも教わりました。


[ 蛇 足 ] 久しぶりのニースでは、逸話の豊富な <ホテル・ネグレスコ>に泊ま りました。街へ出かけるとき、愛想のいいドアマンに
「始めてニースへ来たのは30年前だが、そのときは若くて金もなかったから、何時かネグレスコ に泊まろうと決めて帰った」と話しました。
この街に滞在して実感したことがあります。それは「フランスで最もイタリア料理の美味い街はニースだ」とい う発見です。
平野のトリノと海岸のニースは、いまも遠くて近い隣町だったのです。              (了)







トリノの小春日和に。 < 小春日和の トリノ の一日 >


ひとを酔わせる白いトリュフ の香り
漂う十字広場 の市場に湧く新しい
朝の喧噪 麓のジビエが吊されて
膨らむ食欲 の渦で暖まるふたり
 
不在のひと の靴音を刻んだ石畳
に燃える黄葉 が輪舞する午後
バローロの盃から 異なる葉脈
ごとに 紅蓮を滴らせているひとり

 五色の輪が谷を埋める冬 を待つ
甍の下 には星のブーケを架けて
眠る 幼子の呟く形の唇がある
さぁグリッシーニ と雪を降らせよう

 

 Dec.12,2005 Kaz
赤に憧れて。






参考HP;
国家といようりは、個性集団!イ タリア語をインターネットで学ぶ方法 Impariamo l'italiano in rete!

2005!2005 年←食文化の師匠から、重厚なワインの研究本を、Wow...これは、過去か?未来か?・・・それとも、現在か!?もらう。★ゲット日;2005年10月8日 (土)

フードシステム 研究所 所長 田中千博氏からのEメール

久保元宏様
 昨夜、北京から戻りました。日中は汗の出る暑さでしたが、
朝夕は冷え込みます。どこへ行っても「北京ダック」を売る店、食べさせる店が
氾濫しており、店頭のパックは量販製品と変わらず、ついに食べないで帰りました。
伝統と知名度のたたき売りです。
 天津も1日行ってきました。ここでも著名な「狗不理」の包子に失望しました。
まさに食卓の<文化革命>の名残です。革命は既存価値の破壊ですが、
修復は容易でありません。近いのに、なかなか北京へ行かなかった理由ですが、
まだ早すぎた感じです。
 その代わり北京では、最新業態のレストラン”The Green T. Room”を訪れ、
たまたま話しかけてきたGMと、事務所でゆっくり話が出来ましたし、
伝統のジビエ料理店では、料理の写真を撮ったり、レシピを訊ねているうちに、
シェフとも会うことが出来ました。

★北の食文化データボックスは、昔よく食べられていた料理やお正月・お祭りなどの行事の料理をはじめ、地域の食づくりへの取組や食べ物に関する思い出話など、北海道の「食」に関する情報がいっぱい詰まったホームページです。道庁農政部道産食品安全 室 「北の食文化データボックス」


 HPの紹介をありがとうございます。これらの物産紹介のHPは、昨年、
講座を引き受けたときから、かなり見てきましたが、
<食文化>のデータとなると稀薄で、戦後の食卓の記憶くらいでは、
史的な意味でも食研究においても、参考に出来るところがありません。
 3月は予て頼んでおいた白老町役場の紹介で、アイヌ民博の村木美幸さんと
面談できました。本当に会えて良かったと思いました。基本データを探索し
蓄積されおり、数時間の面談でも理解が出来ました。
特に主食(糖質)の疑問が氷解した思いです。
 講座を顧みると 「北海道は独立できる」と気概をみせるSGHSの縄田社長に、
「大豆の自給が欠かせない」と申し上げたことがあります。
生きていくための食とは何か、これも古今東西の食の基本です。
絶版の大冊<アイヌ民族誌>など、関係の資料も縄田社長にお借りしてきました。
 なぜ食未来講座のプログラムに、史的資料が必要なのか。
会員の皆さんに「未 来は過去にある」と述べたところ、
後で食分野ではない方から、同感だとのメールを戴きました。

 7月には二度目のVASCU探索です。世界のトップ・シェフが学んだ、
異質の世界を更に探索したいと願っております。
ボルドーに入ってトゥールーズから帰る予定で、2都市のホテルも予約し、
往復の航空券の席も予約済みですが、
バイヨンヌからサンセバスチャンを経て、
西部パレンシアの途中の行程を検討中です。
FOODEXで来日した小規模メーカーと、メールで通信できる便利な時代です。

 ではまた 田中千博


メール (2005年4月6日 水曜日 5:28Pm)
★パーティの田中さん♪渡辺貞夫氏と一緒にダンモで♪アン♪
2004年7月1日、ホテル・オークラで開催され た、
上柿元勝氏の叙勲パーティで、
ナベサダの愛称で親しまれている渡辺貞夫氏と一緒の田中千博氏。

若い頃からモダン・ジャズのファンで、
ニューヨークのジャズ・クラブにも出入りしていた話で盛り上がった一夕。

撮影は、料理研究家の服部幸應氏
★田中さんに捧ぐ!♪あん♪アン♪フード・システム研究所田中千博氏は、久保の食文化の師匠。

フードシステム研究所 所長 田中千博氏からの Eメール

★田中さんに捧ぐ!♪あん♪アン♪フード・システム研究所田中千博氏は、久保の食文化の師匠。

久保元宏様
市内の胡同を北京大学の日本語学科を出た女性と歩きました。


★盛り場・王府井の小吃街、小吃は軽食の意味
▲盛り場・王府井の「小吃」街。小吃は軽食の意味。



中国の橋や道路など日本が援助した事実を、人民に教えないでいるのも、
歴史教育の偏向では ないかと言いました。
 天津に同行した女性は、新彊ウイグルの人で、少数民族と漢民族の
微妙な関係を意識していました。もう情報時代になったのだから、
海外ニュースを読むべきだと言いました。
 外部に敵をつくる のは、内部の反権力パワーの矛先を変えることくらいは、
戦後の日本人には常識だと言いましたが、まだ「真の自由」の実感はないようです。
あるいは「表現の自由」の無方向性が、操作しやすいことにも気付かない、
操作済世代の拡大が進んでいるのかもしれません。
田中千博


メール (2005年4月14日 木曜日 7:14Pm)




久保元宏様
 中国の話が中断してしまいましたが、北京や天津で雇った、
日本語学科を出た若い女性との話から、偏向教育の影響というより、
報道管制による世論操作を感じました。こちらの知っている世界の歴史や、
情勢を知らないからです。北朝鮮のテレビ報道は、日本でも見られますから、
明らかに報道管制や世論操作が見られますが、
意外に中国の現況は(今回の暴動の報道まで)あまり知る機会が少なく、
分からないままできたようです。別れ際には彼女たちの方が、
もっとこちらの話を聞きたがっている様子でした。
★天津の海鮮料理です〜。
▲天津の海鮮料理。

「インターネットの時代だから、もっと海外の情報を知らなければ」とは言ったもの の、
果たして誰もが、パソコンを買えるほど、収入があるのかも疑問でした。
短い期間なので、話し残したことの方が多く残念です。
 海 外取材の写真を「HPのトップページ」から引けるようにしましたので見て下さい。
田中千博


メール (2005年4月18日 月曜日 10:10Pm)
フードシステム研究所 所長 田中千博氏からの Eメール

★田中さんに捧ぐ!♪あん♪アン♪フード・システム研究所田中千博氏は、久保の食文化の師匠。

>From: "Kubo Motohiro" <[email protected]>
>To: [email protected]
>Subject: ゴダール
>Date: Sat, 23 Apr 2005 03:21:08
>
>田中様
>北海道沼田町の久保です。
>■「革命とは既成概念の破壊である。」とは、まさしくその通りですが、
>それは革命を行うもの側の理念であり、
>結果的に、歪んだ破壊で終わる場合が多いものです。
>つまり、「革命」、「既成概念」、「破壊」。それぞれの言葉の概念が違う者同士が、
>その言葉を 流通させながら、誤解の渦を広げてゆくのが、多くの「革命」なのでしょう。
>「文化大革命」などは、まさに、「文化」と「革命」の言葉を相互に共通理 解している
>という誤解を「権力」が利用した事件にすぎないのかもしれません。
>
>■ゴダール映画『中国女』を観たことがありますか?
>
>■結局、良くも悪くも、「革命」はモードの問題である、と私は思います。
>田中さんは新しい料理よりも、「伝統」に興味を持つ場合が多いので、
>その誤差が目につくのでしょう。
>
>■中国の問題は、重層的に「翻訳論」として興味深いテーマを提示してくれ るでしょう。
>今日のニューヨーク国連前での中国人の反日デモには私は驚きました。
>これはもしかしたら、次の中国での革命を準備することになるかもしれませ ん。
>
>■中国の国家権力が演出した「反日デモ」は、
>中国人にデ モをする喜びを思い出させた両刃の刃となることでしょう。
>
>では!


★バルセロナのウサギ
▲田中千博のバルセロナ取材「ジビエ売り場」。



久保元宏様 返信ありがとうございます。
ゴダールとは懐かしい名を聞くものですね。記憶にある<中国女>は饒舌という、
溢れる観念の連射の印象しか残っていません。字幕のフランス語の翻訳が、
適切だったかどうかも、もう覚えていません。東京へ出てきたのが’58年ですが、
来て間もなくアートシアターが出来たり、それに平行して、前衛的な映画の上映や、
劇団の誕生があり、アラン・ロブグリエなどの前衛小説の出版もありました。
下宿に寝ころんで読みふけったり、深夜までモダンジャズ喫茶で過ごしたり、
あれは時代が噴出した思想なのか、未来の見えない世代の焦燥なのか、
悶えなのか憤懣なのか、底辺を同じくする異質な個々の存在が、
街を行き交い街の空気を染めていました。いま顧みるならば、
50〜60年代の青春群像が置かれた、状況を考えることが出来るでしょう。
「今日だけを確実に生きる」ことに徹し、そういう生き方を続けてきたのも、
あの時代の影響がかもしれません。やがて辿り着いた「未来は過去にある」という
思いは、半世紀前の近過去よりも少し離れた、近世以来の(東西の)過去へ
傾斜させました。ここでゴダールの中国女とは、思わぬキーワードを手にしたもので す。
でも再度、見たいと は思いませんでした。お知らせのご好意だけ有難く戴いておきます。
田中千博


メール (2005年4月23日 土曜日 1:24Pm)
フードシステム研究所 所長 田中千博氏からの Eメール

★田中さんに捧ぐ!♪あん♪アン♪フード・システム研究所田中千博氏は、久保の食文化の師匠。

From: "Kubo Motohiro" <[email protected]>
To: <[email protected]>
Sent: Friday, April 29, 2005 9:30 AM
Subject: Re: ゴダール

田中さん、おはようございます。
久保元宏です。

昨夜は、カナダから友人の母親が来て、カナダ料理と日本料理の競演でした。
カナダのア イスワインは、相変わらず美味しく、若い草の香りが魅力的でした。
同時に、地元、新十津川町(=滝川市の隣)の、日本酒の生酒が、トロリと甘く、
呑み比べが興味深かったです。

さて、私のHPに、田中さんからの「ゴダール」のメールをUPいたしました。
アラン・ロブグリエの箇所にリンクも貼りました。
お時間のある時にでも、見ておいてください。


★1960年6月15日7:00Pm・・南通用門西側には、東大本郷の学生がスクラムを組み、先頭から10数列目に薄クリ−ム色のカ −ディガンに紺のスラックスの樺美智子(22)がいた。
▲1960年6月15日神宮外苑に集まった全学連反主流派学生約7000人も、

平河町を経て参院裏に到着。国会一周デモ 開始。



<古い本箱に当たる陽の光ですね>
久保元宏様
 あなたのHPから「アラン・ロブグリエのリンク」を見たら、
続々と懐かしい本が出て来ました。まるで暫く手をつけなかった、物置の古い本箱を
開けた思いです。それで思い出したのが、ベケットの「ゴドーを待ちながら」を、
赤坂の都市会館で見た夜のことです。終わって外に出てみると、
大河のような60年安保のデモが、平河町の坂を流れていました。
なぜ自分は氾濫する渦中にいないで、屋根のある席で観念論をみていたのか?
 後で分かったことですが、あなたの倉庫に眠っている私の著作『ガストロノマアド』
出版社の社長も、そのデモの渦のなかにいたそうです。人生のすれ違いは、
ひとりでも大勢であっても、何処かの<道>の上にあるのですね。
 ヌーヴォー・ロマンも映画になって、アートシアターで観たものがあります。
ロブグリエもそうですね。サルトルやカミュの名も、登山する脚力のないまま、
見上げていた高山の思いがあります。あの不明な思想と言語の世界から、
非武装中立へと向かった世代です。それを「過激な外部を嫌って、
内部から施錠する密室への逃避」と思うのは傲慢過ぎるでしょうね。
時を超えた視線を持つあなたは、いつも回転しているかに見えますが、
それでもスパイラルに「上昇」を続けていくことでしょう。ちょっと言い過ぎでした か?
 田中千博


メール (2005年4月29日 金曜日 10:42Pm)
2005!2005年←久保の食文化の師匠から、大量の本読み、読み、読みーーーの、日々なんですよ、実は。が、送られてくる。★ ちょうだい日;2005年5月25日(水)
★田中さんに捧ぐ!♪あん♪アン♪フード・システム研究所田中千博氏は、久保の食文化の師匠。
久保元宏様
 

*「北海道の保存食・・・」
 いくら欧州の伝統食品の研究をしているとはいえ、やはり道産子ですから、
長く親しんだ食べ物への執着も、幼時の記憶につながります。
烏賊の塩辛には絶望し ています。塩と肝臓に加える多彩な添加物は、
甘塩にした所以であることは分かっています。
自然と時間が作る<風味>のプロセスを軽視し、
塩への無知と恐怖の風潮に迎合するせいでしょう。
よく「塩辛」と名乗っているものだと思います。
 こちらで開かれる北海道物産展に、毎回出てくる寿司屋も
「寿司づくり」の技を忘れ、おにぎりに刺身をのっけただけの
「のようなもの」しか出していません。食べる側が知らないというより、
手間と技術を要する「煮物、焼き物、締めたもの」などを嫌い
折角の<五味・五法・五色>の描く、多彩な味覚を忘れているようです。
 
*北海道の保存食(下記)も、乳酸発酵に替え酢や麹を使っています。
昔ながらの「ニシンの飯ずし、すしニシン、ニシンの切り込み」を、
作っているところ(売っているところ)を知りませんか。
毎月、札幌へ行く度に探してみるのですが、時間が限られていて、
いまだに発見できません。「ニシン漬け」は、こちらの北海道物産展で見つけた、
留萌のメーカーが札幌三越に出ているので、行く度に買って帰ります。
これも少し置いておいて、発酵を進めてから食べています。
何処かに本来の保存食があるか、あなたの知己の方に聞いて戴けませんか。


田中千博氏からのメール (2004年11月15日 月曜日 11:06Am)