▲ルイス・フロイス |
ルイス・フロイス
(Luis Frois、1532年〜1597年7月8日)
リスボン生まれのポルトガル人。
1548年、16歳でイエズス会に入会。
同年、インドで日本宣教へ向かう直前の
フランシスコ・ザビエルと
日本人協力者ヤジロウに出会う。
1563年、31才で長崎に上陸し、
日本での布教活動を開始。
1569年、織田信長と初めて対面。
既存の仏教界のあり方に信長が
辟易していたこともあり、
フロイスはその信任を獲得して
布教活動を行い多くの信徒を得た。
『日本史』、『信長公記』などを執筆。 |
ルイス・フロイス
『ヨーロッパ文化と日本文化』
(1991.6.17→94.2.15/8版、岩波書店)
\410→もらった。
▲箇条書きというシンプルな、比較表。
松田毅一、E・ヨリッセン
『フロイスの日本覚書
日本とヨーロッパの風習の違い』
(1983.10.25→1984.2.20/再版、
中央公論社、中公新書707)
\480→もらった。
▲体系の再構築のための、外部の眼。 |
▲ケンペル |
エンゲルベルト・ケンペル
(Engelbert Kaempfer、
1651年9月16日 - 1716年11月2日)
ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。
1690年(元禄3年)、オランダ商館付の医師として、
約2年間出島に滞在した。
1691年と1692年に連続して、江戸参府を経験し
徳川綱吉にも謁見。
ヨーロッパに鎖国中の日本を
初めて詳しく紹介した『日本誌』の原著者。
特にフランス語版は知識人の間で一世を風靡し、
ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、
19世紀のジャポニズムに繋がってゆく。 |
B・M・ボダルト=ベイリー
『ケンペルと徳川綱吉
ドイツ人医師と将軍との交流』
訳;中 直一
(1994.1.15初版、中央公論社)
\720→古本\280→もらった。
▲「生類憐みの令」は福祉立法の魁! |
▲オールコック |
ラザフォード・オールコック
(Sir Rutherford Alcock、
1809年 - 1897年11月2日)
イギリスの医者、外交官。
清国駐在領事、初代駐日総領事、同公使を務め、
開国後の日本事情を紹介した『大君の都』を著した。
1859〜1862年まで日本に滞在。
米国駐日公使タウンゼント・ハリスは
彼のライバルとなった。 |
佐野真由子『オールコックの江戸
初代英国公使が見た幕末日本』
(2003.8.15初版、中央公論社)
\903→もらった。
▲日記ではない分、思い入れが潔い。 |
▲万延元年の土下座外交♪ |
万延元年(1860年)、初めて海を越えアメリカに赴いた
新見豊前守一行は、
汽車に驚きダンスに呆れ、歓迎のキッスに慌てながらも
意気軒昴であった。サムライたちの見た西洋を、
航海日誌や新聞記事を自在に駆使して
描き出した異色の幕末史。
他に
竹内、文久二年(1862年)、ヨーロッパ、
池田、文久三年(1863年)、フランス、
徳川、慶応三年(1867年)フランス、
の3遣欧使節の物語を収める。 |
尾佐竹 猛(おさたけ・たけき)
『幕末遣外使節物語
夷狄(いてき)の国へ』
(初出は1929年7月、
1989.12.10→99.7.21/11版、講談社)
\903→もらった。
▲文化の衝突をあえて演出する必要。 |
▲ロバート・フォーチュン |
ロバート・フォーチュン
(Robert Fortune、1812年9月16日-1880年4月13日)
スコットランド出身の、植物学者。
1842年、南京条約ののち、
中国で植物を集めるために派遣される。
中国からインドへチャノキを持ち出したことで有名。
1860年、日本を訪れて、
蚕の文化および米の製造について記述し、
キンカンを含む多くの樹木および花を
調査、収集し導入した。
ロンドンで没。 |
ロバート・フォーチュン
『幕末日本探訪記 江戸と北京』
訳;三宅馨
(1969底本、1997.12.10初版、講談社)
\1008→もらった。
▲蒐集欲が知識欲と伝達欲を産む例。 |
▲ニコライ・カサートキン |
ニコライ・カサートキン
本名、
イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン
(Ioan Dimitrovich Kasatkin、
1836年8月1日(ロシア暦) - 1912年2月16日(グレゴリオ暦))
ロシア正教の修道司祭・宣教師。
日本ハリストス正教会の創建者。
正教会の聖人。
1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。
1869年、1879年に二度帰国。
それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、
神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。 |
ニコライ『ニコライの見た幕末日本』
訳;中村健之介
(1979.5.10→2001.2/16版、講談社)
\609→もらった。
▲ドストエフスキーの『罪と罰』と
同じ雑誌に連載された書。 |
▲ハインリッヒ・シュリーマン |
ハインリッヒ・シュリーマン
(Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann、
1822年1月6日 - 1890年12月26日)
ドイツの考古学者、実業家。
ギリシャ神話に出てくる伝説の都市トロイアが
実在することを発掘によって証明した。
清国(当時の中国)に続き1865年、幕末の日本を訪れる。
清とは反対に日本の文化・風俗を絶賛している。 |
ハインリッヒ・シュリーマン
『シュリーマン旅行記 清国・日本』
訳;石井和子
(1998.4.10→1998.6.22/5版、講談社)
\756→もらった。
▲欧米至上主義ではない視線の批評。 |
▲ヴィットリオ・アルミニヨンのマジェンタ号 |
ヴィットリオ・アルミニヨン
(Vittorio F. Arminjon、1830年 - 1896年)
イタリアの海軍軍人。
マジェンタ号の艦長。
ヨーロッパで、蚕の病気が続き、
日本との通商を求めて1866年に来日し、
慶応2年7月16日(1866年8月25日)に
日伊修好通商条約を江戸で締結。 |
V・F・アルミニヨン
『イタリア使節の幕末見聞記』
訳;大久保昭男
(1987底本、2000.2.10初版、講談社)
\903→もらった。
▲いったい欧米人の訪日記は、何冊? |
▲岩倉使節団の主要メンバー。
左から副使・木戸孝允、副使・山口尚芳、
正使・岩倉具視、
副使・伊藤博文、副使・大久保利通。 |
遣欧米特命全権大使は、
岩倉遣欧米使節団として、
1871年の冬至から1873年秋までの1年9ヶ月と21日に
わたって米欧回覧全行程が行われた。
不平等条約の改正と欧米視察を目的とした。
本書は、明治政府が、
米欧回覧で岩倉使節が得た知見を
ひろく国民に知らしめるために出版された。 |
特命全権大使『米欧回覧実記』
〔全5冊〕
編;久米邦武
校注;田中彰
(1977.9.16→1993.10.18/13刷、岩波文庫)
\720→もらった。
▲全てを知ろうとした田中さんらしい蔵書。
彼の興味は食だが、幕末維新期の質
の高い遣外使節団の崇高な意識は
田中さんの生き方そのものだ。 |
▲ビゴー |
ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー
(Georges Ferdinand Bigot、1860年 - 1927年)
フランス人の画家、漫画家。
1882年に日本美術を研究するために来日。
1883年から1899年まで陸軍士官学校で講師をしながら、
当時の日本の出来事を版画・スケッチなどの
形で風刺画にあらわした。
また、中江兆民の仏学塾でフランス語を教えてもいた。
1894年に士族の娘・佐野マスと結婚し、
1899年に離日するまで外国人居留地を中心に活動した。
当時の日本人が興味を持たなかったものも
多く題材としており、
今となっては貴重な資料になっている。 |
編;清水勲『ビゴー日本素描集』
(1986.5.16→1994/21刷、岩波新書)
\520→もらった。
▲当時の外人の眼が、今の我々の興味。 |
▲ヘルベルト・プルチョウ |
ヘルベルト・プルチョウ
(Plutschow,Herbert、1943年スイス生まれ。)
城西国際大学客員教授。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)名誉教授。
1962年パリ大学東洋語学校卒業。
1973年コロンビア大学博士課程で
日本中世旅文学の論文により博士号取得。
UCLAで日本文学、日本文化史を教えるかたわら、
日本学の様々な分野を研究し、論文、著書多数。 |
ヘルベルト・プルチョウ
『江戸の旅日記
—「徳川啓蒙期」の博物学者たち』
(2005.8.22初版、集英社)
\735→もらった。
▲外人が古書を再読し日本語で考察。
貝原益軒、本居宣長、菅江真澄、
松浦静山、橘南渓などの旅行記を分析。 |