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ルイス・フロイスは、永禄6年6月(1563年7月)横瀬浦(長崎県西海町)入港の船で来日、以後34年間1597年7月長崎で死去するまで日本でのキリスト教の布教活動に従事した。ラララ〜。
江戸の外国人越境の共犯
Foreigners in Edo !




江戸城、炎上

江戸城、陥落

江戸城、歓楽
燃える夜!おいでやす。
2008年4月28日
0:48Am
ススキノ
風俗店『江戸城』が
焼け、
20歳と24歳の
女性従業員、
36歳の男性客、
3人死亡。
無事です。
text by. 某好青年
2008年4月29日 8:47Am

昨日、この事件を会社で知りました。


キッカケは、朝一番で顔を合わせたK姉さんの一言。
「あれ?○○(俺(-_-)y-~)ちゃん、生きてたの?」


何の事だか解らずに返事に困る俺(-_-)y-~。


よくよく聞くと此の事件、テレビのニュースで
亡くなられた男性が「30代の会社員」と報じられたらしい。

K姉さん、此の部分だけで
「俺(-_-)y-~がソープ店内で焼死した」
…と思い込んでたらしいです(笑)。


また、別のニュースで「東京の男性」と聞いて、
「ああ、○○(俺(-_-)y-~)ちゃんじゃないんだな」
…と思った人が数名居ました。


社内に於ける俺(-_-)y-~の扱いが、
年々酷くなってる気がします。

病室で朝から普段着って、ちょっとスゴイ。
2005年11月20日(日)午前9時 
久保が最後に会った病室での、
故・Oh ! うめぇ〜♪ジューシーな豚肉ソティ!田中千博
うぇ〜ん!上記のニュースを聞きながら、書斎の整理をしておりました。
ちょうど、故・田中千博さんからいただいた
江戸をめぐるパラパラ・・・大量の蔵書に手を付けていたところでしたので、
みょーに(?)印象深い。
そこで、この時に並べていた、
明治以前の日本と外国との交流の文献を整理してみよう♪
おいでやす。

江戸の外国人越境の共犯
Foreigners in Edo !
読む江戸!燃える夜!おいでやす。
写真は左から、歴史の順番に、本棚に並べてみた。
その順に下記に紹介しよう。

ルイス・フロイスは、永禄6年6月(1563年7月)横瀬浦(長崎県西海町)入港の船で来日、以後34年間1597年7月長崎で死去するまで日本でのキリスト教の布教活動に従事した。ラララ〜。
ルイス・フロイス
ルイス・フロイス
(Luis Frois、1532年〜1597年7月8日)
リスボン生まれのポルトガル人。

1548年、16歳でイエズス会に入会。
同年、インドで日本宣教へ向かう直前の
フランシスコ・ザビエルと
日本人協力者ヤジロウに出会う。

1563年、31才で長崎に上陸し、
日本での布教活動を開始。

1569年、織田信長と初めて対面。
既存の仏教界のあり方に信長が
辟易していたこともあり、
フロイスはその信任を獲得して
布教活動を行い多くの信徒を得た。

『日本史』、『信長公記』などを執筆。
パラパラ・・・ルイス・フロイス
『ヨーロッパ文化と日本文化』
(1991.6.17→94.2.15/8版、岩波書店)
\410→もらった。
箇条書きというシンプルな、比較表。

パラパラ・・・松田毅一、E・ヨリッセン
『フロイスの日本覚書
日本とヨーロッパの風習の違い』
(1983.10.25→1984.2.20/再版、
中央公論社、中公新書707)
\480→もらった。
体系の再構築のための、外部の眼。
ケンペルだぞー。ラララ〜。
ケンペル
エンゲルベルト・ケンペル
(Engelbert Kaempfer、
1651年9月16日 - 1716年11月2日)
ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。

1690年(元禄3年)、オランダ商館付の医師として、
約2年間出島に滞在した。
1691年と1692年に連続して、江戸参府を経験し
徳川綱吉にも謁見。

ヨーロッパに鎖国中の日本を
初めて詳しく紹介した『日本誌』の原著者。
特にフランス語版は知識人の間で一世を風靡し、
ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、
19世紀のジャポニズムに繋がってゆく。
パラパラ・・・B・M・ボダルト=ベイリー
『ケンペルと徳川綱吉
ドイツ人医師と将軍との交流』
訳;中 直一
(1994.1.15初版、中央公論社)
\720→古本\280→もらった。
「生類憐みの令」は福祉立法の魁!
ラザフォード・オールコック(Sir Rutherford Alcock、1809年 - 1897年11月2日)は、イギリスの医者、外交官。清国駐在領事、初代駐日総領事、同公使を務め、開国後の日本事情を紹介した『大君の都』を著した。。ラララ〜。
オールコック
ラザフォード・オールコック
(Sir Rutherford Alcock、
1809年 - 1897年11月2日)
イギリスの医者、外交官。
清国駐在領事、初代駐日総領事、同公使を務め、
開国後の日本事情を紹介した『大君の都』を著した。

1859〜1862年まで日本に滞在。
米国駐日公使タウンゼント・ハリスは
彼のライバルとなった。
パラパラ・・・佐野真由子『オールコックの江戸
初代英国公使が見た幕末日本』
(2003.8.15初版、中央公論社)
\903→もらった。
日記ではない分、思い入れが潔い。
遣米使節。ラララ〜。
万延元年の土下座外交♪
万延元年(1860年)、初めて海を越えアメリカに赴いた
新見豊前守一行は、
汽車に驚きダンスに呆れ、歓迎のキッスに慌てながらも
意気軒昴であった。サムライたちの見た西洋を、
航海日誌や新聞記事を自在に駆使して
描き出した異色の幕末史。
他に
竹内、文久二年(1862年)、ヨーロッパ、
池田、文久三年(1863年)、フランス、
徳川、慶応三年(1867年)フランス、
の3遣欧使節の物語を収める。
パラパラ・・・尾佐竹 猛(おさたけ・たけき)
『幕末遣外使節物語
夷狄(いてき)の国へ』
(初出は1929年7月、
1989.12.10→99.7.21/11版、講談社)
\903→もらった。
文化の衝突をあえて演出する必要。
ロバート・フォーチュン。ラララ〜。ロバート・フォーチュン(Robert Fortune、1812年9月16日-1880年4月13日)は、植物学者。中国からインドへチャノキを持ち出したことで有名。スコットランド出身。
ロバート・フォーチュン
ロバート・フォーチュン
(Robert Fortune、1812年9月16日-1880年4月13日)
スコットランド出身の、植物学者。
1842年、南京条約ののち、
中国で植物を集めるために派遣される。
中国からインドへチャノキを持ち出したことで有名。
1860年、日本を訪れて、
蚕の文化および米の製造について記述し、
キンカンを含む多くの樹木および花を
調査、収集し導入した。
ロンドンで没。
パラパラ・・・ロバート・フォーチュン
『幕末日本探訪記 江戸と北京』
訳;三宅馨
(1969底本、1997.12.10初版、講談社)
\1008→もらった。
蒐集欲が知識欲と伝達欲を産む例。
ニコライ・カサートキン。ラララ〜。
ニコライ・カサートキン
ニコライ・カサートキン
本名、
イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン
(Ioan Dimitrovich Kasatkin、
1836年8月1日(ロシア暦) - 1912年2月16日(グレゴリオ暦))
ロシア正教の修道司祭・宣教師。
日本ハリストス正教会の創建者。
正教会の聖人。

1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。

1869年、1879年に二度帰国。
それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、
神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。
パラパラ・・・ニコライ『ニコライの見た幕末日本』
訳;中村健之介
(1979.5.10→2001.2/16版、講談社)
\609→もらった。
ドストエフスキーの『罪と罰』と
同じ雑誌に連載された書。
ハインリッヒ・シュリーマン。ラララ〜。
ハインリッヒ・シュリーマン
ハインリッヒ・シュリーマン
(Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann、
1822年1月6日 - 1890年12月26日)
ドイツの考古学者、実業家。
ギリシャ神話に出てくる伝説の都市トロイアが
実在することを発掘によって証明した。

清国(当時の中国)に続き1865年、幕末の日本を訪れる
清とは反対に日本の文化・風俗を絶賛している。
パラパラ・・・ハインリッヒ・シュリーマン
『シュリーマン旅行記 清国・日本』
訳;石井和子
(1998.4.10→1998.6.22/5版、講談社)
\756→もらった。
欧米至上主義ではない視線の批評。
ヴィットリオ・アルミニヨン。ラララ〜。
ヴィットリオ・アルミニヨンのマジェンタ号
ヴィットリオ・アルミニヨン
(Vittorio F. Arminjon、1830年 - 1896年)
イタリアの海軍軍人。
マジェンタ号の艦長。
ヨーロッパで、蚕の病気が続き、
日本との通商を求めて1866年に来日し、
慶応2年7月16日(1866年8月25日)に
日伊修好通商条約を江戸で締結。
パラパラ・・・V・F・アルミニヨン
『イタリア使節の幕末見聞記』
訳;大久保昭男
(1987底本、2000.2.10初版、講談社)
\903→もらった。
いったい欧米人の訪日記は、何冊?
明治だよ。ラララ〜。
岩倉使節団の主要メンバー。
左から副使・木戸孝允、副使・山口尚芳、
正使・岩倉具視、
副使・伊藤博文、副使・大久保利通。
遣欧米特命全権大使は、
岩倉遣欧米使節団として、
1871年の冬至から1873年秋までの1年9ヶ月と21日に
わたって米欧回覧全行程が行われた。
不平等条約の改正と欧米視察を目的とした。

本書は、明治政府が、
米欧回覧で岩倉使節が得た知見を
ひろく国民に知らしめるために出版された。
パラパラ・・・特命全権大使『米欧回覧実記』
〔全5冊〕
編;久米邦武
校注;田中彰
(1977.9.16→1993.10.18/13刷、岩波文庫)
\720→もらった。
全てを知ろうとした田中さんらしい蔵書。
彼の興味は食だが、幕末維新期の質
の高い遣外使節団の崇高な意識は
田中さんの生き方そのものだ。
ビゴー。ラララ〜。
ビゴー
ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー
(Georges Ferdinand Bigot、1860年 - 1927年)
フランス人の画家、漫画家。

1882年に日本美術を研究するために来日
1883年から1899年まで陸軍士官学校で講師をしながら、
当時の日本の出来事を版画・スケッチなどの
形で風刺画にあらわした。
また、中江兆民の仏学塾でフランス語を教えてもいた。
1894年に士族の娘・佐野マスと結婚し、
1899年に離日するまで外国人居留地を中心に活動した。
当時の日本人が興味を持たなかったものも
多く題材としており、
今となっては貴重な資料になっている。
パラパラ・・・編;清水勲『ビゴー日本素描集』
(1986.5.16→1994/21刷、岩波新書)
\520→もらった。
当時の外人の眼が、今の我々の興味。
ヘルベルト・プルチョウ。ラララ〜。
ヘルベルト・プルチョウ
ヘルベルト・プルチョウ
(Plutschow,Herbert、1943年スイス生まれ。)
城西国際大学客員教授。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)名誉教授。
1962年パリ大学東洋語学校卒業。
1973年コロンビア大学博士課程で
日本中世旅文学の論文により博士号取得。
UCLAで日本文学、日本文化史を教えるかたわら、
日本学の様々な分野を研究し、論文、著書多数。
パラパラ・・・ヘルベルト・プルチョウ
『江戸の旅日記
—「徳川啓蒙期」の博物学者たち』
(2005.8.22初版、集英社)
\735→もらった。
外人が古書を再読し日本語で考察。
貝原益軒、本居宣長、菅江真澄、
松浦静山、橘南渓などの旅行記を分析。

うぇ〜ん!こーして見てみると、サムライ時期のニッポンって、フィールド・ワークの宝庫であったことがよ〜く分かる。
実際、江戸時代に日本のことを書いた見聞録は、ヨーロッパでほとんどが熱烈に読まれ、ベストセラーになったという。
「歴史」をよりシンプルに書こうとすると、大きな事件、つまり、戦争を中心に並べることになるけれど、
戦争と戦争の間にある、こーした、見聞録の時代こそが平和をキープしていたのかもしれない。
それを、「外交」と雑に言い換えてみてもいいかもしれない。
このような地味でタフな「外交」が、好奇心というエンジンによって持続されたことは、
好奇心を誘発する「文化」の魅力からだろう。
つまり、「文化」は他者の興味を好意的に呼び寄せ、平和を維持する
文化が平和を生み、育てるのは、そーゆーコトからもあるんだねぇー。
で、そんなことに甘えて、自己の「文化」にうぬぼれちゃうと、今度は、ゆがんだナショナリズムになっちゃうから、注意&注意♪

それを上手に言っているのが、上記の中で唯一、生きているプルチョウ教授だ。

「”わが文化がユニーク”とは言うな」 ヘルベルト・プルチョウ
2006年1月 日本経済新聞・夕刊「あすへの話題」より

抜粋:

1.「全人類の共通文化は何?」と日本人友人三人に聞いた。
 答は「そんなのはない」というものだった。
 こういう強調は自分の文化を外国の文化から守るために必要な手段かも知れないが、このような考え方はおかしい。

2.世界平和を守るためにも、お互いを切り離す「俺はユニーク」という見方を捨てて、世界中の人間がシェアする文化に目を向けたらどうか?

3.人間の共通文化とは、まず言語、それから宗教、芸能、社会、法律など。

4.中でも言語は一番重要。人間は例外なしに言語を使う。言語がなければ宗教、芸能、社会、経済、法律などはありえない。

5.人間であるとは一体何かを考えよう。

日本のユニークさを、豊富な知識と読解力で語れる人があえて、上記のように語っている視線は重要だよねぇ〜ん♪
えーど、えーど。
text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (2008年4月30日 0:10Am)

江戸の外国人 ★ Foreigners in Edo