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ボ・ディドリー Around the ROCK in his Life
ファンキーってなんだい。
♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Die高石ともや
♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Die高田渡



ボ・ディドリー去、79歳。
39歳の私は、ニューヨークでボ・ディドリーを観た。
text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (2008年6月4日 2:41Am)
もし、ロックンロールに「特許」が付けられていたら、その権利者は世界一の大金持ちになっていただろう。
ところが、残念なことに、ロックンロールをやり始めるよーなやつらはバカばかりだから、そーゆー知恵に関しては、からっぽ。
たとえば、チャック・ベリーが「ジョニー・B・グッド」のイントロでパテントを取っていたとしたら、どうだろう?
きっとチャック・ベリーは、マイケル・ジャクソンよりも真っ白い肌に整形し、地球の北半球を全て買い占めていたことだろう。
同じようにバディ・ホリーのロマンチックなメロディーや、プレスリーの腰なんかも、今なら弁護士は見逃すまい。
そして、ロックンロールは、そんなバカどものちょっとした気まぐれや、思いつきが組み合わさってでっちあげられた。
ただし、すげえのは、「気まぐれ」&「思いつき」が、彼らのフィジカルな本能から、ふつーに出てきた・っーことだ。
しかも、なんの打ち合わせもしていないのに、あち&こちのガキどもが、いっぺんに色んなロックを転がしだした。

そんな幻のロケンロー「特許」の権利を数パーセント持っていたオヤジが、死んだ。
Bo Diddley
1955年。
ボ・ガンボス?ボ・ディドリー Bo Diddley,
1928年12月30日〜2008年6月2日(月)
享年79歳。
心筋梗塞で、フロリダ州のアーチャーの自宅で亡くなった。

米国のロックンロール・シンガー、ギタリスト。
本名は、エラス・O・B・マクダニエル (Ellas O.B. McDaniel)。
ボ・ディドリー・ビートと称される
強力なリズムを基調とした彼の独特のサウンドは、
ブルースとロックンロールの掛け橋となり、
チャック・ベリー、リトル・リチャードらとともに
ロックンロールの生みの親のひとりとなった。
ローリング・ストーンズなど、
数多くのロック・ミュージシャンが彼から影響を受けている。

2007年3月、
『シドニー・モーニング・ヘラルド』のインタビューに答えて、
「リトル・リチャードは、2〜3年遅れて登場した。
エルヴィスの隣だった。
言い換えると、私がパイオニアだった」
と、自分がロックンロールのパイオニアであると明言した。
ボ!?ロックであ〜るぅ?
この四角いギター、私も観ました♪

うぇ〜ん!HP『共犯新聞』の古い読者であれば知っているコトだけど、
HP『共犯新聞』は元々、私がジョン・レノンの死んだ年齢よりも前にニューヨークに行くためのメモのかたまりにすぎなかった。
実際に行ってみたら、ニューヨークは、やっぱり、アート、文学、音楽、ダンス、グルメ、民族、建築、政治、経済、あらと&あらゆるコンテンツの宝庫だった。
だから私は地下鉄に乗るのももったいなく、ニューヨークの、はじから&はじまで、白昼夢にとりつかれたよーに歩きまくった。
まさしく私は、
ボ・ディドリーム・ビリーバー
だった。
それは、ここに
2001 : A NEW YORK ODYSSEY
2001年ニューヨークの旅
★日程2001年5月26日(土)〜6月2日(土)
保存されているんだけど、

これを書き上げた当時の私には(&今も?)ホーム・ページを作る技術的な知識がまったく無かったもんで、写真をUPすることなんか考えもつかなかったんだ。
だから、この時の写真をスクラップしたアルバムは、まるで今の『共犯新聞』みたいだよ。
ほら(笑)。

行っチャイナ、左から?がくっ。行っチャイナ、右上から?がくっ。
行っチャイナ、左下だもんねぇ?がくっ。行っチャイナ、右下だもんねぇ?がくっ。

うぇ〜ん!この2001年5月31日は、長かったニューヨーク旅行の最終日の前日。
私は、ニューヨークで一番、濃いエリア(だと今も想う。)イースト・ヴィレッジで長い散歩をして、
植草甚一が愛した古本屋「ストゥランド書店」で、『スィフトとスカトロジー』(笑)とゆー魅力的な研究書の古書を買い、
四方田犬彦が大好きだという「聖マルクス書店」で小説を2冊とマンガを1冊買い、
本だもんねぇ?がくっ。
近くの美容室にとびこんだ。
ところがその美容室は、「HOSHI」とゆー名前で、なんと日本人が経営していて、働いている美容師も日本人ばかり。
かなり、がくっ。
でも、ニューヨークでずーっと英語ばかり話してきたので、美容師と久しぶりの日本語♪
私の髪の毛を切ってくれた美容師は、かわいかったな〜♪って記憶があるけど、久しぶりに観た写真も、やっぱ、かわいいね(笑)。
彼女は、この1年半ほど前に川崎市の近くのイナカからニューヨークへ出てきた、って。
とりあえずクィーンズの知り合いと同居して、英会話学校に通った、んだって。

ボ、左上だもんねぇ?がくっ。ボボ・ブラジルぅ〜、右だもんねぇ?がくっ。
行っチャイナ、左下だもんねぇ?がくっ。行っチャイナ、右下だもんねぇ?がくっ。

うぇ〜ん!こんな感じで私はニューヨークでの最後の夜、
午後8時に、ブロードウェイのライブハウス「BB・キング・ブルーズ・クラブ」でボ・デイドリーのライブを観て、すぐに地下鉄に飛び乗り、
午後10時30分(!)に、ニューヨーク大学のそばのライブハウス「ボトムライン」で、ビル・ブラッフォードのライブを続けて観た。
それぞれ、北海道のイナカ町でずーっと聴いてきたミュージシャンのライブを、小さなライブハウスで、一夜に二つも観れちゃうニューヨークに、あんぐり。
うぇ〜ん!ボ・ディドリーは、客とふざけあったりして、なんだかイナカの祭りの余興のようなライブだった。
それは&それで、やっぱ、ボ・ディドリーらしかった。っーか、どーしょーもなく、ボ・ディドリーだった。
うぇ〜ん!翌日、2001年6月1日、私はジョン・F・ケネディ国際空港から飛行機で沼田町へ。
その6月1日に開かれた、坂の上の芸術。この空間が持つ磁力。神田美術館・・・追求する姿勢。神田一明画伯の個展のオープニング・パーティの招待状を私はもらっていたんだけど、
ニューヨーク旅行が決まっていたので、残念ながら欠席したんだけど、
なんとその個展が開かれた画廊が、その後の私の美術逍遥を煽動した
札幌のArtとは、ニューヨークのホイットニー美術館から、大阪の乙画廊まで、どこでもドアの奥で、今夜、パーティが2時から開かれる!「ギャラリーどらーる」だってことを知ったのは、2003年になってからだった。
うぇ〜ん!それから4ヵ月後、★NY戦争を語る。そして、想う。9月11日
イースト・ヴィレッジはワールド・トレード・センターから近い。
あの美容師も、あの白い煙をかぶったのだろうか。
それとも・・・。

四角い板の上の芸術。この空間が持つ磁力。アフリカ直輸入のロケンローする姿勢。

うぇ〜ん!つーか、7年前は5月31日に髪の毛を切ったのか。
今年も、そろ&そろ、だな(笑)。