ボ・ディドリー ★ Around the ROCK in his Life ファンキーってなんだい。 |
高石ともや 高田渡 |
ボ・ディドリー死去、79歳。 39歳の私は、ニューヨークでボ・ディドリーを観た。 もし、ロックンロールに「特許」が付けられていたら、その権利者は世界一の大金持ちになっていただろう。
ところが、残念なことに、ロックンロールをやり始めるよーなやつらはバカばかりだから、そーゆー知恵に関しては、からっぽ。 たとえば、チャック・ベリーが「ジョニー・B・グッド」のイントロでパテントを取っていたとしたら、どうだろう? きっとチャック・ベリーは、マイケル・ジャクソンよりも真っ白い肌に整形し、地球の北半球を全て買い占めていたことだろう。 同じようにバディ・ホリーのロマンチックなメロディーや、プレスリーの腰なんかも、今なら弁護士は見逃すまい。 そして、ロックンロールは、そんなバカどものちょっとした気まぐれや、思いつきが組み合わさってでっちあげられた。 ただし、すげえのは、「気まぐれ」&「思いつき」が、彼らのフィジカルな本能から、ふつーに出てきた・っーことだ。 しかも、なんの打ち合わせもしていないのに、あち&こちのガキどもが、いっぺんに色んなロックを転がしだした。 そんな幻のロケンロー「特許」の権利を数パーセント持っていたオヤジが、死んだ。
HP『共犯新聞』の古い読者であれば知っているコトだけど、 HP『共犯新聞』は元々、私がジョン・レノンの死んだ年齢よりも前にニューヨークに行くためのメモのかたまりにすぎなかった。 実際に行ってみたら、ニューヨークは、やっぱり、アート、文学、音楽、ダンス、グルメ、民族、建築、政治、経済、あらと&あらゆるコンテンツの宝庫だった。 だから私は地下鉄に乗るのももったいなく、ニューヨークの、はじから&はじまで、白昼夢にとりつかれたよーに歩きまくった。 まさしく私は、 ボ・ディドリーム・ビリーバー だった。
これを書き上げた当時の私には(&今も?)ホーム・ページを作る技術的な知識がまったく無かったもんで、写真をUPすることなんか考えもつかなかったんだ。 だから、この時の写真をスクラップしたアルバムは、まるで今の『共犯新聞』みたいだよ。 ほら(笑)。 ▼ ▲ この2001年5月31日は、長かったニューヨーク旅行の最終日の前日。 私は、ニューヨークで一番、濃いエリア(だと今も想う。)イースト・ヴィレッジで長い散歩をして、 植草甚一が愛した古本屋「ストゥランド書店」で、『スィフトとスカトロジー』(笑)とゆー魅力的な研究書の古書を買い、 四方田犬彦が大好きだという「聖マルクス書店」で小説を2冊とマンガを1冊買い、 近くの美容室にとびこんだ。 ところがその美容室は、「HOSHI」とゆー名前で、なんと日本人が経営していて、働いている美容師も日本人ばかり。 かなり、がくっ。 でも、ニューヨークでずーっと英語ばかり話してきたので、美容師と久しぶりの日本語♪ 私の髪の毛を切ってくれた美容師は、かわいかったな〜♪って記憶があるけど、久しぶりに観た写真も、やっぱ、かわいいね(笑)。 彼女は、この1年半ほど前に川崎市の近くのイナカからニューヨークへ出てきた、って。 とりあえずクィーンズの知り合いと同居して、英会話学校に通った、んだって。 ▼ ▲ こんな感じで私はニューヨークでの最後の夜、 午後8時に、ブロードウェイのライブハウス「BB・キング・ブルーズ・クラブ」でボ・デイドリーのライブを観て、すぐに地下鉄に飛び乗り、 午後10時30分(!)に、ニューヨーク大学のそばのライブハウス「ボトムライン」で、ビル・ブラッフォードのライブを続けて観た。 それぞれ、北海道のイナカ町でずーっと聴いてきたミュージシャンのライブを、小さなライブハウスで、一夜に二つも観れちゃうニューヨークに、あんぐり。 ボ・ディドリーは、客とふざけあったりして、なんだかイナカの祭りの余興のようなライブだった。 それは&それで、やっぱ、ボ・ディドリーらしかった。っーか、どーしょーもなく、ボ・ディドリーだった。 翌日、2001年6月1日、私はジョン・F・ケネディ国際空港から飛行機で沼田町へ。 その6月1日に開かれた、神田一明画伯の個展のオープニング・パーティの招待状を私はもらっていたんだけど、 ニューヨーク旅行が決まっていたので、残念ながら欠席したんだけど、 なんとその個展が開かれた画廊が、その後の私の美術逍遥を煽動した 札幌の「ギャラリーどらーる」だってことを知ったのは、2003年になってからだった。 それから4ヵ月後、9月11日。 イースト・ヴィレッジはワールド・トレード・センターから近い。 あの美容師も、あの白い煙をかぶったのだろうか。 それとも・・・。 つーか、7年前は5月31日に髪の毛を切ったのか。 今年も、そろ&そろ、だな(笑)。 |