フォークとロックの共犯ブリッジ |
高石ともや 高田渡 友部さん芦別DYLAN訪問記念(?)「乾杯」特集(?) 友部正人2008 ファンキーってなんだい。 友部正人2009 AUMI ライブ・イン・留萌 2009 |
忌野清志郎が、5月2日に死んでから半年弱。2009年の日本は、加藤和彦も失った。 キヨシローと加藤の共通点と言えば、フォークで始まり、ロックへ展開していった、とゆーことだろう。 フォークからロックへの「進化」(?)と言えば、もちろん元祖は1965年にそれをやっちゃったボブ・ディランなんだけれど、 キヨシローと加藤にはボブ・ディランが体験した「悩み」やファンからの「非難」も無く、まるでそれが必然かのように自然にロックへと移行した。 だからディランと、ディラン以外を比較することには意味は無いのだろう。 しかし、キヨシローと加藤がフォークで音楽に目覚め、それをロックへと昇華していった経路は同じだ。 1970年をはさんで、この傾向は世界中で起こったようで、デヴィッド・ボウイやマーク・ボランも、同様だ。 1960年代、音楽で自己表現を目指す若者にとって、フォークは優れたツールであったことは間違いない。 それがなぜ、ロックへと向かわせたのだろうか? 私が考える理由は、大きく言えば「サウンド志向」であり、具体的に言えば「音色」と「リズム」、だ。 表現者は過剰なるものを抱えているからこそ、それを移し変える器として、表現に向かうのだ。 その過程でより過剰で、よりエキセントリックな表現者であれば、より複雑な表現方法に向かうのが自然である。 もちろん、フォークが単純だ、とゆー意味ではない。より複雑な「音色」と「リズム」を持った器がロックである、というだけのことだ。 音楽での表現の入り口にフォークを選んだ者は、まずは「メロディー」を重視する。 それは、初めてオリジナル曲を作ろうと踏み出すときに「言葉(=歌詞)」は、「音色」や「リズム」よりも、まずは「メロディー」と馴染もうとするからだ。 しかし、やがて「言葉」は「メロディー」をはみ出してゆく力を持ち始める。その時にミュージシャンは、「音色」と「リズム」を導入するのだ。 「音色」と「リズム」の果てに生れるグルーヴは、音楽における存在論だ。 そのとき、ロックは思想になる。それは人類が初めて体験する「言葉」に頼る必要のない思想だ。 誰よりも言葉を重視するミュージシャンである、キヨシローや加藤が「言葉」を超えようとしたことがそれを裏づけている。 もちろん、ボブ・ディランしかり、デヴィッド・ボウイしかり、だ。 そして、「うた」という「表現」には、パフォーマンスという作業がつきまとう。 つまり、「作る」ことと「演じる」ことが溶け合いながら生れてくるのが、音楽だ。 それは絵画や文学などの他の表現ジャンルと決定的に違うところなのかもしれない。 パフォーマンスがつきまとう「作る」作業には、初期衝動としてオーディエンスを「びっくりさせる」ことを重視する傾向を準備してしまう。 その傾向の結果、音楽の処女作や初期の作品には、コミック・ソングが多い。 そして、キヨシローも加藤も、そうだった。 加藤のメジャー・デビュー作「帰って来たヨッパライ」は、まさに、それだけの曲、と言い切ってもいい。 しかも、加藤はキャリアの出発であるこの曲から、もうすでに「メロディー」だけではなく、「音色」や「リズム」も手に入れていたのだ。 また、キヨシローと加藤のコミック・ソング好きは最初だけではなく、最後までその傾向があった。もう、それは傾向ではなく、資質、だったのだと思う。 その資質を最後まで無くさなかったからこそ、バランスをとるために、もう一つの資質であるシリアスな歌の作曲も深めることができたのだと思う。 サディスティック・ミカ・バンドとゆーバンド名だって、ジョン・レノンの「プラスティック・オノ・バンド」のパロディーだったわけだし、 デビュー・アルバムなどは高品質の演奏力に担保された、質の悪い(?)コミック・ソング集のようなものだ。 セカンド・アルバムも「お花見ブギ」とゆー曲が入った『駅前旅館』になる予定が、クリス・トーマスの出現でシリアスな『黒船』になっちゃったんだと、思う。 イギリス人のクリスが日本語のコミック・ソングに笑えたわけはなく、彼は純粋に彼らの演奏力の今日性(=世界同時性)に強く関心を持ったのだと思う。 加藤のコンセプトであるユーモアをクリスが排した結果、『黒船』は歴史的大傑作になったわけだが、同時に加藤は愛妻ミカをクリスに寝取られてしまう。 このとき、加藤は2つのものを同時に失った、と考えるのは傍観者の勝手な想像か。
私はフォークもロックも聴くが、この両者のブリッジに加藤和彦がいたことを嬉しく、誇りに思う。 ただ、そのブリッジが想像を絶する孤独によってぎりぎりにつながれていたと教えてくれたのが、 軽井沢のホテルに垂直に降りていた長身の加藤をつないでいたものであったと知るのは、 あまりにも辛い。 加藤が過剰でエキセントリックであったのは、孤独だったからなのか? 加藤は京都の龍谷大学に入学したが、東京から来たばかりの加藤には友人はおらず、音楽仲間の2歳年上の、はしだのりひこの下宿に入り浸っていたそうだ。 学生時代の友人がそのままフォーク・グループとなり、それがロック・バンドになる。 グループやバンドが解散するたびに結婚したのは、偶然ではないだろう。 加藤にとって歌手や作詞家との結婚はまた、孤独から遠い島としての新しいバンドだったのではないだろうか。 ともだちが欲しい小学生が友人にわずかなおこづかいで買ったおもちゃをあげるように、加藤は次から次へと曲を提供し続けた。 それがあまりにも素晴らしい曲ばかりだったから、まわりの者たちも本人自身も孤独であったことに気がつくのがずいぶん遅くなってしまったのか。 もし、そうだとしたら、 62歳でそれに気がつくって、どーゆーことなんだろう。 同じ年齢の鳩山 由紀夫(1947年2月11日生まれ。)が愛妻と手をつないで、華やかな総理大臣の生活を連日、テレビにさらしている日々だからこそ、その答えがほしい。 |
歴史から飛び出せ! ★たとえば10月31日の歴史★ Happy Birthday to Ms. Marie Laurencin !
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