IconI'll follow you wherever you may go!
『共 犯新聞』NEW YORK地 図映画
[email protected]
Elvis Presley・・・偉大なる裸の王様

Happy
Birthday
to
me
!
Just
42
!
Is peace over? ( If you want it )
Motohiro Kubo
(1962年3月31日生まれ)
2003年3月31日 42歳
『ジュネ伝』を読む。
42
Text by. 久保AB-ST元宏(2004年3月29日)
■私がエルビス・プレスリーの死を知ったのは高校1年生の夏休みだった。
高校に入学した私は中学校と違い「頭髪検査」の無い「自由」を得て、髪の毛が肩にかかっていた。
ロック・バンドを作ろうと思っていた夏休みの初め、階段で足を踏み外し左腕を窓ガラスに突っ込んだ。
左腕の肘がグシャグシャになり、筋が切れ、手術後にギプスをさせられた。ギターが弾けなくなった。
翌月にギプスをしたまま、その年の7月21日にオープンした北海道立近代美術館に行った。
美術館では、開館記念の展覧会『ミュンヘン近代美術展』がやっていた。
「世紀末から青騎士へ」の副題で集められた絵画はカンディンスキーなどのマニアックな作品だった。
それらは大衆向けと言う作品群ではなかったが、高校1年生の背伸び盛りの私には印象的だった。

■この展覧会はその後、1997年に芸術の森美術館で行われた『カンデンスキー&ミュンター』の
準備のためのものであったような気がする。同じ出品作品が、さらに強い企画意図で構成されていた。
『カンディンスキー&ミュンター』は素晴らしい展覧会であり、企画者の意図と情熱が伝わってきた。
それは1977年『ミュンヘン近代美術展』から1997年の間の北海道美術シーンの20年の成熟だろう。
カンデンスキーは言うまでも無い現代抽象絵画の偉大なる先駆者であるが、
一緒に副題に使われた女性画家ガブリエーレ・ミュンターはカンディンスキーの弟子にして、
前衛美術運動「青騎士」の同志であり、恋人であった。彼らは旅をし、出版し、展覧会を企画した。
結局は分かれてしまう二人だが、その密度の濃い1901年から1917年までを集めた展覧会だった。
カンデンスキーは1944年にパリで78歳で死ぬ。ミュンターは私の生れた1962年に85歳で死 んだ。

■15歳の私は左手の重たいギプスをぶら下げながら、新築したての北海道立近代美術館を歩いた。
フランスの印象派のように明るくはなく、アメリカのポップ・アートのように楽天的ではない世界。
そんな印象を無知な私はミュンヘン近代美術に感じた。それは、15歳の私自信の投影かもしれない。
その足でお盆休みで親戚が大勢集まっている家に訪問し、スイカをご馳走になった。
そこに1950年生れの従兄弟が遅れてやってきて、開口一番、私に向かって言った。
「エルビス・プレスリーが死んだよ。42だっ て。」

■当時、遅れてきたビートルズ・マニアだった私にとってプレスリーはまったく眼中になかった。
私にとってロックはビートルズがデビューした1962年から始まったものであった。
それに、当時はドーナツを喰いすぎてブク&ブク太った醜いコンサバ・オヤジとゆーイメージだった。
なんでもニクソン大統領とFBIにジョン・レノンの左翼活動をチクったとゆー噂も気に入らなかった。

■実際、プレスリーはジョン・レノンが嫌いであったのだろう。
しかし、どうやらジョン・レノンは死ぬまでプレスリーが好きだったようだ。
ビートルズの日本公演時の記者会見でジョンがおどけてステップを踏む映像が残っているが、
あれはプレスリーの物まねだろう。ジョンは本人の前でもやったそうだ。本人はムッとしていたそうだが。

























♪苦墓喪吐疲労
—脳味噌の解放は可能か?—
☆お前は亡命者!Could bow motor hero
( Can we release a brain? )
By 久保元宏(1983年3月3日3Pm)

みてみろよ そこら一面に
脳味噌が ころがっているぜ

権力の嫉妬に 泣いた
自由の自惚れに 堕ちた
脳味噌が 転がっているぜ

革新の嘘に 笑った
恋愛の海に 沈む
脳味噌が ころがっているぜ
パラパラ・・・そ の後、私は古本屋で片岡義男『ぼくはプレスリーが大好き』(1971年、三一書房)を買う。それはとても素晴らしい本だ。でも、その話はまた別の 機会に。
パラパラ・・・エ ルヴィスの世話役たちの証言集、アラナ・ネッシュ『エルヴィス・プレスリー メンフィス・マフィアの証言』(1997年)は興味深い証言に溢れて いる。
たとえば、1.エルヴィスがスコットランド系で、インディアンの血が少し入っていることを誇りにしていた。
2.ハイティーンになっても、一人っ子の彼は両親と一緒に寝ていた。
3.情婦を奪った相手がテレビに出ると、大口径のピストルをぶっ放して画面を粉砕した。
4.1977年8月16日、42歳の死体から14種類の麻薬が検出された。
パラパラ・・・マ イケル・T・バートランド『エルヴィスが社会を動かした』(2002年、青土社)は、保守的なバラード歌手としての彼のイメージを砕く。
平井玄(音楽評論家)による北海道新聞2002年9月15日の書評は、9−11から1年後の視線が「作られた」イメージの虚構を種明かす。
初 期の彼を熱狂的に支持したファンの大半が黒人だっ た。
1950年代の(黒人の)公民権運動の時代にこれは、学校やレストランでの統合よりもずっと深 い身体レベルでの人種混合だったのである。
この勢いを恐れた人種隔離派たち は子どもたちを(黒人から)守ると称してロッカーたちを脅迫し、放送を禁止し、コンサートを襲撃さえした。
これがうまく行かないと、今度はエ ルヴィスに安全なポップスを歌わせ兵 役ハリウッ ド映画「良 きアメリカ人」イメージを押し出して無害化を図 る。
今もブッシュを支持するアメリカ 南部の秘密に触れる好著である。」
パラパラ・・・2004 年3月、中上哲夫の詩集『エルヴィスが死んだ日の夜』(2003年、書肆山田)が高見順賞を受賞。
授賞式での著者の言葉→「物語を引きずって生きるのが 人間それを詩にするのが詩人。私という物語を私なりに書いていきたい。」
1970年の、いやらしい出来事。 King met President
■ロック・スターがアメリカ大統領と一緒の 写真で、もっとも有名ながコレ。
1970年12月にエルビスが大統領執務室 のリチャード・M・ニクソン大統領に会った。
エル ビス・プレスリーは 1935年生まれだから、大統領に会った当時は35歳。
還暦過ぎのローリング・ストーンズがスタジアム・ツアーを展開する21世紀、
35歳のロック・スターはけっして年寄りで はない。
しかし、エルビスは1962 年にビート ルズがデビューした時から、老人扱いされてしまった。
実に、27歳の老人で ある。エルビスはそれに先駆けた1958年、23歳で軍隊に入っていた。
ビートルズがアメリカ上陸した前年、ケネ ディ大統領は暗殺され、アメリカはベトナム戦争へ。
エルビスにとっては、自分が軍隊で国家のた めに汗を流している間に、人気をビートルズに
盗られたと思ったかも。軍隊に入ったロック・スターは彼の他にいるだろうか?
ケネディの政敵ニクソンとエルビスが握手を していた時、
ジョン・レノンは反ニクソン運動を路上でしていた。彼らの歳の差は、たったの5歳だった。

Elvis died at his Memphis home, Graceland, on August 16, 1977.
エルビスは、グレースランドにある彼のメンフィスの家で、 1977 年 8 月 16 日に死んだ。

Male prostitute
met the world
NY is a Not Young.■ 第二次世界大戦から半年後の1946年1月、
当時もっとも注目されていたフランスの哲学 者
サルトルがニューヨーク訪問を果たした。
それはセンセーショナルな哲学的事件だっ た。
一流の知識人がこぞってサルトルの新しい
哲学である実存主義を聞きにむらがった。
昼飯の席で不条理小説『異邦人』で話題に
なっていたフランスの小説家カミュについて
たずねられたサルトルは、「ええ彼は友人で す。
才能ある作家で、優れた文章家です。しか し、
カミュは本物の天才ではありません」と答え た。そして彼は続けて、
「今のフランスには、正真正銘の文学的天才 がいます。ジャン・ジュネ
という名前で、彼の文体はデカルトと同じも のです」と語った。
ジャン・ジュネ(1910年12月19 日〜1986年4月15日)が初めて世界に
紹介された瞬間である。この昼食の話題は、 すぐに出版に結びつく。

■ジュネが初めて日本に翻訳紹介されたのは 1953年の自伝的小説
『泥棒日記』(1949年)であった。しか し、この泥棒であり男娼 であった
男が遠い東洋の敗戦国にですら翻訳されたのにもサルトルの力が
大きかった。その前年の1952年にサルト ルが『聖ジュネ』を出版した。
この本が、市民生活の敵=ジュネを文学のカ リスマにでっち上げた。
それまでサルトルが評論した作家は評価が安 定した文豪ばかりで
あったが、この時ジュネはまだ42で、むしろ
「パリの教養人の半分には無名の存在であ り、残り半分からは
文学の問題児」(エドマン・ホワイト『ジュ ネ伝』より)とされていた。
パラパラ・・・しかし、ひとりの評論家がひとりの小説家を
あまりにも精密に分析 してしまうと、
その小説家の創作能力 は一種の麻痺(まひ)状態に
おちいってしまう。
サルトルの評論が出て から、ジュネは小説が書けなくなり、
以後はもっぱら劇作に 向かった。
澁 澤龍彦(1986 年4月18日 朝日新聞「ジャン・ジュネ追悼」)
■実 際、ジュネは、「サルトルの論考が発表されたことにより、
精神的危機に陥る。ジュネはコクトー に、過去5年間の作 品を燃やし
てしまったと告げる。モロッコに何度も旅行に出る。」(『ジュネ伝』)

■1969年11月17日、ジュネは来 日して全学連のデモに参加。
幻野★いいわけなんて、いらねぇよ。てめえの●●●にきいてみな。■ ロック・バンドの頭脳警察が、
「♪ジュネの日記を頼りにすることも」と 歌った1972年、
ジャンはパレ スチナ人と 共にレバノンに住んでいた。

■エルビス・プレスリーが死んだ1977年 夏、ジュネのテクストの中で
もっとも議論を呼び起こした「暴力と凶暴 性」が『ル・モンド』に掲載。
このテクストは、同年12月にマスペロ社が 刊行した「ドイツ赤軍派」の
メンバーが獄中で書いた文章の選集の序文と して、用いられた。

Genet died in Paris on April 15, 1986.
ジュネは、 1986 年 4 月 15 日にパリで死んだ。
ジュネとブラック・パワー文学★ジュネの奥にいる黒人は、ジェームズ・ボールドウィン(James Baldwin、1924-87)。
▲ジュネの奥にいる黒人は、ジェームズ・ボールドウィン(James Baldwin、1924- 87)。
植草甚一によれば「世界ではじめてジャズ を言語化」することに成功した作家。

Let me take you there.★Vサインは枝分かれの意味を含有していたのか?■1970年10月12日、
パリのアメリカン・センターで、
ジュネはボールドウィンと一緒に、
ジョージ・ジャクソンの解放を求めるア ピールを発表。

■ジャクソンは1960年、
ガソリンスタンドから17ドル盗んだ友 人のために
逃走用の車を運転したかどで18歳のと き逮捕された。
事件の窃盗犯だった友人は1936年に 釈放されたのに、
ジャクソンは10年後にもまだ獄中にい た。
それどころか、
なぜか毎年彼の判決は重くなっていっ た。

■ボールドウィンが1963年に書いた 『次は火だ』は、
黒人の武装闘争の提唱を助けた。
1966年に黒人の過激派ブラック・パ ンサーが結成され、
1969年にジャクソンも参加した。

■ジャクソンの17歳の弟ジョナサン は、兄を苦しめる不正が許せなかった。
1970年8月7日、
ジョナサンは兄ジョージの裁判の前に別 の黒人被告の裁判を傍聴した。
突然、彼は立ち上がり、折りたたみ式ラ イフル銃を上着から取り出し、
二人の黒人の囚人にピストルを投げて渡 した。
銃撃戦が起こり、ジョナサンと二人の囚 人は撃たれて殺された。

■この映画さながらの乱射事件の思わぬ 主人公になったのが、
元・大学助教授のアンジェラ・ディヴィス(1944年生れ)であった。
彼女はインテリであり、黒人であり、女 であり、コミュニストであった。
つまり、当時のアメリカ当局が嫌う4要素を全て備えていたのだ。
ついでに美人でもあった。

■乱射事件の2ヶ月前、
アンジェラはのちに大統領になるロナル ド・レーガン州知事から、
不当な弾圧を受け、カリフォルニア大学 哲学科助教授を解雇されたばかりだった。
John & Yoko★Give Peace A Chance !「ベッド・イン」のパフォーマンスをして平和を訴え、マスコミで話題。
■ジョン・レノンとオノ・ヨーコは、
1969年3月31日まで
アムステルダムのヒルトン・ホテルで
記者団を前に
ベッド・イン」のパフォーマンスをして
平和を訴え、
マスコミで話題。
John Ono Lennon
1969年3月31日 29歳
♪ アンジェラ
共犯音楽祭★TERAのROCK名盤100枚!★Music〜音という抽象芸術♪ANGELA
By ジョン・レノン&オノ・ヨーコ(1972年3月31日)
意訳 久保元宏(2004年3月31日)

Angela, they put you in prison
アンジェラ、やつらは君を監獄に押し込める

Angela, they shot down your man
アンジェラ、やつらは君の恋人を射殺した

Angela, you're one of the millions of political prisoners in the world.
アンジェラ、君は世界中の何百万人もの政治犯の一人なんだね


They gave you sunshine
エルビス・プレスリーはサンハウス・レコードでデビューした

They gave you sea
ニクソンとFBIはサーフィン・ミュージックを聴かせてくれた

They gave you everything but the jailhouse key
でも、カギ無しの「監獄ロック」って、無理。がくっ。

■ この曲はジョン・レノンの最も政治的なアルバム、
『サムタイム・イ ン・ニューヨーク・シティ』に収録。
ジャ ケットの表には、
こ の歌詞と共に
ア ンジェラ・ディヴィスの顔写真が掲載されている。
■ ジュネは、
アンジェラが大学 の解雇闘争をしていた時から
彼女と会い支援活 動をしていた。
だから、この不当 容疑には憤った。

■アンジェラの容 疑は
「ジョナサンに武 器を与えた共犯」 という
バカバカしいぐら いのデッチアゲだった。

■アメリカ当局 が、彼女を嫌いなだけだった。

■1970年10 月12日、
パリのアメリカ ン・センターで、
ジュネはボールド ウィンと一緒に、
ジャクソンの解放 を求めるアピールを発表。

■その翌日、 1970年10月13日、
2ヶ月に渡る FBIとの追いかけっこの末、
ア ンジェラはニューヨークで逮捕された。

■当時のニクソン大統領は
「テロリストへのいい見せしめ だ。」と公言し た。

■1972年2 月、保釈。

■同年6月、無罪 判決。

■1986年4月 15日、
支援してくれてい たジュネが死んだ時、
アンジェラは42だった。


★just imagine...♪アートだ!あん♪アン♪UNIQLO アンディ・ウォーホルプリントT(半袖)各種【1,500円】
アンディ・ウォーホル(1928-1987)は、大衆文化からのイメージを引用して、
マリリン・モンローやエ ルビス・プレスリーなどの有名人を描き、
20世紀アートの象徴とも言える作品を数多く創り上げました。
Tシャツだよー。ブッシュさんも着るぅ?←■このT シャツも売ってるよ〜♪クリックしちゃえば、パンツまで!



♪お米、お米、おこめぇえ〜ユニ クロ、食品販売から撤退
 ファーストリテイリングは、青果等の食料品販売を手がけている子会社、
株式会社エフアール・フーズ(東京都府中市)を解散すると発表した。

 同社は、低迷する本業の補完を狙って2002年に設立され、「SKIP」のブランド
で、契約栽培された青果や鶏卵、米などの食料品を宅配やネット通販、店舗
などで販売していた。しかし、当初予定していた会員数を確保できず、黒字化
が見込めないことから、今回、解散を決めた。

 なお、路面店は、既に閉店しており、百貨店内の店舗も今年4月末までに順
次閉店する予定。また、会社は、6月をメドに解散する。これにより、ファースト
リテイリングは、8月決算で約28億円の特別損失を計上する予定だ。

[関連ページ]●ファーストリテイリング


俳句は、パンク。今日の一句
成熟を拒む勇気の冬キャベツ
(久保元宏 1997年2月)
お前が生まれる前から、俺は俺だったんだぜ。悪かったな。

★日付をクリックすると、♪好きな時代に行けるわっ♪あん♪アン♪歴史から飛び出 せ!
たとえば→2月1の歴史
セレブという孤独と病気の先。
Happy Birthday to
Ms.
やってる、やってるぅ!Lisa Marie Presley !

タイトル『木の途中』
作詞;久保元宏(2003年3月16日)  作曲;キューティーはるよ

人間みたいな猿が木を登ってゆく 猿みたいな人間が木から降りてくる
猿みたいな人間が木を登ってゆく 人間みたいな猿が木から降りてくる
人間みたいな人間が木を燃やしている 猿みたいな猿が気が狂ってくる

登ってゆく木の途中で俺は猿みたいな俺と すれ違った
さぼってゆく昨日途中でお前は人間みたいなお前と 入れ替わった
人間みたいな猿が木を登ってゆく 猿みたいな人間が木から降りてくる


Elvis Aaron Presley, in the humblest of circumstances, was born to Vernon and Gladys Presley in a two-room house in Tupelo, Mississippi on January 8, 1935.
エルビス・アーロン・プレスリーは、情況の最も控え目なものにおいてテューペロの 2 ‐部屋家、 1935 年 1 月 8 日のミシシッピにおけるヴァーノン、及び、 Gladys Presley に生まれた。

His twin brother, Jessie Garon, was stillborn, leaving Elvis to grow up as an only child.
エルビスにひとりっ子として成長させて、彼の双子の兄弟、 Jessie Garon は、死産であった。

He and his parents moved to Memphis, Tennessee in 1948, and Elvis graduated from Humes High School there in 1953.
彼、及び、彼の親は、メンフィス、 1948 年のテネシー、及び、そこで Humes ハイスクールを 1953 年に卒業したエルビスに動いた。

Elvis’ musical influences were the pop and country music of the time, the gospel music he heard in church and at the all-night gospel sings he frequently attended, and the black R&B he absorbed on historic Beale Street as a Memphis teenager.
Elvis' 音楽の影響は、そのポップであり、そして、時間、福音音楽 ( 彼が教会で聞いた ) の、そして、徹夜の福音のカントリーミュージックは、歌う、彼は、頻繁に出席した、そして、黒い R&B ( 彼がメンフィスティーンエージャーとして歴史的に有名なビール・ストリートで吸収した ) 。

In 1954, he began his singing career with the legendary Sun Records label in Memphis.
1954 年に、彼は、彼の音をたてている職業をメンフィスの伝説的なサン Records ラベルで始めた。

In late 1955, his recording contract was sold to RCA Victor.
1955 年末に、彼が契約を記録することが RCA Victor に売られた。

By 1956, he was an international sensation.
1956 年までに、彼は、国際的感覚であった。

With a sound and style that uniquely combined his diverse musical influences and blurred and challenged the social and racial barriers of the time, he ushered in a whole new era of American music and popular culture.
彼の種々の音楽の影響を比類なく結合し、そして、当時の社会、そして人種の障壁を汚して、挑戦した音、及び、スタイルに関して、彼は、米国の音 楽、及び、ポピュラーな文化の全ての新しい時代の到来を告げた。

He starred in 33 successful films, made history with his television appearances and specials, and knew great acclaim through his many, often record-breaking, live concert performances on tour and in Las Vegas.
彼は、 33 の成功したフィルムで主役を務め、彼のテレビ外観、及び、スペシャルによって歴史を作り、そして、彼の多数、ツアーに関するしばしば記録破りの生きたコン サートパフォーマ ンスを経て、そして、ラスベガスで大きい歓呼を知った。

Globally, he has sold over one billion records, more than any other artist.
全世界に、彼は、他のアーティストを超える少なくとも 10 億のレコードを売った。

His American sales have earned him gold, platinum or multi-platinum awards for 148 different albums and singles, far more than any other artist.
彼の米国の販売は、はるかに他のアーティストを超える 148 冊の異なるアルバム、及び、シングルのために金の、プラチナ、もしくは、マルチ‐プラチナ賞を彼にもたらした。

Among his many awards and accolades were 14 Grammy nominations (3 wins) from the National Academy of Recording Arts & Sciences, the Grammy Lifetime Achievement Award, which he received at age 36, and his being named One of the Ten Outstanding Young Men of the Nation for 1970 by the United States Jaycees.
彼のものの間では、多くの賞、及び、名誉は、 Recording Arts & Sciences の National Academy 、グラミー賞 Lifetime Achievement Award ( 彼が年齢 36 で受け取った ) 、及び、彼のものからの 14 のグラミー賞指名 ( 3 が勝つ ) であった、米国の青年商工会議所会員による 1970 年の間国家の Ten Outstanding Young Men の One と指定される。

Without any of the special privileges his celebrity status might have afforded him, he honorably served his country in the U.S. Army.
彼の名士の地位が彼に与えたであろう特権のうちのどれなしででも、彼は、立派に米国陸軍に彼の国に貢献した。

His talent, good looks, sensuality, charisma, and good humor endeared him to millions, as did the humility and human kindness he demonstrated throughout his life.
彼の才能、美貌、官能性、カリスマ、及び、上機嫌は、 ( 百万 ) に彼を慕わせた ( 彼が自分のライフの至る所で示した謙遜、及び、人間の優しさと同様に ) 。

Known the world over by his first name, he is regarded as one of the most important figures of twentieth century popular culture.
彼の名によって世界中で知られていて、彼は、 20 世紀ポピュラーな文化の最も重要な数字のうちの 1 つと見なされる。

Elvis died at his Memphis home, Graceland, on August 16, 1977.
エルビスは、グレースランドにある彼のメンフィスの家で、 1977 年 8 月 16 日に死んだ。


http://www.archives.gov/exhibit_hall/when_nixon_met_elvis/part_1.html

Elvis Presley met President Richard M. Nixon in the Oval Office in December 1970.
エルビス・プレスリーは、 1970 年 12 月に大統領執務室のリチャード・ M ・ニクソン大統領に会った。

A photograph of that meeting is one of the most famous in the holdings of the National Archives.
その会合の写真は、 National Archives の保有高において最も有名なことのうちの 1 つである。

Through the original letters and memorandums written by Presley and the White House staff, this exhibit tells the behind-the-scenes story of how the meeting was arranged.
プレスリー、及び、ホワイトハウススタッフによって書かれたオリジナルのレター、及び、覚書を経て、この公開は、いかにその会合が手配されたかの 舞台裏の話を告げる。

In addition, we present for the first time all 28 photographs taken of this remarkable event.
更に、我々は、初めてこの注目すべきイベントが考慮された全ての 28 枚の写真を提示する。



Jean Genet
ジャ ン・ジュネ
ジュネ King met President
■ロ

French novelist, playwright and poet Jean Genet was born in Paris on December 19, 1910.
フランスの小説家、脚本家、及び、詩人ジーン・ジュネは、 1910 年 12 月 19 日のパリで生まれた。

Abandoned by his parents, he spent much of his youth in an institution for juvenile delinquents.
彼の親によって見捨てられて、彼は、非行少年に制度における彼の若さの大部分を使った。

At the age of ten, he was accused of stealing.
10 の年齢で、彼は、窃盗の罪で告発された。

Although innocent of the charge, having been described as a thief, the young boy resolved to be a thief.
チャージを犯していないが、窃盗犯人と評されて、若い少年が窃盗犯人であることを決意した。

"Thus," wrote Genet, "I decisively repudiated a world that had repudiated me."
「私が私との関係を断った世界を決定的に否認した」、「 Thus 」がジュネに手紙で知らせた。

Between 1930 and 1940, he wandered through various European countries, living as a thief and male prostitute.
1930 年、及び、 1940 年の間に、窃盗犯人、及び、男性の売春婦として生活して、彼は、様々なヨーロッパの諸国を歩き回った。

Eventually, he found himself in Hitler's Germany where he felt strangely out of place.
結局、彼は、気がつくとヒトラーのドイツ ( 彼が奇妙に場違いであると感じた ) にいた。

"I had a feeling of being in a camp of organized bandits.
私は、組織された強盗のキャンプにあるという感じを持っていた。

This is a nation of thieves, I felt.
これが窃盗犯人の国家である、と私は考えた。

If I steal here, I accomplish no special act that could help me to realize myself.
私がここで盗むならば、私は、私が自分を発揮するのに役立つであろう特別な行動を完遂しない。

I merely obey the habitual order of things.
私は、物事のいつものオーダに単に服従する。

I do not destroy it."
私は、それを破壊しない。

So Genet hastened on to a country that still obeyed a more conventional moral code.
従って、ジュネは、更に従来の道徳律にまだ服従した国で急いだ。

In 1943, after being imprisoned for theft, Genet began writing.
1943 年に、窃盗のために拘留された後で、ジュネは、書き始めた。

Ignoring traditional plot and psychology, Genet's plays rely heavily on ritual, transformation, illusion and interchangeable identities.
伝統的なプロット、及び、心理学を無視して、ジュネの演劇は、儀式、変化、幻覚、及び、交換できる一致にひどく頼る。

His experiences in prison would inform much of his work.
刑務所における彼の経験は、彼のワークの大部分に通知するであろう。

The homosexuals, prostitutes, thiefs and outcasts of his plays are trapped in self-destructive circles.
同性愛の人、売春婦、 thiefs 、及び、彼の演劇の追放者は、自己‐破壊的サークルに閉じ込められる。

They express the despair and loneliness of a man caught in a maze of mirrors, trapped by an endless progression of images that are, in reality, merely his own distorted reflection.
それらは、絶望を表明し、そして、人の孤独は、実は単に彼自身の歪められた反射であるイメージの無限の進歩によって閉じ込められた鏡の迷路に引っ かかった。

Genet's first dramatic effort is a poignant examination of the oppressed and the oppressor.
ジュネの最初の劇的な努力は、激しい試験である、の、制圧される、そして、圧制者。

In Deathwatch he experiments with a murderer in the role of hero.
Deathwatch において、彼は、ヒーローの役割における殺人者の実験をする。

The play revolves around three inmates who struggle for domination of a prison cell while an unseen fourth prisoner watches on.
その遊びは、 3 人の被収容者 ( 目に見えない第 4 の囚人がオンを見るとき、刑務所セルの支配のために奮闘する ) の回りを回転する。

In his next play;
彼の次において、プレイしなさい ;

The Maids, Genet portrays a ritualistic act of two maids who take turns acting as "Madame," abusing each other as either servant or employer.
Maids 、ジュネは、交替でする 2 人のメイドの儀式的な行動を描く、行動する、〜同じくらい、使用人か雇用者のいずれかとして相互を乱用する「奥様」。

The ceremony reveals not only the maids' hatred of the Madame's authority, but also their hatred of themselves for participating in the hierarchy that oppresses them.
セレモニー、明らかにする、〜ばかりでなく〜、メイドの憎悪、の、夫人、権威である、自らに対するそれらの憎悪、階層に参加するために、それは、 それらを制圧する。

First staged at a private club in London because it was considered too scandalous for Paris audiences, The Balcony is set in a brothel of "nobel dimensions," a palace of illusions in which men can indulge their secret fantasies, perhaps as a judge inflicting punishment on a beautiful thief, or as a dying Foreign Legionaire being succoured by a beautiful Arab maiden.
最初にロンドンのプライベートなクラブで行われて、なぜなら、それがパリ聴衆には、あまりにも不名誉であると考えられたからだ。 The Balcony は、おそらく処罰を美しい窃盗犯人に課す裁判官として、もしくは、美しいアラブの少女によって救援された死にかかっている Foreign Legionaire として「 nobel 次元」の売春宿、人がそれらの秘密の想像を満足させ得る幻覚の宮殿にセットされる。

But outside the brothel, the country is caught up in the throes of revolution, and these false roles become confused with the real roles of "bishop," "judge" and "general" until nothing is certain.
しかし、売春宿の外で、その国は、革命の激痛に持ち上げられ、そして、何も確かではないまで、これらの間違った役割は、「主教」、「裁判官」の真 の役割によって困惑し、そして、「一般的に」なる。

In The Blacks, a troupe of colored actors enacts before a jury of white-masked blacks the ritualistic murder of a white of which they have been accused.
The Blacks において、色つきの俳優の一座、制定する、白に‐マスクした黒の陪審の前に、それらが告発されていた白いものの儀式的な殺人。

The last of Genet's plays to be produced during his lifetime, The Screens, is his comment on the Algerian revolution.
彼の生涯、 The Screens の間に作られるためのジュネの演劇の最後は、アルジェリアの革命に関する彼のコメントである。

Like all of Genet's works, these plays are grotesque, sometimes bewildering, savage, and haunting.
ジュネの全てのワークのように、これらの演劇は、グロテスクで、時折当惑させ、野蛮で、忘れられない。

Simultaneously cultivating and denouncing the stage illusion, they exude a strange ritualistic, incantatory quality that successfully transforms life into a series of ceremonies and rituals that bring stability to an otherwise unbearable existence.
同時にステージ幻覚を高めて、非難して、それらは、安定性を他の場合は耐えられない生活にもたらす一連のセレモニー、及び、儀式にライフを首尾よ く変える奇異な儀式的な incantatory 品質を発散する。

In addition to his plays, Genet wrote several novels and film scripts.
彼の演劇に加えて、ジュネは、いくらかの小説、及び、フィルムスクリプトを書いた。

He also produced a silent picture, Un Chant D'Amour (1949).
同じく彼は、静かな絵、 Un Chant D'Amour (1949 年 ) を生み出した。

Genet died in Paris on April 15, 1986.
ジュネは、 1986 年 4 月 15 日にパリで死んだ。
日本語で読める関連書


「聖ジュネ」ジャン=ポール・サルトル

「弔鐘(Glas)」ジャック・デリダ 鵜飼哲訳 「批評空間Ⅱ」連載:太田出版


「ジャン・ジュネ伝」J=B・モラリー著:平井啓之監修:柴田芳幸訳:リブロポート

「ジュネ伝」エドマンド・ホワイト著:鵜飼哲・根岸徹郎・荒木敦訳:河出書房新社


Jean Genet avec James Baldwin, Centre americain, octobre 1970
photo Jacques Robert
Avec l'aimable autorisation des Editions Gallimard.

ジェームズ・ボールドウィン (1924-87)
ジェイムズ・ボールドウィン
植草甚一によれば「世界ではじめてジャズを言語化」することに成功した作家、ジェイムズ・ボールドウィン。アメリカ本国では根強い人気のようなの に、日本ではすっかり忘れ去られていてがっかり。
古本では割に手に入りやすいほうだとおもいますが、新本は絶版の嵐。
James Baldwin
James Baldwin's Foreward
James Baldwin の前‐区

STAGOLEE
STAGOLEE

I'd kept my notes concerning Bobby Seale and Huey Newton and Eldridge Cleaver, so many years ago.
多数の年前に、私は、私のノートを Bobby Seale 、及び、 Huey Newton 、及び、 Eldridge Cleaver に関係させ続けた。

It was, actually, only a little over ten years ago, but it seems much longer than that.
それは、実際に 10 年前のみであった。しかし、それは、それよりはるかに長いように思われる。

Everyone was so young-except Eldridge, there was always something of a deacon about that one.
全ての人は、そのように young-except Eldridge であった、常に周囲に助祭のうちのいくらかがあった、それ、 1 つ。

Huey was the dedicated poet, and strategist.
Huey は、専用の詩人、及び、戦略家であった。

Bobby was the firebrand.
ボビーは、そのたいまつであった。

I first met Huey in San Francisco, but don't remember meeting either Bobby or Eldridge then.
私は、最初にサンフランシスコで Huey に会った。しかし、その時ボビーか Eldridge のいずれかに会ったことを記憶していない。

My first recollection of Eldridge is in Hollywood, at the Beverly Hills Hotel;
ビバリーヒルズホテルで、 Eldridge の私の最初の回想は、ハリウッドにある ;

he was part of the Black Panther escort for Betty Shabazz.
彼は、 Betty Shabazz のためのブラックパンサー付き添いの一部であった。

As for Bobby Seale, I first met him, if memory serves, with Marlon Brando, in Marlon's hotel suite, in Atlanta, the day of Martin Luther King, Jr.'s funeral.
Bobby Seale に関しては、アトランタ、キング牧師 Jr. の葬儀の日において、マーロンのホテルスイートにおいてマーロン・ブランドに関してメモリが役立つならば、私は、最初に彼に会った。

He had been sleeping, was still groggy-was as tense and quiet as the air becomes when a storm is about to break.
彼は、眠ることがまだ嵐が壊れようとしているとき、空気がなるのと同じくらい張り詰めており、静かである groggy-was であったことであった。

This was certainly due, in part, to the climate of that momentous day, but it was also due to a kind of intelligence of anguish living behind Bobby's smoky eyes.
これは、確かにその重要な日の気候のためであった ( 一部 ) 。しかし、それは、同じくボビーの煙を出す目の後ろで生活する苦痛の一種の知能が原因であった。

This intelligence is unsparing-Bobby certainly does not spare Bobby-and informs this modest, restrained, and passionate book.
この知能は、けちけちしない‐警官が確かに Bobby-and を節約しないことである、この僅かで、控え目で、情熱的な本に通知する。

I feel completely inept, almost presumptuous, in attempting to write a foreword to it.
私は、完全に不適当であると感じる、ほとんど無遠慮な、それに前書きを書こうと試みる際。

I did not go through what Bobby, and his generation, went through.
私は、行かなかった、貫いて、もの、ボビー、及び、彼の世代は、通過した。

The time of my youth was entirely different and the savage irony of hindsight allows me to suggest that the time of my youth was far less hopeful.
私の若さの時間は、完全に異なり、そして、後知恵の野蛮な皮肉によって私は私の若さの時間がはるかにあまり希望に満ちていなかっ たことを提案することが可能となる。

I speak of this savage irony because the political and spiritual currents of my very early youth involved a return to Africa, or a rejection of it;
私は、この野蛮な皮肉について話す。なぜなら、私の非常に早期の若さの政治的な、そして精神的電流がアフリカへのリターン、また は、それの拒絶を包含したからだ ;

either choice would lead to suicide, or madness, for, in fact, neither choice was possible.
どちらの選択でも、自殺、または、狂気につながるであろう、というのはだ ( 実際 ) 、選択のいずれも、可能ではなかったからだ。

Though the American Communist Party, as it was then constituted, anyway, never made any very great impact on the bulk of the black population, its presence, strategies, and mercurial shifts in moral judgment disseminated, at the very least, confusion.
〜けれども、米国の共産党、実のところ、それから構成される ( いずれにせよ ) 決して非常に最小の混乱であらゆる非常に大きい黒い人口の部分に対するインパクト、その存在、戦略、及び、広められた道徳的な判断における水銀のシフトに されない。

Our most visible heroes were Father Divine and Joe Louis-we, in the ghetto then, knew very little about Paul Robeson.
我々の最も可視のヒーローは、父神であり、そして、 Joe Louis-we は、ゲットーその時に Paul Robeson についてほとんど知らなかった。

We knew very little about anything black, in fact, and this was not our fault.
我々は、黒い ( 実際 ) 何でもについてほとんど知らず、そして、これは、我々の障害ではなかった。

Those of us who found out more than the schools were willing to teach us did so at the price of becoming unmanageable, isolated, and, indeed, subversive.
我々のそれら、派以上を発見した人は、快く我々に教えることが、管理できず、分離し、転覆する状態になることを犠牲にしてそうし たということに合意した。

The south was simply the hell which our parents had survived, and fled.
南は、単に我々の親が生き残って、逃げた地獄であった。

Harlem was our rat and roach infested haven;
ハーレムは、我々のネズミであり、そして、ゴキブリは、避難場所に横行した ;

Nigger Heaven, a vastly successful novel about Harlem, was published around the time I was born.
黒人天国、ハーレムに関する広範囲に成功した小説は、私が生まれた時間頃に公表された。

I have suggested that Bobby's time was more hopeful than my own;
私が提案したのは、ボビーの時間が私自身のものより希望に満ちていたということである ;

but I do not wish to be misunderstood concerning the nature, the meaning, and the cruelty of that hope.
しかし、私が性質に関して誤解されることを望まないことを、意味、及び、それの残酷さは、望む。

I do not mean to suggest that the bulk of American people had undergone a "change of heart" as concerns their relationship to their darker brothers by the time Bobby Seale came down the pike.
私は、 Bobby Seale が槍の下方に来る時までに、米国の人々の部分がそれらの更に暗い兄弟とのそれらの関係に関しては「心変わり」を受けたことを提案するつもりではない。

They hadn't, and it is very much to be doubted that they ever will.
それら、そして、それは、非常に疑われることである、かつてそれらがそうするであろうということ。

Most people cling to their guilts and terrors and crimes, compounding them hour by hour and day by day, and are more likely to be changed from without than from within.
大部分の人々は、それらの有罪、及び、時々刻々と、そして、日ましにそれらを混合する恐怖、及び、犯罪に執着し、そして、内側か らより外側から変えられそうである。

No;
いいえ ; ;

the world in which we found ourselves at the end of World War II, and, more particularly, the brutal and gratuitous folly with which we ushered in the atomic age, brought into focus, as never before, the real meaning of the American social contract and exposed the self-serving nature of the American dream.
我々が第二次世界大戦の終りに気がつくといた世界、及び ( 更に特に ) 、残酷な、そして無料の愚劣 ( 我々が原子力時代の到来を告げた ) 、もたらされる、焦点に、〜同じくらい、これまで決して、米国の社会契約の真の意味、そして、暴露される、アメリカンドリームの自己‐取り分け用の性質。

And one of the results of this exposure was that the celebrated Negro problem became a global instead of a merely domestic matter.
そして、この露出の結果のうちの 1 つは、それであった、名高い黒人問題、なる、グローバルな、代りに、単に、国内の問題。

It is in this sense that Seale's era is to be considered more hopeful;
Seale の時代が更に希望に満ちていると考えられるべきであることは、このセンスにある ;

in spite of the horrors which he recounts, with such restraint, in these pages.
彼が詳説する恐怖にもかかわらず、これらのページにおけるそのような抑制によって。

The beacon lit, for his generation, in 1956, in Montgomery, Alabama,
そのビーコンは、モンゴメリーの彼の世代 ( 1956 年に ) のためにアラバマに明かりをつけた、

by an anonymous black woman,
匿名の黒人の女性によって、

elicited an answering fire from all the wretched, all over the earth, signaled the beginning of the end of the racial nightmare-for it will end, no lie endures forever-and helped Stagolee, the black folk here Bobby takes for his model, to achieve his manhood.
悲惨なものが地球の至る所で合図した全てから応答火を引き出した、人種の nightmare-for のエンドの初め。それが終わるであろうことに、偽りは耐えない、 forever-and 助けられた Stagolee 、黒人の人々、ここで、ボビーは、彼の成年を達成するために、彼のモデルのためにとる。

For, it is that tremendous journey which Bobby's book is about;
のために、それは、周囲でボビーの本がそうであるその恐るべき旅行である ;

the act of assuming and becoming oneself.
自分を推測して、似合うことの行動。

James Baldwin St. Paul de Vence October 25, 1977
James Baldwin セントポール de Vence 1977 年 10 月 25 日

--------------------------------------------------------------------------------




翻訳作品

小説

Giovanni's Room (1956)
ジョヴァンニの部屋 / 橋吉之輔訳. --白水社, 1964. (新しい世界の文学)
ジョヴァンニの部屋 / 大橋吉之輔訳. - 白水社, 1984. (白水Uブックス)
ジョヴァンニの部屋 / 大橋吉之輔訳. - 白水社, 1979. (白水社世界の文学)

Another Country (1962)
もう一つの国 / 野崎孝訳. -- 集英社, 1980. -- (世界文学全集 ; 83)

If Beale Street Could Talk (1974)
ビール・ストリートに口あらば / 沼澤洽治訳、集英社, 1976.(世界の文学 33)

短編

"Sonny's Blues." Partisan Review 24 (Summer 1957): 327-58.
現代アメリカ文学選集4/荒地出版社, 1968. (ソニーのブルース他) を収録。
黒人作家短篇集 / 橋本福夫, 浜本武雄編. - 早川書房, 1961. (黒人文学全集、第8巻)

ノンフィクション

Notes of a Native Son (1955)
アメリカの息子のノート/ 佐藤秀樹訳.-せりか書房,1975.

The Fire Next Time (1963)
次は火だ : 人種差別への警告 / 黒川欣映訳 ; 改装版. - 弘文堂, 1965
次は火だ : ボールドウィン評論集 / 黒川欣映訳. -弘文堂, 1968

戯曲

Blues for Mister Charlie (1964)
白人へのブルース / 橋本福夫訳. -- 新潮社, 1966
白人へのブルース / 橋本福夫訳. -- 新潮社, 1971 (新潮文庫)

「集英社ギャラリー:世界の文学18−アメリカ3−」ボールドウィン、パース他/野崎孝他訳/集英社(90付月報) 2000円 詳細

「集英社版・世界の文学33:マラマッド/ベロー/ボールドウィン」バーナード・マラマッド他/西川正身他訳/集英社(76付月報) 1500円  


 『幼なじみ』   (原題 『A la place du coeur』) ★★★★

感想
愛の力づよさ、穏やかさが観るものに伝わってきて気持ちが暖かくなる。
ストーリーは経済的、社会的な厳しさや人種差別などが障害になって思うようにいかない世知辛さを描いているので楽しく観れるもの ではないけど、それも愛という題材を盛り上げるための脇役に過ぎないということが観た後でわかる。トゥレビアーン!

出演 ロール・ラウスト / アレクサンドル・オグー / アリアンヌ・アスカリッド / ジャン・ピエール・ダルッサン / ジェラール・メイラン / クリスティーヌ・ブリュシェール / ジャック・ブデ

製作 ジル・サンドーズ / ロベール・ゲディギャン
監督 ロベール・ゲディギャン
脚本 ジャン・ルイ・ミレジィ / ロベール・ゲディギャン
原作 ジェームズ・ボールドウィン
撮影 ベルナール・カバリエ
美術 ミシェル・バンデスティアン

メモ
 1998年 フランス 時間 分

kumikoのほとんど毎日ページ
2000年9月

--------------------------------------------------------------------------------

映画「ハーレム135番地」
“ジェイムズ・ボールドウィン抄”と副題がついている、スーザン・レイシーという女性が1989年に制作総指揮した映画。わたし はだいぶん前に見て内容は切れ切れしか覚えていないのだが、見に行ったときにあせったことだけは鮮明な記憶がある、情けない。
誰かの手からまわってきて「こんな映画の券があるけど行けへん?」とわたしの手にわたった招待券には「ハーレム135番地」横に はジェイムズ・ボールドウィンという名前があった。愛してやまない「もう一つの国」を書いた人。これはなにがあっても行こうと 思った。場所は中之島の大阪府立文化センター(こんな名前だった)の1室だという。中之島は近いけれど、わたしはこういう公的な 場所を利用したことがない。いまだにドーンセンターとかクレオ○○だってたいして知らないくらいだ。図書館ですらつい数年前まで ほとんど利用したことがなかった。なんでも自前主義者だった。
そんなことで電話で場所を確認して中之島に行ったんだけど、ビルを探すのに手間取って映画上映ぎりぎりに間に合った。狭い部屋の 椅子席は満員で、小さいスクリーンの前の地べたにけっこうな人数が座って見ることになった。
パリでのボールドウィンの姿が淡々と映写され、家族、友人、作家、批評家のインタビューが続く。ハーレム135番地、ここでボー ルドウィンが生まれ育ったということがわかっただけでも収穫と思った。たしかパリでの恋人も出てきて、もう彼も老年になっていて ね、なんか感銘を受けた。
こんなことしか覚えてなくてしょもないね。でもビデオがあるはずだ。以前ツタヤでちらっと見たことがある。そのうち借りてこよ う。

2000.9.30

--------------------------------------------------------------------------------

ジェイムズ・ボールドウィン「もう一つの国」
エドマンド・ホワイトが長年パリに住んでいるということを知ったら、急にジェイムズ・ボールドウィンを読み返したくなった。ボー ルドウィンは1924年ニューヨークのハーレムで生まれ、作家を目指したがお金にならず、48年ごろには黒人として書いているこ とが危険な状況になり、フランスへ脱出した。そこで「山にのぼりて告げよ」などたくさんの作品を書くことになる。というような大 作家なのだけれど、今日はそういうことはおいておこう。
わたしは1964年発行の「もう一つの国」を後生大事に持っていて、数年ごとに198ページを開く。そのページに現れるのはとて も素敵な男性どうしの恋のはじまり…。
パリの歩道をフランスの青年イーヴが携帯ラジオをならしながら歩いている。ベートーベンの「皇帝」が響いている。孤独に歩いてい たアメリカ人の俳優エリックが声をかける。「その曲の最後のところを聞かしてもらえませんか?」イーヴの笑顔、その瞬間エリック の心臓に衝撃がはしる。
いろいろあって、エリックは先にアメリカへ帰りイーヴを呼ぶ。最後はニューヨークの空港へイーヴが降り立つ。ちょっと不安な気持 ちで見回して、迎えにきているエリックを見つけるところがすごくよくて、読者は幸せになる。もちろんそれだけの小説ではないのだ が。

2000.9.29

--------------------------------------------------------------------------------

エドマンド・ホワイト「燃える図書館」
「燃える図書館」という言葉のなんと美しいこと!
去年だったか、NHKテレビでたしかイギリスBBC放送制作の「知の旅」というシリーズ番組をやっていて、その夜はジャン・ジュ ネがテーマだった。ジュネが歩いたパリの歩道を歩きながら話しているアメリカの作家に惹かれた。なのに、それがだれだったかを忘 れてしまって、でも、あの歩き方、話し方だけは覚えている。ちょっと太めの中年の男性で内省的な話し方がとてもよかったのだ。
なにかのときにS嬢に話したら、それはエドマンド・ホワイトでしかあり得ないと言う。そしてその番組を見たかったと悔しがるの だった。わたしはエドマンド・ホワイトと聞いてもまだわからなくて情けなく、図書館に行って小説を数冊と「アメリカのゲイ社会を 行く」を借りて読んだ。そしておそまきながらエドマンド・ホワイトの大ファンになった。
この「燃える図書館」(河出書房新社 3800円+税)もすぐに買ったS嬢からお借りしたものだが、エドマンド・ホワイトが書い たたくさんの評論の中から選んだものを、1970年代、80年代、90年代と分けて編集してある。読み出してもなかなか進まない のは、わたしも生きてきた時代にゲイとしてアメリカ社会で生きていたホワイトが書く重い内容を噛みしめていたからだ。
1970年代のゲイ解放運動がさかんな時代から、エイズに苦しめられた80年代、エイズ後の90年代という時代の、文章としては 当事者というよりも観察者という感じのものが多いのだが、ただの観察者と言い切れないのは、やはり自身がゲイであるというところ からきているのだろう。
ジャン・ジュネ、マルグリット・ユルスナール、エルヴェ・ギベールについてもはじめて知ったことが多くてめくるめく思いである。 あとがきに近々「ジュネ伝」が翻訳されると書いてある、うれしい、いちばんに買いに行く。

2000.9.28