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Hyougentai 『氷原帯』の時代
Haiku days ! drink nights !
句会とは、季節との共犯。


Starless and Bible Black


text by うぇ〜ん!久保AB-ST元宏 (2008年9月1日 3:33Am)
また私は、天がこう告げるのを聞いた。
「書きしるせ。
『今からのち、主に結ばれて死ぬ者は幸せである。』、と。」
霊も言う。
「しかり。彼らは労苦から解き放たれて、休むことができる。
その行いがむくわれるからだ。」
パラパラ・・・『聖書』
「ヨハネの黙示録」14章、13節
まあ、愛しているだって?
この人に愛することなんかできるのかしら?
愛なんてものがあることを人から聞かなかったら、
この人はけっしてこんな言葉を口にしなかったでしょうに。
愛がどんなものか、
わかっていないんですもの。
パラパラ・・・レフ・トルストイ『アンナ・カレーニナ』
「第二編9」(1878年) 訳;木村浩
パウロの死。

うぇ〜ん!2008年8月31日(日曜日)6Pm、ふだんは老人達の室内ゲートボール場となる沼田町町民会館のエントラス・ホールが、教会に変わった。
亡くなった細川さんが長い間、役員としてリーダー・シップをとっていたゲートボールの練習場が、彼の最後の場所になったのも、「幸せ」なことであったのだろう。
沼田町町民会館が、教会になった。
うぇ〜ん!司式を務めた神父が、通夜の説教で、細川さんの最後の日をこのように振り返った。
2008年8月28日、木曜日は、毎月、一回行われる沼田町での教会の大切な集会の日でした。
細川さんは、長い間、長老として、役員としてこの日の準備を担当されていました。
ですから、この日、細川さんが初めて、「行方不明」になったことに、みなさんは驚いていました。私もそうです。
集会が始まるぎりぎりの時間、細川さんは、にこにこして上機嫌で現れました。
なんでも、「体調が悪かったのだけれど、温泉に入ってきたから元気に回復した。」と笑っていました。
細川さんは、温泉が大好きで、自分でクルマを運転して、15分ほど先の北竜温泉に毎日、通っていました。
私はたまにしか、北竜温泉には行かないのですが、行けば必ず、細川さんに会っていたのです。

それから集会はいつものように順調に進み、みなさんでキリストにお祈りを捧げました。

集会後、細川さんは自宅にもどり、愛する奥様の手料理を食べられたそうです。
細川さんは85歳の高齢で、私よりちょうど4回り年上なのですが、食べることが大好きで、おどろくほどの量を食べます。

それから、お布団に入られ、そのまま心臓が弱り、午前3時過ぎに亡くなられたそうです。

細川さんの死は、とても悲しいことです。
そして、前日までお元気な姿を私たちに見せてくれていたのですから、突然、お亡くなりになられたように感じます。

しかし、こうして考えてみますと、
温泉、教会、愛する奥様の手料理と、細川さんは大切なもの、ひとつ、ひとつに計画的にお別れを告げられてから
天に行かれたと感じてしまうのです。

うぇ〜ん!とても分りやすい話で、なるほど、キリスト教式の通夜とは、こういうものか、と、私は好感すらもってしまった。

この後、友人による「思い出」のスピーチや、恒例の葬儀委員長からの経歴の報告など、通夜は細川さんの人生をみごとに浮かび上がらせてくれていた。
特に、戦後、9年間も脊椎カリエスで闘病し、そこから回復して、スポーツや文学に趣味を広げたことが私には印象的だった。

この日のスピーチでは一言も触れられなかったが、私にとっての細川さんは、俳句の批評家、なのだ。
おそらく、9年間の闘病生活は細川さんには無駄ではなかったのだろう。
かなり、勉強したと思う。確認したことはないが、この時期にまとめて読書などをしたと考えるのが自然だ。

私は、故・吉田花車(俳号。本名は、政次郎。)さんにさそわれて、1996年10月から2002年12月まで、俳句の会に入っていた。
その会は、『氷原帯(ひょうげんたい)』という奇妙な名前だが、北海道で一番古い俳句結社だ。
それの、沼田町の支部、とゆーことだ。

まぁ、それはいいのだが、なにしろ、メンバーがご老人ばかりだった。
私は34歳だったが、私以外は、70〜80歳代以上。
このご老人たちと、毎月第一土曜日に集まり、句会をしていたのだ(句笑)。
私なんぞは、「老」の文字が、「土ノヒ」と分解できるから、「土曜日」にやっているのだ、と、外部には言ってたんだけど(笑)。

で、その俳句が、・・・う〜む。まぁ、シロウトの方が多かったのだ。
すぐに分ったが、吉田さんが、知り合いのお年寄りをむりやり入会させて、毎月、むりやり、書かせていたのだ。
のちに分るが、たぶん、吉田さんは、むりやりにでも書かなかった会員の俳句を、こっそり自分で書いて、何食わぬ顔で会員の名前で提出していたようだ。
・・・・・・う〜む。すごい。俳句愛だ。
沼田町にあった句会。
『氷原帯』50周年を記念した1998年1月号、から。・・・そうか、もう10年たったんだね。
それにしても、この吉田さんの文、誤字&脱字、多すぎ(笑)。
私の俳句にまで、脱字がある!
正しくは、
七五三虎視眈々と歯を磨く (久保元宏 1996.11)
だめじゃん、吉田さん(笑)!
これが、その本。
これが、俳句結社『氷原帯』の同人誌。毎月、発行している。
この雑誌に投稿するためのベンキョー会を開いていたのだ(笑)。

←「入会して一年足らずに巻頭句を二回も詠み上げる名選手」とは、
私のこと(笑)。
「巻頭句」とは、全国に数百人いる会員の中から、
毎月、15句選ばれる優秀な作品のこと。
まぁ、こーゆーのは経験が無くても、得意なのだ。
私、だからね(笑)。

翁、栗の木の下で。
細川さんの作品。キリスト者としての句を最後にもってきているのが、今は尊い。
『氷原帯』沼田支社の活動は、
どちらかと言うと脱力(がくっ。)してしまう感じだったが、
私を驚かせたのは、細川さんの批評能力だった。
毎月、吉田さんが、町内をかけずり回って、
俳句をむりやり(笑)書かせて、集め、
それを模造紙に書き上げたのを、集まった数人で投票する。
その後、細川さんの批評コーナーが始まるのだ。

先に述べたように、けっして優れた俳句ばかりではない。
・・・ここだけのハナシ、・・・・・・な、感じだ。
私が思うに、優れた作品を批評し、ほめるよりも、
それなりの(?)作品をほめ、欠点を根気よく洗い出し、修正し、
作者によりよい作品に向かうモチベーションを与えるほうが、
はるかに難しいのだ。
細川さんは、それを毎回、即興でやっていた。

おお。
すげえ。
この人、前から知っていたけれど、こんなすごいオジサンだったんだー。

で、私は今も俳句を続けているか、とゆーと、やめた。
吉田さんが死んだからだ。
私にとっても俳句は、吉田さんからむりやり書かされたものだったのだ。

今、『共犯新聞』で読むことができる「今日の一句」は、
この当時、毎月、吉田さんに言われて書いたものだ。
それを、単純に、書いた順番にUPしているだけだ。
この連載も、2002年12月の分をUPすれば、終わる。

細川さんは私がインターネットで当時の俳句を
紹介していたことは知らなかったと思う。
私が俳句をやめた直後は、何度も我が家に来て、
お茶を飲むふりをして、「久保さん、もう一度、やりましょうよ、俳句。」と
言いに来ていたのだ。

そうだ。毎年、1月の例会には吉田さんが「正月だから。」と言って、
日本酒を一升瓶買ってきて、年寄りたちみんなで呑んだな。
なんだか、酒よりも点滴が必要な(がくっ。)感じの
ふらふらのお年寄りたちと呑んだ酒も、また楽しかったな。
そんな時の赤ら顔で上機嫌な細川さんの表情を知っているのは
今となっては私の自慢となってしまった。

お通夜で誰も触れなかった細川さんの俳句の才能を
沼田町で知る人はあと何人、生きているんだろうか。
これが、酒鬼薔薇事件の句。
締め切り当時、話題だった酒鬼薔薇事件について書いた。・・・がくっ。