横山実習室へ戻る

横山の名字の由来、およびルーツについて


日本人は父系の血脈により名字をついできた。
これは、私の家に伝わる系図であるが,最後に記されているように慶長(約400年前)
に書かれた。最近このページをみて、連絡をくれた人の協力で系図のコピー元の実在も
ほぼ判明した。

横山党末裔
三坂、庄野、亀迫など神石の一族などの関連
日本史から関連する事項と年代をコメントとして加えた。
内容について責任は持てないが、ルーツに興味がある人は自由に転記およびリンクしてもよい。

系図の写真
このページの根拠とした文書の写真です。一応読める程度の解像度があります。
私が誤って解釈したところ、および枝葉末節と考え読まなかったところも すべて含んでいます。
興味のある人は原文で確認し、翻訳や解釈の誤りをご指摘いただければ幸いです。

横山党の史跡 関東における小野、横山に関する史跡を訪ねた記録です。
東京都 八王子市、町田市、神奈川県 相模原市、海老名市、厚木市 などがあります。

小野朝臣横山名字継図

小野氏系図

横山由来

兄弟姉妹をボックスにまとめ、色の違いで親子関係を示した

   原文(読み下し風)          歴史 年代 コメント     
経兼 童名は隠岐鬼若丸、後横山野太夫と云ふ。
平康年中に奥州合戦等出羽国金沢の城責に武勇を振う。
故為に軍功の賞禄として武蔵国横山郡、
相模国下足柄郡、
右両所を源将八幡太郎義家公より賜う。
之依り、武州の在名、横山を名乗る委細記左。
八幡太郎義家(源義家)1039-1106平安後期の武将。
武勇にすぐれ源氏興隆の基礎を築いた。
1062(康平5)年安倍貞任を衣川関に破って功をたてた。
箭幹八幡宮
経時 横山中務丞

時広 横山小権守悪次、平治乱白河合戦等、侍賢門に従軍高名す。
顕広 横山悪五郎、白河合戦高名。
保元乱1156京都で起きた貴族の争いを、平氏、源氏など武士の力で解決。
武士台頭の始まり。
平治乱1159(平治1)源義朝は平清盛と戦い破れ勢力を失う。
時兼 横山太郎後右馬允と云ふ。
室は和田四郎義胤の姫。
相州浅井在城なり数十度高名有り。
之の委細は記左。
勝時 横山三郎、意趣誌奥。
和田氏は三浦氏の一族。
和田義盛1147-1213
相模国三浦郡和田荘、源頼朝挙兵に従い功有り。
平氏追討奥州征伐にも功有り。
和田義盛の嫡男常盛は、
母方の横山時兼とその一族の古郡保忠兄弟と共に甲斐国 波加利庄(上野原) まで逃れて、自殺した。
知時 横山五郎、和田合戦にて討死。

重兼
横山重郎と云う。
時兼重兼父子は健保元年、和田戦に味方敗軍故安房国に落行程経て上洛すと云云。
和田戦 1213(建保)
一族の胤長が陰謀の罪で処刑されたことから、和田義盛は一族を率いて北条邸を襲撃。
三浦義村の裏切りで敗北。
重忠
横山判官城刕、北嵯峨に於て屡交民間蟄居なり。
由緒を求め備後神石郡に下着して長野村在城す。
   
宮氏 (久代宮氏の厚意で神石郡に下着す)
備後の内陸部を勢力としていた、備後最大の豪族であった。(1364-1534)
忠通 三坂狩野介、三坂村に住む故、在名を名乗。
重望 永野弥中太、永野村双子山を築く要害にて老父重忠と一所に在城なり。
故に在名、永野を名乗る、永野名字の元祖なり。
資忠 江草勘解由左衛門是重は重忠三男江草に居住す故に在名云。
1253 日蓮法華宗を始める。
和田一族の残党が横山氏をたより永野に来て下着、
永野和田集落とよばれた。
1274 元寇(文永の役)
倫忠 三坂権弥

倫景 三坂四郎太郎 三坂右近元祖。

重治 永野越後守
1276 一遍時宗を始める。
1281 元寇(弘安の役)。
義治 永野周防守
利治 左京進、是は豊松城主、片山土佐守の養子なり。
数代継て片山八郎利直と云者有り彼は先祖なり。
女  三坂四郎太郎の室
1316 北条高時、執権と成る。
1321 後醍醐天皇の親政。
1330 徒然草成る。(吉田兼好)
この頃、江草右京亮忠保が永野の江草村から上野村八頭城に移る。
忠義 永野兵部太夫
室は実子無し、法名宇林孔宙と号す。
宝光寺開山なり、又備中国の野邊城主、天竺上野介大勢を以て此の孖の城に押寄せ、
城中は小勢といえども皆射手にて、
寄手敗北す八塚迄追蒐、敵軍を大半討取、忠義は終に討死す。
1336 南北朝始まる
足利尊氏、湊川で楠木正成を破る。
楠木正成勢の中に永野兵部太夫忠義、
馬場城主 高尾苦九郎次郎元行、
高尾城主 高尾小十郎元広、の記述あり、和田合戦から続く反北条の遺恨か。
1358 忠義討死
義俊 童名は亀松丸
後は永野左近太夫と云ふ。
是は忠義が妾の子なり、七歳にて父の後を久代家により取立、
三坂一族、江草一党、片山左京進、其外一門の親族の助勢を以って忠義跡目を継ぐ。
1378 足利義満、室町に花の御所を造営
1392 南北朝合一
俊綱 永野和泉守(⇒国継)
女  福永村城主庄野左衛門の室。
俊親 庄野次郎、矢不立城主なり、庄野民部は俊親、母方の祖父なり故に養子とす。
1424 全国的に飢饉、餓死者多数
泰親 庄野修理

元親 庄野三郎

元義 横山隠岐守
矢不立城を退去して亀迫に居住す、此時より先祖横山を名乗なり。

元真 横山弥右衛門尉
毛利輝元公任浪人にて新免村に住す。
女  横山甚之丞の室
義方 横山次郎左衛門
永野村の亀迫に居住す。
女  平川和泉室
元能 横山甚左衛門
毛利輝元公の家臣なり。

女  横山甚之助室
義弘 横山佐介
女  神戸太兵衛室
   口・・・口

国綱 永野監物
1467-1477 応仁の乱
室町幕府の後継問題で細川、山名が争ったが長期戦となり京都は荒廃した。
義国 永野長門守
1523-1538
尼子優勢、備後、備中を勢力下に一時毛利も尼子に属す。
女  横山隠岐守カ室
義隆 横山河内守、備後大男と云ふ。
居城、永野村、孖山要害に水無く勝利を数度失うに及び、 草木村楢原山に要害を築き、老父義国誘引にて此の城に移る。
此の時より先祖の名字横山を名乗なり委細記左。
女  高光村行元之住人、小塩加藤左衛門の室
1544 織田信長美濃国稲葉城を攻略
1549-1561
毛利優勢、神辺城、松山城など尼子勢力を撃退。
宝泉寺縁起(横山河内守開基)
知隆 横山源三左衛門尉
毛利輝元公幕下に属す。 備中国高松陣にて
宇喜田の陣中にて蒐入、高名なりと雖えども討死。
義信 横山与兵衛尉
身躰依有望他国に立退なり。
勝義 横山市郎右衛門尉
草木村、和田に住居す。
毛利輝元 1553-1625元就の孫
山陽山陰10ヶ国を領有、信長と戦う。
秀吉は備中高松城攻め(1582)の最中、本能寺の変で急遽和睦し引き返した。
義政 横山甚之丞
毛利輝元公の家臣なり、是射手なり
因茲弓組足軽、三支領長鮮陣にて働有り。 馬上之名誉なり。
永野村岩屋谷厳石落乗得
女  江草次郎兵衛室
女  小塩小右衛門尉室
文禄(1592-1596)慶長(1596-1615)の役
輝元は秀吉に属し、総大将として朝鮮で戦う。
勝澄 横山弥介
後安右衛門と号す
義幸 横山治兵衛
久代村高尾新助養子
女  小塩仁兵衛室
女  櫻山源右衛門室
女  平川六右衛門室

義清>
横山伊作

義福
横山平左衛門
故有って三良坂世良氏へ養子と成り父伊作を誘引す
故に世良氏を名乗り室は三次家中田川氏の娘

義則
世良茂右衛門
三良坂・留屋を相続
女 海渡村龍打・民室
忠珍
横山市左衛門尉
備後国甲奴郡小塩村古木林氏へ養子に成り
此の時仔細有り横山と名乗る
室は古木林仲作女
女 世羅郡黒淵村三次紋平室
女 芸州高田郡土川村石井氏複助室













由緒書


     原文読み下し         コメント   
・・・500字省略・・・・・・
日本神話から始まる祝詞
のようなもの
妹子王は敏達天皇三代の後胤なり。
推古天王より遣唐使を蒙(こうむ)り始めて小野姓を賜る。
次に毛人、胤守、岑守、数代高官高位を継ぎ給ふ。
遣唐使 607
篁は至って文才にて、極て聡明なり。
神儒佛の三道を尋探(たずねきわめ)て、而(しかも)大極の一致なるを徹底し, 詩歌管絃は公卿の平生爲りと雖(いえど)も衆人に勝たり。
殷初の藝等に於ても久眼驚す。
仁明天皇御時,聖卿と仰かれ而(しかも)参議右大辧の職に 被任(にんぜられ)これにより他卿上件の官職を嫉(ねた)んで、 讒言(ざんげん)を羮(かん)す。
悲かな、偽り實となり、羌和六巳未歳、隠岐国配流となり 配所に於いて一子を儲く小太郎と号す。
相続いて苗裔(子孫)有り、義兼、経兼、等は器量有るにより、 嶋のいてきと成り果んを嗟嘆(なげき)て、武勇を励むは至極なり。
小野神社
横山野太夫経兼は横山名字の元祖なり、童名を隠岐鬼若丸と云う。
大力量にて勇猛なり。平康年中に源将伊豫守頼義公、安倍の貞任、 高野す宗任誅討の時、経兼奥刕に下向し、八幡太郎義家公の幕下に加り 分骨し砕き戦功に数十度に及び、一日敵陣に蒐入り軍兵、
二人生捕て、俊逸の高名す。
則(すなわち)大将の御前に於て、源氏重代の鬚功と云う、 銘剣を以て生捕首を被刎、終に敵陣、敗北し、 宗任は流刑に、貞任が首をば経兼に課て平泉於獄門に被掛けり、 経兼は郎等の貞兼を以て之を獄に懸るを将(ひきいる) しかも、出羽国にて武衡宗衡が椿籠山北、金澤城の責に数十度の高名す。
故に其の軍功の賞禄と為して 武蔵国横山郡(後横見郡)相模国下足柄郡右両所、義家公より賜る。
因茲、武刕の在名横山を名乗る末流は相模国浅井に在城也
横山郡は現在の埼玉県比企郡吉見町
下足柄郡は現在の神奈川県足柄下郡
安倍貞任 1019-1062
「衣のたてはほころびにけり」と源義家
がよびかける
「年を経し糸のみだれのくるしさに」と逃げる
馬上から答える安倍貞任。
安倍貞任が衣川の関から退却するときに八幡太郎(源)義家と 安倍貞任の間によまれた歌とされております。
横山小権守悪次郎時廣、源姓左馬頭、義朝公の幕下に属し、 平治の乱にて白河合戦等、待賢門の夜軍、其外数度の高名有り、 舎弟、悪五顕廣、白河合戦軍功出し尽くし、待賢門にて討死。
平治乱 1159
横山三郎勝時、一の谷合戦に舎兄時兼と一所に高名す。
建久元年頼朝公、上洛の供奉す。行列四十四番に當る。
又の日、元久年中に北条時政の聟、畠山次郎重忠、牧の御 方の讒言(ざんげん)に依(より)誅戮(ころ)す。
打手の大将、相模守義時なり。
三郎勝時もこれに組みし、しかも一口を討破る。
建久元年 1190
摂津国一の谷の城廓に立籠る平軍を攻める為、 義経は敵の不意を襲おうと、密に佐藤兄弟、 畠山次郎重忠など手勢僅かに数十騎を率いて、一の谷の後の山鉄拐ヶ峯に登り、 鴨越とて人馬も通はぬ巖石峨々たる嶮岨の坂を、 鹿の越えるに同じ四足の馬の越え得ぬ筈やあると、 先ず二頭の馬を追い下して試みた後、義経 自ら陣頭に立って馳せ落し、敵陣の後に出でて 虚を衝き、城を陥れて大捷を収めた。
横山太郎,後は右馬允時兼と改む。
元暦元年二月七日拱州一之谷合戦に平家の軍将、越中次郎兵衛盛嗣, 悪七兵衛景清の堅門を責破て高名す。
秩父、足利、三浦、横山、等なり。
同年十一月、源九郎義経公、四国発向時、摂州大物浦に於て、逆櫓之遺恨を静め讃州へ渡海し八嶋の戦場にて、武勇を振い、文治五年右兵衛佐頼朝公 奥州下向の刻、陸奥守泰衛が首に時兼に課て平泉於て 獄木に被掛し、時兼も郎等の廣継〔貞兼世孫也)を以て件の 首を獄門に被掛けり、是は先年義家公奥州下向の時、 安部の貞任が首を横山継兼に課て、獄門に被掛す。
是は高名に非(あらず)と雖(いえども)其の例を合也と云 武家に生きて、豈(あに)これを辞退、然后、 源家三代将軍実朝公、幼稚にて、執権北条相模守時房也、 和田義盛は源氏忠功の武将為りと雖も、物換り星移て、北条に 其権威、更に被奪し、鬱憤止む時無し之(これ)に依(より) 建保元年和田一族 其外北条遺恨の士卒反逆の同類馳加わり北条を討果す可(べく) すでに一戦に及び横山時兼、同じく婿波多野三郎 横山五郎知時同十郎重兼一門、家子引つれ和田に加勢す。
荒手を入替へ火を散し戦ふ、故に、北条方結城 佐々、曾我、中村、二宮杯が陣虚し責破り、数百騎討取る。
北条方足を立兼て再三敗走す。然れども北条は将軍家の執権故に 次第に勢競て和田一門大半討敗す北横山も一家郎従 残り少に討死、時兼実兼親子、朝比名三郎義秀、 一所に船に取乗て安房国落行く、横山は清住辺に知る者の有て 暫く爰忍し居て世の転変を聞くに、北条日日夸(おごり)強く、 庶を指して馬と云う。
大名諸侯是に同す体なり、然上者は変化の時節を期さずんば 本望遂げ難く故に静住を立出、北陸道に掛り京城に上着す、 落人の浅ましくも、十目の視所、十手指所を忍び洛外北嵯峨の辺に 於いて民間に交わり星霜を送る。
数十暮也。茲時公家に由緒在て時時禁裏徘徊云云。
文治 1185-1190
朝比奈三郎義秀は、鎌倉幕府初代侍所別当、 和田義盛の第三子で、生母は木曾義仲の側室 巴御前であると伝わる。
木曾義仲が討たれた
あと、巴御前は和田義盛の側室となった。
 義秀は大力武勇の猛者で、1213(建保元)年 和田合戦に勇名を轟かせ幾人かの敵をたおし たが微傷すら負わなかったという。
しかし、和田義盛ほか兄弟郎従等ことごとく討 たれた後、いずれかへ姿を隠したと伝えられる。
 安房を経て紀州の太地とか朝鮮に逃れたという 義経伝説に似た伝承が残る。
横山氏は武蔵国横山庄に住し横山と名乗 ったもので武蔵七党の一であるが建暦三年 (1213)鎌倉の和田合戦に敗れて、和田義盛 の男、朝比奈三郎、横山氏の一族粟飯原氏
らと西下、はじめ備中国哲多郡則安 の猿滝城に落ち(現哲多町)建保年間
(1213-19)永野の銅山に着目して来住、 和田に住したのち、二子城を築いた。
[宝光寺縁起より]
現在の神石高原町
宮の久代と云は備後怒哥郡久代村を配所と為す公と 云傳るなり。
此の宮血気にて勇甚き故、配流に及び給へり配所に於て 愉快鬱憤(うっぷん)をはらし、自然に武勇を励んで落所の要害責め 伐取て備後半国を領し給ふ。
これに横山判官重忠は於洛外北嵯峨蟄居 の刻、此の宮の知召(しろしめす)子紬有れば慕って左辻の之の跡を 同国神石郡永野村に下着す。
元来武勇の家成れば駈催、宮の久代家の威光で神石半郡を伐取り領知す。
それより久代の幕下に属す。
重忠に三子在り、嫡男忠通は三坂村に在住し、 次男重望は老父重忠と一所に永野村双子山要害在城、三男資忠は 江草村に住居す。
故に三子共に三坂、永野、江草の在名を乗るなり。
かねてより血気盛んまた勇敢である 横山判官重忠が和田の合戦で敗北した。
あと京都(平安京)郊外の北嵯峨 (京都嵐山の近く)にて蟄居 (家から出ず謹慎すること)している のを久代宮氏が知り招き同時に神石郡 永野村に下着。元来武勇家なり。
また同時に久代宮氏の威光により自ら の領である神石郡の一部を切り与えた。
永野兵部太夫忠義 忠義は孖山四代の城主なり備中国野邊城主
天竺上野介、大勢を以て押寄せ此の要害の城中、小勢為りと 雖(いえども)皆射手にて指し誥、引き誥め射る箭先は雨降が如し 寄手足立たず敗走す、八塚迄追蒐、敵味方入乱れ火を 散じ、忠義那智黒と云ふ秘蔵の名馬に乗りて、自身働き鬼が欺く程なり 手下にて三十七騎討取り、其の身も終に討死す。
城中没落に及び方立けれ 永野一門より、久代家へ加勢を乞ひ、大勢の敵を追拂ひ忠義一子亀松丸を 取立て再度城主に相続す。
五代忠義のとき備中野辺城主天竺上野介 大勢を以って、この二子城に押し寄せた とき城中には小勢ではあったが、皆射手 であったので、寄せてが敗北して逃げる のを八ツ塚まで追って大半を討ち取った 忠義も終に討死にした(1358)。
[宝光寺縁起より]
兵部太夫忠義が室に実子無し、忠義薨(死去)て、 後在住之住是非も無き躰なり。昨日は此人の領内の民すて 今日は引替へて誰人欺と問者も無し、和草と云ふ山陰に譜代の 者有りて、尋ね給ふに曽(かって)介抱せず。
后室これを思ふに貧は諸道を防ぐ。
忠義在世に何、豈(あに)斯(かかる)憂目を見るに及び、餓死に無念なり。
故に世営を励まして、終に分限と成りて金銀を貯し因縁を見、 菩提心を発し、一寺を開きて、其身も遂け法身し、則ち住職を勤む。
寶光寺これなり。法名、宇林孔宙比丘尼此と号す。
この寺の開山なり、女流の丈夫とは此の比丘尼の事なり。
宝光寺縁起によれば
二子城主五代忠義が八ツ塚で討死した時、 その妻が夫忠義の霊を弔うために庵室を 建て自ら尼となって一生をすごしたのを 開基としている。
永野左近太夫義俊、童名を亀松丸と云ふ。
忠義妾子なり。
七歳にて父に後れ、双子城が没落し四五年間雖 親族介抱を得るは久代家に従い、片山左京進、三坂一族、江草一党 の取立にて、十一歳に後見を以て、亡父忠義の跡目を継ぐ。
永野兵部太夫が討ち死にした後の跡目を 「三坂一族」「江草一党」「片山左京進」 そのほか一門親族もって助勢し取り立てた
永野長門守義国、同姓河内守義隆父子
器量大く勇力にて武功を得たり、故に久代家幕下に属し 雲州戸田の城主、尼子晴久は久代家を伐り取らんと西城に押寄す。
城中よりも、大仇八鳥中野村へ軍兵を出し、数十日の合戦に及び 義国、義隆父子が弓勢は鎮西為朝公に弓勢に異ならず 打物の達者は當るを幸に、伐り倒す?の木八尺の棒を以て敵陣に
割入、無二、無三に薙伏せ打伏せ大勢の軍兵を四方八方追散らす。
敵も味方も目を醒し、舌を振う有様なり、尼子方足を居へ兼ね、敗軍 其の侭、雲刕へ引退く、義国、義隆、数十度の高名は準えてこれを知らず。
義隆、其長(たけ)は六尺七寸なり、備後大男と云ふ。禁裏に於て其の 沙汰有りと云ふ、又将軍上洛の時、相模有り其相模不取而 揚名天下に顕わすと云云、二子の城に水無き故数度勝利を失う 事有り、依然草木村に要害を構へ老親義国此の所に移る。
其後は祖の名字、横山を名乗る。
久代宮氏は戦国時代には毛利氏に属し、
天文二年(1533)に尼子方の軍勢が
備後国へ侵入してきたのを
備中神代(現在の岡山県神郷町)の
合戦で敗退させており、
天文五年(1536)秋には尼子経久の
軍勢が大富田城or大富山城?
を攻めてきたものを、優勢の内に
和睦し撤退させました
  右横山氏系図本書三坂右近方就傅来
予悪筆冩置之口口従神代王代降
数十代非屑我等迄連一巻ノ血脉恐
猶有惶至末々裔々等迄謹而宣護
持之縦雖為親族類家相披露之口
口他者在之間敷者也
      横山甚之丞
・慶長十四巳酉歳仲春日 義政
慶長 1596-1615
三坂右近(系図のコピー元)


関連する地図


横山実習室へ戻る