原文(読み下し風) | 歴史 年代 コメント |
経兼 童名は隠岐鬼若丸、後横山野太夫と云ふ。 平康年中に奥州合戦等出羽国金沢の城責に武勇を振う。 故為に軍功の賞禄として武蔵国横山郡、 相模国下足柄郡、 右両所を源将八幡太郎義家公より賜う。 之依り、武州の在名、横山を名乗る委細記左。 |
八幡太郎義家(源義家)1039-1106平安後期の武将。 武勇にすぐれ源氏興隆の基礎を築いた。 1062(康平5)年安倍貞任を衣川関に破って功をたてた。 箭幹八幡宮 |
経時 横山中務丞 | |
時広 横山小権守悪次、平治乱白河合戦等、侍賢門に従軍高名す。 顕広 横山悪五郎、白河合戦高名。 |
保元乱1156京都で起きた貴族の争いを、平氏、源氏など武士の力で解決。 武士台頭の始まり。 平治乱1159(平治1)源義朝は平清盛と戦い破れ勢力を失う。 |
時兼 横山太郎後右馬允と云ふ。 室は和田四郎義胤の姫。 相州浅井在城なり数十度高名有り。 之の委細は記左。 勝時 横山三郎、意趣誌奥。 |
和田氏は三浦氏の一族。 和田義盛1147-1213 相模国三浦郡和田荘、源頼朝挙兵に従い功有り。 平氏追討奥州征伐にも功有り。 和田義盛の嫡男常盛は、 母方の横山時兼とその一族の古郡保忠兄弟と共に甲斐国 波加利庄(上野原) まで逃れて、自殺した。 |
知時 横山五郎、和田合戦にて討死。 | |
重兼 横山重郎と云う。 時兼重兼父子は健保元年、和田戦に味方敗軍故安房国に落行程経て上洛すと云云。 |
和田戦 1213(建保) 一族の胤長が陰謀の罪で処刑されたことから、和田義盛は一族を率いて北条邸を襲撃。 三浦義村の裏切りで敗北。 |
重忠 横山判官城刕、北嵯峨に於て屡交民間蟄居なり。 由緒を求め備後神石郡に下着して長野村在城す。 |
宮氏
(久代宮氏の厚意で神石郡に下着す) 備後の内陸部を勢力としていた、備後最大の豪族であった。(1364-1534) |
忠通 三坂狩野介、三坂村に住む故、在名を名乗。 重望 永野弥中太、永野村双子山を築く要害にて老父重忠と一所に在城なり。 故に在名、永野を名乗る、永野名字の元祖なり。 資忠 江草勘解由左衛門是重は重忠三男江草に居住す故に在名云。 |
1253 日蓮法華宗を始める。 和田一族の残党が横山氏をたより永野に来て下着、 永野和田集落とよばれた。 1274 元寇(文永の役) |
倫忠 三坂権弥 | |
倫景 三坂四郎太郎 三坂右近元祖。 | |
重治 永野越後守 |
1276 一遍時宗を始める。 1281 元寇(弘安の役)。 |
義治 永野周防守 利治 左京進、是は豊松城主、片山土佐守の養子なり。 数代継て片山八郎利直と云者有り彼は先祖なり。 女 三坂四郎太郎の室 |
1316 北条高時、執権と成る。 1321 後醍醐天皇の親政。 1330 徒然草成る。(吉田兼好) この頃、江草右京亮忠保が永野の江草村から上野村八頭城に移る。 |
忠義 永野兵部太夫 室は実子無し、法名宇林孔宙と号す。 宝光寺開山なり、又備中国の野邊城主、天竺上野介大勢を以て此の孖の城に押寄せ、 城中は小勢といえども皆射手にて、 寄手敗北す八塚迄追蒐、敵軍を大半討取、忠義は終に討死す。 |
1336 南北朝始まる 足利尊氏、湊川で楠木正成を破る。 楠木正成勢の中に永野兵部太夫忠義、 馬場城主 高尾苦九郎次郎元行、 高尾城主 高尾小十郎元広、の記述あり、和田合戦から続く反北条の遺恨か。 1358 忠義討死 |
義俊 童名は亀松丸 後は永野左近太夫と云ふ。 是は忠義が妾の子なり、七歳にて父の後を久代家により取立、 三坂一族、江草一党、片山左京進、其外一門の親族の助勢を以って忠義跡目を継ぐ。 |
1378 足利義満、室町に花の御所を造営 1392 南北朝合一 |
俊綱 永野和泉守(⇒国継) 女 福永村城主庄野左衛門の室。 俊親 庄野次郎、矢不立城主なり、庄野民部は俊親、母方の祖父なり故に養子とす。 |
1424 全国的に飢饉、餓死者多数 |
泰親 庄野修理 | |
元親 庄野三郎 | |
元義 横山隠岐守 矢不立城を退去して亀迫に居住す、此時より先祖横山を名乗なり。 | |
元真 横山弥右衛門尉 毛利輝元公任浪人にて新免村に住す。 女 横山甚之丞の室 義方 横山次郎左衛門 永野村の亀迫に居住す。 女 平川和泉室 元能 横山甚左衛門 毛利輝元公の家臣なり。 | |
女 横山甚之助室 義弘 横山佐介 女 神戸太兵衛室 口・・・口 | |
国綱 永野監物 |
1467-1477 応仁の乱 室町幕府の後継問題で細川、山名が争ったが長期戦となり京都は荒廃した。 |
義国 永野長門守 |
1523-1538 尼子優勢、備後、備中を勢力下に一時毛利も尼子に属す。 |
女 横山隠岐守カ室 義隆 横山河内守、備後大男と云ふ。 居城、永野村、孖山要害に水無く勝利を数度失うに及び、 草木村楢原山に要害を築き、老父義国誘引にて此の城に移る。 此の時より先祖の名字横山を名乗なり委細記左。 女 高光村行元之住人、小塩加藤左衛門の室 |
1544 織田信長美濃国稲葉城を攻略 1549-1561 毛利優勢、神辺城、松山城など尼子勢力を撃退。 宝泉寺縁起(横山河内守開基) |
知隆 横山源三左衛門尉 毛利輝元公幕下に属す。 備中国高松陣にて 宇喜田の陣中にて蒐入、高名なりと雖えども討死。 義信 横山与兵衛尉 身躰依有望他国に立退なり。 勝義 横山市郎右衛門尉 草木村、和田に住居す。 |
毛利輝元 1553-1625元就の孫 山陽山陰10ヶ国を領有、信長と戦う。 秀吉は備中高松城攻め(1582)の最中、本能寺の変で急遽和睦し引き返した。 |
義政 横山甚之丞 毛利輝元公の家臣なり、是射手なり 因茲弓組足軽、三支領長鮮陣にて働有り。 馬上之名誉なり。 永野村岩屋谷厳石落乗得 女 江草次郎兵衛室 女 小塩小右衛門尉室 |
文禄(1592-1596)慶長(1596-1615)の役 輝元は秀吉に属し、総大将として朝鮮で戦う。 |
勝澄 横山弥介 後安右衛門と号す 義幸 横山治兵衛 久代村高尾新助養子 女 小塩仁兵衛室 女 櫻山源右衛門室 女 平川六右衛門室 | |
義清> 横山伊作 | |
義福 横山平左衛門 故有って三良坂世良氏へ養子と成り父伊作を誘引す 故に世良氏を名乗り室は三次家中田川氏の娘 | |
義則 世良茂右衛門 三良坂・留屋を相続 女 海渡村龍打・民室 忠珍 横山市左衛門尉 備後国甲奴郡小塩村古木林氏へ養子に成り 此の時仔細有り横山と名乗る 室は古木林仲作女 女 世羅郡黒淵村三次紋平室 女 芸州高田郡土川村石井氏複助室 | |
原文読み下し | コメント |
・・・500字省略・・・・・・ | 日本神話から始まる祝詞 のようなもの |
妹子王は敏達天皇三代の後胤なり。 推古天王より遣唐使を蒙(こうむ)り始めて小野姓を賜る。 次に毛人、胤守、岑守、数代高官高位を継ぎ給ふ。 |
遣唐使 607 |
篁は至って文才にて、極て聡明なり。 神儒佛の三道を尋探(たずねきわめ)て、而(しかも)大極の一致なるを徹底し, 詩歌管絃は公卿の平生爲りと雖(いえど)も衆人に勝たり。 殷初の藝等に於ても久眼驚す。 仁明天皇御時,聖卿と仰かれ而(しかも)参議右大辧の職に 被任(にんぜられ)これにより他卿上件の官職を嫉(ねた)んで、 讒言(ざんげん)を羮(かん)す。 悲かな、偽り實となり、羌和六巳未歳、隠岐国配流となり 配所に於いて一子を儲く小太郎と号す。 相続いて苗裔(子孫)有り、義兼、経兼、等は器量有るにより、 嶋のいてきと成り果んを嗟嘆(なげき)て、武勇を励むは至極なり。 | 小野神社 |
横山野太夫経兼は横山名字の元祖なり、童名を隠岐鬼若丸と云う。 大力量にて勇猛なり。平康年中に源将伊豫守頼義公、安倍の貞任、 高野す宗任誅討の時、経兼奥刕に下向し、八幡太郎義家公の幕下に加り 分骨し砕き戦功に数十度に及び、一日敵陣に蒐入り軍兵、 二人生捕て、俊逸の高名す。 則(すなわち)大将の御前に於て、源氏重代の鬚功と云う、 銘剣を以て生捕首を被刎、終に敵陣、敗北し、 宗任は流刑に、貞任が首をば経兼に課て平泉於獄門に被掛けり、 経兼は郎等の貞兼を以て之を獄に懸るを将(ひきいる) しかも、出羽国にて武衡宗衡が椿籠山北、金澤城の責に数十度の高名す。 故に其の軍功の賞禄と為して 武蔵国横山郡(後横見郡)相模国下足柄郡右両所、義家公より賜る。 因茲、武刕の在名横山を名乗る末流は相模国浅井に在城也 |
横山郡は現在の埼玉県比企郡吉見町 下足柄郡は現在の神奈川県足柄下郡 安倍貞任 1019-1062 「衣のたてはほころびにけり」と源義家 がよびかける 「年を経し糸のみだれのくるしさに」と逃げる 馬上から答える安倍貞任。 安倍貞任が衣川の関から退却するときに八幡太郎(源)義家と 安倍貞任の間によまれた歌とされております。 |
横山小権守悪次郎時廣、源姓左馬頭、義朝公の幕下に属し、
平治の乱にて白河合戦等、待賢門の夜軍、其外数度の高名有り、
舎弟、悪五顕廣、白河合戦軍功出し尽くし、待賢門にて討死。 |
平治乱 1159 |
横山三郎勝時、一の谷合戦に舎兄時兼と一所に高名す。 建久元年頼朝公、上洛の供奉す。行列四十四番に當る。 又の日、元久年中に北条時政の聟、畠山次郎重忠、牧の御 方の讒言(ざんげん)に依(より)誅戮(ころ)す。 打手の大将、相模守義時なり。 三郎勝時もこれに組みし、しかも一口を討破る。 |
建久元年 1190 摂津国一の谷の城廓に立籠る平軍を攻める為、 義経は敵の不意を襲おうと、密に佐藤兄弟、 畠山次郎重忠など手勢僅かに数十騎を率いて、一の谷の後の山鉄拐ヶ峯に登り、 鴨越とて人馬も通はぬ巖石峨々たる嶮岨の坂を、 鹿の越えるに同じ四足の馬の越え得ぬ筈やあると、 先ず二頭の馬を追い下して試みた後、義経 自ら陣頭に立って馳せ落し、敵陣の後に出でて 虚を衝き、城を陥れて大捷を収めた。 |
横山太郎,後は右馬允時兼と改む。 元暦元年二月七日拱州一之谷合戦に平家の軍将、越中次郎兵衛盛嗣, 悪七兵衛景清の堅門を責破て高名す。 秩父、足利、三浦、横山、等なり。 同年十一月、源九郎義経公、四国発向時、摂州大物浦に於て、逆櫓之遺恨を静め讃州へ渡海し八嶋の戦場にて、武勇を振い、文治五年右兵衛佐頼朝公 奥州下向の刻、陸奥守泰衛が首に時兼に課て平泉於て 獄木に被掛し、時兼も郎等の廣継〔貞兼世孫也)を以て件の 首を獄門に被掛けり、是は先年義家公奥州下向の時、 安部の貞任が首を横山継兼に課て、獄門に被掛す。 是は高名に非(あらず)と雖(いえども)其の例を合也と云 武家に生きて、豈(あに)これを辞退、然后、 源家三代将軍実朝公、幼稚にて、執権北条相模守時房也、 和田義盛は源氏忠功の武将為りと雖も、物換り星移て、北条に 其権威、更に被奪し、鬱憤止む時無し之(これ)に依(より) 建保元年和田一族 其外北条遺恨の士卒反逆の同類馳加わり北条を討果す可(べく) すでに一戦に及び横山時兼、同じく婿波多野三郎 横山五郎知時同十郎重兼一門、家子引つれ和田に加勢す。 荒手を入替へ火を散し戦ふ、故に、北条方結城 佐々、曾我、中村、二宮杯が陣虚し責破り、数百騎討取る。 北条方足を立兼て再三敗走す。然れども北条は将軍家の執権故に 次第に勢競て和田一門大半討敗す北横山も一家郎従 残り少に討死、時兼実兼親子、朝比名三郎義秀、 一所に船に取乗て安房国落行く、横山は清住辺に知る者の有て 暫く爰忍し居て世の転変を聞くに、北条日日夸(おごり)強く、 庶を指して馬と云う。 大名諸侯是に同す体なり、然上者は変化の時節を期さずんば 本望遂げ難く故に静住を立出、北陸道に掛り京城に上着す、 落人の浅ましくも、十目の視所、十手指所を忍び洛外北嵯峨の辺に 於いて民間に交わり星霜を送る。 数十暮也。茲時公家に由緒在て時時禁裏徘徊云云。 |
文治 1185-1190 朝比奈三郎義秀は、鎌倉幕府初代侍所別当、 和田義盛の第三子で、生母は木曾義仲の側室 巴御前であると伝わる。 木曾義仲が討たれた あと、巴御前は和田義盛の側室となった。 義秀は大力武勇の猛者で、1213(建保元)年 和田合戦に勇名を轟かせ幾人かの敵をたおし たが微傷すら負わなかったという。 しかし、和田義盛ほか兄弟郎従等ことごとく討 たれた後、いずれかへ姿を隠したと伝えられる。 安房を経て紀州の太地とか朝鮮に逃れたという 義経伝説に似た伝承が残る。 横山氏は武蔵国横山庄に住し横山と名乗 ったもので武蔵七党の一であるが建暦三年 (1213)鎌倉の和田合戦に敗れて、和田義盛 の男、朝比奈三郎、横山氏の一族粟飯原氏 らと西下、はじめ備中国哲多郡則安 の猿滝城に落ち(現哲多町)建保年間 (1213-19)永野の銅山に着目して来住、 和田に住したのち、二子城を築いた。 [宝光寺縁起より] 現在の神石高原町 |
宮の久代と云は備後怒哥郡久代村を配所と為す公と
云傳るなり。 此の宮血気にて勇甚き故、配流に及び給へり配所に於て 愉快鬱憤(うっぷん)をはらし、自然に武勇を励んで落所の要害責め 伐取て備後半国を領し給ふ。 これに横山判官重忠は於洛外北嵯峨蟄居 の刻、此の宮の知召(しろしめす)子紬有れば慕って左辻の之の跡を 同国神石郡永野村に下着す。 元来武勇の家成れば駈催、宮の久代家の威光で神石半郡を伐取り領知す。 それより久代の幕下に属す。 重忠に三子在り、嫡男忠通は三坂村に在住し、 次男重望は老父重忠と一所に永野村双子山要害在城、三男資忠は 江草村に住居す。 故に三子共に三坂、永野、江草の在名を乗るなり。 |
かねてより血気盛んまた勇敢である
横山判官重忠が和田の合戦で敗北した。 あと京都(平安京)郊外の北嵯峨 (京都嵐山の近く)にて蟄居 (家から出ず謹慎すること)している のを久代宮氏が知り招き同時に神石郡 永野村に下着。元来武勇家なり。 また同時に久代宮氏の威光により自ら の領である神石郡の一部を切り与えた。 |
永野兵部太夫忠義
忠義は孖山四代の城主なり備中国野邊城主 天竺上野介、大勢を以て押寄せ此の要害の城中、小勢為りと 雖(いえども)皆射手にて指し誥、引き誥め射る箭先は雨降が如し 寄手足立たず敗走す、八塚迄追蒐、敵味方入乱れ火を 散じ、忠義那智黒と云ふ秘蔵の名馬に乗りて、自身働き鬼が欺く程なり 手下にて三十七騎討取り、其の身も終に討死す。 城中没落に及び方立けれ 永野一門より、久代家へ加勢を乞ひ、大勢の敵を追拂ひ忠義一子亀松丸を 取立て再度城主に相続す。 |
五代忠義のとき備中野辺城主天竺上野介
大勢を以って、この二子城に押し寄せた
とき城中には小勢ではあったが、皆射手
であったので、寄せてが敗北して逃げる
のを八ツ塚まで追って大半を討ち取った
忠義も終に討死にした(1358)。 [宝光寺縁起より] |
兵部太夫忠義が室に実子無し、忠義薨(死去)て、
後在住之住是非も無き躰なり。昨日は此人の領内の民すて
今日は引替へて誰人欺と問者も無し、和草と云ふ山陰に譜代の
者有りて、尋ね給ふに曽(かって)介抱せず。 后室これを思ふに貧は諸道を防ぐ。 忠義在世に何、豈(あに)斯(かかる)憂目を見るに及び、餓死に無念なり。 故に世営を励まして、終に分限と成りて金銀を貯し因縁を見、 菩提心を発し、一寺を開きて、其身も遂け法身し、則ち住職を勤む。 寶光寺これなり。法名、宇林孔宙比丘尼此と号す。 この寺の開山なり、女流の丈夫とは此の比丘尼の事なり。 |
宝光寺縁起によれば 二子城主五代忠義が八ツ塚で討死した時、 その妻が夫忠義の霊を弔うために庵室を 建て自ら尼となって一生をすごしたのを 開基としている。 |
永野左近太夫義俊、童名を亀松丸と云ふ。 忠義妾子なり。 七歳にて父に後れ、双子城が没落し四五年間雖 親族介抱を得るは久代家に従い、片山左京進、三坂一族、江草一党 の取立にて、十一歳に後見を以て、亡父忠義の跡目を継ぐ。 |
永野兵部太夫が討ち死にした後の跡目を
「三坂一族」「江草一党」「片山左京進」
そのほか一門親族もって助勢し取り立てた |
永野長門守義国、同姓河内守義隆父子 器量大く勇力にて武功を得たり、故に久代家幕下に属し 雲州戸田の城主、尼子晴久は久代家を伐り取らんと西城に押寄す。 城中よりも、大仇八鳥中野村へ軍兵を出し、数十日の合戦に及び 義国、義隆父子が弓勢は鎮西為朝公に弓勢に異ならず 打物の達者は當るを幸に、伐り倒す?の木八尺の棒を以て敵陣に 割入、無二、無三に薙伏せ打伏せ大勢の軍兵を四方八方追散らす。 敵も味方も目を醒し、舌を振う有様なり、尼子方足を居へ兼ね、敗軍 其の侭、雲刕へ引退く、義国、義隆、数十度の高名は準えてこれを知らず。 義隆、其長(たけ)は六尺七寸なり、備後大男と云ふ。禁裏に於て其の 沙汰有りと云ふ、又将軍上洛の時、相模有り其相模不取而 揚名天下に顕わすと云云、二子の城に水無き故数度勝利を失う 事有り、依然草木村に要害を構へ老親義国此の所に移る。 其後は祖の名字、横山を名乗る。 |
久代宮氏は戦国時代には毛利氏に属し、 天文二年(1533)に尼子方の軍勢が 備後国へ侵入してきたのを 備中神代(現在の岡山県神郷町)の 合戦で敗退させており、 天文五年(1536)秋には尼子経久の 軍勢が大富田城or大富山城? を攻めてきたものを、優勢の内に 和睦し撤退させました |
右横山氏系図本書三坂右近方就傅来 予悪筆冩置之口口従神代王代降 数十代非屑我等迄連一巻ノ血脉恐 猶有惶至末々裔々等迄謹而宣護 持之縦雖為親族類家相披露之口 口他者在之間敷者也 横山甚之丞 ・慶長十四巳酉歳仲春日 義政 |
慶長 1596-1615 三坂右近(系図のコピー元) |