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和田義盛

和田氏は三浦氏の一族。
和田義盛1147-1213 相模国三浦郡和田荘
源頼朝挙兵に従い功有り
平氏追討奥州征伐にも功有り
和田戦 1213(建保)
一族の胤長が陰謀の罪で処刑されたこと
から和田義盛は一族を率いて北条邸を
襲撃三浦義村の裏切りで敗北。
鎌倉の和田合戦に敗れて、和田義盛の男、朝比奈三郎、横山氏の一族、栗坂、 飯原氏らと西下、はじめ備中国哲多郡則安の猿滝城に落ち(現哲多町)建保年間 (1213-19)永野の銅山に着目して来住、和田に住したのち、二子城を築いた。
[宝光寺縁起より]
和田義盛の嫡男常盛は、母方の横山時兼とその一族の古郡保忠兄弟と共に甲斐国
波加利庄(上野原) まで逃れて、自殺した。
朝比奈三郎義秀は、鎌倉幕府初代侍所別当、和田義盛の第三子で、生母は木曾義仲の側室
巴御前であると伝わる。
木曾義仲が討たれたあと、巴御前は和田義盛の側室となった。
 義秀は大力武勇の猛者で、1213(建保元)年和田合戦に勇名を轟かせ幾人かの敵をたおした
が微傷すら負わなかったという。
しかし、和田義盛ほか兄弟郎従等ことごとく討たれた後、
いずれかへ姿を隠したと伝えられる。
 安房を経て紀州の太地とか朝鮮に逃れたという義経伝説に似た伝承が残る。
横山由来にも記述がありますが、我等先祖と共に船で安房落行とありますが、
備中国哲多郡則安の猿滝城まで共に落ちたかどうかは疑問です。
やはり紀州の太地あたりから陸に入り何処かで別れたのでは?となると一旦京あたりで
ホトボリが冷めるのを待ったあと別々の行動をとり我等祖先は再度船により瀬戸内海を西進、
高梁川より北上、または陸路出雲街道を通り備後落合付近から下着したのか?
朝比奈三郎に関する記録にこのようなものがあります。 和田合戦に敗れた義秀は500 騎の兵と 6隻の船で安房に逃亡朝比奈三郎(和田一族)は時兼実
兼親子と分かれた後、当初の予定どおり安房国に向かったがその時
時兼実兼親子との連絡は保った、その後どのぐらい
後かは不明だが、永野に一部または全員合流と推測している。
「神石町の歴史」に和田一族の残党が横山氏をたより永野に来て
下着、永野和田集落とよばれたと記述がある。