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横山党末裔の会話


メール

油木町の横山 学氏とのメール


神石郡油木町の横山 学と申します。当家の由来を探求している者です。
横山の由来拝見しました。以下当家に伝わる由来です。我家の先祖は・・
武蔵七堂の一なり武州江府にて横山備中守暉隆と称し兄弟三人それぞれ公職に
勤供したえるも武州江府に住すること不能となり三人とも尊像一体を出荷し
長男は藤野呂、次男は長野、三男は草木に土着・・・
当家は過去に火災に遭い歴史資料の多くを焼失しております。詳しくご説明
など致したくぜひご連絡いただきとう存じます。
神石郡は全国でも横山姓が多い地域ではありますが武蔵七党が全国の横山
姓発祥の祖であることに間違いはなく、明治以降「国守号」が廃止せられ、
全国民に苗字が与えられる以前より横山姓を名乗っていた事実は両家が武蔵
七党に由縁する紛れも無い事実と確信しております。
 この系譜を拝見したかぎり初代先祖達の子孫が三坂村、永野、草木を中心
に各地に分散しているようですね。
私の実家があります新免もかつては三坂郷の一部を形成し大和朝廷のころ
より砂鉄の生産が盛んで釜、鍬にて税を納めるほど繁栄した所のようです。
かの名刀備前長船も帝釈川から成羽川、高梁川へと神石郡、東城町一帯の
砂鉄を船で運んで製作し一部はさらに船で大阪より奈良まで運ばれていた
ようです。
なお当家初代 は横山備中守暉隆家忠・・・名前に関する資料無し
   2代     横山甚右衛門家久・・・・・石神社鳥居に記載あり
  10代     横山河内守 藤原豊則(元禄13年2月5日)
西暦1700年の証文に記載あり
両家に同じ河内守がおられたことは何らかの由縁を感じています。
 また当家言い伝えによれば3兄弟それぞれ尊軍の尊像1体を持ちだし正王子
明神として奉ったとあり、 当家の神は現在石神社に合祀されております。
横山武史の見解
話をまとめるとそちらの次男三男は以下の重望 資忠 にあたるようですね
丁度、父 重忠 が神石に来た初代ですし、
重兼 和田合戦に敗れる
重忠 神石郡長野村
|−忠通 三坂村 倫忠 倫景  この系図のコピー元と記載
|−重望 永野村双子山城 永野性の元祖ーーー後代横山ー私の祖
|−資忠 江草
では、そのあたりをもう少し詳細に書きましょう
重忠 横山判官城刕於北嵯峨婁交民間蟄居也求由緒備後神石郡下着時永野村在城
忠通 三坂狩野介三坂村住故在名ヲ名乗
倫忠 三坂権弥 
倫景 三坂四郎太郎 三坂右近元祖
 { 右横山氏系図本書三坂右近方就傅来予悪筆冩置之・
   横山甚之丞  慶長十四巳酉歳仲春日 義政 }
しかし、この位置付けでは、系図の始まり部分なので、書かれた内容がのどこを
コピーしたか、疑問が残ります。
別の解釈では、横山甚之丞の直前で分かれたとすればこの疑問はとけます。
この場合も丁度該当しそうな3兄弟はあります。
もうひとつの考えは、三坂右近は横山の関連のすべてのルーツを管理していた
石神社を支配していた、すなわち当家の系図は横山甚之丞の記述の通り
草木の部分をコピーしたもので、三坂の部分、永野の部分、江草の部分などを含めた
記録が石神社に存在したと云う考えです。
ある書物によると、古代中国では新たな地を征服するときは、まずその地域の守護神
を支配下に置くと云う考えがあったようで、神社の存在は現在の人が考えられない
ほど重要であったのではないでしょうか。
今後の検討で明らかになるでしょう。
横山 学 の見解
想像以上に戦略、策略はあったと考えます。落行後も常に再興を画策しつつ西進し猿滝城
下着後は「永野の銅山に着目して来住」地域を掌握(神道精神では地域の神の御加護を
受けるためと考えたいのですが)するために石神社の宮司になったという説も充分考えられます。
ただし長男が家督を継ぐのが当たり前の時代に次男が老父重忠とともに跡を継いだことは
長男に何か身体的な問題でもあったか、例えば虚弱だったとか
(東北には障害のある神主もいるらしい)もしくは一家をあげての作戦だったのかいづれか
だと思います。石神社は備中備後に相当数崇拝者がいたようです。
横山 武史 の補足
この時代はまだ長男が家督を継ぐ習慣は定着していなかったと思います。
平氏においては、最初に開拓した土地を長男が相続し、次男以下と開拓開墾を続け
最後に末子が先祖の土地を相続するのが普通で、長男の権力がなく、源氏はすべてを
長男が継いだので権力規模が分散しないため戦いに優位であったといわれている。
我が家は平氏ではないが、長子相続ではなかったように見えます

亀迫重信氏とのメール


私もルーツを求めています。
私は 広島県呉市 在住の亀迫重信と申します。
「横山の名字の由来」に記載されています 亀迫は地名でしょうか?
亀迫姓を名乗って居ます者は、全国で100名位で、昔風に申しますと、安芸、備中、備後、に在住です。
繰り返すようですが「横山の名字の由来」に記載の地にも亀迫を名乗っていた方が居られた様ですが、
お分かりになられる範囲でよろしいので、お教え戴ければ有難いのですが、宜しくお願いします。
呉市本通3-2-15 亀迫重信

横山武史の返信
系図の写真が不鮮明で読み取れないでしょうが、西暦1400年頃
神石郡永野双子山に住んでいた頃、名字は永野を名乗り、一族で早期の分かれた、
三坂に住んだものは名字に三坂を名乗った。
丁度1400年ごろ現在の帝釈峡の近くに猿山で有名な矢立たず城址に住んでいた一族は
庄野の名字を名乗ったようだが、矢立たず城を退去し亀迫に住んで、横山を名字としたもの があったと書いてある。
拡張解釈すれば、この一族に亀迫を名乗ったものがいても不思議はない。
私も神石をはなれて久しいので、詳しくはないが、現在も亀迫の地名はあったように思う。
ちなみに、私の先祖は双子山から草木に移ったときから、横山を名乗ったとなっているが
現在草木の名字を名乗るものはない。
神石でも亀迫の名字はあったような気がする。

滋賀県伊香郡の旧横山村


福岡市に住んでおられる横山氏からの先祖の調査結果をメールでいただきました。
以下メールの交換の概略を紹介します。
福岡市の横山氏の調査
滋賀県での調査で、新たな発見がありました。
と言いますのは、伊香郡旧横山村にあったとされる、横山城(平城) があったと思われます、屋敷跡の薮の中に、人の背丈を越えた大きな石 碑があり、「小野姓 横山氏 横山總兵衛碑」との刻字がありました。
これは、当地の横山氏が横山党を発祥としていることを裏付ける資料になると 思いました。
更に、「小野姓」の文字の上には、「左一つ藤巴」の紋がありました。
横山武史の返信
この城跡や横山村や神社などぜひ年代を調べる元となる元号(和暦)などを調査記録されるべきと思います。
横山党の発祥についてはなにも記録がなく、小野は国司として各地へ派遣されて いたしそこの関係も明確にはわかっていません。
小野姓 から派生した 横山以外に菅原姓 から派生した 横山もあるようですが詳細は全然調べていません。
滋賀県伊香郡の旧横山村も小野姓 から派生したと書いてあるようですね。
当家の系図にも小野の関連の記述があり、小野維義 が横山先祖とある。
なぜ小野から横山に苗字を変えたかの歴史のなぞかも、理由はまだ知らない。
小野維義から全ての横山が発生したと考えなくてもよいと思う。
滋賀県伊香郡の旧横山村の横山も小野姓 から派生したが 別の小野一族からでても問題ない。
横山神社は横山党より古いのではとの最初の疑問も 一人の横山から分かれたと考えなければ柔軟に考えられる。
小野姓は小野妹子(600年頃)は 近江国滋賀郡小野村(大津市)の豪族小野氏の出身 となっているのであなたの先祖の地に近い。
鎌倉以前の横山は武士の集団としての横山党を さす名称で名字ではなかったのではないか。
小野の一族は横山党として小野であると同時に横山でもあった。
福岡市の横山氏の調査
そうですね。発見した石碑には、「横山氏」の上に「丸に卍」の紋がありました 。又、石碑の裏には、「敏達天皇 小野篁公」ともありました。
菩提寺の禅寺では、当地の横山氏の一家の系図を閲覧させていただき、やはり前記のとおりの出自となっていました。
更に、聞き取りでは、やはり関東から渡って来たという言 い伝えを覚えておられる方がおりまして、
和田合戦で逃げ延びたということでは なく、天領であった当地に派遣されたようです。
これで、和泉守が國司に名を連ねていたことや、和田合戦以前の 900年代に時の神主である横山将監が横山村に御神体を移し神社を建てたという 記述にも辻妻が合います。
今後の調査にも弾みがつきそうです。

備後国江村家との関連


備後の国は山また山の辺境の国である。
ただし古代から優良な砂鉄の産地であり、江戸時代は砂鉄を瀬戸内海なで 運搬するルートを含めて天領であった。
現在の神石高原町の小畠に代官所があり、江村家は代々代官所手代、および 庄屋を務めた、神石では名家である。
横山とは親戚関係にある。
備後国 神石郡 上村 庄屋 江村家