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石神社由来


仁寿元年(851年)大和国山辺郡石神座布留魂神社御分霊
を遷座す。
石神社と郡名
当社は、古き昔は石亀大明神(元禄13年「1700年」に
交付された神祇官文に記載あり)と申し、郡名を亀石郡と称
し、郡内総神社中郡内1の古い神社にして、後に神石大明神
(慶応元年「1865年」に交付された神祇官文に記載あり)
とも言い郡名もまた神石と称した。
明治政府の設立とともに我家も国守号を廃止され、また神社
も村社石神社となった。



郡名亀石は亀→神(かめ→かみ)と転じ神石郡となり郡名の
由来となったもの。かつては砂鉄生産で繁栄した付近一帯の
総氏神として岡山、鳥取など近隣県からの崇拝も篤かった。
 東城川沿いの国道は明治時代に建設されたがそれ以前は出
雲街道の田川瀬〜藤野呂(石神社境内)をとおり久代〜東城
へ行き来したものであり道中の無事及び地域の繁栄を祈願し
たものと思われる。
 また帝釈川及び東城川が合流し高橋川へ流れる所要の場所
でもある。
このことは大和朝廷の権力がこの地にまで及び刃物、鉄器類の
神を祖神とする「物部氏」の護神徳に肖ったもの、もしくは物
部氏の権力範囲を示したものと考えられる。

武史 と 学 の会話
<武史> 
家紋は、丸に二つ引きですか、
家紋と守護神について
家紋は起源は遠くバビロニアの時代からあり、日本の基本的な
家紋はそのあたりを起源とするので、日本独自のものではないようです。
日本では、平安初期までは、氏神のシンボルマークであったようです。
後期以降は下賜されるもので、自分の配下(一族)に加える意味で
後醍醐天皇が下賜をはやらせたようです。
以降そのような状態ですから、複数の家紋をもつのが普通
で、あなたのところと一致しないのも当たり前です。
私の家紋は、小野氏の家紋で万字です、地図のお寺マークです、
第二次大戦以来印象が悪いのでどちらかとゆうと使っていません。
まず、当初の家紋を考えましょう、神社の鳥居などにある家紋
は重要と思います。
<学>
実は神社にも神文といわれるものがあります。
ちなみに石神社は三つ巴です。神文についても起源は良く分っていないのが現状で、
三つ巴紋はごく一般的な神文です。
<武史> 
巴紋は藤原と関係があるかもしれない。
石神社は前に議論したように、横山下着前からあったと思っているが、間違いですか、
<学>
はい、851年からあるようです。
<武史> 
大和国山辺郡石神座布留魂神社御分霊ですからこの家紋をついでいるのでしょう。
<学>
参考までに石神神宮の神文は「上がり藤」で祭神は「伊斯許理度売命 いしこりどめのみこと」
ですが明治41年村内の八幡神社ほか56社が合祀されています。
<武史>
上がり藤は藤原氏の家紋だね
足利の氏神が正王子明神ですか、
石神神社の神は正王子明神ですか、このあたりについて
正王子明神とはあまり聞かないが、わかれば教えてください。
<学>
神の奉りについて
明治政府により各地の神社も大変な変革をせまられました。
地域地域に点在していた末社は地域の主要な氏神に合祀され半ばむりやり「アマテラスオオミカミ」
よりなる天孫の系図に組み入れられました。明治天皇を中心とした体制にしたかったため。
かの昔、人々は人間の力ではどうにもならない自然の力や恵み、
山、川、雨、田などまさに八百万の神々を理論などなく感性として奉ってきました。
このまつり方は現在のように「***神」とすべて古事記、
日本書紀にある名の有る神ではなく、御幣を社に立てかけただけのものでした。
また先祖も仏教伝来以降「奉り事」は神社が、「葬り事」は寺がと決まる以前より神
として奉ってまいりました。
では人々が移住し或る地に土着したらどうでしょう?
この場合「荒神社」を配置し祭りました。
また得に功績のあった者を神として奉りました。「大宰府天満宮」など
つまり先祖は当家がかつて加護をうけた足利尊氏を神として奉っていて関東から
逃げたときともに持ち出した物と考えています。
石神社への合祀は明治以降でそれまでは藤野呂の東(以前写真を送った初めの居住地)
にまつられていました。
正王子とは「足利源氏」こそが本当の王であるとの先祖の思いから付けられたものと考
えられます。
<武史>
ありがとう、大変よくわかりましたが、一箇所あやまりがあります
足利尊氏は石神社より後でたしか和田合戦よりも後です
足利氏は清和源氏で家紋は2引竜で清和源氏が851年より前かどうかしらない
宝泉寺の本尊はあの有名な運慶の作となっていた、これが関東からもってきたものでは?

いずれにしても神社も明治で混乱して本質が不明なので、
追求はいったん終わりにしましょう。