吉原芸者
「吉原芸者は色を売らなかった」って、これもパクリ本の常套句です。

吉原芸者の存在は、大きく三つの時期に分けることができます。
1.元吉原から新吉原初期
2.1779年の廓(見世)抱え芸者の終焉前後
3.1830年からの見番芸者二人制以降

それぞれの時期、吉原芸者は違う側面を持ち、遊郭、見世、遊女、そしてお客さん達と、違う形で結びついています。これは、吉原という形を考える時に、見逃してならない大きな項目なんですよね。



青楼芸者撰 おはね おふく 鳥文斎栄之

青楼芸者撰 おはね おふく 鳥文斎栄之
寛政(1789-1801)後期 東京国立博物館蔵

遊女が前帯なのに対して芸者は後ろ帯です

獅子・大万度 青楼二和嘉女芸者部
獅子・大万度 青楼二和嘉女芸者部
歌麿  天明(1781-1789)頃 大英博物館蔵

吉原では、二和嘉踊りが盛んな時期があって、芸者さんを中心に様々な扮装で踊っていました。

青楼芸者撰 いつ花 鳥文斎栄之
青楼芸者撰 いつ花 鳥文斎栄之
寛政(1789-1801)後期 東京国立博物館蔵
青楼芸者撰 いつとみ 鳥文斎栄之
青楼芸者撰 いつとみ 鳥文斎栄之
寛政(1789-1801)後期 東京国立博物館蔵

1の時期初期の吉原芸者は、遊芸を中心とする芸に秀でた芸者で芸の師匠でもあり、ステージをこなすエンターテナーでもありました。昭和の頃のクラブ歌手って言うか、ピアノ弾きさんて言うか、遊女さんとは完全に一線を画しているんです。なので、男性の芸者さん「男芸者」もいたんですよね。

初期の遊女さんは、基本的にマルチプレイヤーですから、何でも無難にこなせるのですが、お客さん側がかなりレベルが高くて、物足りないってときに助っ人として登場するのが吉原の芸者だったんですよね。新吉原に移転する少し前ぐらいから、禿で入ったけど、どうも美形には育たなかった、痩せすぎ太りすぎだけど、芸事は上手い。あるいは、遊女さん以外の吉原住人や外から来ていた芸者さんの娘さんで、芸事が上手いって人達を、芸者さんが弟子として鍛えるようになります。ただその事が問題になってゆくんですよね。

新吉原移転から少し経った寛文8年(1668)、湯女風呂の禁止があり業者と湯女が、吉原に収容されます。湯女は有名な丹前風呂の勝山さん(収容前に移転)に代表されるように大夫の位をはれる程の才媛もいましたが、主力はピチピチの元気な若い女の子達です。遊女さんとの一番の違いは、芸を仕込まれた娘ばかりじゃないんですよね。

新吉原に移転してから、、それまでのマルチプレーヤーの遊女さんの中で、芸が中心の職制が少しずつ生まれていきます。でも主力は市中に住む芸者さんなんですが、そこに芸についてはプロじゃない新しい遊女さんが大量に加わって、遊郭自体の根幹が変化を始めていきます。

そしてまたその形が完全に崩れるのが、寛延から宝暦年間(1748-1764)にかけてなんです。

細見から大夫の位が消えるのが正にこの寛延四年/宝暦 一年である1751年なのですが、それから11年目の宝暦12年、初めて細見に芸者が公式に登場します(異説あり

それ以前にも、実質的に見世に所属する芸者さんは存在しているのですが、「細見に載る=売り物になる」ってところに着目してほしいなぁって思うんですよね。

大夫の位が消滅する遠因は、言うまでも無く湯女の収容からで。しかも、格式を重んじる吉原は、収容した湯女さんを、従来の位に編入せずに、まとめて一格下の「散茶」として位置付けた(散茶については別項で詳細を書きますね)ので、それまでのように振られる(ベッドインできない)可能性のあるオールマイティーな大夫・格子が敬遠されるようになるっていう、マーケティング上の失敗をやらかすわけなんです。

しかもプロの演芸はお呼びじゃない。ちょうど1970年代後半から、「クラブ」と言う名の社交場から歌手や芸人さんが居なくなり、80年代からはストリップ劇場からも司会者やお笑い芸人さんが少しずつ消えていった状況に似ていたりもするんです。酒飲んでるおっさんたちは、歌なんか聞いちゃいないし、女の子の観音様を拝みに来ている人達は、別に笑いたくはねぇ、ってなもんです。

ざっぱに言えば、ベッドイン以外の時間に吉原芸者さんは重要になり、でも、芸だけのババァやおっさんには用は無い。しかも芸者さんの中には、遊女さんを凌ぐ美貌や若さや才知を持つ人が現れて、ある意味本末転倒になってゆくんですよね。

こうなってしまうと、絶対空いていないような遊女さんを指名して、名代の新造には難癖つけて追い返し、建前素人の芸者さんとしっぽりやるのが流行してしまい、でも、見世の収入は変わらないし、芸者さんの方が遊女さんより割戻しは少ないのですから、見世は見てみない振りをするは、遊女さんには実際仕事をしていないのでお金をもらえないは、人気のない遊女さんはまったくお客さんが付かないので、そっちの方が稼げそうなので芸を磨いて芸者さん兼業になって、遊女なのか芸者なのか曖昧になるはで、システム自体がむちゃくちゃになってゆきます。しかもそれが、揚げ代も高く、吉原を代表する大見世や交見世中心の流れなので始末が悪い。しかも芸者は、遊女と違って他の見世にも呼ばれる。

当然、芸一本で身を立てようとしている芸者さんには迷惑な話しだし、遊女さんからすれば職分を荒らされて面白く無いどころか、生活に差し障ります。そして、大多数の見世は、吉原の伝統とシステムを守ろうとしていた訳ですが、見世で芸者さんを抱えている限り問題が解決しないので、1779年に見世で芸者を抱えることを実質禁止し、吉原の見番芸者が誕生するわけです。

でも一度起こった流れって言うか流行は、下半身系は特になのですが、禁止されれば禁止されるほど何故か人気が出るって言うかフェチの対象になるって言うか、今度は、見番からくる芸者さんを落とすのが通の証明みたいになっちゃって、しかも遊女さんと違って大門から市中に出ることが可能なもので、鍛えに鍛えて、せっかく芸で一本立ちした芸者さんを囲うのが流行したり、訳わかんない状況になってしまいます。

そこで1830年についに芸者さんは二人一組でしか、座敷に出ないようになってしまうんですよね。って勿論、全部の芸者さんが身体を売っていたわけではありません。

ある意味、定見の無い幕府の吉原遊廓に対する政策と、時代を読みきれなかった吉原の舵取り達の失敗に翻弄された結果が、こんな変遷を生んだんだって思っています。

そして、仮宅が置かれることが多かった深川地区をはじめとして、品川を除く各岡場所が、遊女屋さんを模す形式だけでなく、茶屋+芸者の形式と並立するのも、吉原芸者の変遷と、無関係じゃないんですよね。

蛇足を承知で誤解が無いように付け加えておくと、多くの吉原芸者、そして吉原芸者の存在は、元吉原以来の、「芸については日本一」のプライドとそれを保つ努力、そして「流行は自分達が作るんだ」っていう自負を基としての張りを持って吉原の文化を担い続けたことは、間違いなんですよね。


ビジュアルで贈る、新吉原!  なんて、大したもんじゃないのですが<=おい!、
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