東都名所 吉原雪の朝 広重作(嘉永頃)佐野喜版
東都名所 吉原雪の朝 広重作(嘉永頃) 佐野喜版

三日月お仙局見せの図(火消千組の図 部分)国芳
三日月お仙局見せの図(火消千組の図 部分) 国芳

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新吉原は657年に元吉原から移転し、遊廓として200年の歴史を刻み徳川幕府の瓦解と運命を共にします。
優れた研究書は、その200年の変遷を捉え、時代と共に歩むのですが「薀蓄本」といった体の、研究書を無断で孫引きしたような本は、時代の変遷を無視して書かれているものが大半です。
また、研究としては優れていても、遊女を蔑視した視点で書かれている研究書も多々見受けられ「仏作って魂入れず」と申しますか、遊女や廓の人々、そして、そこに通う人々の心に想いが及んでいないため、ただただ、「苦界」としての遊廓を描くに留まっているものもあります。
毎日眉間に皺寄せて苦しんでばかりいる遊女の作り笑顔に騙されているお客さんばかりの「苦界」が、商売として200年も続くはずはありません(笑)
 薀蓄本や時代劇で作られてしまった、誤ったイメージを追ってみます。

項目
ちょっとだけ詳しいご説明
補遺
「新吉原はど田舎」ってイメージがあったりしますよね(笑)日本堤を駕篭や馬に乗って、田んぼの中を延々と行く。あるいは猪牙舟で時間をかけて行く。そしてたどり着くのは、悪臭漂うおはぐろどぶに囲まれた、遊廓で、最下級の羅生門河岸では、ジメジメした陽もあたらない饐えた匂いのする店で、味も素っ気も無い年寄りのババァが袖を引き、線香一本分の時間で春を売る。そこには吉原の風情は無い。なんちゃって(笑)

確かに、元吉原から移転してすぐは、新しく作った堤のそばの、田んぼの真ん中に出現した訳ですが、元吉原が江戸の発展に従って市街化し移転を迫られたように新吉原も市街化してゆきました。

また羅生門河岸は東南に向いていて、日当たりは良いし、当時の細見や絵図を見ればすぐに判ることなのですが、比較的若い遊女が多くて、開けっぴろげな江戸下町の陽気さがありました。

一部の書籍から誤って広がった、吉原の形を見直してみます。



新吉原に関してよく聞く言葉についての図と簡単な説明です。
新吉原に関する出来事とこのサイト作成の際に参考とした江戸時代に出版された本の一部をを年表としてまとめてみました。手元に無い希少本は蔵書されている施設名およびリンクを加えております。
江戸吉原ご研究の一助となれば幸いです。


性@遊女

吉原を「性」抜きで語ることはできません。しかし、今までの吉原についての本の多くは、男性の方々が書かれた物ですし、数少ない女性研究者の書かれた本は、残念ながら「風俗」の現場への考察が表面的過ぎる気がしてなりません。勿論、先達の皆さんの殆どは、真摯に吉原の実態に近づこうとされている訳で、それを否定するつもりは毛頭ありませんが、原典にさえ当たっていない、それらの研究成果の一部をパクル、薀蓄本やパクリサイトが、誤解を広めているんですよね。
一例を挙げると、

「殆ど効果のない、"朔日丸"という避妊薬と"、二月二日に臍下に灸をすえると妊娠しない”という迷信に頼るばかりであった」
「男性が使用するコンドームのようね甲形(かぶとがた)、御簾紙を唾で丸めた"詰め紙"を使用したりしていた」

なんていうのは、パクリの代表的な物です。御簾紙って確かに当時の高級紙で、枕紙(エッチの時に使う、今ならボックスティッシュ)としては使われていましたが、現物見ればすぐ判るんだけど、薄い硬質紙で「御簾(偉い人が直接見えないように下がってる、竹ひごを編んだすだれみたいなヤツっす)のように向こうが透けて見えるから御簾紙」なんだから、そんなものどうやって丸めて、子宮口まで突っ込んで、終わった後取り出すんだよ?ってか出来るもんなら、是非やってみせて欲しいもんです(笑)

ってか、四つ目屋さんで売ってた甲形は絵も現物も現存してるんだから、それを付けたちんちん入れてたら、どんな事になっちゃうか、試して見てから書きなさいってば、プンプン。

そんなパクリをやってる人に限って「吉原での避妊は洗浄が中心だった」なんて書きながら、「局見世は長屋で便所も無かった」なんて書いてる訳で、矛盾に気が付いてさえもいなんですよね。局ってか河岸見世(長屋見世)の遊女さんは妊娠し放題?そして、中条流でおろし放題?ハァハァ・・・。

失礼。取り乱しましたm(__)m

この辺の内容は、詳細に検証してまいりますが、実はここ数年、遊女さん自身や聞き書き、そして遊廓/岡場所関連の古文書が、江戸は勿論、各地で連続して発見されています。以前だったら、「何か古いゴミが出て来たよ」で捨てられていた物が、ネットの一般化やTVの影響で、古物商さんや研究機関に持ち込まれる事が増えてるんですよね。偉いぞ、「お宝探偵団」!!(笑)

それも含めてから再構成して論を立てますので、少々お待ち下さい。って書いちゃうと、私が誰だか判る方もいらっしゃるかも知れませんが、まぁ、それはそれってことで<=おいおい!

一部だけ先行して御開帳しちゃうと、現在のソープでは生理の時に「あるもの」を使って、子宮口を塞いで、お客様のお相手をします。また、以前は何に使うのか判らなくて、性具(大人のおもちゃ)じゃないかと思われていた「○の○」は膣じゃなくて、子宮に挿入する器具で、その挿入法も確立してたようだってことです。


江戸期の出来事や、今に残る文化や習わし事をつれづれに御案内致します。



トンデモ吉原本
以下引用

明治33年発行の「遊廓の裏面」は書名通り裏側を赤裸々に描いている。江戸時代を去ること30余年だが、ほぼ江戸期も同様と見て差し支えないと思う。(中略)

ことに紋日、物日にはこの社会独特の祝い物の出費があって苦しい。これではいくら稼いでもおっ付かない。
「見かけは光輝くが空っぽう」
だから、客に縋る気持ちで生き、少しでも同情のある言葉を聞くと、すぐ本気で心中でもする。間夫に達引き裸にされて、さらにひどい色町に落ちていく(中略)

名著「売春婦の性生活」にそれを見た。引用させていただくと、一週間に1度オルガスムスを感じる者30%、半月に1度の者が30%いるという。だが、売春婦のひとりが「忙しいときは気がいかない」と言っているのは事実だろうと言っている。
この書は売春防止法が設定される3年前昭和28年の発行だが、明治、江戸時代の吉原についても同様と言えるだろう。

以上引用
稲垣史生著 「歴史読本」昭和55年九月号初出。数種の単行本に一部改稿にて主旨を再録
改稿は、典拠の削除と年代の削除

「うわっ!?」って思った方も多いと思いますが、実はパクリ薀蓄本で「紋日、物日」の支出内容や、「遊女はイカナイ」って書いてある大元がこの文章だったりします。江戸から離れた明治33年の「遊廓の裏面」っていう本、それも一冊だけを元にして、江戸吉原を断定するって言うのも凄いのですが、昭和28年の調査数1(笑)で、江戸から明治までを断定するってのも凄いですよね。つか、それに気付いているのに、出典の方を削って理論を残しているのはもっとすごい(笑)

"名著”と仰っていらっしゃる「売春婦の性生活」に至っては何おかいわんやで(^^;、作者の雪吹周さん は、吉原病院院長でペニシリンの淋病臨床治験については論文もお書きだけど、「遊女はイカナイ」については、その”名著”で繰り返しになるけど、『売春婦のひとりが「忙しいときは気がいかない」と言っているのは事実だろう』と、突然結論を書いていて、それを稲垣さんは元にして江戸時代から昭和28年までを断定しているんですよね。なんだんねんそれ(笑)

風吹周さんご自身は「肉体の白書〜吉原病院記録」と言う、ある意味本当の”名著”も著していらっしゃるのだけれど、あくまで、医者としてみた患者としての「娼婦」「売春」「性病」という視点なんですよね、残念ながら。


ちなみにもう一冊の典拠としている「遊廓の裏面」という本は葛城天華・古沢古堂と著者名が並んでいて、なんと「社会の裏面 ; 第1編」 ってのが正式名称で、第2編は 「女義太夫の裏面 」(笑)です。興味のある方は、東京なら中央図書館で読める(不二出版 買売春問題資料集成第10集)けど、これを読んで、明治か江戸かっていう問題以前に、資料価値があるかどうかを判断してみていただければって思ったりします。

ご存知の方も多いかも知れませんが、稲垣史生さんは作家というより時代考証家で、TV時代劇全盛時代に数多くの考証をされ、それなりに評価できる業績も少なくありません。ただ、若い頃よっぽどもてなかったのか、遊里で何か嫌なことでもあったのか(笑)こと吉原や岡場所については、先入観バリバリで、ほとんど資料価値のある原典にはあたっていないようです。某施設にあって映画やTVで使われることの多い吉原大店(見世)のセットの奥行きが無くって、本来土間に面しているはずの籬(まがき)が設定できていないので、順番にずれて河岸店が現在のちょんの間さんみたいになっちゃたのも、この方の偉大な業績です<=おい!

全くの私見ですが、初期から1970年代後半までの稲垣史生さんのお仕事は素晴らしいものが多いと思います。
そして、NHKの時代考証を一手に引き受け、司馬遼太郎さんから賛辞を贈られた1980年頃から、急速になにやらとんでも本へと一挙に雪崩れ込んでいる印象があるんですよね。

「第一人者」「大家」

その肩書きと地位、そして70歳に近くなった年齢が、そうさせてしまったのかもなぁ、と思うんですよねぇ。

素晴らしいお仕事をされていただけに、無茶苦茶な物も、同一に信じられてしまって、吉原への認識の間違いがどんどん広まってしまう。

なにかとても残念だなぁ。

これに限らず、薀蓄本の元になったトンデモ吉原本そして薀蓄本自体を検証してまみます






栄之「吉原十二時絵巻」
享和-文化期(1801〜1818)大田記念美術館蔵


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