湯女
桃山後期から江戸初期に至る、遊郭の最大のライバルだった風呂屋(一部は茶屋に看板だけ変更)
に咲いた徒花です。今私が御仕事をさせて頂いている「ソープランド」御先祖様と言うか、先輩って
いう感じもあります(^^;;。
真面目に書くと、一説には湯屋の延長上に「公許遊郭」があるか、どこかで友好的に融合していれば
「日本の風俗史」と「性病との戦い」は、世界一の先進国になっていたかも知れないっす。性病で廃人
になってしまった、偉人や芸術家は多いですものねぇ・・・・。



湯屋(風呂屋)に抱えられて、最初は入浴するお客様の髪や体を洗ったりしていたと言わ
れています。湯女の起源は諸説あるのですが、温泉地では遠距離から泊りがけで入浴
にくる歴史と共に始まったとの説さえあったりします。

最初の雰囲気は「女三助」さんって感じなのですが、途中からは「ソープランド」って感じで
しょうか。私の先輩じゃん!

冗談はさておき、「三助」という職業自体は、寛文 8(1668)年の湯女の吉原移住以降成
立したというのが一般的な説なので逆に「湯男」さんってなもんですね。

年表を参考にして頂くと分かり易いのですが、それ以前にも湯女は何度も公式に規制の
対象になっています。それでも、根強い人気を誇っていたのは、やはり清潔感が高いこと
と、「夢」に通じるゴロの良さだとの説もあります。(”ゆな”説もあり)

当時の風呂は蒸し風呂の名残で、薄暗いのが普通だったのですが、実際にお相手をす
るのは二階の別室が多かったようです。入浴が前提なので、元吉原の遊女に近く、汗を
かくため素顔である事が多いのも特徴でした。ざっぱに言うと、若くてぴちぴちな娘中心
だったとも言われています。そして、吉原みたいな面倒な手続きもなくて、比較的安価な
為、馴染みにもなりやすいという部分も人気でした。

良い悪いは別にして、この湯女の移住を境に吉原自体が加速度的に変わってゆきます。
移転時には厳密に言えば「茶屋女」だったのですが、これが吉原で新しい位の「散茶」を
形成します。

移転組の業者さん達は、風呂屋風な店作りをして、入り口の脇に店(見世)番の男衆を
座らせて、それまで吉原に習慣としてなかった、客引きも始め、これが伎夫太郎の始ま
りだとも言われています。

ソープランドのボーイさんみたいな感じかな?<=おい!

ちょっと脱線しますが、現代のソープランドは非常に性病の罹患率は低い事が知られて
います。新聞で話題になった様に、梅毒や淋病はもちろん、その他の感染症も同年代の
素人さんより低かったりします。
これは、俗に言う「ソープ技」である、椅子洗いやマットの時にしっかりお客様を観察する
ってのはこのお仕事の、基本中の基本だからです。

もちろん、自分の体を守る事が必要だからっていうのもありますが、何より大事なのは、お
客様に移してはいけないって前提があるからです。
注意を最大限に払った上で、例えば私の御仕事をさせて頂いているお店なら、2週に一
度すべての感染症の検査をします。お蔭様で、私はまだ一度も感染した事はありません。

風呂屋は、性病が少ないって事でも人気があったという記録も残っています。勿論現代の
ような検査に基づく統計がある訳ではないのですが、清潔にしてなるべく明るい処で、相
手のって言うか、お客様のあっこを拝見する事で、かなりの予防にはなっていたようです。

その後儒教の影響が強まると、性はますますタブー視されて来て、暗がりでそっとする物
みたいになってゆくのですが、こうなると膿が出ていてもしちゃうって笑えない状況になって
しまったりしたようで、江戸の街には急速に性病が増えて行ったようです。

なんで、良いとこを交換できなかったのかなぁっていうか、上手く融合できれば世界一の
風俗の歴史が刻めたのに、なんておもったりもしました。

風呂屋に話しを戻すと天正19年に出来たと言われるのが、江戸で最初の風呂屋の記
録の様で、永楽銭一枚で入浴出来たとの事です。それが発展して、昼夜営業になり、
湯女が活躍しそして、後の銭湯へと変わって行ったのです。

世界に冠たる風呂好き民族の発端もやはり「えっち」がらみなんですねぇ・・。
それまでの風呂は、温泉湯治以外は蒸し風呂が中心だったと言われていますし。

西欧の方達が、元々の体臭の問題もなくはないのですが、香水の調合で甘い時間を
彩っていた時期に、江戸ではひとっ風呂浴びて、垢を落としていた訳ですから、やっぱ
清潔好きは根っからなのかも知れません。

公娼と私娼
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