吉原のかたち



「新吉原は"ど田舎"」ってイメージがあったりしますよね(笑)
確かに、元吉原から移転してすぐは、新しく作った堤のそばの、田んぼの真ん中に出現した訳ですが、元吉原が江戸の発展に従って市街化し移転を迫られたように新吉原も市街化してゆきました。

新吉原は明暦3年(1657年)に成立しました。これは、浅草の奥の方に意味も無く遠いからって移転した訳ではなくて、江戸の都市計画に従った立地なのです。

江戸幕府の権威が確立し、1635年の武家諸法度による参勤交代の開始、1642年の譜代大名の参勤制開始により、江戸の武家人口は一挙に増加します。それに伴い、仕事を求めた庶民の流入も加速し、江戸は大きく変貌していきます。その過程で、寛永7年(1630)、寛永17年(1640)、正保2年(1645)、承応3年(1654)と街は度重なる大火に見舞われ、根本的な都市計画の立案を迫られます。そして、明暦2年(1656年)11月、吉原の世話人達は奉行所に呼び出され、移転を言い渡されます。この経緯は資料によって若干異なりますが、日時はほぼ間違いないようです。

代替地は、役1.5倍になるし、引越し費用も幕府が一部出してくれるし、しかたないなぁってことで、移転の段取りをしている時に起こったのが、明暦の大火(振袖火事1657年1月)で、ご存知のように、この大火では江戸城の天守閣も消失し以後再建されなかったのですが、幕府は、将軍さまの居城であり、政治の中心である江戸城の防火を主眼にしながらも、拡大する江戸の街の将来にわたる効率的な発展を考えて、大胆な、寺院や町屋(町人居住区)の移転を伴う都市の整備を、それまでの段階的な計画から、焦土になった事を奇禍として、一挙に実行に移しました。

この都市計画の部分が、旧来の吉原本からは、こっぽり抜け落ちています。通説であった「悪臭漂う鉄漿(おはぐろ)ドブ」が存在しなかったことは、ほぼ立証されていますし、その他多くの誤解が近年解き明かされてきています。

江戸吉原について、パクリ易い、もとい、引用しやすい(笑)書籍のほとんどは、昭和50年代以前に書かれています。と言うか、それ以降出版されている書籍は手に入り易いので、さすがにパクルとばれちゃいそうですから、ネット上でもあまりみかけません。

ところが、江戸研究に非常に重要な発見が、昭和50年代中期以降に続出しています。それは、古文書であったり、考古学、地理学の研究成果であったりと様々ですが、吉原研究書の高名な著者の皆さんも、新しい研究成果を踏まえて改定されたいところなのでしょうが、残念ながら殆どの方々はすでに鬼籍に入られておられるので、旧来のままの理解が、未だに広がり続けているのです。そして、優れた江戸研究の本は残念ながらあんまり売れてなくて、古い本が古書店やネットで高価に売られていたりします。

もちろん、その辺をちゃんと理解していれば、先達の素晴らしい業績は生きるのですが、パクリ本やパクリサイトがそれを邪魔しているんですよね。

話を戻すと、新吉原への移転から2年後の万治2年(1659年)本所・築地奉行が置かれ、本所から深川の開発が始まります。すごく大雑把に言えば、隅田川の向こう岸を本格的な市街地とする計画です。地図をご覧頂くとわかり易いのですが、この地域の北端に、隅田川を挟んで新吉原は立地しているんですよね。

江戸名所一覧双六(二代広重)都立中央図書館蔵
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※注:地名の朱文字は私が合成しています。
江戸名所一覧双六(二代広重)都立中央図書館蔵

一番判りやすいご近所さんの浅草寺もこの時代はまだ、江戸の市域ではありません。新開発の本所・深川と一緒に浅草地域が江戸町奉行の管轄下に入るのは、小石川・牛込・市谷・四谷・赤坂・麻布地域と一緒で、正徳3年(1713年)となりますが、逆に言えば、この時期以降、街はほぼ繋がってきて、新吉原も辺鄙な田舎というより、「ちょっと遠い町外れ」って感じになっていきます。

えっ?って思われた方もあるかも知れません。でも、地図を見、そして実際に歩くと判り易いのですが、上野駅から新吉原の入り口である見返り柳のあった千束4丁目8-10までは、直線距離では約2km、私の短い足で歩いても40分ほどで着いてしまいます。浅草寺からは、江戸時代の単位で言えば、約八町、900m弱なので、歩いて20分くらいの距離です。猿若町とは300mほどで、ほんとに直ぐ側なんですよね。悪臭漂うドブから300mくらいの処で、お弁当使いながら芝居見物はできません(笑)って言うか、いっつも臭い環境の中で、ご馳走食べてお酒飲んで、女の子に萌えるのは難しいっす。


嘉永6年(1853年)改正新刷今戸箕輪浅草絵図(部分)
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嘉永6年(1853年)改正新刷今戸箕輪浅草絵図(部分)

吉原の入り口には、ご存知「見返り柳」があって、衣紋坂を過ぎ五十間の曲がった道の向こうに、吉原大門があります。これも良く見る図だと、なんだかガランとしていて、殺風景な感じがするのですが、実際にはここには商家が並んでいました。薀蓄本だと『編笠を貸す「編笠茶屋」が並んで』なんて書いてあるのですが、そんなにいっぱい編笠ばっかり貸せません(笑)と言うか、顔を隠す笠が商われていたのは、宝暦年間(1751〜64)くらいまでなんですよね。そもそも編笠を使うのは武士が殆どって言うか、町人の衣服/服装だと編笠を被っている方が目立っちゃいます。宝暦以降は顔を隠すのなら頭巾が一般的になるのですが、無紋の羽織や頭巾のレンタルを継続していた店はあるようです。安永2年(1773年)からは、有名な版元、蔦屋重三郎の店があり「吉原細見」を売っていました。

ちょっと脱線して、吉原細見について簡単に触れると、新吉原で最初に発行されたのは、鱗形屋版の「吉原かがみ」(万治3年・1660年)だと言われています。これ以降、同様な形式のものが数多く発行されますが、内容としては遊女さんたちの評判を書いたもので、各見世・所属する遊女さんを一覧にし、料金等まで網羅した「細見」として発行が始まるのは、延宝(1673-1681)以降となります。

「吉原細見」については、稿を改めて詳細をご紹介しようと思うのですが、これまた、評判記系の内容を鵜呑みにしたり、後期細見を正確な物であるような誤解が、江戸吉原の理解を妨げているんですよね。

私がお仕事をさせて頂いてる現在のソープランドについて、雑誌での知識を鵜呑みにすれば、これは実態と100億光年は離れてしまいます(笑)ネットのブログ&掲示板やメーリングリストも同様で、「評判」って言っても、毎日何百人もの人が味わうお料理屋さんや、何年、何十年もかけてサービスを錬り、多数のお客さまに提供する旅館やホテルの評判とは、評価する人数の分母が桁違いです。そして、人と人が対するのですから、好みや嗜好はほんと様々なんですよね。それを前提にした「評判」

別の角度から考えると、出版物は面白くないと売れない。風俗系の情報誌やweb-siteは、煽りや際どい表現や極論の方が受けるし、自分のお店が叩かれないように、料金を払って広告を載せたりするんですよね、昔も今も。

その辺りが、あまり考察されていない。

さて、五十間坂に話を戻すと、忘れてはいけないのは高札場。何故かこれが落ちちゃっている吉原の図が多いのは、パクリネタとして一番使われている本が落としているって単純な事なんです(笑)吉原の高札場にについては、ページを改めて詳細を書こうと思っていますが、吉原の性格や江戸でのありかたを考える時に、絶対に落とせないものなんですよね

高札場→
東都名所 吉原雪の朝 広重作(嘉永頃) 佐野喜版
東都名所 吉原雪の朝 広重作(嘉永頃) 佐野喜版



では、吉原はどんな方向を向いていたかと言うと、大門をほぼ東北に向けていました。よく出てくる一番お安い局だった羅生門河岸は、日当たりの良い東南に向いているんですよね(笑)。よく見かける吉原の図が、下に大門がかいてあるものが多いので、なんとなく西向きみたいな印象があったりしますが実際は違うのです。

嘉永6年(1853年)改正新刷今戸箕輪浅草絵図(部分)
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嘉永6年(1853年)改正新刷今戸箕輪浅草絵図(部分)
薀蓄本や変な時代劇だと、じめじめした泥道に向かった、饐えた匂いのする悲惨な場末がイメージされているのですが、残念ながら日当たりが良くって、難を言えば良すぎて(笑)昼店の時に明るすぎるので、若い遊女しか客が付き難く、暗いところなら化粧栄えするベテランさんは、北西向きの西河岸の方が多かったようです。と言っても、西河岸の方がひどいってことでは無く、河岸店には河岸店のそれぞれの良さがあるから、お客さんは来るんですよね。


吉原遊廓一覧図 部分 菱川派(伝菱川師宣)元禄(1680〜90年代)頃奈良県立美術館蔵
吉原遊廓一覧図 部分 菱川派(伝菱川師宣)元禄(1680〜90年代)頃奈良県立美術館蔵

細見本の原本にあたればすぐに判ることなのですが、切店の母体は新吉原成立当事は局女郎中心の小店です。


三日月お仙局見せの図(火消千組の図 部分) 国芳  (文化〜天保1810〜30年代)頃
(三日月お仙は増山金八作『大船盛蝦顔見勢
(おおふなもりえびのかおみせ/1792年(寛政4)』に登場する、局見世の遊女です)
三日月お仙局見せの図(火消千組の図 部分) 国芳  (文化〜天保1810〜30年代)頃


年表をご覧頂くと判りやすいと思いますが、新吉原は何度も焼けていて、町割りだけはそのままに最初は本通りだけであったのが路地が出来ていきました。って言うか、大きな敷地が分割されてコンパクトな建売住宅が建てば、そこまでの小道は必要だってことです。

では、何時ごろからどこに路地が出来、路地の両側に切り見世が客引きをしてたのかって言うのは、残念ながら現在の処は確証はありません。

いずれにしても「値段が安い=悪い」って先入観で、羅生門河岸の小店のイメージを作ってしまったのでしょうが、現在の風俗も嗜好や指向、そしてその時に遊びたい方法で価格は違う訳で、夏には真っ青な空の下、朝顔の鉢が並び、秋には菊の花が咲き、落語に出てくる長屋の八っつぁん熊さんのような、余り裕福でない江戸っ子達の、気軽で陽気な遊女達とのやり取りの声が飛び交う、そんな場所が河岸の店でした。

これも「えっ?」って感じかも知れませんが、よく出てくる路地の両側の長屋みたいな店で客引きを行うのは、早くても文化13年(1816)の大火以後、恐らくは天保6年(1935)の大火以降で、本格的になるのは天保13年(1942)の市中の岡場所の業者と遊女を、すべて吉原に収容してから以降だと考えられます。って、江戸時代は残り20年ちょっとです。この長屋の形式が明治から昭和まで吉原をはじめとする公娼の流れを汲む歓楽街に生き続けし、現在も残る「ちょんの間」の原型になっています。明治以降に出版された江戸研究本の中での「古老に聞いた吉原」は、この時期以降の姿なんですよね。

それまでの河岸の小店は局店の流れを汲む総2階の建物で、他の店と違うのは、一つの建物を長屋って言うか、今のテラスハウスみたいな感じで分割していて、1ブロック毎に営業権が売買されていたことです。つまり借金を返し終わった遊女が自前で店を持ち、お馴染みさん中心の安価でのんきな店を張ることも可能でした。

吉原全景
東都名所新吉原五丁町弥生花盛り全図 広重 天保6年(1830)頃
手前が西河岸、奥左が羅生門河岸ですが路地はありません。
おはぐろドブの塀側に建物はありますが道は広いです。
東都名所新吉原五丁町弥生花盛り全図 広重 天保6年(1830)頃

話を元に戻すと、初期の新吉原は廓内で全ての遊興を包括する場所でした。しかし元禄以降、街に繁華街が形成され、吉原でなくても食事を含め遊興が可能になるなかで、中心的な繁華街としては衰退の一途を辿っていきます。それでも幕末に至るまで、江戸一番の遊び場として続いていくのは、様々な価格の、様々な遊びが一箇所で可能であることと、「公許」である安心感、そして脈々と継承されてきた伝統でした。

江戸の最後期、寛永13年(1842年)天保の改革の時に、当時日本橋にあった芝居小屋が浅草寺裏に移転され、浅草寺-猿若町-吉原の歓楽街が形成され、前述の岡場所の収容もあって、廓は最後の光芒を放ちます。しかし明治になって、芝居小屋は移転し、浅草と吉原は、昭和に至るまで、江戸の風情を最後まで残す場所となっていきました。


新吉原図鑑/新吉原細見/新吉原略年表/江戸のつれづれ/
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