茶屋/引き手茶屋
江戸期の「茶屋」という言葉は、「接待をする場所」みたいなニュアンスのオールマイティーな意味を含みます。前にそれぞれの言葉を付けて専門化しているんですよね。

「オカマさんBAR」の「陰間茶屋」、スナックとコスプレ喫茶って言うか、今なら「お帰りなさいませ、だんなしゃま」のメイド喫茶まで併せた、早い話が看板娘がいる前提の「水茶屋」、本格的な料理を用意できる「料理茶屋」、エッチホテルって言うか連れ込み宿(古)の「出会茶屋」ナドナド、挙げれば切りがない専門化された「茶屋」があります。

薀蓄本でよく見かける「遊女とお客さんを会せて、酒宴等をする場所」っていうのは、吉原遊郭内、それも仲の町を中心にした一部の引き手茶屋なんですよね。そして、吉原の「茶屋」は引き手だけの為にあった訳ではなくて、江戸文化伝播の中心地でもありました。



よし原仲の町桜の紋日(部分) 江戸名所 広重
よし原仲の町桜の紋日(部分) 江戸名所 広重
丸甚版  安政初年(1854)

仲の町のメインストリートに並ぶ茶屋。


吉原中之町  落款無し (伝 奥村正信) 享保年間(1716-35)頃
吉原中之町  落款無し (伝 奥村正信) 享保年間(1716-35)頃

大門越しに中の町のメインストリートの望む。
よく目にする江戸末期頃の花魁の絵と服装や髪型が違うことにもご注目。


吉原の花 歌麿 寛政5年(1793)頃  ワーズワース・アテネウム蔵

吉原の花 歌麿 寛政5年(1793)頃  ワーズワース・アテネウム蔵

花見の季節の仲の町の茶屋。男性が一人も描かれていないので、花見の宴(遊女の休日)を描いたのではないかと想像されています。
茶屋とは、お茶飲ませてくれる店です。以上<=おい!

って訳はなくて、これまた吉原がらみの茶屋って誤解が多いんですよね。よくあるのは「茶屋=客と遊女屋の仲介業」なんていうのですが、こんな書き方が、吉原への誤解を増やしてしまっています。少なくてもその設定なら「茶屋」じゃなくて「引手茶屋」って書いてほしいなぁ。

ちなみに「引手」の「手」は、時代劇なんかで悪徳商人が、ワルモノの浪人に
「先生、痛めつけてくれれば、酒手ははずみますぜ、フッフッフ・・」
とか言ってる、酒手の「手」と同じ意味で、現在の「手数料」の「手」なんですよね。

年表を見ていただくと、最初遊女とお客さんが遊ぶのは揚屋だったのですが、このシステムは明和年間(1764〜71)中頃に消滅します。揚屋とそれ以降の茶屋経由で遊ぶ一番の違いは、同衾(ベッドイン)する場所の違いです。ではそれ以前に遊女屋さん(見世)を紹介するシステムは揚屋だけだったのかと言えばそうではありません。

そもそも「茶屋」ってのは、「接待をする場所」と言ったニュアンスを包括する言葉で、1668年、吉原に吸収された「湯女風呂」も、禁止から移転までの間、市中に残っていた見世は「茶屋」として営業していました。

じゃぁ、新吉原移転の1657年から1764年までの約100年間、遊女をお客さんに紹介するシステムは無かったのかと言えば、その間も茶屋は紹介していて、そっちの方が人気があるって言うか、リーズナブルだったので、揚屋をパスして茶屋だけで遊ぶスタイルへ移行していった訳です。

茶屋から遊女屋さん(見世)への紹介は、最初は茶屋へ寄ったお客さんが、細見なんかを見ながら、「こんな子が好みなんだけど、どんなもんかなぁ?」って感じで相談して、茶屋は関係がある(契約してる)ところの中から、好みに合いそうな遊女さんを選んで連絡を入れ、空いていればご案内って感じでした。揚屋さんへの手配もしてくれますし、ちょっと時代が下がると、代金の決済もやってくれます。

でも「引手」って呼ばれるのは、遊郭内の遊女屋さんに契約を持ったすべての業種で、吉原の中の茶屋だけとは限りません。船宿もあれば市中の茶屋もあれば、駕篭屋さんもあったりします。ちょっと変わったところでは、初期の芸者さんやその後の幇間(たいこもち)さん、講釈師や噺家さんはもちろん、蕎麦屋や饅頭屋さんにまで及び、紹介の範囲も、大見世から切見世にまで及んでいました。この支払い台帳が、近年、複数発見されているんです。

ちょっと脱線すると、明治期以降現在まで、風俗と切っても切り離せない「ポン引き(呼び名は多種多様です)は吉原の資料には、殆ど出現しません。歩いてるお客さんに、初対面の見るからに怪しいおにぃさんやオバサンが
「ダンナ、ダンナいい娘、いますっよ、お安くしときますよっ!」
なんて、どう見ても「いい娘」が出るはずも無い個人営業は、店を構えた数多くの「引手」が存在する吉原では、ちょっと入り込む余地は無かったんです。

話しを戻すと、日本堤から吉原大門の間の五十間にも引手茶屋があるのですが、これは門外なので、よくある説明の「遊女とお客さんを会せて、酒宴等をする場所」って、不可能です(笑)遊女さんは、門外で仕事はできません。あくまで「紹介する」んですよね、基本は。

じゃ、「揚屋が無くなった後の、花魁道中ってどうなってるんだよ?」ってことなのですが茶屋にシステムが変わって、名物の道中まで無くなっちゃうとまずいので、廓内引き手茶屋の中の、中の町のメインストリートに面した場所にあるデカイ茶屋に、その伝統っつかイベントを残したってことなんです。

というか、それ以前から茶屋への道中は始まっていて、ほぼ同じ時期に「仲の町張り」も始まっていました。昨日まで、揚屋で宴会してたのが、今日から全部茶屋へ変わったなんてことは無いんです。

茶屋が仲の町に並んだのも、そこへ道中を組み、宴席も設けるようになったのは、メインストリートが賑やかだからこそ、人が集まり、場は華やぐ。そのために目立つ催しを行う。それは、商店街だって、遊廓だっておんなじです。大門入って、仲の町が「シーーン」としてちゃ、お客さん帰っちゃいますよね。ある意味、揚屋町を仲の町の位置に設定しなかった時点で、吉原の揚屋システムは崩壊の道を歩んでたわけです。

そして、ここで誤解が生まれたわけで、「引手茶屋=遊女と会って宴会ずる場所」なんて堂々と書いてある吉原本続出になっちゃったんですよねぇ・・・。それは極一部なんです。第一、引手茶屋と揚屋制度に整合性が無くなっちゃう。

また、揚屋は、基本的に指名した遊女さんを呼び出してから宴会するのですが、茶屋は、宴会してから、遊女さんを指名(呼び出す)することも可能です。
よく、「呼び出し以上の遊女は茶屋を通さないと揚がれない」ってのが協調されているのですが、逆に言えば、「呼び出しじゃない遊女さんも茶屋には呼べて、宴会に参加できる」って面に、注目してほしいなぁって。

そして、忘れてはいけないのは、吉原遊郭内の茶屋は引き手茶屋としてだけ存在していたのでは無くて、遊女屋さんへ繰り出して来る団体さんや、そこで合流するお客さんたちの遊興の場でもあったって面なのです。

お客さんは勿論、男女の芸者さんと、時としては見世も位も違う遊女から禿までが一体になって楽しく騒ぐ酒宴では、新しい唄や音曲、そして踊りが披露され、狂歌や付け句で盛り上がるって言う、当時の江戸の文化の中心に位置するのが、吉原の茶屋でした。。

ビジュアルで贈る、新吉原!  なんて、大したもんじゃないのですが<=おい!、
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