前田 勉  第三詩集「橋上譚」




                                                                                                                                     2014年5月14日

                                                    
 前の詩集から実に30年ぶりの刊行となりました。こんなに時間が経っていたなんて
自分でも不思議なくらいです。気負うことなく生きていたはずなのに、やはりどこかで
違っていたのでしょうか、詩から遠ざかっていた時期が10年ほどありました。40歳代
のこの時期、滅茶苦茶に真面目なサラリーマンをやっていました。同時に、何かを始
めなければという強制的な気持ちになっていたような気がします。そんな時に、山やア
マチュア無線と出会って新しい世界につんのめり、新しい多くの人と出会い、新しい生
き方もできました。しかし、50歳になって、ふと振り返ってみたら、何かが足りないこと
に気づきました。それは、詩の存在でした。
                                                       
発行日  2014年5月5日                                                
収  録   39編                                                      
定  価   2,500円+税                                     
出  版  書肆えん                                         
      秋田市新屋松美町5-6                            
            ℡・fax 018-863-2681 http://www.shoshien.com/ 


詩集「橋上譚」により
平成27年度「第32回秋田市文化選奨」を受賞しました。


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感謝・読後感<お便りを戴いた皆様すべてのご紹介ではありません。ご了承ください>



◎所属する詩誌「密造者」第94号で、私の特集が組まれました。コピーでご紹介します。























◎成田豊人氏(秋田県北秋田市) (「密造者」2015年第92号 詩集論評から転載させていただいた)

 過去とつながる装置としての風景  前田勉詩集「橋上譚」を読んで

 詩集『橋上譚』はⅠからⅤまでのパートから成り、三十九編が収められている。「あとがき」を最初に取り上げるのは語弊があるかもしれない
が、敢えて避けずに進めたい。前詩集刊行から三十年が経過したこと、その内四十歳代の約十年間はある事情で無気力となりほとんど詩が
書けず、再び書けるようになったのは五十歳になってから、とある。その時、自分の中に詩があることに驚くと共に救われた思いもした、とも記し
ている。このことは、作品の多くに他者との関わり合い、もしくは、具体的な生活感というものが希薄であること、眼前の風景を見ると必ずといっ
て良い程過去へと思いが遡及すること、過去における自分の位置(意味)というものを確かめずにはいられないこと、朝を迎えて軽い後ろめたさ
と自省を意識すること等と、あながち無関係ではないのではと思う。
 Ⅰでは馴染のある川(雄物川等)やその河川敷、そこに架かっている橋などがモチーフとなっている。詩集のタイトルとなった『橋上譚』もⅠを
構成している。時に橋はモチーフとして魅力的である。一般的に此岸と彼岸、過去と現在、現在と未来を繋ぐものとして描かれることも少なくな
い。

   たそがれの橋を
   淡く滲んだテールランプの光が
   歩道の脇を流れてゆく
   向こうの岸へ何を急ぐのか
                      (「橋上譚」部分)

 前田の場合、橋を渡ってもその先にそれ程のものを期待はしていない。急いで渡る必要性も感じてはいない。渡り急ぐものをただ傍観してい
る。

   あちらこちらの時間に仕舞い込んで
   行方知らずになっていた数々の記憶が
   どうということのない
   日常的な繰り返しの中に
   沈潜してしまったものたちと溶け込んで
   その先から逃げ出せないでいる
   例えば向こうの岸
   あるいは振り向いた時にあるはずの
   わずかな時間の私の原野とか
   その原野が無ければ悲しすぎると思ったことに嫌悪した
   時代
   そのものたち
                      (「橋上譚」部)

 たとえば向こう岸に渡ったとしてもかつての時間を取り返すことができる訳ではないし、分かっていながらも、徒労に終わることへの嫌悪感が募る
だけなのだ。この詩集で中心をなすと思われるⅠを構成する九篇のうち八篇のモチーフは、橋、川、河川敷、河口だが単一の場合もあれば複
数重なっている場合もある。これらを前にして前田は過去へ思いを馳せる。一つだけ挙げてみよう。

   あの頃
   と君が言ったのは
   いつの頃であったのか
   聞き返すこともなく電話は終わり
   そのことさえ忘れた

   お地蔵さんと
   片方の耳が欠けた兎の遊具
   陽を遮る木もないただ広いだけの草はら
   ここで遊んでいた頃からの時間が
   そのまま君の中で
   ずっと続いていたのかもしれない
   壊れた兎のままであったjか
   お地蔵さんは色の褪めた赤い頭巾を被っていたか
   君の中で

   私の中で
                     (「河川敷」部分)

 河川敷の風景から思い出が甦ると共に、「君」と過去の共有を図ろうとしてはいるが、無理であると自覚している。「君」とは誰なのか輪郭が
明らかにされていないだけに気になる。
 Ⅱは何かの事情で移り住んだ鹿角地方の街並を中心として、特徴のある風景が細やかに静謐な筆致で描かれている。住み始めた土地に
前田は素直に溶け込もうとし、ここでも時間を意識しながら土地の人々と同じ時の流れを共有しようとしている。

   分岐するあたりで立ち止まる
   立ち止まることで
   いや
   立ち止まることの意味合いなど何もないのだが
   背中から射す街灯の輪に舞う雪の影に惹かれていた
   日常の曖昧な所作や
   流されてゆく時間の不安定な位置とか
   重さ長さ広さ形など
   賑々しく思い巡るものたちから逃れて
   見ていたかった
   まるで
   空回り
   しているかのように
                    (「帰り道」部分)

 しかし、生活を送る以上屈託は当然生じるし、孤独を感じてしまうこともある。屈折した思いに捕らわれることもあるのだった。
 Ⅲは5篇だけでの構成である。その内三篇は東日本大震災をモチーフとしているのが明確である。「深夜・海のある街を思う」ではかつて関
わった海に近い街がモチーフとなってはいるが、果たして大震災を描いているのか曖昧である。大震災を取り上げた作品では、価値観の変化
や自分の無力さが非常にストレートに描かれている。
 Ⅳは七篇から構成されている。その内三篇は何らかの形で朝を扱っている。詩集全体を通じても朝はけっこう取り上げられている。人によっ
ても様々な朝があるが、前田の「既視感」に描かれた朝は次のような朝だ。

   朝早く
   夢に追いかけられて目覚めると
   遅れてやってきた時間が
   想うことや
   隠してしまった感情を引連れて来る

                    (部分)

 決して爽やかな朝ではなく目覚めがつらい朝である。同じⅣの中にある「始まり」という作品では『築き上げられた時間の物語が始まる」朝で
あり、「越えていかなければならないものでもある」朝であり、痛々しいまでに覚醒作用を認識させるものでもある。
 Ⅴは十一篇の作品で構成されている。肉親もしくはその死をモチーフとした作品が六篇、祭りに関わるものが二篇、昔の友人との再会を描
いたものも二篇、それ以外が一篇である。モチーフの違いはあるが、ほとんどの作品に共通しているのは過去への過剰なほどの拘りである。
  
   ひとりよがりに組み立てられてきた祭りの記憶が
   あたり前のように過ぎていったものたち
   避けてきたものたち
   に混じって
   修正されてゆく

   山車がここに来るまでの間
   例年のように
   記憶を整理しなければならない
   源氏車の軋む音や油の匂い
   柳とツゲの枯れた匂い
   武者人形のひん剥いた目玉の角度
   陶酔する囃子方の顔
   摺鉦の響き具合
   篠笛の息遣い

   そして
   それを見ている
   私の位置
 
   どうだったか
                     (「なつまつり」部分)

 なぜ記憶は修正されるのか、なぜ整理しなくてはいけないのか、なぜ過去の自分の位置を確認しなくてはいけないのか。ある種の強迫観念
のようなものを感じてしまう。
 同じく「松風ざわめいて」には、昔何回か「君達」を連れて来た神社の境内が描かれている。鳥居、社、狐の像、道筋など昔とほとんど変わ
りがない。前田は過去を回想する。

   二人とも両手で耳をふさいで
   何かを言った
   あのとき
   君達は
   何を言ったのか
   何を叫んだのか
   ずっとずっと訊ねることが出来ないまま
   気になっていた

   (なぜ?)
                      (「部分)

 「君達」とは誰れなのか推測するしかないが、そのことよりも過去への拘りの方が気になる。前田が自問さえしている。作品のほとんど最後に
は、「継ぎはぎズボンにゴム短靴を履いた何歳かの私が 軽やかに階段を下りて行った」と、子供時代の自己を幻視している。まるで過去に?が
るのを望んでいるかのように。
 この詩集全体から強く感じるのは、前田にとり風景とは過去と現在とを繋ぐ装置のような働きをしているということだ。その装置によって甦った
過去は多くの場合、読む者は霧のかすかな晴れ間から窺うしかない。それは前田の心の深い闇を覗くことかもしれない。


◎永井ますみ氏(兵庫県神戸市) 

 橋の下に渦巻く流れが人生の流れとうまく呼応しているので、きっと常にそのことを気に掛けておられるのだと思いました。盆の踊りは動きがと
ても細やかで、京から流れてきた女たちのしなと、諦めのようなひっそりとした吐息を感じてとてもステキでした。


◎高橋憲三氏(青森県黒石市) (「詩と思想」2014年12月号 新刊Selectionから転載させていただいた)

 秋田に暮らし、河川流域や鉄道沿線、街々の日常を見つめ続けて思索した詩集。移り行くものと変わらぬものとの狭間で自己の所在を確
かめ、川や周囲の景色に内省を感応させる。それは冒頭の詩編「川流れて・生」に集約されている。川岸に渦巻く浮遊物を見て自問する。
「ただ時を重ねるだけで何ら変わりのない自分は滞留しているゴミのようなもの。しかしそれでも、常に生きることを思い巡らしている。何かのきっ
かけで人生という川を淀みなく流れるということはできないものだろうか」と。詩集全体に底通する虚鬱な気がある。作者は自分の感情が過去
のどこかに埋もれてしまったと感じ、過ぎ去ったそのことを憂い、残念に思っている。しかし、それがどんな出来事かは明示されていない。読み手
はそこにもどかしさを感じる。だが作者は、ありふれた日常や生活、街並み、橋から見た川の流れ、朝夕の営み、時の流れを思わせる景色を
通してそのことを匂わすだけ。その方がより強く自分の喪失感を伝えられるという自信からだろう。
 個人的には「盆の踊り」が気に入っている。祖先からの血の流れを経て今を暮らし、変わりなく当たり前に生きている一時をやさしくうたいあげ
ている。詩人の基底にあるのは、形なく絶えず流れる強靭な時(血)の継続と、進歩向上が疑わしい形ある社会(人間)との繋がりであろう。
そして、相互のよきかかわりを希求しているのかもしれない。


◎小松春美氏(秋田県男鹿市)

 装幀とてもと都会的でさわやか。素敵でよくお似合いだと嬉しく存じます。端正で、優しくて繊細。でも、鋭敏さをできるだけひそやかに、むしろ
人に感じさせないように・・・ここでもまた、機敏でお心遣いのよくゆき届いていらっしゃいますのに、息づかいも、足音も静かな前田様そのものだ
と思います。
  一つの容器 河川敷
  生きている
  滞留した私にも似た小さな渦に
  小石を投じてみた
ことで、この詩群は始まるのですね。詩句にもありますが、この詩集が
  上質な小説のように
  上質な詩のように
全体からひとつの詩ゆたかなものがたりが浮ん参ります。風景、思い出、血のつながりを
  小路を継ぎ足すように
いつの日か、いずれ風化してしまうようにちがいないものを、愛を込めて、ていねいに、細かいすみずみまでもとりこぼしすることなく。これは葬送
なのですね。しかし
  さらに向こう側へ
時のつながりがあることを感じながら。

  ウミネコの赤い縁の目
にはハッとし、ドキンとします。
   一日はまた
  越えていかなければならないものであることに気付く
そうそう、そうなのですよね。
  思った途端に存在は始まるとは
在ると思うから、そこに在るのだという哲学。どのお作品にも抑制のきいた品の良い清潔感はまさに前田様からにじみ出てくる樹液や芳香と申
し上げましょうか。感情をあらわにしない抑制のきいている部分がとても魅力的で個性であると思いますし、同時に、それは行儀のよさでもあり
ますから、力不足の私などが書きましても、きっとはずれた事を書いてしまうに違いないと、遠慮した方がいいかなと卑下したり、それでもかまわ
ないと思ったり・・・・と、なまけていたに過ぎないことに言い訳をしてしまう私です。これからもたくさん書かれますことを心からお祈りと希望を申し
上げます。


◎鈴木いく子氏(秋田県秋田市)

 前回発行から30年とのことですが、30年分の内容がある1冊と思いました。どの詩も一つの物語のように流れているものがあり、川のようで
す。前田様の詩をじっくりと拝見するのは、失礼ながら初めてでした。橋と川の詩を書かれている方という印象でした。お住いが茨島ということで
納得しました。雄物川が目の前にあるのでしょうか。住んでいる場所の影響というのは大きいと思います。雄物川の広くて深くてゆったりしながら
色んな物を含んでいる、そんなおおらかさ、懐の大きさのある詩は、やはり雄物川の影響なのかもしれませんね。そういえば、私は太平山の近
くにいるので緑色の景色、田んぼの色に影響を受けています。ⅠとⅡの(花輪にもお住まいだったのですね)生活感、特に、花輪では歴史を感
じました。人々の息づかいまで伝わってくるような・・・花輪の、詩に書かれている場所に行ってみたいと思いました。巻頭の『川・流れて生』深い
なぁと思いました。”過去の私も今の私も”というところ。誰しもそうなのかな、と読んでいる者としても、安堵感もありました。人生観に対する、あ
る種のあきらめにも似た懐の大きさ。”そして浮遊物が”というところ。確かに、日常私たちの気持ちの中にも何か大きな出来事が起こると、それ
まで気になっていた悩みみたいな物が、いつの間にか出ていって無くなっていくからです。そういう川の描写と人の気持ちの動きをうまくリンクさせて、
すごくうなずいてしまいました。前田様の詩は、人生の味わいという感じがしました。真摯に生きている方の詩です。川、河に人生を照らし合わせ
ながらも、人生を受けとめそして味わい深い喜びを語っている感じがしました。『橋上譚』・・・これを、きょうじょうたん、と読むことを今回初めて知
りました。橋がなかった時代もあり、そういう時代を想像すると、何やらロマンや不思議になります。新屋には、神社やももさだがありますが、本荘
方面から来ても、雄物川という大きな川は、大きな隔たりであったことを思えば、秋田大橋にかける希望とか、両岸から手をさしのべなければ、
かからない橋だったのですね。そういう風景を毎日見て、行き交う車のテールランプの一日の終わりの哀愁、橋にまつわる物語を思いました。その
他『峠』歴史を感じました。『かくれんぼ』印象的、『静・その中で』不思議。『夏の日』私が今迷っていることなどもいずれ過去形になるのかな・・・
などと自分のことを考えたり、『なつまつり』最後の一行”見送る”と決めた覚悟のような一行が印象的でした。他にも、言葉選びの丁寧さ(あたり
前かもしれませんが、私にはできていないので・・・)河床から言葉をすくいあげているような・・・。(略)どうもありがとうございました。


◎保坂英世氏(秋田県秋田市)

 年鑑や「密造者」などで読んでいるはずなのですが、あらためて本として読み進めますと、少しリズムが違うように感じられました。他人の詩にま
じっているより、本になっている方が前田さんの世界になっているからでしょうか。これは読み手の力が弱いからなのかもしれませんが。私は特に
「Ⅰ」が好きです。毎週月曜から金曜まで河川敷に通っており、たぶん同じ風景を見ているかもしれません。雨の降った翌日など、川をゴミが流
れていくのを目にしておりますが、こんな詩情あふれる詩になるとは驚きです。また、「Ⅴ」は、私の出身、土崎の風景で、私もこのテーマで書い
てみたいと思っているところです。なお、山道通りはたまにスナック通い、肴町は私の町内です。港祭りをテーマに一つ書いてみましたが、今一つ
直しが必要のようです。「なつまつり」を見てしまったので、引っ張られないようにしないといけないみたいです。私は詩を始めて日が浅いので、たく
さんの詩を読むことが始まりでないかと思っています。素敵な詩集をいただき大変ありがとうございました。これからも秋田の貴重な書き手としてご
活躍されますことを祈念いたします。


◎矢代レイ氏(秋田県秋田市)

 素敵な装丁、その扉をおもむろに開けますと、そこには知性に裏打ちされたことばが一斉に開花し、驚きとともに感動いたしました。おこがましい
ですが感想を記したいと思います。 「川流れて・生」は、せつなさの中で味読いたしました。<グルグルと巡り/巡ることで生を確かめ>・・・川面
に自己を投影し、新たに<生>を取り込もうとした作品なのでは。<いつの間にか霧は晴れていた>とあり、ほっとしました。「橋上譚-秋田大橋
-」は、向こう側とこちら側を結ぶ橋を生の基点として、やまない時の流れと自分をむすびつけています。<橋を渡れば何かがある>と信じることで
迷いを振り切り、前へ進もうとしたのではないでしょうか。<何からの><そして私も>の下揃えは効果的で、内容を深めています。「渡る」は、
<長い橋であった>のリフレーンが、抒情をうまく包みこんでいます。「朝」は、あたり前のなかに、特別な日になり得る何かがあると、企業戦士は
がむしゃらに働くことで心の均衡を保ってきたのではないかと思いました。「雷鳴響く夜・病む人へ」は、最愛の奥様を案じる詩。「花輪沿線」は、
私が最初にふれた前田様の作品です。「うららかな午後駆けて」の中程の散文ですが、いつか私も挑戦してみたい詩形です。「始まり」は、助詞
の小分けでことばを強調したのが目をひきます。「静・その中で」は、静寂のなかの繊細さに魅了されました。「静態(8)」で一気に、その詩風に興
味を持ったのを覚えています。同じテーマを長く追い、それでいていてぶれないスタンスに、前田様の思想が垣間見えます。「その日」の<し/ず/
か/に>は、その前に<静かに>を置いたことにより、経過した時間を引き寄せていると思います。「塵」は、志向が乾いていて、それでも心に少し
光が射し込んだときの作品かと考えました。<黄色いぼたん>が心を揺さぶり、詩が生まれたのですね。


◎佐川亜紀氏(神奈川県横浜市)

 先日は、貴詩集『橋上譚』をご恵贈下さりありがとうございました。<一つの容器 河川敷/その底で私の思惟も精一杯に生きている> 川
と橋を形象としながら、私の生存を浮かび上がらせている所にさわやかさを感じひかれました。ますますご健筆下さい。


◎丸山乃里子氏(千葉県習志野市)

 御詩集『橋上譚』拝受。印象を列記して御礼に代えさせて頂きます。川とは時間である。詩人の視線によって形を持つ時間である。あるいは
川の流れは過ぎ去った風景である。流れているが、流れてゆかない記憶である。電車もまた時間である。往き来する中に重く積み重なってゆく
時間。そして坂、海。この詩集は時間を文字(言葉)という形にしていて読者はそれぞれの物語を連想する。


◎吉田文憲氏(東京都文京区)

 『橋上譚』ありがとうございました。「川は以前と同じように/波の音を橋桁にこだまさせて 生きていた」という詩句が印象的な「川流れて・生」
から始まり、「雷鳴響く夜・病む人へ」に至るⅠ章が、とても心に残りました。川はわたしたちの日常生活のすぐそばを流れる異界なのかもしれま
せんね。「行き交う人々の思いを繋げるために/ただ/立ちつくしている/たちつくしてきた」に万感の想いがこもるようです。ザオザオという風切
る音、「その先に生があったということは/こちら側でも生きてきたということだ」という詩句も印象的です。それが、この詩集の発見なのかもしれな
いな、と思いました。「花輪沿線」は、鹿角市、花輪の町でしょうネ。昨年、父を亡くして、何度か墓所のある扇田を訪れ、駅が無人駅になって
いることにある種の感慨を覚えました。                                                                                 
 読みながら、雄物川の河口風景を思い浮かべておりました。それから、ぼくも何度か足を運んだ石巻、旧北上川の河口や女川の海岸を歩き

回ったこともモノローグのようでもあり、静かに時間や風景と対峙しているようでもあり、全体が大きな意味での鎮魂歌のようにも感じました。(略)  
青春の日も含め、随分前にお会いした日々がなつかしいです。                                                     
 昨年秋に出した『生誕』という詩集で、思いがけなく高見順賞を受賞しました。そのときに配布された冊子を送らせていただきました。この詩集、

秋田の図書館に入っていたらうれしいです。                                                                               
  「現代詩手帖」6月号が、ぼくの特集を組みました。おそろしいことです。                                                 
 また秋田へ、何かのイベントでもあれば、お伺いしたいです。みなさんによろしくお伝えください。どうか、お元気で。


◎岡 三沙子氏(東京都町田市)

 (略)茨島といえば大橋と旭橋にはさまれた地域なので、この題名に納得致します。このタイトルで私も何か書けそうな気が致しますが、橋とい
うとやはり男性的なテーマになりますね。茨島は小学校六年から二十三才まですんでいた古里ですが、それ以前の原野だった幼少時代の思い
出もあり、亡父が埋め立て工事にかかわった原風景が懐かしく思い出されます。(略)


◎加藤トキ氏(秋田県能代市)

 繊細な詩の行間からあふれるように暖かい情感が滲み出て一気に拝読させていただきました。「朝霧」は私の中にある一つの情景に重なって、
深く心に残りました。


◎藤原祐子氏(秋田県羽後町)

 繊細なオトコがコートの襟を立て帽子を目深にかぶり、橋を街を小路を歩いたり佇んだりしながら、心の中で力強くつぶやいている!そんな感じ
を受けました。”盆の踊り”興味深く読ませて頂きました。”ウミネコ”私も女川の詩を書きました。後輩の夫婦がいまだにみつからない現状に胸が
痛みます。装幀もとても素敵です。色、街角(スペイン)の絵の大きさ、色、タッチ等、本当にステキです。帯の白ヌキの文字も。


◎藤子迅司良氏(熊本県熊本市)

 一年前の秋田は実にいい時間でした。とくに二日目のバス行はお世話になりました。男鹿へは一度は行ってみたいと思っていましたので感激し
ました。30年ぶりの詩集とか。詩人の眼差しのやわらかさ深さに魅かれました。
また一日が始まったと思うことへの/軽い後ろめたさと自省を意識しながら(「朝」より)起き、私たちがあの小路から逃げて/ひそかに/少しは自慢
げに/振り返らなくても分かっているよ/と/言いたくて/かくれんぼしている(「かくれんぼ」より)までがまるで心に沁みる静かなドラマでした。詩人の
こんな目配りが大好きです。


◎若木由紀夫氏(秋田県大館市)

 全体を通して浮かんで来るのは滞留する時の中にとり残され、立ちつくしている「私」の姿です。                            
 自意識そのものであるような「私」は、位置を測りかねて風景や記憶によびかけるのだが、時は反転することなく川のように流れていくばかりで

す。スタティックなまなざしで、一つ一つそっとことばを置いていきます。表題の橋上は来世の、川は現世の、河川敷は過去世の,、と読みました。


◎奥井 陸氏(秋田県秋田市)

 まだ全部を読んではおりませんが、どれも心がふっと落ちつくような静けさに満ちた詩だと感じました。少しずつ味わいながら拝読させていただきま
す。



◎高山利三郎氏(茨城県つくば市) (「青い花」第4次78号 同誌「書評」より転載させていただいた)

 前田氏の第三冊目となる詩集である。三十年という時間の中には、数知れない困難な出来事があったことは想像できる。そして十年前から
書きあげた作品が、今回の詩集となって結実したものであることが「あとがき」から読み取れてくる。

  たそがれの橋を
  淡く滲んだテールランプの光が
  歩道の脇を流れてゆく
  向こうの岸へ何を急ぐのか
  ひとびとは
  この橋を渡れば何かあると信じていたのかも
  知れない
  今の橋が出来る前の元の橋の頃から
  橋の掛かっていなかった時代から
  川を越えて行かなければならないと
  意思を強くしていたのかもしれない
  渡ることで迷いを振り切ろうとしていたのか
                     何からの

                       (「橋上譚-秋田大橋-」)

 詩集名にもとられた作品である。「橋」は幾多の詩人の作品に登場する風景であり、心象風景である。集落と集落を結んだり、端と端を結
ぶところ橋とよばれるとか、生の世界と死の世界を結ぶのも橋とされている。その地で生活する人々のいろいろな思いを橋は抱えてきた存在で
もある。秋田大橋も下を流れる雄物川と共に幾つもの人生の物語を創り出してきた原風景なのであろう。五章三十九編とやや作品が多いの
が気になったが、それだけ作品に対する気持ちが強かったのだろうと推察する。最終章の「松風ざわめいて」、「時には」、「かくれんぼ」、「雨 -
次兄に-」も心に残る作品である。北の地にしっかりと根をはり、丹念に詩を通して故郷を掘り起こそうとする姿勢に注目するとともに、「私の中に
詩が在ったということに驚きもし、これしかないと救われた思いがあった」詩人に期待したい。



◎河北新報(宮城県仙台市) (新刊レビュー よりより転載させていただいた)

   詩集『橋上譚』前田勉 著

 著者は1951年秋田市に生まれた。「密造者」同人で、秋田県現代詩人協会会員。本書は第3詩集で、ここ   10年の作品から39
編を選んで収めた。
早朝、深い霧に包まれた橋の上に立つ。詩は、岸辺の草木に「絡むようにして浮遊物がゆっくりと渦巻き」で始まる。「あれは私なのかもしれな
い」。橋の上から流れるもの、変わらぬものを見続ける。時と人を結ぶ橋の叙情、それを表題「橋上譚(きょうじょうたん)」の意味に込めた。舞
台は雄物川、米代川など秋田県の川に架かる橋。「この橋を渡れば何かがあると 信じていたのかも知れない」「渡ることで迷いを振り切ろう
としていたのか」。橋の上を行き来する人の往来の中に、人生の惑いを見ているかのようだ。
 後半は父の葬儀、行商に行く母の姿、前を歩く兄たちを描いた。幼いころに見た夏祭りの風景がよみがえる。
詩は10代から書いた。「『まず自分を知ること』が詩を書くときの立ち位置」と言う。もがき、はいつくばる自身を表現した詩作品だ。

 書肆えん018(863)2681=2700円。


◎小峰秀夫氏 (秋田県秋田市) (「密造者」第90号 詩集論評より転載させていただいた)

 これが前田さんの第三詩集だという。その長い詩作キャリアからすれば、少ないように思えるが、もちろん数の多寡を論ずるのはナンセンスだ
ろう。また厳選されて出版されていれば、その背後に山と積まれた作品があっても不思議ではない。また実際にそうだと思う。前田さんの作品
を読ませていただいていつも感じるのは、表現の巧みさは言うまでもないが、総じて、いつも生存の実相とでも言うものを見つめている眼がある
ということ。そして内部に潜在する「意識」が、こうして詩となって浮上する一その巧妙さが詩人の特技だと読めるのである。贅言を弄するよりも、
そのような立場で作品を逐一読ませてもらう。                                                 
                                         

パートⅠ「川流れて・生」                                                                   
まず詩は次のように始まる。

    早朝

   深い霧に誘われて久々に河川敷を訪れると                                                      
     川は以前と同じように                                                                  
   波の音を橋桁にこだまさせて 生きていた

 多くの詩が、このように淡々とした自然描写で書き始められる。その描写の歩みは情念をにじませ、思惟を怠らない。思惟と歩調を合わせる
ように、詩は続く。

   岸辺に繁茂した草木の根のあたり                                                           
   絡むようにして浮遊物がゆっくりと渦巻き                                                        
    滞留している                                                                       
   あれは私なのかもしれない                                                               
   過去の私も今の私もグルグルと巡り                                                          
   巡ることで生を確かめ                                                                  
   渦からはじき出されるのを待っている

  生は川の渦であり、河川敷であり、思念を展開する道具でもあろう。詩人の歩調は止まらない。

   いつの間にか霧は晴れていた                                                              
   対岸を見ると                                                                       
   気ぜわしく車が往来しはじめた 

   一つの容器 河川敷 
   その底で私の思惟も精一杯に生きている

  自然に仮託された生、時折、これも巧みなメタファーが景物と溶け合って差し込まれる。

  次の「秋田大橋の下で」                                                                 
  ここでも大橋の風景を進み行くほどに、あるいはそうやって歩を進めながら、胸中に去来する思いを繰り展げていく。橋の思想-

   橋脚は                                                                          
   立ち尽くす                                                                        
   河床に踏ん張り                                                                     
   川面を割きながら                                                                    
   行き交う人々の思いを繋げるために                                                          
   ただ                                                                            
   立ちつくしている

 その橋脚の元で埋もれた記憶や、もろもろの感情にひたるひと時。                                                    
 「河口」                                                                              
 あれこれ人生の岐路に立って悩み、さまざまに想いをめぐらした河口、結局「海になれず川になれず」、「そんなものさ」と、想いは逍遥ののち、

人生の諦念に到る。「橋上譚一秋田大橋一」 「川を越えて行かなければならないと」「意思を強くしていた」、それなのに「どうということのない 
日常的な繰り返しの中に 沈潜してしまったものたちと溶け込んでその先から逃げ出せないでいる」、だれでも持つであろう、渋い色調の諦観が、
詩編を領している。この諦観を幾つも飲み込んで行くのが、生というものなのであろうか、と思わしめる。
  パートⅡ、花輪沿線三篇は、地域の遠近描写なのだが、次の「朝霧」ともども、散文詩の趣で、にじんだ生の沿革を言葉とともにめぐる。「帰
り道」はJ・ルソーではないが、孤独な散歩者の一その少し重い足取りを、一緒にたどることになる。
  パートⅢ、「深夜・海のある街を思う」は、近くて遠い思い出の街、小路とそこに突き出た家並み、トタン屋根のコールタールの匂い、そこで記
憶にふける。その記憶の数々は、「湧き出し」、「後頭部のあたりから躍りだすもの」、「高周波のような」、「両耳に指を突っ込んでも聴こえてくる」
もの、それらは濃縮され、嵩を増し、拡散、乱反射し、飛び散ってゆくもの。独自の喩法は静かに押し寄せて、読むものを浸して行く。
 パートⅣ、「始まり」シジフォスの神話、そこに発した石積みの業苦。「時代」は「病的なまでにストイックな 自意識」とやっておいて「いや そこら
辺に転がっていた安請け合いの 中途半端な気取り」と、あえて言ってみるシャイな謙虚さ。「断章(朝)」は、若かりし頃の夢、苦しみ、もがいてい
た「息継ぎすること」で精一杯のあの頃への回顧・夢醒めてみれば、朝はまた始まる、明日へ向かっての朝が・・・。
 パートⅤ、「石畳」二編、それに続く「小道」二編では、あったような、なかったような、過去は、そんなふうに危ういのはこの生そのものかも知れな
い。そのあたりの事情を、詩人は静かな筆の運びで形象化してみせる。
 全体をかけ足で読み通して、詩とは、生の輪郭を描く作業でもあるか、と思わせる詩集でもある。

◎中村不二夫氏(東京都港区)

 このたびは、お詩集『橋上譚』をお送りいただきまして感謝いたします。私は同世代ですが、第一詩集の刊行は前田様のほうが早いです。ここ
から、推察すると、どうしても鮎川信夫の「橋上の人」を思い起こしてしまいます。お詩集は、我々世代の心象風景を描いて、鮎川の詩とは別の
意味で共感できます。ひとつひとつのことばに、まだ、詩が哲学や宗教に通路を持っていたいた時代の残像がうかがえます。(略)内側で必死に答
えを出そうとする、不可能性の詩学を体現されています。「朝」という作品は、一日一日、肉体の消耗と引き換えに、ありふれた日常が上書きさ
れていく現実が書かれています。特別な日を内側に隠して。「雷鳴響く夜・病む人へ」は、病む人の描き方が具象とも抽象ともつかないタッチで、
不思議な現実感を醸し出しています。とても巧い詩です。「盆の踊り」も人の歴史を描いていて、共感できます。「ウミネコ」を読むと、詩を書くこと
は希望であることを思います。これからもど、んどん書いていってほしいです。(略)


◎北川朱実氏(三重県松阪市)

 御詩集『橋上譚』を拝読しました。日常の中から社会を、そして生きていく人を静謐な目で見つめた作品が多く、心魅かれて読みました。特
に、「秋田大橋の下で」「河口」「朝」「深夜・海のある街を思う」は、心に残りました。私は子供のころ旧大曲市に住んでいましたので、とてもな
つかしい思いで読みました。


◎米屋 猛氏(秋田県秋田市)

 (略)言葉に独特のリズムがあり切れバツグンの詩集と存じました。秋田という風土に生きる人間のいのちの声がきこえてきます。とくに「秋田
大橋の下で」「河口」「朝」「その日」「石畳」がすばらしいいですね。


◎山形一至氏(秋田県秋田市)

 (略)ご出版30ねんぶりとか、驚きました。もっと近くで出されているものと思っていました。こうして拝読しますと、なかなか重厚で高質感のあ
る作品揃いであることを認識しました。貴兄の持味が一貫しており、抒情性も深く感じます。これまで拝見した作品が、ここに一冊の本として
まとまることでさらに光彩を放っていると感じました。川、橋をテーマにしたサクヒン、北の生活、花輪沿線など、貴兄の目線はいつも安定していて、
読者は心静かに詩に浸ることができると思います。


◎前原正治氏(宮城県利府町)

 お元気にお過ごしのことと存じます。(略)私は能代、鹿角と二十年近く秋田に住んだこともあり、御詩集の、失われたものと失われないものの二
重の、時空の心象風景がしみじみと心にしみ込んできます。


◎根本昌幸氏(福島県相馬市)

 抒情的な作品が多く、私も抒情的な詩を書くものですから、大変気に入りました。大切にしたい一冊です。

◎牧野孝子氏(東京都練馬区)

 「秋田大橋」は引き上げ後のくらしに架かる初めての橋です。めぐらすこと多くありました。(略)カバー装画「街角(スペイン)」すてきです。


◎小玉勝幸氏(秋田県能代市)

 前田様の深く見日詩句見つめる姿勢が、詩編の底を流れる抒情となって、私を感動させ、すばらしい詩集に出会えたことを心から感謝申
し上げます。


◎斎藤 肇氏(秋田県井川町)

 清楚な中に街角を配した装幀に著者の内面を感じながら、早速目次を閲覧し、標題となった「橋上譚」、そしてⅠから拝読に入りました。
ゆっくり時間をかけて味読しようと思いつつ、いつの間にか吸い込まれ、日常の風景やくらしの中でよくぞこれほどに、事象の本質や時間、人生
に至るまで深く広く感受し、磨きあげて表現ができるものと感じ入り、詩の中に浸りながら読み進めております。前田さんの人格が詰まった一冊
として長く手の届く座右に置きたく思います。


◎細部俊作氏(秋田県秋田市) (細部氏のブログ「かたつむりの旅だよブログ」からコピーさせていただいた)

 『前田勉詩集「橋上譚」を読む』

 5月中旬、送られてきた詩集は立派なものだった。帯の色に使っている青は空を映す川のようだ。帯の文字の白はさざ波かもしれない。カバー
を外して表紙を出すと、そこには日本海に沈もうとする夕陽が見えた。

★「川流れて・生」
 「岸辺に・・・絡むようにして浮遊物がゆっくりと渦巻き/滞留している/あれは私なのかもしれない/過去の私も今の私もグルグルと巡り/巡ること
で生を確かめ/渦からはじき出されるのを待っている」。
この情景は「河口」では次のように表現される。「流されてきた木片が/川と海がぶつかり合うあたりで/揉まれ/海へ出ることを躊躇している」と。
川の淵や橋脚のあたりで目に見えてくる浮遊物も木片も、脱色したビニール屑も、それらは日常が生み出す滓(かす)のようなものであり、またそ
れは自分でもあると吐露している。その渦から抜け出そうとするかしないかの間に漂っている。
「朝」、「川霧立ち込める朝に」にも、前田が情景に自己の心象を投影させる巧みさがうかがえる。そして冒頭の作品の情景は詩集全体を彩る
象徴でもあるようだ。どこか物憂い、独り言のような、孤独なトーンが流れている。

★「河口」
  何度ここに立っただろうか
  少女のように夕陽に憧れていたときであったか
  今の自分の
  始まりの位置を決めたときであったか
   川床を這うように
  私の時間は流されてきた
  (略)
  あの木片のようだ
                                                                                 
 抒情を感じさせる数行ではある。けれど、「・・・であったか」といってしまえば、あっさりと遠い記憶として一瞥し てそれで終わりになってしまう淡泊

な慨嘆になっている。その流れに「そんなものさ」が投げやりな気分を乗せて  いる。しかし、それでも前田は何度も河川敷に来る。河口に来る。
人の日常や営為を、波が洗い川の音がかき消す世界に。日常は生活臭のする家や勤め先や隣家等などの中に見ようとすればいくらでも見える
はずだが、そう した日常の生活空間から抜け出して、河川敷や橋や河口のあたりまで来る。前田の詩作の現場はそこにあるようだ。昨日と変わ
らない日常の中に埋没している中から自分を掬い取ろうするかのように言葉を探している。誰にも聞こえない声で、呻きつつ。

★「河川敷」
 お地蔵さんに会いにくる。「君」の心の中にもその姿が残っているのではないか、と問いかける。いま、私はそれを見ている。君と共有していたも
のに会いにくる。君が遊んだ遊具は取り替えられたがお地蔵さんは今もそこに立っている。お地蔵さんについては後でまたふれる。

★「朝」
 白鳥の物悲しい声のする朝、今日は特別な日か? 単に一日がカウントされるだけか? 日々の同じ相貌の 中に埋没してしまわない特別な
日・・・六十歳の誕生日も「一万数百回目のいつもの物憂い朝でしかない」。一   日の始まりという実感を失っている。そこを突き詰めて書き刻

んだ作品だ。「かもしれない」という非断定のあいまいで中途半端な位置に佇んでいる。落ちるでも飛ぶでもない中空にいる自分から、目をそら
さずに見ている。

★「川霧立ち込める朝に」
 昔、車両の連結部分の隙間から白鳥の飛ぶ姿を見たことがあった。その情景を、今、白鳥を見ながら思い出している。前田はそこにも日を重ね
ている自分を反射的に見出す。そんな自分を白鳥に見透かされているようだと書く。白鳥の物悲しい声は前田の声であったかもしれない。しかし、
物悲しさの正体が何なのか前田は書かない。ただ自分と重なって見える白鳥をずっと見ている。飛ぶ白鳥の描写がよくわかる。

★「雷鳴響く夜・病む人へ」
行頭を一段下げてからの二連目をどう読んだらよいか。文章のように読むなら、収まりがつかないように感じた。しかし、「病みに耐えながら/夜の
白い時間を数えているに違いない」や終連は強く印象に残る。秀逸だと思う。

★「花輪沿線」
 「待つ 待っている 乗ってゆく人 列車を 列車を待つ人 人を」 これから乗ろうとする人を駅で待っているのか、到着する人を待っているのか
わからない。駅舎にいる人は大体が自分が乗る列車とか、誰かを待っているといっていいが、その一般的な理解から書き起こして何かの意味合い
やイメージにつなげようと意図しているのではない、と思う。わからない。何か煙幕を張るような感じではないか。この作品以外にも二、三感じるが、
言葉を胸  に秘めておいて、しかしそれを語らない、そんな傾向がないか。


★「峠」
 尾去沢街道踏切を通り過ぎるのは、あるいは尾去沢鉱山の「西道金山旧鉱跡」、「山崎御山旧鉱跡」といった  鉱山跡に佇むのは、雄物川
河川敷や河口にいた前田だろうか。日常への埋没感におぼれそうな日々から、新たな生活の地に、前田は雄物川の感傷を持ってきただろうか。
同じ感傷を抱きながら異邦人として町を歩いている。どこか探訪するような眼差しも感じさせる。この日々にどのような新たな意味を見つけるか、
詩はその意味と出会っただろうか。

★「ウミネコ」など
 東日本大震災に関連した作品もあった。テーマとしてはとても難しいのではないか。それでも書いたということに、前田の詩作への思いの強さを
感じる。川シリーズより後年の作品と思われる。川シリーズで書いた日常へのこだわりから抜け出ようと試行している必死さを感じる。  

★「ウミネコ」。震災後に女川に来た。ウミネコに見られているのが「何もできない私」だとしても、直接自分の目で見た被災地の様子は記憶に
残るだろう。それがいつか若い人や幼い子に語る日があるだろう。

★「その日」以下
 Ⅴには肉親の死や弔いの時のことが書かれている。それらは川シリーズとは違って、幼少時の自分や母親の 追憶がある、兄たちもいる。それ
らは黒いシルエットとなって映る。「石畳」はいい作品だと思う。それは自分の存在を日常の中に探そうとする“もがき”から解放さ
れているからかもしれない。

★「松風ざわめいて」
 生家の近くの神社に来た。以前、この松に囲まれた神社に「君達」を連れてきたことがあった。そのとき・・・ざわざわとびゅうんびゅんと松風がうな
り大きな幹が揺れる音に驚き、太い幹がゆらりと揺れる様を怖がっていた。そんな年頃の「君達」だった。「二人とも両手で耳をふさいで/何かを言
った」が「何を言ったのか/何かを叫んだのか」自分には聞こえなかった。

 一方、幼年期の自分と今の自分が遠い時間を超えて混ざり合う。子供のころの「私」が階段を下りてゆき、「何 かを言っているようだが聞こえな
い」。「君達」が言ったことも、子供の「私」が言ったことも「潮騒のような松風がざわめいていて聞き取れない」。潮騒のような松風は昔と今の間を

吹き抜け吹き続けている。そんなイメージを抱いた。

 ところで、この詩に出てくる「君達」と「河川敷」の「君」とを見つつ眺めつするうちにある想像をしたくなる。「河川敷」の「君」は、遊具で遊び、お
地蔵さんを一緒に見た存在であったのだろう。「時には」「思い返すことはしない」とつぶやいていた母がいた。「戦争の話を一度も語ることなく/そこ
から避けるようにして生きていた」父がいた。そして「今から逃げてきた」私がいる。親からそのつもりはなくとも受け継ぎ、組み込まれた「因子」に気
づいた自分がいる。「静かすぎて自分の位置がわからない」と叫びたい自分がいる。

 ヘボ眼(まなこ)で気ままにぶつかった幾つかの作品について感じたことを綴ってみた。「あとがき」によると、この詩集は十年間書けなかった後の
50歳代に発表された作品で編まれたことを知った。十年間の作品三十九編。 幾つかのパートで分けられているそれら作品群を、各々の性格
で一言ずつで括ってしまうのは乱暴だし、気が引けるけれど、河川敷の日々、病棟の夜、花輪沿線の町で訪ね歩くような日、民俗行事や大震
災の方へ向かっ て言葉をてようとする試み、肉親と過ごした幼年期の追憶の中に自分の源を見出したい思い、「君」や「君達」へ 向ける呼びか
け・・・私にはそんなふうに見えた。

 詩を書かない者からすると、それらは夜な夜な言葉を紡いできた営みの蓄であって貴いもののように感じた。 そこには長い空白の後の十年間
という時間的な重さ厚さも加わる。
 これからも前田の詩を見たい。それも、読者は身勝手で欲張りだから言ってしまえば、前田の抒情をもっと見たい。昔、詩を書いていたが、今で
は全く書くことのなくなった者は、そのころと相も変わらず、抒情を含まない詩は水気を失った果物と同じだと今も思っている。


◎石川悟朗氏(秋田県秋田市)

 橋と河(川)は前田さんの永遠のテーマでしょう。「密造者」でもお目にかかった作品もあり、合評会でも高い評価がなされていたので、ほんとう
によい詩集です。これからゆっくり目を通して読んでみたいと思っています。


◎駒木田鶴子氏(秋田県横手市)

 三十年!!満を持して出版された詩集の質の高さとバランスの取れた広がりに圧倒されました。Ⅰ、Ⅱ章など、大きなテーマを追求した詩群
は、だれにでも作れるものではなく、全編を貫いて河床を這うような流れの音が聴こえてくるような気がします。Ⅴ章の肉親たちを静かに見送る
魂が還って行く幼き日々・・・。その澄み切った抒情にも心洗われる思いです。


◎児玉堅悦氏(秋田県能代市)

 (略)人の心に潤いをもたらしてくれる詩人の情感が豊に結実した一冊と思いました。前田さんの詩はずいぶん若い頃にもよく読ませていただき
ました。そんな懐かしい思いも持ちながらの一読でした。


◎宮腰道子氏(秋田県秋田市)

 (略)橋上譚の題名がいいですね。全容に流れる橋の風情が心に静かに降りてきて、問いかけのさざなみが思いの花を咲かせます。いま、
橋上譚のあたたみのある抒情が漂い、能代生まれの私は、とまどいの時、能代橋に佇った記憶を思い起しています。「橋上譚-秋田大橋-」
「花輪沿線」「石畳」等々、とても好きです。詩の言葉が私の中に深く浸透して、豊かな時を過ごすことが出来ました。


◎成田豊人氏(秋田県北秋田市)

 (略)人生に対して諦観のようなものを感じながら生活しているという印象を受けました。橋のある風景や花輪の風景を見る目は、決して熱を
帯びてはいなく、何となく、違和感を感じている、という風に受け止めました。「川流れて・生」の最終連「帰る時間になって/滞留した私にも似た
小さな渦に/小石を投じてみた」が印象に残ります。「河口」の「何度ここに立っただろうか」から「始まりの位置を決めたときであったか」の連も印
象的です。「橋上譚」の「その先に生があったということは」から「そのものたち」までの連は特に重みを感じます。「朝」の「この日も/あたり前のよう
に朝が始まり」から最終行までは、前田さんの生き方を端的に表しているのかなと思いました。(略)「石畳」ですが、読み進んで行って最終連を
読み終えると、この連が急に重みを持って来るのでした。(略)


◎あゆかわのぼる氏(秋田県秋田市)

 (略)静ひつです。選びぬかれた言葉が心のひだにしみて来ます。思いを文字(言葉)にする力ですね。もしかすれば長いお休みをとられた効果
かも知れない、と思いました。


◎矢守誠子氏(秋田県秋田市)

 早速拝見させて頂き、何故か、定年後の小椋ケイの感じをうけましたが、今、お礼状を認めるべく後ろの方から再び拝読し、繊細微妙な感受
性、感覚を丁寧、丹念に追憶、追走して構築した端正な詩群に、気持ちの良い流れ、生命を感じました。プルーストの意識の流れのよう
な・・・・・。少し気になる言葉遣い(助詞のカットやタイトルの付け方他)もありましたが、そうせざるを得なかったのは何故か?という謎解きが残りま
す。「かくれんぼ」のタイトルが「夏祭り」ではないのは何故か?と思ったのでしたが、P129に「なつまつり」がありました。どちらにも隠れているものは
何なのか?という思いに囚われます。この詩集のタイトルが「かくれんぼ」でなくて「橋上譚」なのは、この詩群を書き始めた原点がここにあるのでし

ょうか。「盆の踊り」が「盆踊り」でないのは?この詩は、イメージする力を無くした私の脳裏に、躍る人々の動きを見せてくれます。詩人は実に色
んなことを感じながら歩いているんだなぁ、息をしているんだなぁ、そのような没頭、没我が許される平穏で豊かな日常の情態に祝福を感じ、この
ような詩の泉が枯れることなく湧き続ける天性の才能と、その泉を持続する力に敬意を表します。今後どのような詩を見せて頂けるか、たのしみに
しております。


◎悠木一政氏(東京都武蔵野市)

 雄物川河口に、花輪線他懐かしく思い巡らしたことでした。まだ東北自動車道のない時代、大橋を渡ると実家が近づいた感に打たれました。
タカノスが父の生地です。                                                                   
   風景をどう切り取り、そこに何を感じるかは詩人の感性、思想に委ねられると思い増す。私には好ましい詩集の一冊になりました。


◎山本かつたか氏(東京都北区)

 『花輪沿線』から拝読させていただきました。と申しますのは、私の<内助の功?>が花輪の出身で懐かしさもあり、あとがきの正に「身近な位
置から後押ししてくれた家人」そのものだからであります。特に58頁「おとぎ話のように 望んだ時間が流れてくる訳でもないから そこに造られた歴
史も時間も 黙し 流れているだけだ」や「あちらことらの時間に仕舞い込んで 行方知らずになっていた数々の記憶が」など、実に美しい表現で、
感動しました。『盆の踊り』は動を描いて静の映像詩を感じます。


◎佐藤信康氏(秋田県秋田市)

 貴方の詩集を手にして読む時間を持てず、今日、明徳館高校1階のコーヒー店「仲まち」(ボランイェィアと障害者が経営{佐藤氏はボランティ
アとして参画している})でやっとゆっくり味わっています。コーヒーではなく詩を。私はいつ追いつけるか?あせらずに詩作に励みたいと思います。生
活の中の情景が浮かびました。


◎平塚鈴子氏(秋田県能代市)

 繊細なことばはしずかに光の粒のように私の心にもとけこみました。前田勉さんの詩ってほんとうにいいなあ。(略)


◎佐藤真紀子氏(秋田県能代市)

 (略)心に沁みる文章に、私自身も精進せねばと思いました。


◎筒井 治氏(広島県福山市)

 30年ぶりとはいえ、貴方の才能には、只々脱帽です。今、此処に30年前の「静態」を手にして改めて心ときめいております。(略)これからも
感動する詩集を出し続けて下さい。