←ガスマスクを着けたアイザック・スターン ★2001年9月11日、ニューヨークの経済の象徴が崩れ去った。 それからまもなくの9月22日、ニューヨークの音楽の象徴が消えた。 ★そのアイザック・スターンこそ、 指揮者バーンスタイン後の、ニューヨーク音楽界の精神的支柱であった。 ★彼が見出し育てたミュージシャンは、 ヨーヨー・マから五嶋みどりまで、あらゆるエスニックの隔てなく数多い。 ★日本でも、宮崎県の音楽祭を今年の5月も含め、毎年、参加し監修していた。 ★そんな彼でも、ドイツとオーストリアでは公演をしなかった。 ★それは、ユダヤ人ゆえの、ナチスへの無言のアピールであった。 ★1991年の湾岸戦争の時、イスラエルでのコンサートの最中に、 イラクからの空襲警報があったが、 彼は動揺せず、そのままコンサートを最後までやりとげた。 左の写真は、その時のイスラエルでのリハーサルである。 ★この写真を表紙にした『11番目の疫病』(1997年発行)の書評を、 左の写真をクリックした先にご紹介しようと思います。 その書評が書かれたのは1997年ですが、 文末に、「炭そ菌」や「アフガニスタン」の単語を発見すると、ドキリとさせられます。 アイザック・スターンはユダヤ人であり、 ユダヤ人は人類史上最初にナチス・ドイツによって毒ガスの被害を受けた民族です。 毒ガスは唾棄すべきキタナイ兵器ですが、 ユダヤ人にとっては、 我々以上に恐怖の民族的トラウマを含んだ兵器であることを想像させます。 |
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アイザック・スターン(クラシック) ■Issac Stern 世界的なバイオリン奏者として知られた人物。 1920年7月21日、ウクライナ生まれ。 2001年9月22日、心不全のためにニューヨークで亡くなる。 小さい頃からバイオリンを学び、 22歳の時にカーネギー・ホールで 開いたコンサートで世界的な名声を得た。 財政危機に陥ったカーネギー・ホールのために 運営委員会会長に就任し(60年〜)、 亡くなるまで同ホールを守った人物だった。 アメリカ・イスラエル文化基金の会長としての活動も有名で、 この基金により多くの若い音楽家が発掘されたことは有名。 |
『プラムアイランド』・『11番目の疫病』・『スポイルされたもの』 ↑ おかしな題名がならんでいますが、 これらは1996年暮れから1997年夏までに出版された米国のサイエンス・フィクションとノンフィクションのタイトルです。 『ホットゾーン』を皮切りに、20世紀末の米国では感染症ものが続々と出版されています。 これらの3冊はその一部ですが、「炭そ菌」が蔓延しているアメリカにとっては大変興味深い内容で、楽しさ、不気味さなど入り交じった複雑な印象を受けた本です。 ガスマスクを着けたアイザック・スターンが表紙の『11番目の疫病』の書評を、下記に簡単にご紹介しようと思います。 下記の書評が書かれたのは1997年ですが、文末に、「炭そ菌」や「アフガニスタン」の単語を発見すると、ドキリとさせられます。 スターンはユダヤ人であり、ユダヤ人は人類史上最初にナチス・ドイツによって毒ガスの被害を受けた民族です。 毒ガスは唾棄すべきキタナイ兵器ですが、ユダヤ人にとっては、我々以上に恐怖の民族的トラウマを含んだ兵器であることを想像させます。 ▼この書評は、「大阪医科大学」人獣共通感染症連続講座(第60回)からの転載です。 「改行」、「色付け」その他の編集は『共犯新聞』が行いました。
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●小石忠男(音楽評論家) 「夫人が強制収容所で死を目前にした経験から、 ドイツとオーストリアでの演奏を拒否してきたことにも、 その人生観が映し出されている。 経営難のカーネギーホールの救済活動など、 従来の演奏家と違った社会奉仕が多くの支持者を獲得した。 その心意気は、多くの芸術家の琴線に触れた。 彼が熱心に支援し続けた五嶋みどりが、 自ら教育財団を設立したことにも、 スターンの姿勢が受け継がれているように思う。」 (『朝日新聞』2001年9月26日) | ||
右記の 「無限の砂が吹きよせられた丘陵の様なもの」という文。 これを読んで、 砂の城のように崩れ去ったワールド・トレード・センターを 思い出す人も多いのでは? そして、 「寛大の国」と 「カウボーイ的単細胞的反応」 という相反する2つの面が同居する国。 |
●吉田秀和(音楽評論家) 「スターンがアメリカの新しい星、ハイフェッツ2世といった触れ込みで 初めて日本に来たのは戦後まもなく50年代の初めだった。 でも、井口基成ほか、このレッテルに首をかしげる人も無くはなく、 まだ若かった私もその一人だった。 スターンはスマートさも冷たくて強烈な官能美もなく、 逆に無骨に近い人懐かしさで際立っていた。 アメリカ的音楽家とは何か? アメリカ、特にニューヨークは 地球上のあらゆる地域から各種各様の種族の出身で、 多種多様の宗教的文化的背景や価値観を持った人々が わんさと流れ集まってきて形作られてきた土地である。 それは無限の砂が吹きよせられた丘陵の様なものであり、 その砂の一粒一粒がそれぞれの生を営む一方で、 相寄って共同体を生み出し、 ある普遍的なものの誕生をみてきたところである。 「何といってもアメリカは私たちにパンとベッドを与えてくれた 寛大の国なのだ」 極度に単純化された「純粋アメリカ像」を掲げて、 カウボーイ的単細胞的反応をふりまわすのも、 破壊的結果を招きよせることにはなりはしまいかと 案じれれてならない。 音楽家スターンを知るには 彼のブラームスのソナタ全曲のCDをきくのが一番良い。 これほどこの音楽の不思議な暗さと明るさの交代にみちた 奥行きの深さを感じさす演奏はめったにない。」 (『朝日新聞』2001年10月26日) | |
●佐々木喜久(音楽評論家) 「20世紀ヴァイオリン界の二大楽派であったロシア楽派と フランコ・ベルギー楽派を一身に具現した稀有な存在だった。 60年に、カーネギーホールが、 取り壊されてアパートにされそうになったとき、 存続運動に立ち上がったスターンは、 ニューヨーク市に買い取らせたホールを、 リースにより財団で運営していく道を見出した。 スターンは、その頃を回想しながら、 「カーネギーホールは、ただの建物ではなく、 人々の思想であり、夢なのだ。 だから、それを救うということ自体は難しいものではなかった。 むしろ、その後の 運営上の経済的なバックアップを確保する責任の方が大きかった」 とくに、有力な店子であったニューヨーク・フィルが、 新設のリンカーン・センターに移ったため、 年間百日以上の空きが出来るという正念場に立たされたが、 アメリカ内外からオーケストラや演奏家を招くことで それを埋めたという。 そのためにリンカーン・センターと両々相まって、 ニューヨークを音楽的中心として活性化させ得た、と、 ニューヨーク・フィルの移転を恨むどころか、 大乗的見地に立ち前向きに評価した。 アメリカ・イスラエル文化財団会長でもあるスターンの イスラエルへの肩入れぶりは、一通りではなかった。 それが鮮明に映し出されたのは、湾岸戦争の時であった。 エルサレムのコンサートの最中に空襲警報が出たのだが、 スターンはいささかも動じることなく、平然と弾き続け、 人々を勇気づけたことは、世界中に大きく報道された。」 (『音楽の友』2001年11月号) |
Carnegie Hall カーネギーホール 下記、2つのHPには、スターンの情報もあります。 公式ホームページ(英文) カーネギーホールについて (日本語) ▲クラシックだけではなく、 広く“世界の音楽の殿堂”として輝かしい歴史を持つホール。 チャイコフスキーに始まり、マーラーやフィリップ・グラスから、 ビートルズ、ローリング・ストーンズ、 フランク・シナトラ、マイルス・ディヴィスなど その栄光の舞台を踏んだ音楽家は幅広いジャンルに渡る。 Lincoln Center リンカーン・センター Upper West Sideアッパー・ウエスト・サイド ▲リンカーン・センターは、ここにある。 | |
●徳永ニ男(ヴァイオリニスト) 「スターン氏には、私が総合プロデユーサーを務めている 宮崎国際室内楽音楽祭に1996年の第1回から 今年5月の第6回まで、連続してご出演いただきました。 宮崎空港でヴァイオリンのケースを抱えた女の子を見るや、 優しく話しかけ、そのまま街頭でレッスンをはじめた時には さすがに驚きました。」 (『音楽の友』2001年11月号) |
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●川崎雅夫(ヴァイオリニスト) 「小柄な体で頭にサングラス、手には葉巻という独特のスタイルが 印象に残っています。 ある曲の楽章の終わりで目にいっぱいの涙をためて 「こんな素晴らしい音楽と自分が出会って演奏できるのが、 ほんとうに幸せだ」と話された事があます。」 (『音楽の友』2001年11月号) |