広田弘毅像 平成20年11月25日

広田弘毅 ひろた・こうき

明治11年(1878年)2月14日〜昭和23年(1948年)12月23日

福岡県福岡市・市立美術館前の通りでお会いしました。


福岡県出身。
東大卒。
明治39年(1906年)外交官試験に合格、同期に吉田茂がいた。
若い頃には玄洋社と関係があった。
昭和2年(1927年)駐オランダ公使。
昭和5年(1930年)駐ソ連大使。
斎藤・岡田両内閣の外相を歴任。
昭和11年(1936年)外交官出身として初の総理大臣(第32代)となるが、軍部大臣現役武官制を復活させた。
戦後、この間の天羽あもう声明・広田三原則・帝国外交方針・国策の基準・近衛声明など一連の重要政策の策定に責任があったものとして、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として起訴され、有罪の判決を受け絞首刑に処された。


廣田弘毅像

廣田弘毅像
(福岡県福岡市・市立美術館前)



(平成20年11月25日)

廣田弘毅先生銅像 碑銘

廣田弘毅先生は1878年2月14日、徳平、タケの長男として福岡市鍛冶町(現中央区天神3丁目)に生れる。
幼名を丈太郎といい、のち自ら改めて弘毅とす。
修猷館、一高、東大に学び、柔道を玄洋社明道館にて練磨す。
学を卒えて外務省に入り、山座圓次郎氏の薫陶を受く。
東亜の平和維持に心を砕き特に韓国、中国、ソ連との関係改善に努力す。
外務省欧米局長、駐オランダ公使、駐ソ連大使を歴任、1933年国際連盟脱退後の難局を受けて斎藤内閣の外務大臣となる。
1936年、2・26事件突發直後、内外の情勢緊迫せるなかに内閣総理大臣の大命を拝し、死力を盡して粛軍の徹底を期す。
さらに近衛内閣の外務大臣として入閣、軍部の暴走阻止と日中戦争の早期和平を図るが果たさず第一線を退く。
太平洋戦争終結に当たり、重臣としてソ連大使マリクと和平を図るも及ばず終戦を迎う。
然るに、極東軍事裁判は先生が文官なるにもかかわらず軍と通謀、大陸、南方への侵略を企図したとして絞首刑を宣す。
而して当たらず。
全国民、この悲報を意外とす。
先生、毅然として判決を受け、一言の弁解もなく従容として巣鴨刑場の露と消ゆ。
時に1948年12月23日午前零時34分なり。
郷党この不当を悲しみ、不運を嘆く。
ここに同志相図り像を刻んで、その遺徳を永遠に顕彰せんと之を建つ。

後学進藤一馬撰并書
1982年5月15日
廣田弘毅先生銅像建設期成会
会長 進藤一馬

(碑文より)


【大命降下】

昭和11年3月4日、2・26事件の後継内閣で紛糾。
元老・西園寺公望は天皇の諮問に応えて、近衛文麿を後継首班に奏請、組閣の大命は近衛に降下した。
しかし、近衛は健康を理由に大命を拝辞した。
近衛は陛下から大命を受け、しばしの猶予を請い、退下したときふらふらとして、「宮中の長い廊下の真中を真直ぐに歩けなかったそうです」という始末であった。
近衛にはなにかというとすぐ寝込む癖があり、また、すぐ「辞める」と言い出す癖があった。
こういう性癖を「長袖者流」(公家は長袖の衣冠・束帯をつける)と評する者もいる。

午後8時、湯浅宮内大臣が木戸秘書官長に、「一木(枢密院)議長の思いつきだが、広田外務大臣はどうか」と言った。
それも一案だと思ったので、元老を訪ねて意見を聴くと、元老にも異議がない。
そこで元老秘書の原田が近衛に電話して、吉田茂駐英大使(着任前)から広田の内意を確かめてもらうよう依頼した。
近衛は「この際だから、一奮発しよう」ということになり、吉田を呼んで広田外相のところに行ってもらった。
11時半ごろ、近衛から原田に電話で「広田外務大臣は、もし万一大命が降りれば、お受けする決心である」と伝えられ、元老も非常に喜んだ。

翌5日午後3時20分、西園寺は参内して拝謁、広田弘毅を内閣首班に奏請した。
3時51分、広田外相お召しにより参内拝謁、組閣の大命を拝した。

昭和天皇は、「卿ニ組閣ヲ命ズ」と言われたあと、「第一に憲法の条規を遵守し、政治を行うこと、第二に外交においては無理をして無用の摩擦を起こしてはならないこと、第三には財界に急激な変動を与えないこと」と言われ、ここまでは新首相に必ず言われる言葉だが、このあと「第四に名門を崩してはならないこと」と付け加えられた。
これは異例中の異例である。
名門を崩すな、とは端的にいえば華族制度を尊重せよ、ということになる。
「これは一体陛下の御意志によるのか、それとも側近の者が陛下のお言葉を借りていったものか、わからないが・・・・自分は50年早く生まれ過ぎたような気持がする」(『広田弘毅』)
広田は側近に洩らしたという。

(参考:渡邊行男 著 『中野正剛 自決の謎』 葦書房 1996年初版)

(平成29年1月31日 追記)


【陸海軍大臣現役武官制】

閣僚が辞任した場合、首相が後任を選べばいいことは今も当時も同様ですが、陸軍大臣と海軍大臣の場合は、現役の将官に限るという規定がありました。
特に陸軍の場合は、後任の陸軍大臣は三長官(陸軍大臣・参謀総長・教育総監)の推薦で決まるのが常でした。

予備役に編入された中将や大将を大臣にする場合、本人の意思で決めることができますが、現役に限るとなると、陸軍大臣の場合、三長官の推薦を必要とするため、陸軍の総意が反映することになります。
いきつくところ、内閣が陸軍の意に沿わない場合、大臣を推挙しなければいいということになります。
そうなると内閣は成立しません。

この制度は明治以来のものでしたが、問題になったのは、大正元年(1912年)、第二次西園寺内閣のときです。
このとき2個師団増設を認められなかった陸軍大臣の上原勇作は単独で辞表を提出し、陸軍が後任の大臣を推薦しなかったために、内閣が倒壊したのです。

これはさすがにまずいとなり、大正2年(1913年)6月13日の勅令によって、陸海軍省官制を公布し、大臣・次官の任命資格から「現役」という制限を取り除いたのです。
現役でなくてもいいとなれば、予備役の大将・中将はたくさんいますから、軍部の反対があっても首相は組閣に困ることはありません。
つまり直接には軍部の意向に左右されることはないということです。
このことを可能にしたのは、第二次西園寺内閣の後を継いだ山本権兵衛内閣の陸軍大臣であった木越安綱きごしやすつな中将が、自分のキャリアを犠牲にする覚悟で、陸軍の憎しみを買っても現役制廃止に賛成したからでした。

ところが、この規定を元に戻し、「現役制」を復活させたのが、2・26事件直後の昭和11年(1936年)5月で、広田弘毅内閣においてでした。
2・26事件後の広田内閣では、粛軍をして軍人個人お政治的関与を厳禁しましたけれども、そのためには軍に対する抑えが必要でした。
とにかく2・26事件のような事件の再発を抑えなければならなかった。
そのためには、内閣が直に軍隊を統制できなければいけないということで、広田内閣の時に陸海軍大臣現役制が復活しました。
現役の大将ならば、現役の中将に命令できます。
それまでは退役した人が大臣を務めていましたが、これでは現場の抑えが利かなかったという考え方です。
しかし、逆にこれによって陸海軍が、特に陸軍が内閣の命運を左右することになり、その後の進路に大きな弊害をもたらしました。
戦後、東京裁判において広田が文官としてただ一人死刑となったのは、このことも要因の一つとされています。

(参考:渡部昇一 著 『東条英機 歴史の証言』 祥伝社 平成18年8月第3刷発行)

(平成29年5月2日 追記)


【軍部大臣の現役武官制復活】

広田は直ちに三年町の戒厳令下の銃剣に囲まれた外相官邸を組閣本部に、同期の吉田茂を組閣参謀にして人選に入った。
外務大臣・吉田茂、文部大臣・川崎卓吉(民政党)、司法大臣・小原直(留任)がまず内定。
海相には永野修身おさみ大将が海軍から推薦され、近衛文麿の推挙で藤沼庄平元警視総監が内閣書記官長に内定。
つづいて馬場鍈えい一勧銀総裁が大蔵大臣、寺内寿一大将が陸相、永田秀次郎前東京市長、下村宏(朝日新聞社副社長)に入閣交渉中と順調に進み、翌6日中には組閣完了の見通しとなった。
ところがここに陸軍の横槍が入った。
3月6日早朝、陸軍は寺内大将を中心に首脳会議を開き、組閣の状況を聴取したのち、寺内が午後、組閣本部を訪ね、「軍部は広田氏の対時局認識につき疑義を有する故に、その組閣方針に同調し難い」と申し入れて、入閣を辞退した。
さらに陸軍省談話を発表して、広田内閣の自由主義的色彩、現状維持または消極的な政策を非難し、具体的な人選にまで踏み込んできた。
加えて陸軍は政党からの入閣者4名を2名にせよと迫った。
組閣人事を陸軍の言いなりにされ、あまつさえ政党からの入閣者まで減らされては議会対策ができない。
広田は藤沼庄平(元警視総監)から寺内大将に電話をかけさせ、その後、陸軍が折れ、政党からは4名が入閣したが、当初の顔ぶれからは、半数以上が変わっていた。

軍部はこの組閣介入につづいて、軍部大臣現役武官制を復活させた。
陸海軍大臣を現役の大将・中将に限るとしたのは山県有朋の意向であって、明治33年第二次山県内閣の時である。
大正2年、山本権兵衛内閣は与党・政友会の要請で(原敬が推進)、陸海軍省官制を改正。
現役の大中将のみでなく、予備・後備・退役の大中将でもよいとした。
これを広田内閣で再び、陸海軍大臣現役武官制を復活させた。
理由は、予備役となった皇道派の将軍が陸軍大臣になると粛軍の目的が達せられない、というのである。
軍の唱える粛軍とは、実は軍紀を粛正するのではなく、皇道派将官以下を粛清するものであった。

当時の有田八郎外相の語るところでは、「この問題が閣議にかけられた時、閣僚の間にはさしたる議論もなく、簡単に通過した」という。
この改正こそ、陸海軍が大臣を出さなければ、あるいは陸海軍大臣を引き揚げれば、簡単に内閣は倒れるという倒閣の武器であるのだが、それほどのものが、「さしたる議論もなく、簡単に通過した」のである。
陸軍の言うことにはどうせ逆らえないという空気が内閣を支配していたのであろうか。
この倒閣の武器はさっそく次の宇垣内閣倒壊の役に立った。
宇垣は組閣の大命を受けたが、陸軍が大臣を出さず、組閣を断念した。

この広田内閣で、さらに陸軍は、日独防共協定を締結させ、のちの日独伊三国同盟への道をひらく。

(参考:渡邊行男 著 『中野正剛 自決の謎』 葦書房 1996年初版)

(平成29年1月31日 追記)


【広田内閣】

組閣は困難を極めた。
大命降下に続いて、まだ解けない戒厳令下で組閣工作が始まったが、結局は陸軍からの政治干渉で再三暗礁に乗り上げた。
原田(熊雄)日記によると、閣僚のうち半数以上は陸軍から排除され苦吟したという。
中島知久平ちくへいは中島飛行機株式会社を作って戦闘機で稼いだ金を政友会につぎ込んだからいけないとか、下村宏は朝日新聞だから駄目だとか、吉田茂は英米派の上に、重臣の婿だから外せとか際限がなかった。
とにかく広田はそれらに堪えて組閣にこぎつけた。
吉田茂の外相案が蹴られたので、外相は有田八郎と決まった。
そこで盟友吉田の使い道を考えた広田は、膠着状態となってきた日英関係打開のために彼をイギリス大使にすることを思いついた。
日英同盟が破棄されて既に10年以上が経過し、満洲事変が起きた後はなおさら支那各地では通商上でも軍事上でも大きな問題が山積していた。
そこで、5月になって吉田に大使を依頼したところ、「ある程度の自由裁量権を任せるなら行く」ということで吉田の赴任が決定した。

福岡市の石屋のせがれとして生まれた広田弘毅は、辛抱ではおいそれとは負けなかった。
ところが、すべてに隠忍自重して政権を必死に担う広田は、政党政治を復権するには荷が重かったのだろう。
最後まで陸軍に揺さぶられた挙句、遂に総辞職に追い込まれた。
昭和12年1月23日の本会議だ。
ことの発端は政友会の長老・浜田国松議員が軍部の政治干渉を激しく非難した発言に対して、寺内寿一陸相が、軍に対する侮辱だとしてこれに反発したことから始まった。
種々もんだ末、浜田は言い放った。
「速記録を調べて、自分がもし軍を侮辱していたなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」と大見得を切った。
後に「割腹問答」と呼ばれた騒動である。
寺内は最後に、これでは陸軍は責任が持てない、と声明を出し辞表を提出してしまった。
これで広田内閣は終焉である。
「近時の政情は重大にして微力その任に堪えず」と無念の言葉を残して広田は去った。
確かに広田に課せられた粛軍が果せず、中国戦線の拡大や含む「国策基準」作成へ引きずられた感は否めない。
だが、その就任期間はわずか10ヵ月である。
この広田が、いったいどんな戦争責任を負って文官ただ一人の絞首刑となったのか。
長いこと国民の多くが強い疑惑に駆られたのも当然だろう。

(参考:工藤美代子 著 『われ巣鴨に出頭せず』 日本経済新聞社 2006年7月第1版)

(平成28年12月16日 追記)


【広田弘毅の罪】

東京裁判で死刑を宣告されたA級戦犯のうち、広田弘毅だけが文官だった。
彼の訴因は、1928〜45年における戦争に対する共同謀議、対中国戦争遂行、条約遵守の責任無視であった。
広田はこの裁判で検事側から、侵略国策の確立者であり、武力外交主義者と評定されていた。
弁護側では、防御的な平和主義者であると反駁していた。
広田自身は、絞首刑の宣告をきいたあと、平静に「なに、カミナリにあたったようなものだ」と側にいた人々に述べたという。
つまり無法・無道の裁判である以上、その判決は落雷なみ=天災と思うしかないということだ。

まず広田が首相となるさい、陸軍と妥協というよりも、屈服というべきか、“軍部大臣現役制”を復活させた。
「軍部大臣現役武官制」(陸海軍大臣は現役の大将・中将とする)は、陸・海軍がそれぞれ一致結束して大臣を辞任させ、後任を出さないとなれば内閣は倒壊するし、また新内閣も組閣できない。
軍部はこの制度を武器に軍部専制の道を開いたのである。
また、五相会議(首相、陸相、海相、外相、蔵相)で「国策大綱」を制定。
対ソ戦略、反英米の南進路線、航空兵力と在満兵力の増強、大建艦計画を決定した。
「日独伊防共協定」を締結したのも広田内閣であった。
このいずれも、日本の“方向”を大きく決定するものだったことは否定できない。

次に、広田は、第一次近衛内閣の外相として「蒋介石を相手にせず」という高圧的かつ非現実的な声明を出し、日中戦争の解決への道を閉ざしたという責任がある。
日中戦争勃発直後、不拡大派の参謀本部作戦部長・石原莞爾が、近衛首相を説き、いっしょに南京に飛び、蒋介石と直接交渉して日中和平を結ぼうとしたとき、外相の広田が、近衛のいわば瀬踏せぶみとして南京にゆくことを婉曲に拒否。
結果的に石原・近衛構想を挫折させた。
また、南京陥落前に、在中国ドイツ大使・トラウトマンが日中和平交渉の仲介を申し出たとき、あの陸軍でさえ乗り気になったのに、外相としての広田は、きわめて冷淡だった。

結局、広田の日中和平に対する消極さは、彼が自分の内閣で決定した「国策大綱」によって彼自身拘束されていたからである。
つまり、広田は内閣首班として軍部大臣現役武官制を復活させ、軍部の圧力に屈して「国策大綱」を策定した。
このことが、日本の以後のコースを大きく左右したことになる。

(参考:佐治芳彦 著 『太平洋戦争の謎』 平成8年10月20日発行 日本文芸社)

(平成27年3月3日追記)


東京裁判

昭和23年(1948年)12月12日午後1時半から判決の言い渡しが始まった。
驚いたのは、広田弘毅元首相の絞首刑である。
本人も意外だったようだ。
判決前に「平和外交を推進し、戦争にならぬよう努力してきたのだから、まさか極刑にすることはないだろうと思う」と語っていたほどだ。
絞首刑を宣告された広田は、傍聴席にいた令嬢、令息を仰いで、訣別の手を振った。
二人は、開廷から一日も欠かすことなく、傍聴席にきていた。
この日は、さらに、広田を乗せた目隠しバスが、市ヶ谷法廷から地獄坂を下っていくまで、狂気のようにハンカチを振っていた。
広田を死刑に追いやったのはソ連(スターリン政権)の意向ではなかったろうか。
駐ソ大使のときには、メーデーへの出席を拒み、外相、首相時代も常に対ソ強硬派で、シベリア沿海州を略取する意見を持ち、ソ連の怒りを買っていた。
ソ連の影響力について、当時、外務省連絡事務局の部長で、巣鴨プリズンを担当していた故太田三郎大使も認めている。

(参考:楠田實 編著 『産経新聞政治部秘史』 20001年第一刷 講談社)

(平成23年12月7日追記)


『永久平和を願って』の碑

『永久平和を願って』の碑

(東京都豊島区・東池袋公園)



(平成16年12月22日)

第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。
戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。

昭和55年6月

東池袋中央公園
東池袋中央公園(巣鴨プリズン跡)
(東京都豊島区東池袋・サンシャイン60の隣り)


(平成16年12月22日)

七士の碑

七士の碑

(静岡県熱海市伊豆山1136・興亜観音境内)



(平成15年4月7日)

七士の碑

興亜観音像のすぐ近くに「七士の碑」が建っています。
七士とは、東京裁判で大東亜戦争(太平洋戦争)の責任を問われ、昭和23年(1948年)12月、”A級戦犯”として殉国刑死された松井石根大将、廣田弘毅元首相、土肥原賢二大将、板垣征四郎大将、東條英機大将、木村兵太郎大将、武藤章中将です。
7人の遺骸は横浜市保土ヶ谷区の久保山火葬場で荼毘に付されました。
東京裁判の弁護人を担当した三文字正平氏らの命がけの尽力で遺骨を確保し、ひそかに興亜観音に運ばれ埋葬されました。

昭和34年(1959年)、興亜観音奉賛会会長で実業家の高木陸郎氏は興亜観音境内に7人の碑を建立しようと計画、同年秋、吉田茂・元総理の筆になる「七士の碑」を完成しました。

昭和46年(1971年)12月、過激派学生数名が、「七士の碑」や並んでいる供養碑と「興亜観音像」に導火線を仕掛け、爆破をはかりました。
「七士の碑」は大きく3つに割れ、細かい石片が飛び散りました。
観音像は無事でした。
その後「七士の碑」は有志の献身的努力で翌年8月、痛ましい傷跡はあるものの、ほぼ修復され、今日にいたっています。

(パンフレットから抜粋)


殉国七士墓

殉国七士墓

(愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山)



(平成17年4月3日)

碑文(副碑)

米國の原子爆弾使用ソ連の不可侵條約破棄物資の不足などにより敗戰のやむなきに至った日本の行為を米中英ソ濠加拂蘭新蘭印比11ヶ國は極東國際軍事裁判を開き事後法によりて審判し票決により昭和23年12月23日未明 土肥原賢二 松井石根 東條英機 武藤章 板垣征四郎 廣田弘毅 木村兵太郎七士の絞首刑を執行した
横濱市久保山火葬場よりその遺骨を取得して熱海市伊豆山に安置していた三文字正平辯護士は幡豆町の好意によりこれを三ヶ根山頂に埋葬し遺族の同意と 清瀬一郎 菅原裕 両辯護士等多數有志の賛同とを得て墓石を建立した
遥かに遠く眼を海の彼方にやりながら太平洋戰争の真因を探求して恒久平和の確立に努めたいものである。

昭和35年7月17日
極東國際軍事裁判
辯護團スポークスマン
辯護士 林逸郎 誌

殉国七士廟由来

東條英機(元陸軍大将)
武藤章(元陸軍中将)
松井石根(元陸軍大将)
木村兵太郎(元陸軍大将)
土肥原賢二(元陸軍大将)
広田弘毅(元総理大臣)
板垣征四郎(元陸軍大将)

昭和20年8月15日に終戦となった太平洋戦争(大東亜戦争)の責を問い、アメリカ、中国、イギリス、ソビエト、オーストラリア、カナダ、フランス、インド、ニュージーランド、フィリピン、オランダの11ヶ国は極東国際軍事裁判を開き、事後法に依り審判し票決によって右7名に対し絞首刑を決定し、昭和23年12月23日未明前記A級戦犯7名の絞首刑が執行されたのである。
当時としては命がけで火葬場から東條英機大将を始めA級戦犯7名の遺骨を拾得しようと決心したのは、絞首刑の判決が云い渡された昭和23年11月12日午後のことであった。
なぜならば各担当弁護士が、遺体の家族引渡しの件でマックアーサー指令部を訪ねたが了解を得る事ができなかったからである。
このまゝでは遺体も遺骨も家族には引渡されず極秘のうちに処分される事が明白となるので、「罪を憎んで人を憎まず」という日本古来の佛教思想からしても、武士道精神として勝者が敗者の死屍に鞭打つ行為は許されない。
又日本の将来の平和追求のためにも日本国の犠牲者として罪障一切を一身に引受けて処刑される7名の遺骨は残さなければならない。
そこで遺骨だけでも家族に何とか渡したいとの一念■■■り大冒険が数名の有志で計画され、その事の実行に当っては綿密な計画を要した。
それには先ず刑の執行日を速やかに探知しなければと極東裁判米国検事某氏よりやっとの事で7名の刑の執行日はクリスマスの前日12月23日で、火葬場も横浜市久保山火葬場と推察する事ができた。
横浜久保山にある興禅寺住職市川伊雄氏を通し、久保山火葬場長飛田美善氏の協力を得ることにも成功した。
しかし当日は米軍の監視が厳重であり、一度は当初の計画通り7名の遺骨若干を一体ずつ別々に密かに米軍の眼を盗んで奪取し、一応計画は成功したかに思われたが、飛田氏がこれら遺骨の前の香台に日本人の習慣として供えた線香の匂いを不審に思い、感づいた米国人によりこの遺骨は再び米軍に取り戻されてしまった。
しかし、その時遺骨本体は既にトラックに積み込まれた後であったので米軍も面倒と思ったのか、奪取した7名の遺骨を全部一緒に混ぜ、幸いにも近くにあった火葬場内の残骨捨場に遺棄して帰ったのである。
この時米軍が持ち去った7名の遺骨は全て粉砕し太平洋上に投棄されたとの風評があるが、どの様に処理されたのか真偽のほどはわからない。
そこで、翌24日はクリスマスイブであり、浮かれて米軍の見張りが手薄になる事を知った三文字正平弁護士と興禅寺住職市川和尚は、木枯らしの吹き荒ぶ夜半黒装束に身を固め、飛田火葬場長の案内で目的の現場に入り込んだ。
周囲は暗くても、灯火と物音は禁物である。
骨捨て場の穴は深くて手が届くはずはなく、人が入れるような入口もないので思案の結果火かき棒の先に空缶を結び付け苦心して遺骨をすくい取ることに成功し、普通の骨壺1個にほゞ一杯を拾い上げて密かに持ち帰った。
見張りを気にして手探りで遺骨をかき集める作業は想像以上の大仕事であった。
遺棄された真新しい真白な遺骨はまぎれもなくこの世に唯一の7名の遺骨であり、これを奪取することに成功したことは、三文字弁護士にとっては一生を通じ命を賭した熱く長き一日のできごとであった。
こうして取得した遺骨は一時人目を避けて伊豆山中に密かに祭られていたが、幾星霜を重ねた後遺族の同意のもとに財界その他各方面の有志の賛同を得て、日本の中心地三河湾国定公園三ヶ根山頂に建立された墓碑に安置されることになり、昭和35年8月16日静かに関係者と遺族が列席し墓前祭が行われたのである。
以来毎年4月29日の天皇誕生日の良き日に例大祭を行うとともに、時折遺族が訪れて供養し、又一般の人々や観光客も花を手向けて供養する数を増し、更に戦病死された戦没者の霊をまつる慰霊碑が数多く建立され、これら遺族や戦友も度々ご参拝に参る様になり、世界平和を祈願する多くの人々により三ヶ根山スカイパークの名所としてクローズアップされてきた現在である。

弁護士 三文字正平 書
昭和59年10月31日 建立

(解説石碑より)

※ ■は判読不明だった文字です。




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