宇垣一成像 平成16年10月3日

宇垣一成 うがき・かずしげ

明治元年6月21日(1868年8月9日)〜昭和31年(1956年)4月30日

岡山県岡山市・護国神社でお会いしました。


陸軍大将。
大正13年(1924年)田中義一の推薦で清浦内閣の陸相となり、4個師団廃止などの『宇垣軍縮』を断行。
昭和6年(1931年)陸軍のクーデター事件(3月事件)に関与。
同年、朝鮮総督に就任。
昭和12年(1937年)組閣を命じられたが陸軍の反対で断念。
翌年、第一次近衛内閣の外相・拓相に就任。
第二次世界大戦後は参議院議員。


宇垣一成翁の像



宇垣一成翁の像

(岡山県護国神社)




(平成16年10月3日)

宇垣一成先生ハ岡山県瀬戸町大内ノ人
明治元年六月廿一日杢右衛門・たかノ五男ニ生ル。
年少大志ヲ抱イテ東京ニ出デ、陸軍士官学校、同大学校を卒業し独逸ニ留学スルコト2回、大正14年陸軍大将ニ進ム
コノ前後第十師団長陸軍次官等ヲ経テ数次ノ内閣ノ陸軍大臣ニ任ジ、軍縮ニ伴ウ装備ノ改革整備ニ精根ヲ盡ス。
次デ軍事参議官朝鮮総督ヲ歴任、昭和十二年一月組閣ノ大命ヲ拝シタガ一派の沮ム処トナリ。
隣邦共栄ニヨル東亜安定ノ方途空シク終ル、而モ請レテ近衛内閣ニ外務、拓務両相ヲ兼ネ重大時局ニ対処ヲ惜マズ、平和恢復ノ後ハ二十八年四月ノ参議院議員総選挙ニ全国区ヨリ出馬シ国民ノ信頼ヲ得テ最高点当選ノ栄誉ヲ担ウ。
三十一年四月三十日伊豆長岡ノ松籟荘ニ八十八年ノ生涯ヲ閉ジタ。
先生逝キテ十有七年、先覚大度ノ風手今尚眼前ニ在リ、郷党相図リ英姿ヲ造像シテ偉功ヲ称エ、永ク追慕ノ資トスル。

銅像建設発起人代表
岡山市名誉市民 守分 十
岡山市名誉市民 松田壮三郎
撰文 巌津政右衛門
銅像製作者 岡本錦朋
工事施工者 光田石材本店
昭和48年7月2日 除幕

(説明板より)


略歴

明治20年 12月 士官候補生  
明治21年 11月 陸軍士官学校入学
明治23年 7月 陸軍士官学校卒業
明治24年 3月 少尉 歩兵第10連隊
4月 近衛歩兵第2連隊
明治27年 9月 中尉 大本営付(衛兵長) 日清戦争
明治28年 6月 陸軍士官学校付
明治29年     近衛師団及び12個師団設置
明治31年 1月 歩兵第33連隊付  
10月 大尉 歩兵第33連隊中隊長
明治33年 12月 陸軍大学校卒業
明治34年 6月 参謀本部出仕
明治35年 2月 参謀本部員 日英同盟協約調印
8月 ドイツ駐在
明治37年 1月 少佐 日露戦争
4月 参謀本部付
10月 後備第1師団参謀
明治38年 3月 韓国駐剳軍参謀
5月 第1軍参謀
12月 参謀本部員
明治39年 2月 ドイツ駐在  
明治40年 11月 中佐
明治41年 2月 参謀本部総務部員
明治43年 11月 大佐
明治44年 9月 軍事課長 辛亥革命起こる
大正2年 8月 歩兵第6連隊・連隊長  
大正3年     第一次世界大戦
大正4年 1月 軍事課長  
8月 少将 歩兵学校・校長
大正5年

大正8年
3月

1月
参謀本部第1部長
大正7年 11月 参謀本部総務部長兼務 シベリア出兵
大正8年 1月 参謀本部総務部長  
4月 陸軍大学校・校長
7月 中将
大正10年 3月 第10師団・師団長
大正11年 5月 教育総監本部長 ワシントン軍縮条約
大正12年 10月 陸軍次官 関東大震災
大正13年

昭和2年
1月

4月
陸軍大臣  
明治13年 5月 国本社理事
明治14年 8月 大将
昭和2年 4月 軍事参議官 第一次山東出兵
4月

12月
朝鮮総督臨時代理
昭和3年     張作霖爆死事件
昭和4年 7月 陸軍大臣 世界経済恐慌
昭和5年     ロンドン軍縮条約
昭和6年 4月 軍事参議官 3月事件
満洲事変
6月 予備役
昭和7年     上海事件
5・15事件
昭和6年

昭和11年
6月

8月
朝鮮総督  
昭和11年 2月   2・26事件
昭和12年 1月 組閣大命降下(組閣流産) 日中戦争勃発
10月 内閣参議
昭和13年 5月

9月
外務大臣  
6月

9月
拓務大臣兼任
昭和14年     第二次世界大戦勃発
昭和16年 12月   大東亜戦争開戦
昭和19年 3月 拓殖大学・学長就任  
昭和20年 8月   終戦
10月 拓殖大学・学長辞任
昭和28年 4月 参議院議員  

【宇垣一成の田中義一評】

加藤高明内閣の陸軍大臣であった宇垣一成は、軍人として先輩である田中を次のように見ていた。
「一見豪快なようで実は大変小心で軽率な人格の持ち主であり、その取り巻き連中がやがては田中の進退を誤るであろう」

(参考:鳥巣建之助 著 『日本海軍失敗の研究』 文春文庫 1993年2月 第1刷)

(平成29年10月17日 追記)


【機密費問題】
大正7年から11年にかけてのシベリア出兵で、陸軍は2400万円の機密費を消費した。
この機密費がいかに膨大であるかは、日清戦争の陸軍機密費36万9千円、日露戦争の陸軍機密費320万円と比較すれば明白である。
この機密費のうち、寺内内閣時代に使ったのは、340万円、あとの2000万円余はほとんど原内閣のときであり、陸相は田中義一、次官は山梨半造(後半、田中に代わって陸相となる)であったから、この二人に疑惑がかかったのは当然である。
中野正剛は、大正15年3月4日、加藤高明首相が急逝し、内相の若槻礼次郎が後継内閣の首相となった直後の衆議院本会議で壇上に立ち、田中、山梨両人の背任横領を告発した元陸軍省大臣官房付陸軍二等主計・三瓶俊治や元陸軍第1師団長・石光真臣中将の手記を読み上げ、さらに田中義一陸相、山梨半造次官、松本直亮高級副官らの在職中の罪状を徹底的に暴いたのである。
当時の陸軍大臣は宇垣一成で、かねてから長州軍閥の悪しき遺産を一掃して陸軍を近代化し、すっきりしたものにしようと念願しており、次のように言っている。
「対局を忘れ、軍部の威信を維持することの必要を忘れて、区々たる個人の面目や利害に執着して盲動する先輩少なからず、痛恨に堪えず。ために陸軍の面目を傷つけ、尊敬を軽からしめたることは少なくない。元帥や大将の粗製濫造の弊ここに至りしなり。田中、大島、山梨諸氏の人気取り政策の結果の産物と認むるを正当とせん。機を見て、これを廓清することは軍紀を粛清する要道である。これを決行する必要がある」
まさにこのとおりであったが、その肝心の彼が大道を踏み誤った。
正剛の演説の次の日、宇垣は首相、閣僚たちの前で「陸軍全体の面目、威信」を強調して威圧したのである。
この陸軍を代表する立場の宇垣の態度に、閣僚たちはひたすら恐縮し、若槻首相は陳謝して善処を約束した。
正剛が暴露した「機密費」問題について、政友会の秋田清が3月6日の予算総会で宇垣陸相に質問した。
宇垣は、陸軍の軍紀は決して緩んではおらず、「軍事機密費」は会計上不審の点がなく、正剛が査問を要求した事件は、「私にはどうも荒唐無稽のように思われます」と答弁した。
明らかに偽りの答弁であることはわかっていたが、政党は天下、国家よりも党利、党略を優先し、国軍を正道に戻す大道を忘れ、正剛を葬り去ろうとした。
その後、国会は中野問題で荒れに荒れたが、結局、陸軍大将・政友会総裁田中義一を救うために、宇垣陸軍大臣は「陸軍の威信」で問題を糊塗し、政友会は「陸軍の威信」のかげに隠れ、軍部を批判する者は国体を破壊する共産主義者であるという大前提で、議会の権限を縮小・制限して、政党を人畜無害な存在にまで無力化して、軍部専制、軍閥横暴に至る転落の道を進むこととなる。
その後、中野正剛は「機密事件の顛末」という一文を草し天下に訴えたが、中野や尾崎行雄などの奮闘もむなしく、機密費事件は闇から闇に葬られた。

(参考:鳥巣建之助 著 『日本海軍失敗の研究』 文春文庫 1993年2月 第1刷)

(平成29年10月17日 追記)


宇垣軍縮

宇垣の振るった大ナタで廃止された師団は4つ。(合計16個連隊)
その他に、連隊区司令部16、衛戍病院5、幼年学校2校が廃止された。

(参考:棟田博著『陸軍よもやま物語』)

(平成19年2月20日追記)


【軍縮と装備の近代化】

第一次大戦は、日本に、優秀な近代兵器を駆使して戦う総力戦の凄まじさを嫌というほど見せつけた。
皮肉にも遠からず現実のものとなる想定のもと、陸海軍は体制を整え始めた。
手始めとして、兵器の近代化を討議する「作戦資材整備会議」が設置された。
しかし、この会議は、軍備の近代化を願った軍人たちが考えてもいなかった4個師団合わせて9万人の兵力削減、「宇垣軍縮」を導き出すことになった。
まさに、やぶ蛇だった。

「兵装近代化のためには財源確保が必要」と、軍に向かっては師団削減の理由を説明した宇垣だったが、実際に装備近代化に充てられた資金は師団削減で浮いたものの半分に過ぎなかった。
一方、国民に向かっては残り半分をもって、「軍縮により予算を節約した」と説明し、軍事予算増大に嫌気のさしていた国民の拍手喝采をはくしていたわけであるから軍人達の憤激を買っても致し方なかった。
なかなかに「やり手」の宇垣ではあったが、「年増女が赤い腰巻をチョロチョロと出しているような感じ」と、岩畔豪雄に評価されるように、地位や名声に対する「色気」が見えすぎていた。
後にクーデター未遂事件となった三月事件でも、その背後には宇垣の影がちらついていた。
ある意味では欲が多いだけに乗ってきやすいし、担ぐにもちょうどよい御輿のようなものであった。

余談になるが、宇垣の色気は戦争、敗戦を経ても些かも減じることはなかったようで、戦後、参議院議員に出馬し全国区でトップ当選を果たしている。

(参考:橋本 惠 著 『謀略 かくして日米は戦争に突入した』 早稲田出版 1999年第1刷)

(平成29年2月1日 追記)


【日本青年協会の設立】 

昭和3年の秋、陸相宇垣一成、海軍軍令部長鈴木貫太郎、文部大臣岡田良平らは、関屋竜吉の主唱する中堅幹部青年の育成と青年指導者の養成を目的とし、個人を中心とした松下村塾式の青年教育を行い、将来の日本を背負って立つべき有為な人材の養成を図って、財団法人日本青年協会を設立した。

協会の組織は、総裁・清浦奎吾、会長・宇垣一成、常任理事に文部省社会教育局長・関屋竜吉、鳥取高等農業学校教授・青木常盤、理事には東横電鉄社長・篠原三千郎、住友本社総務部長・大屋敦、のちに東京電力の会長となった菅礼之助、さらに石坂泰三、河合良成、安川大五郎らが就任。
軍部からは歩兵第3連隊長・永田鉄山大佐、陸軍省軍務局員の今村均中佐らが参加し、顧問に海軍軍令部長・鈴木貫太郎大将、海軍第1航空艦隊司令官・高橋三吉少将という豪華メンバーであった。

資金については、篠原の岳父・服部金太郎や、大阪一の大地主である田中吉太郎、原田積善会の久田益太郎らの熱心な協力によって浄財が集められた。

協会事務局と研鑽道場は、理事であり歩兵第3連隊長である永田鉄山大佐が、まず連隊内の医務室跡を開放して創立の準備に当たった。
協会の実質的な運営に当ったのが常任理事の青木常盤である。
文相の岡田良平の意を受けた社会教育局長の関屋は、当時、農事試験所の技師から鳥取高等農業学校に転じた青木常盤を、三顧の礼を以てようやく口説き落としたのである。
教育の対象となる青年の多くが地方農村出身であったため、農村に理解のある青木が適任とされたのである。

昭和4年4月、日本青年協会は第1期の講習を開始した。
講習は少数精鋭主義により1回30名を標準とし、年2回にわけて全国から募集した。
教育の指導精神は、綱領に掲げられた敬神崇祖と尊皇愛国、博愛共存と自治共同、攻学遷善と実践躬行を旨とした。
第1回は28名で、歩兵第3連隊の空兵舎を借用して仮寮舎としたが、民間人が兵営内で生活するのは、おそらく空前絶後のことであったろう。
しかも関屋竜吉以下、青木常盤、服部禄郎、氏家賢次郎らの協会役員が、生徒と共に共同宿泊して、生活様式の立て直しから始め、約3ヶ月の短期間な教育ながら、初期の目的達成に自信を得たのであった。

ちなみに昭和20年8月の終戦までに、協会の卒業生は約5,000名を数えるに至る。
のちに宮内省、高松宮家から御下賜金があり、有栖川宮厚生基金なども下賜され、協会の充実が図られたのである。

(参考:芦澤紀之 著 『暁の戒厳令〜安藤大尉とその死〜』 芙蓉書房 昭和50年 第1刷)

(平成29年9月7日 追記)


【三月事件】

昭和6年のクーデター計画、すなわち「三月事件」に杉山元が関与していたとする説があるが、それは全くの濡れ衣らしい。
というのは、大川周明が宴席で、陸相の宇垣一成中将(後、大将)に対し、大塩平八郎の例をあげて「天下の大事に起つ意志ありや」と尋ねたところ、宇垣が姫路師団在職中の出来事をあげて何やら同意するような素振りをみせた。
同席していた小磯国昭少将が「今日は親父は馬鹿に機嫌がいい」と大川に伝えたことから、大川は宇垣が計画を知っていると早合点し事を進めた。
小磯から計画の大略を聞いた杉山は驚いて宇垣に報告したところ、宇垣は即時中止を命じたというのが真相である。

(参考:宇都宮泰長 著 『元帥の自決—大東亜戦争と杉山元帥—』 鵬和出版 平成10年1月第2版)

(平成28年12月14日 追記)


【外務大臣】

昭和13年(1938年)6月、広田弘毅に代わって陸軍大将・宇垣一成が外相に就任する。
宇垣は何回も首相候補に挙げられ、「政界の惑星」とあだ名されるような鵺ぬえ的側面も持っていたが、「支那事変」に関しては、終始不拡大論者であり、外相就任後、和平派の佐藤尚武、有田八郎の両元外相を顧問に招くなど、「事変」解決に向けて積極的に動いた。
外務省東亜局長の石射猪太郎は宇垣を「惜しい大臣であった」と評している。
宇垣をも構成員とする近衛文麿内閣五相会議(首相のほか、外務・大蔵・陸軍・海軍の各大臣を構成員とする)は対中強硬政策を次々と樹立、外務省内部においても親独・対中強硬派の白鳥敏夫(のちにイタリア大使として三国軍事同盟に奔走する)を盟主と仰ぐ「皇道外交官」が勢力を持ってきた。
9月30日、石射が頼みの綱とした宇垣はついに辞任する。
政府・陸軍が推し進めようとしていた「対支中央機関」(のちの興亜院)設置への反対がその理由であった。
「対支中央機関」は総理大臣直属の機関として、日中戦争(支那事変)の処理に当たるものとされていた。
それは明らかに外務省東亜局の職掌を侵すものであった。

(参考:栗田尚弥 著 『上海 東亜同文書院〜日中を架けんとした男たち〜』 新人物往来社 1993年第1刷発行)

(平成29年2月13日 追記)


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