平成15年7月26日
天保9年4月22日(1838年5月15日)〜大正11年(1922年)2月1日
山口県萩市・市民球場でお会いしました。
仲間ちゅうげん(足軽以下の最下層卒族)・山県三郎有稔さぶろうありとしの長男として生まれました。
岡部半蔵に槍術を学びました。
安政5年(1858年)藩命で事情探索のため上京。
京都で梅田雲浜うめだ・うんぴんや梁川星巌やながわ・せいがんと交わり尊皇攘夷に目覚めました。
帰国後、久坂玄瑞の勧めで松下村塾に入塾し吉田松陰の薫陶を受けました。
文久3年(1863年)5月10日を期して、長州藩は攘夷を決行。
諸外国の船を砲撃して、報復を受けます。
有朋は高杉晋作が創設した奇兵隊の軍監として、英米仏蘭四国連合艦隊の下関砲撃に対し奇兵隊を指揮して防戦。
結局、戦争には負けましたが、藩の正規兵より善戦した奇兵隊を見て、のちの国民皆兵論の素地を作ったといわれています。
幕府の征長令により俗論党が藩内を掌握。
高杉晋作は俗論党政権を倒すべく功山寺こうざんじで決起、最初は渋っていた有朋も奇兵隊を率いて参加しました。
続く幕府との長州戦争では小倉口で奮戦。
慶応3年(1867年)には上京して薩摩の西郷隆盛や大久保利通と武力倒幕の方針を練りました。
翌年の慶応4年に勃発した戊辰戦争では新政府軍の参謀を務め、北越に出陣。
明治2年(1869年)には軍事視察のため西郷従道とともに渡欧。
翌年帰国し、フランス式に軍制を改革。
陸軍卿・参議・参謀本部長を務め、佐賀の乱・西南戦争の征討参軍も務めました。
明治16年(1883年)、参議兼内務卿に転じ、町村制の確立に貢献し、しだいに活動の中心を内務行政に移しました。
第一次伊藤・黒田内閣の内相をへて、明治22年(1989年)首相に就任。
第二次伊藤内閣の司法相をへて、明治31年(1998年)再度首相に就任しました。
日清戦争では第一軍司令官、日露戦争では参謀総長。
伊藤博文の死後は元老の第一人者として首相選定の主導権を握りました。
(平成16年8月10日改訂)
市民球場脇に建つ山県有朋像 (山口県・萩市) (平成15年7月26日) |
山県有朋誕生地
山県有朋
明治・大正期の軍人・政治家・公爵。
天保9年(1838)、萩藩中間有稔の長男として萩城下川島に生まれる。
19歳の時、久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾に入門、以後攘夷運動に奔走した。
文久3年(1863)奇兵隊に入隊、軍監となり、下関で英仏蘭米四ヶ国連合艦隊とのとの交戦、高杉晋作挙兵による俗論党との戦闘に活躍した。
さらに第二次長州戦争には小倉口に戦い、戊辰戦争には官軍の参謀として北越方面に転戦した。
明治2年(1869)欧州を視察し帰国後兵部少輔・兵部大輔となり、大村益次郎なきあとの軍政に尽力し、徴兵令を制定して国軍の基礎をつくった。
その後、陸軍卿・陸軍大将・元帥へと進みわが国陸軍の中心的存在となり、また政治家としては、二次にわたり内閣を組織しその前後に参議・枢密院議長などになった。
伊藤博文なきあと最大の発言力をもつ元老として、軍や政界に重きをなした。
大正11年(1922)没。
85歳
山県有朋年譜 | 国内年譜 | |||
天保8年 | 1837年 | 大塩平八郎の乱 | ||
天保9年 | 1838年 | 萩・川島に生まれる | 1歳 | |
安政5年 | 1858年 | 松下村塾に入門 | 21歳 | 日米通商条約調印 |
安政6年 | 1859年 | 吉田松陰刑死 | ||
文久3年 | 1863年 | 奇兵隊に入隊。軍監となる | 26歳 | |
元治元年 | 1864年 | 下関で四国連合艦隊と交戦 | 禁門の変 | |
慶応元年 | 1865年 | 大田絵堂で俗論党と戦い勝つ | 28歳 | |
慶応2年 | 1866年 | 第二次長州戦争で小倉口に戦う | 29歳 | 薩長同盟 |
慶応3年 | 1867年 | 石川良平の娘友子と結婚 | 30歳 | 大政奉還・王政復古の大号令 |
明治元年 | 1868年 | 官軍の参謀として北越方面に転戦 | 31歳 | 戊辰戦争 |
明治2年 | 1869年 | 欧州を視察(〜3年)帰国後兵部少輔となる | 32歳 | 版籍奉還・大村益次郎暗殺 |
明治4年 | 1871年 | 兵部大輔となる | 34歳 | 廃藩置県 |
明治6年 | 1873年 | 初代の陸軍卿となる | 36歳 | 徴兵令を布告 |
明治7年 | 1874年 | 参議となる | 37歳 | |
明治9年 | 1876年 | 萩の乱 | ||
明治10年 | 1877年 | 西南戦争 | ||
明治22年 | 1889年 | 第一次山県内閣を組織 | 52歳 | 大日本帝国憲法発布 |
明治23年 | 1890年 | 陸軍大将となる | 53歳 | |
明治26年 | 1893年 | 枢密院議長となる | 56歳 | |
明治27年 | 1894年 | 日清戦争 | ||
明治31年 | 1898年 | 元帥の称号を賜る。第二次山県内閣を組織 | 61歳 | |
明治37年 | 1904年 | 日露戦争 | ||
明治40年 | 1907年 | 公爵を授けられる | 70歳 | |
明治42年 | 1909年 | 伊藤博文暗殺 | ||
大正3年 | 1914年 | 第一次世界大戦 | ||
大正11年 | 1922年 | 小田原古稀庵にて死去 | 85歳 | |
大正12年 | 1923年 | 関東大震災 |
(説明板より)
平成15年7月25日
山口県萩市・萩往還公園(道の駅)でお会いしました。
山県有朋(小助こすけ)
下級武士の子として生まれ、松下村塾に21歳の時に入りました。
奇兵隊血盟に加わり、その中心的役割を担いました。
高杉晋作の挙兵、四境しきょう戦争、戊辰ぼしん戦争などで奇兵隊をひきいて活躍し、明治維新後は軍隊の近代化、確立につとめ、内閣総理大臣や枢密院議長などを歴任しました。
(説明板より)
往還公園に建つ銅像 右:伊藤博文(利助) 中:木戸孝允(桂小五郎) 左:山県有朋(小助) (平成15年7月25日) |
近衛兵 |
御親兵設置に際して、西郷隆盛は薩摩の士族兵を率いて上京。
その兵力からいっても、戊辰戦争の実績からいっても、薩摩士族は御親兵の中核だった。
この武力があればこそ廃藩置県が可能だったのであり、この武力を背景に持つことによって、新政府内における西郷の地位は重たかったのである。
御親兵が近衛兵に代わり、長州出身の山県有朋が陸軍大輔のあま近衛都督を兼ねると、近衛兵内の最大勢力である薩摩士族はこれに反発。
山県が中心となり、徴兵制が推進されることにも彼らの不満は高まった。
徴兵詔書の出された(明治5年11月28日)の翌日、山県とつながりが深い山城屋和助(本名:野村三千三)が公金不正流用事件の責任をとって陸軍省内で割腹自殺すると、近衛兵の山県に対する不満が爆発して山県排斥運動となる。
山県有朋は近衛都督を辞任して陸軍大輔専任となり、代わって西郷が参議として近衛都督を兼任し、近衛兵を慰撫することになった。
一方、山県は徴兵制の『近衛兵編成および兵額』を定め、その推進にあたるとともに、近衛兵の整理に着手。
戊辰戦争の歴戦者を除隊させて薩摩や土佐の勢力を弱め、長州系軍人を補充していった。
これにより、明治6年2月から3月にかけて、旧近衛兵の大部分が除隊したといわれている。
(参考:竹橋事件100周年記念出版編集委員会 『竹橋事件の兵士たち』 1979年 現代史出版会発行)
(平成23年1月17日追記)
【文官任用令】
『文官任用令』とは、次長・局長などには、試験を通った官僚しかなれないというものである。
これは、政党内閣を毛嫌いする山県有朋によって作られたものであり、官僚機構に政党の影響が及ぶのを防ごうとしたものであった。
(参考:石田尊昭・谷本晴樹 著 『咢堂言行録〜尾崎行雄の理念と言葉』 平成22年11月初版 世論時報社発行)
(平成25年4月13日追記)
椿山荘 (東京都文京区関口2−10−8) (平成18年3月11日) |
椿山荘 (東京都文京区関口2−10−8) (平成18年3月11日) |
椿山荘について
林泉回遊式庭園の椿山荘は明治の元勲山県有朋公爵の命名によるものです。
ここ椿山荘周辺は古来より椿の自生する景勝の地として知られ、南北朝時代の頃から「つばきやま」と呼ばれておりました。
江戸時代の代表的な浮世絵版画家・安藤広重の作品『名所江戸百景』でも取り上げられています。
明治11年、山県公が私財を投じてこの地を入手すると、つばきやまの名にちなんで「椿山荘」と名付けて築庭に力を注ぎ、約2万坪の起伏豊かな地形を巧みに生かし、今日に見る名園に造り上げました。
当時、明治天皇をはじめ政財官界の第一人者たちがしばしばこの椿山荘を訪れ、重要会議を開いたと伝えられております。
その後、山県公爵からこの名園を譲り受けた藤田平太郎男爵が、三重塔をはじめ歴史をしのばせる文化財の数々を随所に配し、その風情を一段と高めるに至りました。
こうして受け継がれてきた伝統は、今日も都心で豊かな四季が味わえる数少ない名園を育みつづけ、近代的諸設備を誇る施設の数々と共に、椿山荘を名実共に日本を代表するガーデンレストランとして位置づけ、日々内外のお客様をお迎えしております。
(説明板より)
邸宅跡 (東京都千代田区九段南2丁目1−5・農林水産省分庁舎) (平成18年7月14日) |
農林水産省分庁舎・三番町共用会議所 (平成18年7月14日) |
山縣有朋侯は明治の初め頃、靖国通りから鍋割坂に至る約6千坪に及ぶ広大な範囲の土地を所有していましたが、その後、この土地の中央部分を残し、それ以外を品川弥二郎他に割譲しています。
その結果、山縣の土地は、現農水省千鳥ヶ淵分庁舎が占める約3千坪に減りました。
ここに、彼は明治6年頃から家屋と庭園を造って住んでいました。
明治18年には我が国の洋風建築の先駆けともいえる邸宅を、当時、明治建築界の雄と謳われた片山東熊(おとくま)に設計を依頼して竣工させました。
明治19年、山縣が農商務大臣在任中、彼はこの私邸を政府に譲渡したため、以後、ここは農商務大臣官邸となりました。
明治時代中は農商務大臣として井上馨、陸奥宗光、後藤象二郎、榎本武揚、大隈重信などが在任中はここに居住したことでしょう。
その後、関東大震災や、空襲により焼失したため、戦後は、農林水産省の共用会議所として利用されています。
(平成15年9月15日環境省千鳥ヶ淵戦没者墓苑管理事務所発行『墓苑周辺の歴史散歩』チラシより抜粋)
(平成18年7月30日追記)
『宮中某重大事件』(杉浦重剛 VS 山県有朋) |
皇太子(のちの昭和天皇)と久邇宮良子くにのみやながこ女王との婚約が決まったのは大正7年1月だった。
皇太子は17歳。良子女王は15歳であった。
良子女王は久邇宮邦彦くによし王の第一王女で、学習院女学部に在学していた。
婚約の発表は大正8年6月である。
久邇宮邦彦王は、第一王女良子を皇太子妃にと内示を受けた時に驚いたらしい。
すぐに波多野敬直宮内大臣のもとに行って「わが家系には色弱症の遺伝があるかもしれない」と申し出た。
報告を受けた宮内省側は驚き、宮内省の意を受けた眼科医に調査させたところ良子女王には色弱の傾向がないとわかり、とにかく婚約にこぎつけたのである。
これで終わっていれば、俗に「宮中某重大事件」といわれる歴史事件は起らなかった。
元老山県有朋は、長州閥の象徴のような人物だが、この結婚にあまり賛成ではなかった。
一説では薩摩関係者ではなく、長州関係者の子女を皇太子妃に据えたかったという。
(良子女王の母親である邦彦王の俔子ちかこ妃は薩摩の公爵島津忠義の娘)
その山県に、良子女王が色弱の傾向があるとの噂が耳に入った。
噂を信じた山県は、元老の西園寺公望や松方正義に相談を持ちかけ、もう一度検査をすることとし、久邇宮家には皇太子妃を辞退せよと迫る方針を決めた。
久邇宮家側に立つ眼科医は、良子女王は色盲や色弱ではないと根拠を示し、子孫にもそれはあらわれないと主張。
宮内省侍医の眼科担当医は必ずしもそうとはいいきれないとした。
こうなってからは、山県と久邇宮家を支援する政治勢力の対立となった。
山県の強い希望で第三者として東京帝国大学医学部の5人の教授が鑑定を行ない、子孫に現れるか否かは五分五分という結果になった。
山県はますます久邇宮家に圧力をかけた。
久邇宮が困惑している時に有力な支援者がついた。
かつて東宮御学問所で帝王学の要になる倫理や歴史を皇太子に教えた杉浦重剛である。
杉浦は、婚約が決まると東宮御学問所をはなれて良子女王にお妃教育を行なっていた。
もし久邇宮家に宮内省が婚約破棄を伝える事態になればそれは許されぬことだと、久邇宮家に辞職届を提出したあと反山県の活動を始めた。
〈婚約破棄というのは、人の道に反する。もしそのようなことが起こったら、自分が皇太子や良子女王に申し上げてきた「日本の皇室は智、仁、勇を以て立たなければならない」というご進講も根本から崩れてしまう〉と杉浦は考えたのである。
杉浦には、神がかりの性格もあった。
自決を覚悟しての戦いを挑むというのであった。
山県への憎悪と、山県に踊らされている首相の原敬にも敵意を燃やした。
杉浦の人脈は政界、経済界だけでなく、右翼陣営にも広がっている。
とくに国粋主義団体の玄洋社を主宰する頭山満とうやまみつるが、杉浦に助力を約束し、山県の権勢欲を叩かなければならないと申し出た。
右翼陣営は、山県に代表される藩閥打倒へと動いたのだ。
怪文書が撒かれた。
若い活動家の北一輝の筆になるといわれている。
原は山県の藩閥政治にも反対だったが、しかし婚約問題では久邇宮家が辞退した方がいいとの考えを持っていた。
だが徐々にその考えを変えざるを得なくなった。
宮内省側も初めは2派に分かれていたが、次第に杉浦の意見に促されて久邇宮家側を支援する勢力が強くなった。
これまで山県は、明治の元勲であるということで、宮中に参内しても皇室への畏敬の念に欠ける素振りをしばしば見せた。
枢密院議長という立場で、天皇と共に食卓を囲むこともあったが、山県には食事のあとに口に水をふくんで大きな音をたててうがいをする癖があった。
大正天皇は、日頃からこの無神経さにいらだっていた。
天皇家では自分たちの力で存在しているという傲りを見せるのが、宮中では怨嗟の的にもなっていたのだ。
山県は次第に孤立した。
大正10年12月8日に、宮内省は皇太子が渡欧して見聞を広めてくることを発表。
ところが今度は、反山県の右翼陣営が、山県が皇太子を英国に送って、良子女王との間を裂こうとしていると騒ぎだした。
加えて、大正天皇は皇太子の結婚問題に意見を吐こうにも、どうにもならないほど健康状態を悪化させていた。
山県は、最後の手段として、皇太子にこの色盲問題の経緯を率直に伝え、そのうえで皇太子自身の判断を仰ごうと考えるに至った。
それは政治的に誰の手を借りることも出来なくなった山県の、天皇家に直結しているという自負に由来していた。
皇太子自身は、久邇宮家の色盲問題をまったく知らされていなかった。
しかし、結局そこに行くまでに、意外な方向で事態は終熄を迎えた。
中村雄次郎宮内大臣のもとに、内務省警保局から、壮士の一団が山県や原を狙うだけでなく、この結婚を快く思っていない宮家をもテロの対象としている、という報告がはいってきた。
皇族に累が及ぶというのは、宮内大臣にとって最も恐れることだった。
山県の影響下にあった中村は、すぐに山県のもとに駆け付け、こうなったら皇太子の婚約は何の支障もなく挙行されると発表すべきだと説いた。
ここに至って山県はやっと決断して、次のように言ったという。
「宜しい。ことはすこぶる重大であるから、本来ならば直ちに聖断を仰ぐべきはずであるが、今日にては陛下は御脳の御宜しくない時であるから、それもできず。己は純血論なれども決して己の主張を採るには及ばず、貴様は気の毒であるが、ことの落着を見て辞さねばならぬ」
こうして宮内大臣談話が発表されて事態は解決した。
ちなみに、この“宮中某重大事件”の全貌が明らかになったのは、太平洋戦争終結後のことである。
(参考:保阪正康 著『秩父宮〜昭和天皇弟宮の生涯』 中公文庫)
(平成22年8月26日追記)
【山県有朋の憂い】
明治の元勲山県有朋元帥は、大正11年2月、位人臣を極めた絢爛豪華な生涯を85歳の高齢で閉じたが、晩年に至って、第一次世界大戦後のわが国の思想的混迷と、道義の頽廃を非常に憂えていた。
その山県の遺言に青年教育機関の設立があった。
(参考:芦澤紀之 著 『暁の戒厳令〜安藤大尉とその死〜』 芙蓉書房 昭和50年 第1刷)
(平成29年9月8日 追記)
山縣有朋墓所 (東京都文京区・護国寺) (平成18年12月23日) |
元帥公爵山縣有朋墓 (東京都文京区・護国寺) (平成18年12月23日) |
公爵山縣家累代墓 (東京都文京区・護国寺) (平成18年12月23日) |
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