アフォーダンス理論と、唯脳論と、唯物論と、唯心論と。。。(考察中)2002.1.31
更に考察中。。。2002.2.9
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重要な間違いを発見しました(2002.3.24)
みんすけさん、ありがとうございました。
なお、余りに重大な間違いのため、旧版をリンクしておきます。
下記図で、S=Sa+Siと書いておりましたが、S=f(Sa,I)+Siの間違いです。
また、Iが大文字、小文字入り乱れていたところがあり、更なる誤解を生んだようです。
深く、お詫び申し上げます。m(__)m


誤解を生みやすいので、改変しました。(2002.2.2および2.5)。
元となる議論は、過去ログ(#95,#97,#99,#100)です
本文の若干の修正と、第7章を付け加えました(2002.2.9)

はじめに。

最初に断っておくが、「理論」は、あくまで「理論」であり、論理的な説明可能性でしかないのである。
「AはなぜBか?」と言ったときに、その「理由」を「論理的・無矛盾」に説明可能であれば、それは「問い」に対する一つの「理論」であって(必要条件)、その「理論」が「絶対」なわけではないのである。
たとえば、「天動説」であれ、「地動説」であれ、両者は、数式の変換のみで、相対的に「正しい」理論である。
ただ、説明する側と理解する側で、「地動説」の方が、簡単なだけなのである。
そういう視点から、多角的に「理論」を眺め直してみることが、大切なんだと思う。

目次

1.アフォーダンス理論についての概要
2.私の見解
3.人の性癖と、アフォーダンス理論
4.唯脳論的視点から見た、アフォーダンス理論
5.二元論と一元論の狭間
6.並列思考と問題解決の糸口
7.結局のところ

1.アフォーダンス理論についての概要

 アメリカの認知心理学者ジェームス・ギブソンによって1960年に完成された理論
 「アフォーダンス -新しい認知の理論-」、佐々木正人(岩波科学ライブラリー12)

誤解を覚悟で手っ取り早く言えば、認知する主体にとって、物理学的な情報のみから、対象に関する全ての意味を脳内にて構築すると言う考えではなく、対象そのものに、あらかじめ「意味」が備わっており、物理学的に伝播してくる情報の中にそれが埋め込まれていると言う、解釈。【注】
例えば、椅子を見たとき、其処から届く散乱光に、椅子がもつ性質、「座ることが出来る」が、人間にアフォードされるという。
【注】私自身は、この解釈に反対です。伝播してくる物理学的な音なり光なりには、「意味」が含まれて流れてくると言う解釈は出来かねます。(物理学的に「無限への発散」が含まれてしまうから。という意味です)
いや、はっきり言うと、この理論は、非常に「人間勝手」で、論理的に破綻しているといえるのです。しかしながら、「相手の感情」なり「場の雰囲気」なりは、伝播してくる物理学的な音や光以外のものとして、「何ものか」が「伝わってくる感覚」、それは感じるはずです。唯それだけです。それを、この理論的な側面から捕らえることができないのだろうか?そう思っています。。。。。。そして、人は、「自然」と「何かを感じる」、あるいは「共感する」という感覚を抱くとき、そのようにものごとを解釈しようとする傾向を有しています。なぜなのだろうか?。唯物論的には、それは、「個人個人の脳内で発生する感覚であり、伝わってくるなんてありえない」となります。「伝わってくるような感覚」という解釈を説明することは、不可能なのだろうか?

【注】:この点が曖昧なため、ストウニア→ロッシ→プリブラムの流れ、そしてそれを信じた河村氏(「脳と精神の哲学」(萌書房)への流れが出来てしまったと考える(#97)。彼らは、情報そのものがエネルギー・物質と変換可能であると考えた。(唯一絶対神の影響下の下)統一理論を目指すが故、「唯物論」の呪縛から逃れられなかったと考える。
これは、物理学的に「無限へのエネルギーの発散」を引き起こし、到底受け入れかねる考えである。(「物理学」に迎合しようとするゆえに、「物理学」的な矛盾を引き起こす)

2.私の見解

物理学的、唯物論的には、どう考えても、認知心理学にて、脳内での複雑な作業過程の吟味を、出来る限り「しないで済ませたい」という「要求」から、生まれてきた考えと言わざるを得ない理論。(なんとも、アメリカ的発想ともいえる)
感覚主義の視覚理論←→生態学的視覚理論(生態学的実在論)

しかしながら、ロボットや人工知能分野にて「環境の記述」が行いやすい(いわゆるオブジェクト指向に類似)ため、そちら方面にて、結構受け入れられているようだ。

(唯物論的に)もう少し、詳しく言うと、
自己が考える「認識」は、内から攻めていったとき、感覚器との間で、「断絶」が生じる。
(唯物論的には、感覚器からの信号は、一方通行であり、逆流し得ない。感覚器へ向かうには、別経路の運動系の神経を介する必要がある)
普遍的な人の「認識」を考えようと、外から攻めていったとき、感覚器への物理学的刺激から、神経系・脳の電気的・電磁波的活動までは追えるものの、その段階で「断絶」が生じる。
この狭間において、現在、さまざまな「理論」的説明がなされようとしている。
アフォーダンス理論、クオリアなどなど。。。
そして、それは、「理論」であって、「理論」を決して超えないであろう。
アフォーダンス理論は、現在の主流から離れてしまっているが、「なぜ、こんな理論が生まれてきたのだろうか?」と言うところを、考えていくと、「安易にそう考えてしまいがちな人間」という、人の性癖にぶち当たると考える。

3.人の性癖と、アフォーダンス理論

実のところ、認識過程における「意味」の抽出を考えるにあたり、「人間」に共通する項目を、個々の人間の脳内思考に求めるのではなく、対象にあらかじめ貼り付けておくという考え方は、非常に「人間的」なものの見方であることに気づく。
悪く言えば「レッテルを貼る」ということにもつながりかねない、危なっかしい理論であるにもかかわらず、人間の性癖を如実に表している。
養老氏も、「カミとヒトの解剖学」p.254-268「身体という禁忌」の中で、それとはいわずに、同じ考え方による「差別」の誘導を、指摘している。
この「無意識」に行われる領域は、悪く言えば、「あたりまえ」や、「先入観」や、「信じる」といった領域に当たると思われる。
ただし、相手の「気持ち」や、「思い」といった、「情」を受け止めようと真剣になっているときには、良い意味での「情報伝達」がなされるであろう。「相手がそう考えているのではないだろうか?」
そういった、「情」を受け止めようとしない社会の「冷たさ」は、多くの人が感じているものと思われる。
そういう意味で、アフォーダンス理論のコミュニケーションへの拡張は、「両刃の剣」であるといえる。

4.唯脳論的視点から見た、アフォーダンス理論

下の図は、唯脳論からみた(というより、「評価した場合の」)アフォーダンス理論である。
A:物理学的存在をアフォーダンス理論で考えたとき
B:物理学的存在を唯物論・唯脳論で考えたとき
C:形而上学的存在をアフォーダンス理論で考えたとき
D:形而上学的存在を唯脳論で考えたとき
を、表す。

ここで、AからBと、CからDへは、Saの程度によって、連続的に変化するのである。

認識は、主体者側の脳内にて行われるとしている。(唯脳論的認識)
青丸の領域は、「無意識に行われる過程」で、実は、重要な部位であると考える。
=====2002.3.24追加=====
I:物理学的な入力、
Sa:アフォーダンス的な意味
  (物理学的な伝播と別系統と考えたほうがいい)
  注:(純粋な)アフォーダンス理論では、
    物理学的な伝播に乗ってくるという考えをする。
Si(I):個々の脳内で生み出される意味。唯脳論的な意味。
f(Sa,I):SaとIという入力があったときに、主体(脳)が受け取る意味。f(0,0)=0
=====2002.3.24追加 ここまで=====

AとBが、結果的に、主体者側の脳内での思考内容に差を生み出さないにもかかわらず、「共通項」を「外部」(相手側)に押し付けることで、アフォーダンス理論が成立している。

ここで重要なのは、アフォーダンス的意味:Saと書いた部分で、人間が性癖にて、対象:oにSaなる意味があらかじめ「含まれている」かのように「思ってしまっている」意味である。

この「思ってしまっている意味」部分を、積極的に「認識・抽出」することは、潜在的に潜んでいる「問題」や、対象を考えるときに出てくる「共通基盤」なりが浮き彫りにされると、考える。

興味深いのは、C,Dでの、形而上学的対象を捉えるときである。
Cでは、具体的な存在として、「外部」に、その対象が存在すると言う考えに陥りやすいことを示唆している。
Dでは、「自己の内部」に、その対象が存在するという考えに陥りやすいことを示唆している。

はっきりと述べておくが、CもDも、意識下での形而上学的存在に対する思考は「同じ」なのである。
奇妙に思われるかもしれないが、「概念」として、捉えられた「形而上学的存在」は、「意識下にて同一」であっても、その拠り所を、「外部」に捉えるか、「内部」にとらえるか、あるいは、Saだけ外部に依存し、Siだけ内部に依存するかは、「無意識」の内に行われているのである。
Saは、ユングの言うところの「元型」に相当するようにも思われる。
以下の図で、「一般」とあるのは、以下のA-Dの全てを一つで表した場合である。本来ならば、「意味」という概念は、「アフォーダンス的意味」のベクトル方向にはありえず、「対象にたいする意味付け:S」というベクトル方向のみを考えればいいはずである。以下、A-Dでは、「対象に対する意味付け:S」は、省略している。

更に考えねばならないことは、「対象」が、「物」である場合と、「人」である場合と、「動物」である場合などである。それぞれの場合によって、(無意識のうちに)これら関係を使い分けているはずである。
どの程度、「対象」が発しているかのごとく思っている「もの」を、想定しているだろうか?
どの程度、「対象」にたいして「思い入れ」をもっているだろうか?
どの程度、「先入観」をもち、どの程度それが当たっており、どの程度外れているのだろうか?


5.二元論と一元論の狭間(連続的な並列性)

上記図のB、C、Dは、一元論的な解釈が可能であり、A、C、Dは、二元論的解釈が可能である。
しかし、式から見てもわかる様に、それぞれのパラメータSa,Siは連続して変化しうる。
A、B間、C、D間での連続的変化の可能性。
それは、「科学的に外部から攻めていったときに見出される断絶」と「(哲学的に)内部から攻めていったときに見出される断絶」の狭間、、すなわち「無意識」の領域に深く根ざしていると言える。
人間は、この合矛盾すると思われる連続性の谷間に存在し、言い争っている。
もし、どちらの考えも「正しい」として、「並列性」を認めることが出来るならば、それがいいのではないだろうか?
注:アフォーダンス理論を含んでいっているのではない。現在主流として、さまざまな「理論」が存在するが、いろんな議論に晒されて生き残ってくる「理論」について言っているのである。おそらく、一つのみが生き残るとは到底思えない。おそらく、複数(少なくとも、2つ以上)生き残るであろう。それは、この狭間の解釈が「人の思考の超え得ぬもの」として、頑として「断定」をはねつける領域だからだと思われる。

6.並列思考と問題解決の糸口

このアフォーダンス理論と、唯脳論、唯物論、唯心論を並列的に取り扱う姿勢で、ものごとを考えていくと、霧に隠されていた真相が見えてくるように思われる。実際、唯脳論とアフォーダンス理論とを対比することにて、「差別」の本当の意味が、「カミとヒトの解剖学」p.254-268「身体という禁忌」にて、非常に明瞭に、解き明かされたと言わざるを得ないと考える。
(深読みしすぎか、それとも、唯脳論によっているだけなのかも知れないけれど、生まれて初めて、これほどまでに納得してしまったというのは事実である)

7.結局のところ

上記記述は、未だに何がしかの不完全性を秘めているように思われて仕方ない。

当初の目的から、上記記述にいたるまでの、私のこころのつぶやき。

 「個々の独自性を突き詰め、ニヒリズムに陥らずに、共通基盤を模索することが可能か」
→超越的、超越論的思索と深く関わっている
→超越的なものや、超越論的なものを、直接論じることは、言語の限界性などにより「語りえぬもの」となる
→たとえ、対象が存在しなくても、ただ、そのようなものを求めようとする「方向性」はあるといえる。
→その「方向性」は、人間が生まれつきもっている「性質」のようなもの、あるいは「情」や「共感」に深く関わるのではないだろうか?
→個人の考えの内部で、いくらこね回しても、「ニヒリズム」を超えることができず、それ以上はなんにも得られない。(経験)
→他者との関係の中で、上記ことがらは、浮かび上がってくるものであろう。
→主観を切り離した極限の「二元論」、主観をとことんまで含めた極限の「一元論」など、「自他」の関係を考慮した考えは多々ある。
→これら理論の前提になっている「認識論」自体も、「唯脳論」など、さまざまであり、「超越的・超越論的」思考が、既に関与してきている。
→では、堂堂巡りで、突き詰めることは「不可能か?」
→いや、各理論に共通の「癖」が、隠されているのではないだろうか?それは、人間の「性癖」みたいなもの。
→各理論はほとんど「両極端」を言い表している。
→論理的につめようとすると、「両極端」に逃げていくかのごとくである。
→論理的につめること自体がおかしいのでは?
→なぜなら、「論理的」は、「人間」のごく一部の機能であり、それこそ囚われになってしまうのではないだろうか?
→ふと、見渡せば、両極端は両立し、その間に無限の段階が存在し、それぞれの場合に応じて、人は「無意識」の内に、使い分けているように思われる。そうではないのだろうか?
→「真理」や「無矛盾」の「論理的」追及は、私のホームページ中央に記載した、「争い」を必然的に引き起こすと考えられる。それに、ゲーデルの不完全性定理にはまり込む危険性もある。
→「中庸」と言う概念、「両極端に走らず、真ん中を行け」みたいなことを言っているとのことであるが、もしかしたら「両極端を、常に、並列に持て」ということではないのだろうか?
→なぜなら、「両極端」を知らずして、「真ん中」なんて判ろうはずは無い。人は、火で火傷を負い、寒波で霜焼けを負うことで、「適温」を知るともいえる。「北極」に行った事の無い人間が「北極」の寒さを知らないゆえどれだけ「厚着」をすべきか悩むようなものである。
→「両極端」の経験性は、その人のその分野での「キャパシティー(capacity)」を決定するともいえるのではないだろうか?
→と、いうことで、私の求めているものから、それていっているようにも思われるが、だいじょうぶなんだろうか?
→でも、「並列的思考」を行うことで、もしかしたら、求め続けているものに出会えるかもしれない。。。。(楽観的観測。パンドラの箱に残された「希望」に囚われているのかも。。。)