な〜の

長柄傘 (続々追加予定です)

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長柄傘


柄の長い傘(笑)

って、よく目にされるのは、大夫(花魁)道中の時に遊女さんにさしかけられているやつですね。これは日傘ではなくて、兼用傘です。これを「上級武家の作法を真似た」なんて書いているパクリ本があったりするのですが、吉原は武家の作法を真似ることなんか無くって漢籍にある中国の遊郭の様式と、延喜式を中心にした宮廷の様式、そして茶の湯の作法を組み合わせたスタイルで、ここを抑えられていないと、まったく間違った吉原のことを広めてしまうんですよね、そんな本は。

それ以上に、長柄傘と遊女の関係は、遊女史を考える中で欠かせないファクターであって、「武士の真似」なんて書いてる本やサイトは、遊女・遊郭のことを、爪の先ほども真面目に考えちゃいない証拠みたいなもんです。

さて、長柄傘が何時ごろから使われていたかについての定説は無いのですが、奈良時代頃ではないかと思われています。そして平安期にはすでに紙張りのものが現れ、油を塗った雨傘も使用されていました。

でも、江戸初期まで、傘は貴人が使う物だって感覚が強くて、武士を含め日常の雨よけ日よけは「笠」が一般的でした。ある意味、長柄傘は貴人の象徴なのですが、実は平安期から長柄傘は、遊女さんの目印でもあったんです。

あまりにも有名なのは、皆さんもどっかで聞いた事がある

『遊びをせんとや生まれけむ
 戯れせんとや生まれけむ
 遊ぶ子供の声きけば
 わが身さへこそゆるがるれ』

で広く知られている、後白河法王が嘉応年間(1169-71)に編んだ『梁塵秘抄』という今様(いまよう)を集成した本の中に

『遊女の好むもの、雑芸、鼓、小端舟、大傘、』

という記述があるんですよね。(梁塵秘抄 岩波文庫 参照)

それ以前にも藤原明衡の漢文随筆『新猿楽記』(康平年間1058〜65 平凡社 東洋文庫 参照)に記述があるし、『栄花物語』(正編 万寿年間(1024〜28) 続編1100年代初頭 岩波文庫 参照)にもあったりします。

書き出すと切りがないのですが、それから江戸時代まで、様々な書籍や絵の中に、遊女のトレードマークとして登場し、遊郭が成立すると、数々の絵に長柄傘が描かれるのはのこの背景が知識として一般化していたからなんですよね。

さて、江戸市中では、1718年には長柄傘を使うこと自体が禁止されます。これは、元々長柄傘を使用していた、公家・僧侶・武家に対しては、以前から身分による制約があったのですが、町人には無かったので、改めて禁令としているんです。

そもそも武士は武官として仕事をしている限りは長柄の傘をさせません。唯一長柄をさせるのは、京都の朝廷や公家さんと仕事をする時、それもアフターファイブって言うか、懇親会って言うか、茶席だけで、それも歩行中はさしてはいけないんですよね。

これは市中も同じで、道で長柄笠を他者にさしかけさせてかまわないのは、正三位以上の公家の公用時だけなんです。武家では儀礼用の傘として正四位下以上だけが、公式の行事の際に携行しますが、お殿様にさしかけたりはしないんですよね。

そんな中で吉原は大門から中は市中では無いので、規制の対象にはなりませんでしたので、江戸期を通して長柄傘が使われることになりました。。

吉原でも最初は大夫職のみに許された特権的な象徴でした。ご存知のように元々「大夫」とは中国の官制で、卿の下、士の上で、日本では従二位から正四位下までの尊称でした(後に正五位以上)なので、これを意識したとの説もあります。。

その後長柄傘は、道中の際の飾りとして、大夫の名前とは離れて、市中では見ることの出来ない吉原名物として、残りました。

(長柄傘と遊女の関りは、いつか通史を書く機会があれば詳細に追ってみたいと思っています)
ビジュアルで贈る、新吉原!  なんて、大したもんじゃないのですが<=おい!、
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