花魁



遊女に玉づさ 鈴木春信 
明和3年(1766)頃
平木コレクション

松葉屋新宅見世開 鳥文斎栄之 
寛政7年(1795)頃
ポーランドクラクフ美術館蔵

扇屋内 瀧川 歌麿 
寛政5年(1793)
シカゴ美術研究所蔵

年始まわりの遊女図 北斎 
文化12〜文政5年
(1815〜1819)
フリーア美術館蔵

青楼十二時 夜 亥の刻 菊川英山
文化9年(1812)頃 
山口県立萩美術館

吉原大門図(部分)  鈴木其一
嘉永-安政頃(1848-1860
大谷コレクション

興味のあるかたは

こちらを

クリックしていただくと、浮世絵に表れた年代順の遊女さんをご覧いただけます
「花魁(おいらん)はおいらの姉さまが語源」なんて書いてあるのは、パクリ本かパクリサイトです(笑)。ほんの少しでも原典やちゃんとした研究書に目を通していれば、絶対にこんな断定はしないと思うなぁ・・・。そしてパクリサイトの特長は、必ず読んでもいない本をいっぱいリスト化して、amazonさんのアフェリエイトやってたりする(笑)。

この説は、wikiや語源辞典にも載っているので、江戸吉原に興味をお持ちの方や、風俗店さんが掲載や引用するのはしょうがないと思うのですが、「吉原を研究」なんて書いてて、この説を断定的に載せてるってのは、「このサイト、あるいは、この本は一般書籍から内容をパクってるんですよ」って宣言しているようなもんなんです(笑)

語源じゃなくて、転訛元としては辞書にも載っていたりするのですが、まぁ国語学者さんは民俗学や史学には素人さんなので仕方ないとしても、この出典は近世風俗志(守貞謾稿)で、原典を読めばそんな断定はされていません。一可能性として示唆されているだけです。ってか、近世風俗志は原典引用の無いものは「聞き書き」だと大前提だと断っている訳で、第廿編娼家下「花魁」の項目は「おいらん」という音であって、「花魁」を「おいらん」と読む証左はなにもありません。と言うか

”正字に非る也”って冒頭に書いてある(笑)

嬉遊笑覧も併せて読むだけでもすぐに判るのですが、あくまでなまった元は「おいら」あるいは「おいらの」であって、「おいらのあねさん」の根拠はハッキリしない。そして姉さん説を載せている近世風俗志に典拠はないんです。

「おいらのあねさん」説は近世風俗志と前述の「嬉遊笑覧1830年/1816年説アリ)にある、

(以下引用)

「讃嘲記」に、「なるほどおいらんなり」などもいへり。

"いつちよく咲たおいらが桜かな”

享保十八年、浅草寺の後藪をひらきて桜樹を多く植、一本毎に願主の札を立つ。其中吉原の遊女多し。此時かしくが発句なり。
(以上引用)

とあり、ここで引用として挙げられた「讃嘲記」は、「吉原讃嘲記(寛文7年・1667)」だと思われるのですが。これは遊女をおいらんと呼んでいるわけではありません。また下の部分、”享保〜”は別の話題なんです。

よく似てはいるのですが

”おいらんがいつちよく咲櫻哉”

という岸田屋何某(岸田屋の誰だか良く判んない花魁w)の禿の句が元だと、「増補俚言集覧(成立年代不詳/19世紀中期)」は挙げていて

”おいらんがいつちよく咲櫻かな”

と、同じく岸田屋の禿の句だと「近世事物考(1848年異説有り)」にあるのですが、それより時代が遡る、山東京伝作の見立て絵本「奇妙図彙(享和3・1803)」には

(以下引用)

をいらん
おいらんの本字はまだつばらならず。
案ずるに、遊びにたらされては
老いたるも心を乱す故に
老乱と書くか。
昔はおいらがといふ。

享保の比の ある禿の句に

”おいらがの
 いっちよく咲く桜かな”

(以上引用)

とあって、同様の句としてはこれが初出で、ご覧のように、漢字はよく判んないって書いてあるんです(笑

原本を確認したい方は

国立国会図書館デジタルライブラリー 文字廼戯画
井上吉次郎,明17.8 和装29丁;16cm

でご覧いただけます。

そもそも、山東京伝ですから、句も含めて話全部が洒落かも知れない。文字廼戯画なんだし。”おいらが’、が、おいらのあねさんなんて何処にも書いてはいない。

ってか、「増補俚言集覧」と「近世事物考」は、「奇妙図彙」からパクッタ(笑)あるいは無断引用した、あるいはどっちかは、どっちかをパクッタと考えるのが自然で、「嬉遊笑覧」の前後がひっくりかえった句の出典はまったく不明です。

ちょっと堅い話を挟むと「嬉遊笑覧」は出典元を上げていても、その出典元に引用の語句が存在しないことが多数あります。もちろん写本等の関係で、作者が引用した本にはその記述があった可能性は否定は出来ませんが、それにしても多すぎる。また個人的な見解と資料の境目が文章的に曖昧で、っていうか、明らかなこじつけっぽい項目も私には感じられます。

では、この句の本元は、どこから呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃ〜んなのかと言えば←コラコラ

洞房語園(1738・元文3年)に

”いつちよくさいたおゐらが桜哉

とあって、これが本元ではないかと考えられます。

これも”おゐらが”であって、”おいらん”じゃない。ってか、山東京伝さんは、これをアレンジしたんじゃないかなぁなどと。

ご存知の方も多いと思うけど、「洞房語園異本」には、東京大学坂田文庫に収蔵されている、通称「京伝本」と呼ばれる物が存在していて、これは名高い高尾太夫と伊達の殿様の話が、いっぱい挿入されているんですよね。京伝さんが、「洞房語園」「洞房語園異本」を隅から隅まで知っていたことは間違いないわけで。

そして、間違いなく「洞房語園」「洞房語園異本」を知っているはずの、「嬉遊笑覧」には出典元が明らかにされていないって、なんかの作為を感じちゃうんですよね。

ちなみに「近世風俗志(守貞謾稿)」の起稿は1837年(天保8年)です。その他、江戸末期にこの説を書いている本は、すべて「奇妙図彙」以降に書かれているんですよね。

また、吉原遊郭で、自分の事を「おいら」と呼ぶことがあることは確認できるのですが、禿や新造が自分の付いている遊女さんを、「おいらの」と呼ぶことが一般的であった傍証は、このパクリ連鎖本(爆)以外に存在していません。

ってか、初期「おいらん」と呼ばれたのは、太夫の位が無くなった後、湯女さん出身が多い散茶から分かれた「呼び出し」です。

じゃぁ「散茶」の語源はって言うと、これは大きく二説あるのですが、どちらも言葉遊びで、片っ方の説は、それまでの位持ちの遊女さんは、気に入らないお客さんだと「振る」ことがあったけど、「振らない=散茶」って洒落って言うか言葉遊びなんですよね。

言葉遊びの「散茶」は定説としてありがたがって、「おいらん」の言葉遊び説は、一切省みないって、「粋」じゃありませんよね、ダンナ。

まだ傍証のある定説はありませんが、宴もたけなわな遊郭で、可愛いい禿が下っ足らずな口調で
「おいらんは」
なんて言っているのを、通な遊びなれたお客さんが
「ほぉ、"おいらん”は末は太夫かいなぁ?」
なんて冷やかしたのに、男芸者さんが混ぜっ返して
「そうでげしょうな。その可愛さなら、男騙すに"尾はいらん”」(笑)
相伴している、老年のお医者さんとかが
「老人も、色香に迷う、老乱や?」
なんて雑俳で受けたなんてのが真相のような気もしています。

花魁(おいらん)という吉原での呼称が文献に登場するようになるのは天明期(1781-89)なのですが、言葉自体は明和期(1764-72)ころからではないかと思われています。

では、そのころ江戸で流行っていた、言葉遊びの大本山、狂歌・前句付けで有名だった点者(批評したり点数つける人)や作者の名前はって言うと、ちょっとひねったところでは

元木網(もとのもくあみ@落栗連)
智慧内子(ちえのないし@ちなみに元木網の奥さま)
丈杖為軽(たけつえのすがる@蘭学者&幕府医官・森島中良)
宿屋飯盛(やどやのめしもり@国学者・石川雅望)
花道つらね(はなみちつらね@五代目市川団十郎)

なんて、とぼけたって言うか、言葉遊びの名前が並んで、大田南畝(蜀山人)、唐衣橘洲、と並んで「狂歌三大家」と呼ばれるのは朱楽 菅江(あっけらかんこう)ってな具合です。それ以外にも
酒上不埒(さけのうえのふらち)
とてつも内子(とてつもないし)
なんて、オヤジギャグもそこのけの、駄洒落オンパレードなんですよね。

でも、この時代きっての戯作者であり画家でもある山東京伝/北尾政寅の狂歌の際に使った名前は、身軽織輔(みがる「で」おりすけ)なのですが、名前の由来を歌に詠んでいて
『身はかろく 持つこそよけれ 軽業の 綱の上なる 人の世わたり』
ってな感じで、軽薄だけに堕さない言葉遊びの世界がありました。

そんな時代を背景にして生まれた来た「おいらん」って言葉を、時代背景を無視して、語源を決め付けてる時点で、粋じゃないなぁなんておもっちゃうんですよね。

ちょっと補足すると、吉原を川柳で語るケースも良く見かけますが、川柳は江戸後期のものなんですよね。

最初の万句合は宝暦7年(1757)で、『誹風柳多留』が刊行されたのは明和2年(1765)ですが、その時点では、「前句付け」であって、前句附の附句のうち「一句にて句意のわかり易きを挙げて」前句を省いて載せたのがこの本なんですよね。川柳と呼ばれるようになったのはずっと後なんです。百歩譲ってその時点から起算しても江戸時代の残りは100年ちょっとなんです。そこから受けるイメージだけで、吉原のすべてを計るのは、ちょっと違ってるんじゃないかなぁなんて。

ちなみに編者の名前は、呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし/かゆう/かあり・作者としては”木綿”)で、言うまでも無く「御了見」にかけているわけです。

ってか、『誹風柳多留」をその経緯さえ知らないで、出版物の解釈をそのままパクッているような人に、吉原・そして江戸時代を語って欲しくないっす(笑)

同じ前句での他の作品との比較、同選の句との対比や関係や、その当時の流行っていた草子本、そして政治や文化が背景にあって、初めて川柳の本当の面白さは生まれるし、江戸文化を知るきっかけになるんです。

少なくても単独での川柳に現れる遊廓は、江戸後期だし、どこまでいっても受け狙いの言葉遊びなんだから、江戸の人達の吉原に対するイメージや捉え方、そして一面を伝えるものではあっても、それだけで吉原の実態だとは考えるべきじゃないんですよね。花魁や遊女さんが作ったと確定できる句がもっともっとあれば別ですが。

では、「おいらん」に「花魁」って文字をあてたのは、何故なのか?

明代に中国で編集された「醒世恒言」って小話集にこんなお話があります。

昔、中国の臨安に貧乏な油売りの秦重さんて人がいましたんですなぁ。
この秦重さん、遊里一の美貌と知性を謳われ、当然ナンバーワンの王美娘さんていう遊女さんを偶然みかけて、惚れちまう。

でもでも、王美娘さんは高値の花。

どうにも会いたい、会って話がしてみたい。まぁ、夜も日も明けないってありさまで・・・。

そこで秦重さんが偉いのは、会うために懸命に働くんでげすな。その辺が、きっと私だったら「夢で会えるだけでも本望だ」なんて、自分を甘やかして、酒飲んで寝ちまう奴とは、人の出来が違う(笑)

働いて働いて、わき目も振らず働いて、出すものは唾もション便もださねぇ。糞は出して下肥屋に売り飛ばす。なんてことはございませんが、とにもかくにも、1年で16両って大金を溜め込んだ。

さぁ、てんで、その金を懐に遊里へ一目散なんですが、いかんせん王美娘さんは売っ子なんで、客に付いている。

しょうがなかんべ、って、大枚払って客にはなるんですが、前の客が悪い客で、王美娘さん、泥酔させられてしまうんですよね。

なんとか、秦重さんの部屋へ王美娘さんは辿り着くんですが、そのまま眠ってしまいます。

翌朝、王美娘さん起きてびっくり、、お客さんの部屋で眠ってしまっていて、お仕事どころか、お話さえしていない。これじゃプロとして失格だ、巨大匿名掲示板の花魁板に「地雷だ」と書かれてしまう。どうしよう?
なんてことはございませんが(笑)そこで、秦重さんは一言

「あんたの寝息を一晩聞けただけで、おらぁ、満足ダベ」

と優しい言葉を残して帰っていくんですなぁ、これが。

そして、その後ちょっくら色々あるんですが、長くなるんで割愛すると、まぁ、最後は一緒になって、夫婦円満、油屋も繁盛すると。

「待て待て、それってパクリじゃなぁのか?」

って、落語がお好きな方からは、そんな声が聞こえてきそうですし、落語にご興味の薄い方も「紺屋高尾」と言えばピンと来るかもしれません。

そう、このお話は、「紺屋高尾」あるいは紺屋が餅屋に代わった、「幾代餅」の原案になったお話で、題名を「売油郎独占花魁」と言うんです。

「えぇ?じゃ”花魁”って中国の言葉なの?」って事ですよね。

これがまた困った事に、「売油郎独占花魁」って題名を見つけただけで鬼の首を取ったように「中国では遊女の事を花魁といい、日本はそれを真似した」なんて書いてある本やサイトもあったりします。

中国語での花魁の発音は「 ファクイ( hua1 kui2) 」(数字は四声記号)であって、「oirann」の音とは関連しないんです。

ところが今度は、「花魁は単なる当て字」って断定が正しいのかと言えばそうではありません。

中国語の「花魁」は、字本来の意味の通り「先駆けて咲く花」という意味で、一般的には梅の花を指すんです。
ご存知のように、日本でも現在に至るまで、美人さんや艶っぽいお仕事をされているおねぇさんを「名花」と讃えますよね。

花の魁=名花の中でも一頭地先を行くもの

で「花魁」という文字が定着したのではないかと思われていて、その字に、中国語でも「名妓」と言った二次的なニュアンスが付加されたようなんです。

じゃぁ、「売油郎独占花魁」の載っている「醒世恒言」なんですが、これは原題ではなく様々な翻訳や翻案本として、日本では定着しました。

これは挙げると切りが無いのですが、着目して頂きたいのは、狂歌・前句付けのところで名前を挙げた国学者石川雅望@宿屋飯盛(やどやのめしもり)さんが逆旅主人の名義で『通俗醒世恒言』(寛政二年1790年)を上梓しています。

正に、花魁と言う文字が現れる天明期(1781-89)と相前後しているんです。

「売油郎独占花魁」については、『通俗赤縄奇縁』(宝暦元年1751)として翻訳されたのが初出ではないかと思われていて、正に、「おいらん」という言葉が広まる明和期(1764-72)直前です。

そして、芝屋司叟によって浄瑠璃に翻案され「油屋与兵衛」として上演されたのが寛政元年(1789)・異説あり)頃、これは後に歌舞伎でも「油商人廓話」として上演されます。

花魁/おいらんが一般化する時期と一致しているんです。

但し、前にあげたように、、「奇妙図彙(享和3・1803)」では、『おいらんの本字はまだつばらならず』とある訳で、「花魁」と言う文字を初期は「おいらん」とは読んではいなかった可能性があるんです。

繰り返しになりますが、『花魁=おいらん』の成立は、吉原での遊び、そして江戸中期の様々な要素が結びついて、成り立ったことが伺えますよね。

決め付けずに、もっともっと、資料を基に考えて頂ければなぁなどと思っています。

では、花魁のイメージなんですが、スゲー一杯櫛や笄を付けて、ガンダムもビックリするぐらい重そうなキンキラキンの衣装を思い浮かべる方が多いかと思いますが、それもちょっと違うんです。

遊女の衣装が、そんな風になるのは、文政(1818-1830)後期ですし、その衣装は道中用って言うかパレード用の盛装なんですよね。明治維新まで約40年です。

文政後期以降と言えば、本来の花魁の格である呼び出しを抱える大見世はもう4軒しか残っていない訳で、混じり見世を併せても12軒です。そして幕末には2軒となるのですが、実は明治に入ると、すぐに17軒にも増えたりします。

ちょっと脱線すると、この時期には、吉原細見もかなりえーかげんと言うか、本音と建前が交錯する状態になっていて、現在ならJAROに怒られそうなぐらいで、資料価値がグンと下がっているのですが、その辺りを勘案しないで考察してしまうと、吉原の本質からドンドン離れていってしまうんですよね。

いつでも授業料や入会金割引してるパソコン教室や英会話スクールの通常料金ってなんだよ、みたいな<=こらこら!

話を戻すと、文化後期から天保期まで、江戸では岡場所が全盛期を迎えます。特に品川はまるで遊郭のようになっちゃうし、深川を中心にした繁華街は、吉原のいいとこは取り、面倒なところは省くって感じで、爆発的な人気を得ます。

じゃ、吉原の独自性はなんなのかと言えば、伝統と公許って事と、「地方から見れば憧れの場所」っていう「観光地」としての独自性なんですよね。

あの大仰なダサい衣装と、ちょっと信じられない大袈裟な道中は、ある意味観光ショーって言うか、他の歓楽街では真似の出来ないイベントであって、江戸に住む常連さん達向けではないんです。

浮世絵に描かれている花魁達も、観光客向けの引き札(宣伝ビラ)的な版画は、キンキラキンなものが多いのですが、肉筆浮世絵は最後期まで、粋で凝った色合いと図柄で描かれています。

一般的なイメージのキンキラキンの衣装はどう見たって粋じゃありませんよね。

天保13年(1842)幕府は公然と営業していた、江戸市中の岡場所を徹底的に取り締まり、遊女を吉原に収容します。

この時に再度位分けが行われ制度も見直され、それ以降の記録で、200年程の吉原を語る愚がまかり通ることになってしまいます。

(この項は書きかけです。随時補足してまいりますね)
ビジュアルで贈る、新吉原!  なんて、大したもんじゃないのですが<=おい!、
私がこのサイトで使っている、あるいは使おうと思っている図をまとめてみますね。もちろん著作権の存在しているものは避けています。
版権/編集権等が残存する出版物からの転載も基本的に避けていますが、どうしてもお見せしたい物は、「引用」として、明示しておりますので、是非原本にあたって見て下さいね。っで、買ってあげて下さい。でも、アマゾンさんのアフェリエイトはやっていないので(笑)、ご随意に。
また白黒の資料は「複写・転載自由自在 江戸時代風俗さしえ集」国書刊行会(ISBN4-336-03344-7)を使用しております。

新吉原図鑑/新吉原細見/新吉原略年表/江戸のつれづれ/
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