1.
NAMが解散してから、なぜ立派な『NAM原理』を持ちながらNAM組織は崩壊したのか、自問自答してきた。late NAMという小見出しに纏めた4つの文書は個人的な総括として書いたものである。最後の「破壊せよ、破壊せよ。━━このけがらわしいものを踏みくだけ!━━」は、NAM資産管理委員会の定款の成立の正統性・内容の妥当性に疑義を呈しながら、「21世紀の社会運動」「希望の原理」を自称したNAMの総括を外に向けて開いていこうとした試みである。
柄谷行人氏以外のNAM資産管理委員会の方々に面会したが、委員会の方々は「個人的な会合」としてその面会を位置づけ、MLないし掲示板などで「公的な」(パブリックな)応答をすることは今(2003年9月23日)にいたるまで無い。私は、定款の無効の確認を求める訴訟を起こしたかったが、方法が分からない、というか、そもそもNAMが民法の定める「法人」にあたるのかどうかも分からないので、次の行動で行き詰まってしまった。
それで私は、粗野な方法に訴えることにした。地域通貨Qを巡る昨年後半の紛争以来封じられてしまったセンター評議会の過去ログ(の一部)を含め、紛争に関連したMLの断片を公開することにしたのである。そのような判断を下した理由は以下である。
2.
私のこのような行動を支えるエネルギーは「悲嘆」である。では何が悲しいのか。
実態をいえばNAMは2年半の間、「柄谷行人」の名の力で集った人たちが四苦八苦して運営してきたのではあったが、最終目標は選挙+籤引きに加えLETS対価支払いを通じて、特定の人物らの過剰な影響力(権力)を脱することにあった。なのに最後の最後に、その理想が無残に崩れてしまった。
見られるように、柄谷行人氏のメールには「柄谷行人の提案」など自分の名が必ず表題に付いていた。それは抜群の著名人である「柄谷行人」氏の「名」の持つ社会的影響力を存分に利用することで、実質的に代表団以上の「権力」を行使することであった。
基本的に無名の普通の人の集りであるセンター評議会がNAMの最高意思決定機関であったはずなのに、そのような建前は「官僚主義」「形式主義」と呼ばれて全面否定されてしまった(抜本的改革委員会の過去ログの一部を参照していただきたい)。抜本的改革委員会は柄谷行人氏、関井光男氏をはじめとする著名人が中心であった。当時の事務局長がどのような発言をしているか、見ていただきたい。
私は、柄谷さんがNAMに戻る気が全く無い、ということにたいそう悲しみ、電話
までしてしまいましたが(笑)尼崎の会合の合意では、(私の読みでは)柄谷さ
んは形の上ではNAM退会をするが、実質的には、改革委員会、(そして、その後
の評議会において外部アドバイザーとして?)に残り、さらに、Lプロジェクト、
研究所、などにおいて、むしろ今まで以上に積極的にNAMにかかわってくれる、
という、一種の離れ業、を成し遂げたと思って、改めて柄谷さんの知恵に恐れ入っ
たのです。(これは本当にお世辞でもなければ、いやみでもありません、本心で
す、誤解し無い様にお願いします)
こんなおべんちゃらを平気で言える連中が評価され、柄谷行人氏に率直に物を言いハッキリと批判した人たちは否定・排除されていった(私の手元には残っていないが、誰某を除名すべきだ、とかいうメールまであった)。当時、その流れを止めることは私を含め誰にもできなかった。そんな不健全なNAMならば無いほうが良いと感じるようになっていたので、NAMを解散するという代表団の決断に正直いって安堵した。
当時柄谷行人氏は何人ものNAM会員に私信を送り、Q-hiveを直ちに辞めよ、さもなくば「絶交」する、NAMに残ることも許さない、と通告していた。「柄谷行人」氏に感情転移している「倒錯者」であることを自認し公言していた私に、尊敬の対象である「柄谷行人」氏から個別に圧力を掛けられたら、
抵抗できないのは自明であった。しかし、そのような感情的なもつれ、個人崇拝をこそNAMの組織原則は廃棄しようとしていたのではなかっただろうか。
私は、抜本的改革委員会を皮肉って「抜本的退職委員会」というジョークを飛ばし、そして後で鎌田哲哉氏などから非難されたように「超規約的措置」を提案してNAM会員であるQ管理運営委員の多くを(或る人の言によれば)沈み行く「泥船」であったQ-hiveから脱出させた。しかし、自分自身はQ-hiveに残って、残務処理をし、可能ならば解散までを担うつもりでいた。しかし、柄谷行人氏個人からの圧力による心理的疲弊に加え、或る晩QユーザーMLで、関井光男氏、山住勝広氏などの学者らがQ-hiveを詐欺で告訴するというメールを立て続けに投稿したことにショックを受け、神経的に堪えきれなくなって、Q-hiveに悲鳴のような辞任届のメールを送った。すると直後にQ幹部・宮地剛、穂積一平が、結局NAMの連中は誰一人責任を取らなかった、と勝ち誇ったように宣言して私をMLから即座に抹殺した。そのときの悔しさは生涯忘れることがないだろう。
最後の最後に、NAMは「柄谷行人」氏の名の臨在の枠内での閉じた社会運動であるという実態が露わになってしまった。柄谷行人氏はNAM代表を務めている間は自分が権力を行使するのを自制していたが、代表を離れてかえってあからさまにNAM組織の病理的な傾向を促進してしまった。
私は、自分がNAMに賭けたものがすべて潰えたと感じ、悲嘆の毎日を送った。大学のアナーキスト組織の腐敗やゲイ団体の官僚性などを経験してきて、NAMが選挙と籤引きで権力集中を排除し、LETS対価支払いで感情転移を解消すると謳っていることに最も共感してNAMに入った者だったからである。LETS-Qについても、正直いって、産業連関内包などどうでも良かった。対価評価及び対価支払いを通じてヴォランティアを揚棄し、精神衛生的にも経済的にも健全な組織にするというところに私の関心は集中していた。ところが最後の最後に、結局、それらは建前でしかないこと、力がある著名人への感情転移は消えないこと、彼・彼女らが社会的影響力を発揮したいと思えば思うがままになること、誰もそれを止められないこと…が明らかになった。
この時点で、NAM及びQとともに私自身も死んでしまったと
感じた。『Qは終わった』のweb掲載は、NAMがその掲げる理想とは懸け離れた実態であることを自ら暴露した出来事にほかならなかったのである。
当時のNAM副代表の一人がいっていたように、
今回、問題となっているHP掲載という手続に関して、
私としては、今のままでは、途方もない混乱と不信を、NAM内外にもたらしかね
ないと懸念しています。
実際、「途方もない混乱と不信」が「NAM内外」、少なくともNAM及びQの周辺にもたらされたのだ。1年が経ったが、私は今もその余波のなかにいる。醒めない悪夢のように、「途方もない混乱と不信」が続いているのだ。
3.
私の自爆攻撃の狙いは、文化・思想や文学の世界であればともかく、「社会運動」の世界で「柄谷行人」氏及びその周囲の柄谷行人氏に「抜本的」にどこまでも付いて行く学者らの名の臨在が影響力を持つことが二度とあり得なくするように、NAM及びQの悲惨な実態を暴露することである。
しかし今回、ログをhtml化する作業を通じて痛感したのは、多くの人らがNAMに注いだ情熱の真正さであり、幾人かの発言の勇気の崇高さだった。私は、これほどに素晴らしい人もいたのだと感動しながらログを読んた。社会的、対外的には無であったかもしれないけれども、ここには本物の賭けがあったのだと実感した。
とはいえそれは終わった。もうこれから先には、何も無い。