過去の日記 | 1 | 2 | 3 | ||||||||||||||||||||||
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5月6日 ニホン NYはたまげてしまった。 あれがホントのビルって言うんだね。 ずっと上向いて歩いてしまった。 グランドゼロも行ったけど 当時の姿を知っている人にとっては ショッキングな場所かもしれない。 周りのビルも修理中のところが多かった。 ドミニカに住んでみて アメリカに対する見方も変わった。 ただ、ミネソタによって 知り合いがベビーシッターをやっている アメリカ人のおたくでお世話になったんだけど やっぱり人はどこでも同じなんだと痛感した。 吉野屋のことは まあ、世界は狭いと言うことで。(詳細はごまめ) 成田に着いたら 知らない日本人いっぱいいるし 街を歩いているだけで変な感じがする。 日本ってミニチュアの国みたいだ。 外人さん見ると落ち着くような所があったけど それでもだいぶ日本になれてきた。 そもそもいい加減な生活してたし。 健康診断で変な虫も出なかったし 無事に帰ってくることができました。 日本についてかれこれ2週間。 住むところも決まってこれからですね。 4月7日 ドミニカ共和国 2年前にこの国にやってきたとき 海岸線を車で走って見た海が、ホントに青かったことを覚えている。 不安と期待と 緊張してがちがちだった。 今ではここに住んでいるのが普通のことになった。 初めの1年はやっぱりきつかったけど あと少しとなった今 明日の朝日 飛行機に乗って日本に帰ることを まだ実感できていない。 日本に帰って 生活を初めても また、この国に帰ってくると思う。 世界中にいろんな国があって いろんな人たちが住んでいて いろんな人生を送っている。 それを感じて、僕らは日々の生活を送ることはできないのかもしれない。 それでも、ときどきでもこの2年間を振り返って 自分を、他人を、 感じることができるのなら ここで2年間暮らしたおかげだと思う。 ドミニカ共和国に感謝。 4月6日 Hidaka 2年間のドミニカ生活で ホントにくつろげる場所だった。 苦しかったときに 心配してくれて、ビールのみに連れて行ってくれた。 多くのことを学んだ。 ドミニカに住むこと。 日本人であること。 どこか遠くの国に住んでいた人たちが 今ここに住んでいる人たちとして考えられる。 移住の問題も早く解決することを祈ってます。 きのう挨拶に言った。 いろいろ言おうと思ってたんだけど 「ありがとう」しか出てこなかった。 たぶん、また会いに来ることがあると思う。 2年間お世話になりました。 3月23日 Cornelio Acosta 彼に関しては書ききれない。 森林学校校長。 とりあえず喧嘩した。 僕にとっては、この人はドミニカ人の象徴的な存在。 43歳だったと思う。 ホントに気さくなおじさん。 奥さんがミレディ。 子供は男3人。 僕の住んでいるアパートの大家さんでもある。 母家の2階に3つ部屋があって、それを貸している。 子供がもう少し大きくなったら 1人住まいをさせるために作ったらしい。 僕のドミニカ生活はこの人に始まりこの人に終わると言った感じかな。 本当に理解できないことが多くて 未だにどうしていいかわかんないこともたくさんあるけど 彼からドミニカ人を学んだと言ってもいい。 職場の森林学校には、毎日来るべき人が6人くらいいるんだけど 唯一この人だけはちゃんと来る。 彼は、森林学校そのものだと思うし すごくがんばってるとも思うんだけど それだけに、がめつくなってしまうのかな。 最後の最後にいろんなことが動き出して やっと彼の想う仕事が始まっているし それに少しでも関われたのはうれしく思う。 あと一年くらい残って いろいろできることは手伝いたいと思うけど もうすぐタイムリミット。 少しでも形になればいいと思う。 3月21日 Ignacio, Miguelina y sus hijos 僕のドミニカでの生活で 彼がいなかったらと思うと つまんないものだったかもしれない。 イグナシオ。 スーパーで働いている。 初めの頃、ホントにやることなくて 良くスーパーで買い物してた。 そのとき、声をかけてくれたのが ここの従業員たち。 その中でいろんなことを一番心配してくれたのが彼。 僕のわかんないスペイン語を理解しようとしてくれるし、 愚痴を言えるドミニカ人は、彼が最初だった。 走るのが速いらしくて 家にはメダルがいっぱいある。 今月の初めも大会に出てた。 今年、26歳かな。 奥さんがミゲリーナ。 男の子が2人と女の子が1人。 一番下の女の子はやっと歯が生えてきた。 三日前に仕事を辞めたらしい。 一番古株だったから、そんな時期かもしれない。 一ヶ月3千ペソで働いていた。 今、ドルにして70ドル。 一度子供が病気になって 薬代が6000ペソ。 ドミニカ人の生活は、今そんな感じになっている。 このままの経済状態が続けば、2年後3年後にはどうなるか分からない。 夜に食事に呼ばれたのでもうすぐ出かけます。 3月15日 越えるべき壁 僕らがこの世の中で生きていくこと。 それは、食べるために働いていかないといけない。 一人では生きていけない。 多くの人々に支えられて生きていく。 僕らが望むこと。 ぎすぎすした人間関係はいやだ。 人は誰でも好かれたいし、好きでいたい。 それでも、不愉快なことはあるし、納得行かないこともたくさんだ。 答えのでない多くのことに 人間関係の歪みもできる。 正しいと思うことのために それでも挑んでみるのか。 それとも、幸せな人間関係のために 自分の思いを殺すのか。 人にはそれぞれ能力の違いもある。 解決できることができない人もいる。 経験の違いもある。 人にはそれぞれの立場がある。 みんな心を持っている。 それでも一生懸命やっている。 ちょっとしたボタンの掛け違いが 最後に大きな歪みを生んでしまう。 その始まりにいる人の大切さを知った。 そして、正しいと思うことのその大きさを知った。 3月9日 ペドロ そのペドロという名のアメリカ人は ハラバコアの町はずれにある竹藪に囲まれた家に住んでいる。 アメリカ人だけど、ペドロ。 英語でなんて言うんだろう。 ペドロは、芸術家である。 この町でピアノと英語を教えて暮らしている。 ドミニカでは珍しくないんだけど 彼が設計した家は、幾分変わっている。 普段住む母家には、ピアノとハープとたくさんの本がおいてある。 ハープは自作である。 また、絵画と置物と家具は自分で作ったものか、友人が作ったものである。 もう一つ、2階建ての怪しい長方形建物があり、 4面に小さな窓が付いている。 おそらくここが仕事場。 そこにはまだ入れてもらったことがない。 1970年代頃にアメリカから出て プエルト・リコを経てドミニカに移り住んだ。 そのころのアメリカが嫌いになって出てきたようだ。 彼は、カリブの楽園ハイチも知っているし、 なぜか日本のことも良く知っている。 始めて、訪ねたときはなぜか焼き海苔を持っていて僕にくれた。 そのペドロに久しぶりに会いに行った。 緑茶を飲みながら 経済とブードゥ教の話になって 相変わらずの芸術家ぶりを発揮していた。 2月29日 旅立ち 2年間の任期を終えて 日系青年ボランティアの方が帰りました。 僕が住んでる町であるハラバコアでも日本語教師をされていた方がいて さすがに感じるものかありました。 協力隊とは違って移住者の社会に入って主に日本語教育などをしている。 確か、中南米にしかいないんじゃなかったかな。 彼女とはほとんど任期が重なって しかも近くに住んでる人だったので付き合いは多かった。 僕は移住者の方々とも接する機会が多く いろいろお世話になってるので もしかしたら、彼女にもいろいろ迷惑かけたかもしれない。 日系人社会というのは 外国の違う文化に身を置く人々の集まりだから 非常に結びつきが強い。 また、このドミニカの社会で力強く生きている方たちなので しっかりしてないとその強さに圧倒されてしまう。 また、ドミニカということもあっていろいろな問題も抱えている。 今の日本で育った僕らにとって それらが、時に苦痛になることだってあるかもしれない。 僕にとって初めはちょっときつかったかな。 そんなとき分かってくれるのは彼女だったし 少しは力になれたと思う。 これから日本に帰って 歯車になりたいらしいけど、 また会いましょう。 2年間、お疲れさまでした。 2月23日 任期 いろいろ事情があって 延長しようか迷っていたんだけど やっぱりきちんと帰ることにしました。 同期の方に相談して 初めに、2年で帰るって決めてやってきたんだから やっぱり2年で帰るべきだって言われた。 僕らは外国人としてこの国の発展に協力できればってやってきた。 そういう人たちの中でこのドミニカに残りこの国で働いている人とも出会う。 それは、ドミニカで生きていくことを選んだ人たちだ。 たった2年で帰るボランティアなんかより この国のことを沢山知っているし 言葉も喋れるし 確かに、ドミニカにとって大きな力なのかもしれない。 でも、僕らは日本人だから 今までも、これからも 日本人として生きていくから 今ここにいる意味ってあるんじゃないかと思う。 僕はこの国に来て何かをしたことよりも 毎日学ぶことばかりだけど 職場の人と喧嘩して 意味がわかんないこともいっぱいあって 言葉も通じなくて でも、少なくてもドミニカとの違いを見せられるし 何かをお互い感じるんだと思う。 4月8日にドミニカを出ます。 そのあと、アメリカで10日間ぐらいすごして 日本に帰る予定です。 2月17日 何をしたいか。 多くの先進国は道義からあるいは戦略的な理由で 国際協力を行っている。 僕の身近にあるものとして、 GTZ(ドイツ)、PEACE CORP(アメリカ)、FAO(国連か・・・) その他にもドミニカでは多くの国々が いろんなかたちで国際協力を行っている。 台湾、イタリア、フランス、スペイン・・・ 知ってる限りでざっとこんなもんか。 そしてそこにいる人たちは 皆それぞれの目的でいろいろなかたちで 価値あることを続けているのだと思う。 初めの頃 僕には目的が分からなかった。 単純に植林という名前のもとのイメージはあった。 でも、目の前にたてるべき目標がなかなか見えなかった。 JICAの体制にも疑問を持った。 例えば、今なんかはその目標について事務所に相談すべき人がいない。 ただ、それはそれでおかしな要求で、 ドミニカ共和国は何がして欲しいか、が、やっぱり一番重要だ。 配属先が何を思って、協力隊を要請したのか。 目的を求めながら僕らはやっていくしかない。 それでも、そのこと自体が開発途上国である理由なのかもしれない。 何が分からないか分からない。 少なくとも、植林とは何かというイメージくらいは明確にすべきだと思う。 最近思うに、やりたいこと、というか、やるべきことが やはり、ここではやりにくい。 やりたくないことをやってるわけではないけど。 僕らがJICAというか国の機関を通して 草の根の活動をやろうとするとき この植林という分野、中南米の国の事情を見たとき やっぱり、一つのことに突き当たるんじゃないだろうか。 僕の2年間の最後に、そこにたどり着ければいいと思う。 あと1年くらい欲しいけどね。 最後に、 Copa Mundial Viva Japon!! 2月7日 調整員と隊員 昨日調整員の方に任地に来てもらった。 調整員というのは協力隊隊員それぞれの 仕事あるいは生活に関わることの事務と また、任地などで問題があったときに手を貸してくれる 仕事をする人。 半分仕事で半分個人的に来ていただいて 食事しながら配属先の校長と話をした。 僕はここに来て多くのことを学んだと思っているけど 人間関係の難しさと大切さをつくづく感じている。 仕事をするっていうのは、多くの人が一つのことを達成するために いろんなことに気を配らないといけない。 そして多くの場合その人とのつながりの中に チャンスがあって喜びがある。 仕事をするってなんだろうって思うことがあるけど 僕にとって今の世界では人との出会いに支えられているなぁと思う。 そんな出会いの一つが調整員でした。 |
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