MICO YAYOI  第1巻(No.3)



−67−

 森田先生は田畑さんのことを目に付けている。いつも予習をしてこないからだ。
「……」
「また予習をやってきていないの、田畑さん」
 森田先生は眼鏡の奧から、鋭い目で田畑さんを上から下まで眺める。
 田畑さんは少し悔しそうに下唇を噛んで項垂れている。
「仕方ない、如月さん訳して」
 また弥生に白羽の矢が立った。
「はい。やはりこの宮にお仕えする女房としてはふさわしい人のようだ」
「よろしい。ついでにこの「さ」の活用は? 如月さん」
「ラ行変格活用体言体」
「よろしい如月さん、それでは次の試験も頑張って一番を取ってね」
「はいっ」
 やっと長い授業が終わった。
 机の中の手紙を鞄の中にしまう。

−68−

「弥生さん、ラブレターなのそれ?」
 クラス一の美少女。高見 香織が目ざとく見つけて聞く。
「ううん。届け物なの」
 弥生。さっさと片づけをして教室を後にした。可愛い女の子はこういうところに本当に目ざといんだから☆

 校門を出て少し行ったところで橘 一郎が待っていた。
「弥生さん、早く行きましょう」
 橘 一郎に急かされるまま学校を後にした。
 数十分歩いたところで。
「ほらほら、そこのバス停です」
 橘 一郎が指さした。

 そこにはすらっとした美しい一人の女子高校生が、バス停で一人で本を読みながらバスを待っていた。

−69−

「あなたが女鹿 ひとみさん?」
 弥生の声で、ふっと視線を上げた。
 少し面長で頬が写真よりも少し痩けていて、まだあどけなさが目元に残っていて黒目がちの瞳に透明な滴がキラリと光っていた。
「あなたは……誰?」
 白いカバーの文庫本をパタリと静かに閉じて弥生の顔を見つめた。
「巫女 弥生。隣町の大尊神社の住職の娘。はじめまして」
 女鹿 ひとみさんは少し不思議そうな顔をしていた。
「私、巫女さんに呼び止められるようなこと何かありますか?」
 ちょっと冷たい口調で切り返す。
「すみません。お尋ねしますが、何か最近、変わったことはないですか? 誰か周りの人が消えたとか、物が無くなったとか」
「あ……っ。ひょっとしたら何か知ってるんですか」

−70−

 女鹿 ひとみさんは、何か心当たりがあるように驚いた顔をして瞳を大きく瞬かせた。

「実は私、ある人と最近お知り合いになったんです」
 弥生から切り出す。女鹿 ひとみさんは少し訝しそうな顔をしながら、目を大きく興味ありげに輝かせた。
「一体、誰かしら……」
 大きな目をくりくりっと動かしながら尋ねる口調はどことなく大人びていて、落ち着いた雰囲気が周りの人の心を和ませる。
「えっと……ちょっと言い出しにくいんですけど。橘 一郎くんって御存知ですか」
「橘…一郎君?あっ……クラブの先輩に確かいたと思います。優しい先輩でした」
「その橘 一郎くんが一週間ほど前に交通事故で亡くなったんです」
「まあ……」
 女鹿 ひとみさんは手で顔を覆った。

−71−

「やさしい先輩でした……それが、こんな事になるなんて」
 彼女は可憐な顔を両手に埋めて泣いた。

 一呼吸おいてから切り出す。
「あなたは死後の世界があることを信じますか?」
 ここは橘 一郎君のためにも伝えてあげなくては。
「えっ?」
 女鹿 ひとみさんは顔を静かに上げ、泣きはらした赤い目で弥生を見た。
「実は私は霊能力があって霊が見えるし話しも出来るんです」
「霊とですか?」
「信じるも信じないも勝手ですが、これからの事件解決にどうしてもあなたの力がいるんです」
「私の力が?」

−72−

 女鹿 ひとみさんは少し困ったような目をした。
「それで……橘 一郎さんはまだこの世に存在するんですか」
「存在します。信じるも信じないも自由ですが」
「それなら、今。橘さんに会わせてください」
 ひとみさんの目は真剣だった。
「橘 一郎君はここにいます」
 弥生はバス停の横を指さした。
「さあ一郎君、なにかしゃべって」
 女鹿 ひとみさんの目は大きく見開かれた。
「ひとみさん僕はあなたのことがずっと好きでした」
「わっ……」
 驚いた様子のひとみさんに橘 一郎は畳みかけるように言う。
「そして僕、目撃したんです。あなたが付き合っている人が白いワゴン車で連れ去られるのを」

−73−

「透明人間だと思えばいいわけね」
 しばらく間を置いてから、ひとみさんは驚きを必死で隠すようにそう言った。
「きっと真田先生のことを言ってるんだわ」
「その先生の話を聞いてもいいですか」
「いいわ。私の家庭教師をして下さっていて、大学の研究助手をしているの」
「何か連れ去られるような心当たりはありませんか?」
「そういえば一番最後に会った時に、重大な研究テーマが解明されたとかなんとか言ってたような気がします」
「その研究テーマに関係があるのかな」
「さあ……」
「家庭教師をされていただけの関係なので、それ以上は分かりません。お付き合いするようになったのはごく最近のことです」
「連れ去られたのはご存じでした?」
 女鹿 ひとみさんは困ったように目を伏せた。

−74−


「ここしばらく電話がつながらないんです」
「やっぱり」

 事件の始まりだ。

9  $  真田先生はどこに?  $


−75−

 今日は土曜日の放課後。
 女鹿 ひとみさんと真田先生が勤めていた大学の研究室を訪れる事にした。
「真田先生? ここのところ見かけないわねえ」
 事務のおばさんが不審そうに弥生達を見る。
「部屋の鍵を渡しましょうか」
「お願いします」
 鍵を借りて真田先生の研究室に向かうと、鍵は既に開かれていて論文が床に散乱していた。
「遅かったか……」
 慌てて机の上を調べると大きく「X」と書かれたファイルがあった。
[X]

「何かな、このファイル」
 手に持つとずしりと重かった。

-76-

 中から色んな科学雑誌の切り抜きと一緒に分厚い論文が出てきた。
「人間の染色体地図に関する文献……」
「真田先生が言っていた実験です」
 女鹿 ひとみさんが大きく目を見開いて、信じられないといった顔をする。
「現在、人間の染色体の構造はよく知られていなくて、せいぜい大腸菌の染色体地図が明らかにされているだけなんです」
「それを真田先生が明らかにしたっていうわけか」
「世界中、解明しようと必死ですから……大変。この論文途中から紛失してるわ」
「えっ」
 慌てて論文を読むと途中の大事な人間の染色体の構造式の記載がすっぽり抜けている。
「やはり盗まれている」
「事務のおばさんに聞こう。先客がいないか」
 事務のおばさんの話では真田先生を訪れた人はここ数週間いないとのことだ。

−77−

「無理矢理、鍵をこじ開けた形跡がある」
「ますます怪しいな」
「一体、誰がこんなひどいことを」
 女鹿 ひとみさんの顔は青ざめ、大きな黒い瞳にさあっと影が差した。
「こんどは私が狙われるかもしれない……私真田先生から大事な預かり物をしているの」
「どんな物を?」
「小さな瓶に入った鍵なの。きっとここの机の一番下の引き出しの鍵だと思う」
「ここの鍵は開けられていないが、開けようとした形跡がある」
「しかし誰がその重要研究テーマ目当てで真田先生を連れ去ったんだろう」
「まかしときなさい」
 ここから弥生の出番だ。

「透のお見舞いに行こう。きっといい考えが浮かぶに決まってる」

−78−

 事件に行き詰まった弥生が行くところは決まって透の部屋だ。
 透は物知りだからきっといい案をくれる。
「透、どう思う。この事件」

 ベットの上の透は一段と顔が痩けていたがその知的な瞳はキラキラと眩しく輝いていた。
「そうだな、人間の染色体地図となると大分絞り込めるぞ」
 透は「遺伝子操作と医療」という一冊の本を差し出した。
「人間の染色体地図が解明されることによって様々な遺伝的欠陥、及び遺伝病が治療出来る……とある。もしも本当に真田先生が解明したとなるとすごいことになるぞ」
「欲しい人は山ほどいる……」
「その通り」
「なんだ全然、解決にならないじゃない」
「まずはその研究テーマを競って研究していたグループから割り出してみたら」

−79−

 その帰り道、遅くなったので女鹿 ひとみさんを家まで送る事になった。
「大丈夫でしょうか、真田先生」
「どうだろうね」
「もし……殺されてなんかいたら、私……」
 女鹿 ひとみさんがボロボロと涙を流す。
「大丈夫です、ひとみさん、僕がついていますから」
 橘 一郎が懸命に励ます。

 その時───
 さあっとライトが暗がりの中点り、女鹿 ひとみさんを照らし出した。
「いたぞいたぞ」
 白いワゴン車から、黒いスーツを着たサングラスの男が数人出て来て、ひとみさんを取り囲んだ。
「鍵を持っているのは分かっているんだ。さっさと出してもらおうか」

−80−

 一人の男が女鹿 ひとみさんの手首を掴んで車の中に連れ去ろうとする。
「何をするんです」
 弥生迷わず、空手の技でひとみさんの手首を掴んでいた手に空手チョップを食らわす。
「痛い、痛い……」
「今日はマズイ、このままずらかろうぜ」
「そうはさせるか」
 弥生、この白いワゴンを付けていくことにした。

 近くに止めてあったバイクにエンジンをかけて飛び乗った。
「行くぞ、橘 一郎」
「待って、弥生さん。私も行きます」
 女鹿 ひとみさんがバイクの後ろにまたがって。さあ、追跡開始!!

 白いワゴン車は凄い勢いで国道を走り抜ける。でも、逃がすものか。

−81−

 車は鬱蒼とした森の中に突入し、急に視界が悪くなった。
 森の中は木々が大空に向かって屹立していてその下の僅かな光りに照らされた灰色のアスファルトの舗装道路を犯人の乗った車が通って行く。

 暫く走った所で目の前の視界がさあっと開けた。目の前には大きな蒼い湖畔が広がっていた。湖畔の向こう側にはU製薬の看板と白い大きな建物がずしりと構えていた。
「やっぱり製薬会社が関係してる」
「ここに真田先生が監禁されて居るんでしょうか」
「それは分からないけど、追跡続行」
 バイクを湖畔の脇に置きワゴン車が入って行ってまだ開け放たれたままの門から製薬会社の敷地内へと入って行った。
 窓が一つ開けっ放しになっていた。

−82−

「ここから中に入ろう」
 弥生に続いてみんなが中に入った。
「何か声が聞こえる」
 声の聞こえる黄色いドアの前に伏せた。

「どこに隠してあるんだ。吐け、吐くんだ」
「どうしても……だめだ」
弱々しい声が聞こえた。
「真田先生の声……」
「しっ。黙って」
「エドマンズ法を応用したというところまでは分かっているんだ」
「……」
「吐け、吐け!!」
「こら、そこまでだ」
 弥生がドアを蹴飛ばして部屋の中に入る。
 一瞬、沈黙が周りを支配した。
「君は誰だ?!」
 白衣の連中が急に慌てふためいて動き出した。

−83−

「慌てても無駄、もう警察に通報してるんだから。誘拐犯で逮捕するぞ!!」
 出まかせで言っちゃった。
 周りは氷のように凍り付いたような表情になった。
「誘拐の目的は何だ? 真田先生の発見した遺伝子地図か」
「何故、それを……」
「すべてお見通しだ」
「そこまで知られていたらしょうがない。我々の負けだ。君の言ったとおり真田先生の研究テーマ、人の遺伝子地図の解明が誘拐の動機だ。遺伝子地図の解明は当社が率先して行ってきていたテーマであり、もしそれが他のグループに先を越されるようなことがあると我々のU製薬での立場が危うくなると思い犯行を実行した」
 白衣の富田博士が重い口を開け犯行の供述を始めた。

−84−

「会社はシビアで一日の差が問われる研究所の特許部門では、研究の僅かな遅れは命取りになります。真田先生のような大学の研究室が羨ましい……」
「だからってなにも誘拐しなくたって」
 女鹿 ひとみさんの甲高い声が広い部屋中に響きわたりしんと静かになった。
「分かっています。何も言うことがありません」
 富田博士は首を項垂れた。
「すべてお金の世界です。今まで莫大なお金を投資してきたこの分野での遅れは、我々にとって本当に痛かった」
 皆、終始無言だった───。

 だけど、これで事件がほぼ解決した。


10  ◆  魂〜成仏の瞬間  ◆


−85−

「一郎君、何か心残りない?」
「ないです……ひとみさんのお役に立てて満足です。悔いはありません」
 橘 一郎は微笑むと、
「それでは、みなさんお元気で。僕の分も長生きしてください。そして、ひとみさん、僕のことをいつも心のどこかに覚えていて下さい。あなたのことを心の底から好きな馬鹿なやつが居たっていうことを……」
「橘先輩、本当にありがとうございます。ひとみ、目に見えない物も信じられるようになって……人間として本当に成長できたと思うんです。橘先輩が側にいなくなると寂しくなるけど頑張って生きていきます」
 ひとみさんの円らな瞳には大粒の涙が眩しいほどに光って虹色に反射していた。
「もう現世に何の未練もありません」

−86−

 橘 一郎が弥生の方を真っ直ぐ見て、きっぱりとした口調でそう告げた。
 弥生も黙って頷く。
「掲帝掲帝波羅掲帝波羅僧掲帝菩提娑婆訶」
 弥生の成仏を願う読経の声を合図に、橘 一郎君は神々しく光り輝いていく。
 現世に未練が無くなって総てを悟ったようにしてこの世を去って逝く時の死者の心は、なんて美しいんだろうと弥生はいつも思う。
 残された僅か49日の間に総ての欲を断ち切って成仏しなければならない試練は、特に若くして逝った人にとっては相当苦難の筈だ。
 その試練を乗り越えて、且つ事件解決へと現世の人の手助けをして成仏する一郎君の心の清々しいこと。
 さようなら、一郎君。事件解決の手助けをしてくれてどうもありがとう。
 そしてやっと悟ってくれたね。このまま惜しまれて逝く事が一番の幸せだって。
 弥生、この瞬間が。

−87−

 巫女さんをしてて一番幸せなんだ。
 本当に後は安らかに永眠して下さい───。
 橘 一郎君の体は光り輝きながら頭上高く舞い上がり仕舞いに見えなくなった。
 ひとみさんは今日の出来事は忘れないというようにいつまでもいつまでも空を見上げて一郎君の最期を見守っていた。
「これからは、ずっと橘先輩が天国から私を見守ってくれていると考えることにしたの」
 ひとみさんは決心したようにそう弥生に告げた。
 弥生も力強く頷き返した。
 この世で一番綺麗な心は、人のために自分を犠牲に出来る純な心と、煩悩のない悟りの境地を開いた人の心だ。
 弥生、この数週間の彼の変容ぶりを想い、自然と涙が溢れ出た。
 人間って儚く脆いけれどその心は何物にも代え難い程、清く美しい。
 それを思い知らされた今日一日だった。


11  ☆ 神様!  透を救って!! ☆

−88−

 それから数日も経たないうちに透の容態が急に悪変した。

「透くんの容態がおかしい!」
 神社に暗い警告が鳴り響くと同時に、弥生の足はもう病院へと一目散に駆け出していた。
「今夜当たり本当に危ないかもしれない」
 主治医の清野先生が深刻そうに眉間に皺を寄せながら弥生にそう告げる。

「透……死んじゃやだ……」
 弥生の悲痛な声が、病院中に響き渡る。
 白い手術台の上に横たわった透は瞬き一つしない。

「やっと事件が解決したのに……これから透といっぱい……いっぱい話したいことがあるのに」

−89−

 手術室へと向かう途中、弥生はずっと透の側に付いて泣きながら走った。
「透……」
 弥生が一番好きな人が、遠くに行こうとしている。

「これで何度目の手術かな」
 透が眠そうに弥生の目を見て訊ねた時の記憶が弥生の脳裏に鮮やかに蘇る。
「麻酔が効いてきたみたいだね……すぐ済むよ」
 透は、まどろっこしそうに一つ二つと指を折って数えていた。
「4回目かな……縁起が悪いね。オレ、死ぬかもな」
「バーカ」
 少し弱気になった透を勇気づけるように、いつも冷たくこう言ってやる。
「透、アメリカじゃあ。4なんて数字、全然縁起悪くないんだよ。逆に13もさ、少し前

−90−

だったら日本ではみんな何とも思ってなかったってさ」
「ふふっ……」
 透はこんな時、いつも唇の端を少し反らして微笑む。
 そしてゆっくりと目を閉じる。その寝顔には不安も迷いも一つもないような、幼子が床に就いた時のような安らかな表情が漂っていて。
 弥生はいつも安心して、手術室の透を見送る。

 透が死ぬものか……弥生がこんなに透のことが好きなんだもの。
 あんなに綺麗な透が死ぬものか。

 でも……いつも手術中の真っ赤なランプが灯ると、弥生。目を開けていられなくなって。
 病院の廊下でいつも一人すすり泣くんだ。
 淋しいよ……透。

−91−

 弥生を一人にしないで。
 もう弥生にこんな辛い想いをさせないでって……。

「それじゃあ、弥生ちゃん。控え室で大人しく待ってて。透君は重体だけどいつも通り、手術を行います」
 透の担当の清野先生が、白いマスクを片方外して落ち着いた低い声で弥生に語りかける。
 清野先生と弥生とはすっかり顔なじみで、弥生がお見舞いに行く度に、びっしり几帳面に細かい繊細な字で書き込まれたカルテを読み上げて、透の状態を克明に弥生に教えてくれた。
 病気が回復して元気な時の透も、あの澄んだ薄茶色の瞳が優しく笑った時に、どれだけ弥生が喜ぶか。総て先生の頭の中のカルテに記されている。
「先生に……すべてお任せします」
 弥生。清野先生に深々と頭を下げる。

−92−

 今、私に出来ることは清野先生を本当に信頼してすべてを任せること。

 弥生。今度ばかりは清野先生の胸の中で本当に泣いてしまった。
「お願い……本当に弥生の一生のお願い。透を救って……」
 清野先生の白衣の匂いは、少し消毒用のメチルアルコールの匂いがした。
 もう涙が止まらなかった。

「弥生ちゃん。心配することはないよ。手術が成功するかどうかはすべて神の思し召し。だけど、一つだけ約束してくれるかな」
 清野先生はそっと両手で弥生の肩を持って弥生の顔を白いマスクの上から真剣に見つめた。
「それは、何ですか……」
「すべてを受け入れること。ありのままに」
「すべてを……受け入れる?」

−93−

「私の方としても最善を尽くすことしか出来ないんです。透君の命を救ってあげたいのは弥生ちゃんだけじゃなくてみんなそうなんです」
 清野先生の目は少し哀しそうだった。
「分かりました清野先生。すべてを先生にお任せして……そして」
 弥生。病院のリノリウムの床にしゃがみ込んで声の限りに泣いた。
 もう人の目なんかどうでもよかった。
 車椅子のお年寄りと、付き添いの看護婦が弥生の横を気を遣いながら通り過ぎて行くのが涙越しにぼんやりと霞んで見えた。
 弥生を少し離れて見ていた透のお父さんとお母さんが慌てて駆け寄ってきて泣き叫ぶ弥生を抱き寄せた。
「弥生ちゃん、透は大丈夫。もう手術に慣れているんだから……座って待って……お願い」
 透のおばさんの節子さんが、本当に自分も哀しいのにそんな素振りなど一つも見せず、
 

−94−

悲願するように弥生の目を見つめ、そっと肩を優しく叩いた。

「先生……お願いします。透を助けて下さい」
 弥生の心からの涙声は清野先生に通じたようだ。

 清野先生は薄いナイロン製の手術用の手袋をしっかりとはめて、白い帽子をすっぽりと被った。
 外科専門の先生が数人、清野先生の側に小走りで駆け寄ってきて先生を促した。
 清野先生は軽く頷いて、透が横たわる手術室へと神妙な面もちで向かって行く。
 弥生にはその無機質な足音がやけに大きく耳に響いた。

「透……死んじゃやだよ……」
 弥生は透のお母さんに勧められるまま、階段を降りて待合室の横の自動販売機前のモス

-95-

グリーンのソファーに腰を下ろした。
 もう透の手紙が始まっている頃だろう。
 弥生の脳裏に「手術中」の赤いランプが灯るのがぼんやりと霞んで見えた。
「神様……一生のお願いです。弥生の命なんかもうどうなってもいい……どうか透の命を助けて下さい」

 廊下はひっそりと静まり返って、遠くの方でコツコツという看護婦さんの足跡だけが淋しく聞こえる。
 弥生をこんな気持にさせたのは、今までの弥生のそんなに長く生きてない一生の中でも透だけだよ……。
 もう……切なくてたまらないよ。
 胸が苦しくて苦しくて、張り裂けそうだよ。

 もう……弥生の命なんかどうでもいいよ。
 今すぐ死んでも構わないよ。
 弥生……透がいないとダメなんだよ……。

−96−

 何でこんな時になって分かるんだろう。

 あまりにも悲しすぎて項垂れている弥生を見かねて、透のお母さんが、自動販売機で買った白い紙コップのオレンジジュースを持ってきてくれた。
「大丈夫? 弥生ちゃん」
 弥生。じわじわと涙が溢れ出してくるのが自分でも分かった。

 手術中の赤いランプが消え、緑のランプに変わり、しばらく間を置いてから清野先生が出てきた。
「弥生ちゃん、手術終わったよ」
「どうだったんです先生!透の容態は!!」
 清野先生はゆっくりと白いマスクを外して弥生に落ち着いた静かな口調で告げた。
「透君は快方に向かっています。手術は成功しました。安心して下さい。弥生ちゃん」
「清野先生!!」

−97−

 思わず強い弥生が、清野先生の胸の中で泣き崩れる。
 弥生が……強かった弥生が、透のことになるとこんなに弱くなるんだ。
 本当に……こんなに弱い。

「弥生ちゃん、透に会ってもいいよ」
 清野先生の優しい声で、はっきりと目を開ける。
 手術室のドアは開いていた。
「やいちゃん……」
 透が少し目を開いて、こっちを見てくれた。
 いつもの「やい」の「い」を少し高く上げる独特のイントネーションで。
 弥生の一番好きな呼ばれかた。
「透……」
 もう二人の間に言葉は要らないね……。

 弥生、この2ヶ月の間ほどに「命」の大切さについて。
 考えさせられたことはなかった。

−98−

 弥生、この世界中で一番透が好きなんだよ。
 透と一緒にこの小さな世界で息をして生きている───それだけで十分なんだ。

 あなたが生きている今日はどんなに素晴らしいだろう───。
 古いロックの歌詞が突然思い出されて口ずさむ。

 透の命は綺麗だね───キラキラしてるよ。
 窓の外は綺麗な朝焼けがどこまでもどこまでも果てしなく続いていた。



─── 終わり ───


第2巻 No.4に続く!



咲夜さん作






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