眠さを必死にこらえている悠人の肩を抱きかかえ、ようやく事務所に着いた。
 荷物を玄関脇に置くと、優作はソファーの上に散乱している酒ビンなどのゴミを片付けて、悠人を座らせた。
「どうする? シャワーでも浴びとくか? それとも、このまま寝る?」
 意識を失いそうな頭でも悠人は、そういえば今日は一日中歩きづめで汗かいたんだんだよなぁ、などと、ぼんやり考えていた。
 そう思うと、服からほんのりと酸っぱい匂いがしそうな気がして、ちょっぴりイヤな気分になった。
「……シャワー貸してください」
 悠人は重い口を開いて、ようやくそれだけ言った。
「わかった。待ってろ」
 優作はそう返事をすると、すぐさまシャワールームへ急いだ。
 シャワールームといっても、トイレと共用の小さな風呂のついたユニットバスで、普段の手入れが悪いのでお世辞にもあまりきれいとは言い難い。
 優作は風呂の中をシャワーのお湯でざっと流すと、シャワーのお湯を出しっぱなしにしたまま悠人を呼んだ。
「お待たせ。悪いが、オレも次に浴びたいから、終わってもお湯を出しっぱなしにしといてくれ。一度止めると、なかなか火がつかないんだ」
 そう言って肩をすくめて苦笑いを浮かべる優作に、悠人もつられて笑みをこぼす。
 何だか、この人といると調子狂わされちゃうな。
 心の中で悠人はそう呟いた。
 父親が死んでから、いや、父と母が離婚してからというもの、悠人は心安らぐ気持ちになれたことはあまりない。
 悠人の心に平穏が戻ったのは、離婚調停が成立して父親が悠人を引き取ってからのこと。それでもしばらくは、悪夢にうなされることもしばしばだった。悠人の父が、大きな父性愛で悠人を守ってくれたからこそ、悠人は平穏になれたのに……
 悠人はシャワーを浴びながらふと、これまでのことを思い出していた。
 脳裏に浮かんでは消える、あのおぞましい日々。
 不意に悠人の大きな目からあふれ出す涙は、シャワーとともに流れバスタブの中へと消えていき、泣き声にならない嗚咽はシャワーの音にかき消されていた。
 悠人がシャワーを浴びながら物思いに耽っていることなど露知らず、優作は悠人がシャワーを浴びているうちにベッドルームの片づけをしていた。
 ベッドルームと言えば聞こえはいいが、四畳半ほどの部屋にベッドと小さなタンスが置いてあるだけの部屋で、しかもベッドの上にはこれまた酒ビンやら脱ぎっぱなしの服やら雑誌やらが無造作に積み上げられている。寝る部屋と言うよりは、物置部屋となり果てていたため、優作もここ何年かは片付けるのも面倒になり、普段はソファーでごろ寝をしていた。
 だからといって、悠人をソファーに寝かせるわけにはいかないので、大急ぎでベッドの上だけでも寝られるようにしているわけだ。
 ベッドの上のゴミをゴミ袋に放り込み、汚れきっていたシーツを、未開封のまま放置してあった引き出物のベッドカバーに替えた。可愛い花柄のシーツは、とてもこの部屋には似合いそうもないが、この際四の五の言っていられない。
 ベッドメイクが終了したと同時に、悠人がユニットバスから出てきた。
「はあ、さっぱりした。ありがとうございました」
 悠人はタオルで顔をごしごしこすりながら、優作に礼を述べた。
 汗を流したことで、少し眠気が冴えてきたのか、しゃべり方もずいぶんはっきりしていた。
 顔を拭いていたタオルで、再度濡れた髪の毛を拭く悠人の仕草に、優作は少なからずどきっとした。
 湯上がりのせいか少々上気している赤い頬。額と項に艶っぽくかかる濡れた髪。タンクトップと短パンからすらりとのびている細くしなやかな四肢。ひとつひとつの仕草が、下手な女性より格段に色っぽかった。
 不覚にも男相手に欲情めいた感情を覚えた優作だったが、自制心をもって何とか抑えることができた。
 だが、欲情を抑えたのも、心臓の高鳴りを覚えたのも、風呂上がりの悠人の仕草だけが原因ではない。
 悠人の顔をよく見ると、目の廻りが腫れていた。目の中も赤く充血していたが、悠人は何とかそれを隠そうと、何度もタオルで顔を拭いていた。
 シャワーを浴びながら悠人が泣いていたのは、明らかである。
 だが、今理由を聞いてはいけない。一所懸命に笑顔を作ろうとしている悠人の努力に水を差すような真似は、今はしたくなかった。
 優作はただにっこりと愛想笑いを浮かべると、黙って冷蔵庫を開けた。
 しかし、冷蔵庫の中には、酒と栄養剤しか入っていなかった。
「ありゃ、冷たいモンって酒しかないのか? ……あ、ミネラルウォーターがあったわ。これでもいいか? 他に飲みたいものがあったら買ってくるけど」
「いいですよ、水で」
 悠人がそう返事をすると、優作は2リットルサイズのペットボトルを冷蔵庫から取り出し、悠人に向かって軽く放り投げた。投げ渡されると思っていなかった悠人は、あわてて腕を伸ばして、何とかペットボトルを捕まえる事ができた。
 その後優作がコップをよこさないところを見ると、どうもそのまま飲めということらしい。
 もっとも、優作も意地悪でやっているのではなく、単にそこまで気が利かないというだけのことだというのは、何となくわかる。
 なぜなら、投げ渡した当人は、ビール瓶の栓を素手で開けて、そのままラッパ飲みしているのだ。
 風呂上がりの悠人の身体は、水分を欲しがっていたので、悠人もつられるようにペットボトルの栓を開け、がぶがぶと水を飲んだ。
 優作は青島ビールを飲み干すと、Yシャツを脱ぎながらユニットバスの方に足を向けた。
「じゃあ、オレもシャワー浴びちまうから。奥に寝るトコ作っといたから、眠くなったら待たずに寝てていいぞ」
 バスルームの扉が閉じられ、悠人は事務所のなかで一人ポツンと佇んでいた。
 連れてこられた時は眠気が勝って、ここがどこかなどということはどうでもよかったが、目が冴えてきた今は少し気になる。
 どうやら事務所兼自宅といった感じの部屋だが、雑然としている事務所の状態から、何の仕事をしているかということは、悠人にはぱっと見、見当も付かなかった。

 



探偵物語

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