ソファーに腰を下ろし、散らかり放題のテーブルの上を見ていたら、ふと悠人の目に止まるものがあった。
 名刺だ。
 白地に明朝体で書かれた今日日珍しいシンプルな名刺には、『工藤優作探偵事務所』と書かれていた。
 悠人の心臓がどきりと大きく脈打った。
「探偵……?」
 顔面を蒼白にしてバスルームのほうに振り返るが、シャワーの音と気分良さそうな鼻歌が聞こえてくるだけで、優作の姿はまだ見えない。
「まさか……でも、そんなこと……」
 悠人はちょっとしたパニックにおそわれて、もはや何を口走っているのかもわからない。
 ワケあって家出して数ヶ月。
 迫り来る影に怯えながら、逃げるようにこの街にやってきた。
 夜の山下公園でチンピラたちから救ってくれた男に、もしかしたらこの人が助けてくれるかもしれないという淡い期待を抱いていたが、まさかその人が探偵だなどとは思わなかった。
 叔父が優作に仕事を依頼した可能性はある。でも、体面を気にする叔父が、こんな小さな探偵事務所に依頼を持ち込むとは思えない。
 真偽のほどを知りたくても、自分から切り出すことができない。
 自分から家出していると言いたくない。言ったらきっと、理由を聞かれる。
 それだけは、絶対誰にも言えない。
 ふと、無造作に置かれた茶封筒が目に止まった。
 山下公園で出会った時から、優作が大事そうに抱えていたものだ。
 仕事上の大事な書類かもしれないが、悠人はどうしても気になって、つい手を伸ばした。
 恐る恐る茶封筒を開けて中を見たとき、悠人は愕然とした。
 茶封筒の中には、黄悠人に関する資料と、最近の写真が数枚。しかも、悠人自身は、ここ数年ほど写真を撮ってもらったことは一度もないはずなのに。
 まさかが的中してしまった。
 悠人が床を蹴るように立ち上がったそのとき、バスルームの扉がガチャリと開いて、上半身裸の優作が幸せそうな顔をして出てきた。
「おう。まだ寝ていなかったのか。疲れてんだろ?」
 無造作に髪をくしゃくしゃと拭きながら、優作は満面の笑みを浮かべて悠人のいるソファーのほうに近づいた。
 服を着ているとわからないが、結構筋肉がついていて、がっしりとした体格だった。背も高い分、裸になるとかなり迫力が増す。
 悠人は思わず、手近にあったビール瓶を優作に向かって投げつけた。
 ビール瓶は優作の足下で小気味の良い音を立てて、粉々に砕け散った。
 突然の出来事に、優作はかなり戸惑って、足下の破片と悠人を交互に見比べた。
「あ、あのな。映画でよくビンで殴るシーンあるけど、あーゆー時のビンはアメ細工でできていて……」
 悠人の鬼気迫る表情に、優作は戸惑いを隠せず、思わずどうでもいいことを口走る。
 だが、当の悠人は、優作の話などこれっぽっちも聞いちゃいない。
 再び足下に転がるビール瓶を手に取ると、青眼に構えて優作を牽制した。
「近づくな!」
 そっと悠人に近づこうとする優作に、悠人はビンを振り上げて脅した。
 優作は仕方なくその場で足を止めたが、悠人の動きへの警戒は怠らない。
 ビンを振り上げて牽制はしているものの、悠人の腰はかなり引けていた。付け入る隙があるとすればそこなのだが、怒り狂っている相手には、まずこちらが落ち着いて対処するのが先決である。
「ま、まあ、落ち着けよ。一体何があったって……」
「とぼけるな!」
 優作の言葉が終わらないうちに、悠人は大声で一喝した。
 そしてテーブルに置いてあった茶封筒を手に取り、中身をすべてぶちまけた。
 悠人の写っている写真が、部屋一面に舞い上がる。
 優作は驚愕の表情を浮かべながらも、内心しまったと舌打ちしていた。
 疲れていたのは、悠人だけではない。午前中は猫探しで石川駅周辺を歩き回り、夜は黄仲正と一緒にへべれけになるまで飲んでいたし、その後も浴びるほど酒を飲んだ。
 疲れと酒が、優作の注意力を緩慢にし、よりにもよって悠人に見られたらまずいものをその辺に置きっぱなしにしてしまったのだ。
 優作の不覚である。
「叔父さんに頼まれて、オレに近づいたのか? すべて、最初からあんたの仕組んだことだったんだな?」
 悠人は怒り余って、息も絶え絶えに吐き捨てるように言った。
 優作は何とかこの場の雰囲気を和ませるべく、精一杯の笑顔を浮かべるが、どうしても顔がひきつってしまう。
「ま、まさかぁ。偶然に決まってんだろ、偶然に」
 本当に偶然が重なって、こうしてターゲットである悠人を事務所に連れ込むことができたのだが、正直優作はこれからどうするかを決めかねていた。
 だが、そんな優作の心の内など、悠人の知ったことではない。
 持っていた酒ビンを更に振り上げ、優作に一歩詰め寄った。
「オレは……オレは、絶対叔父さんのところになんか行かないからなっ」
「悠人っ」
 悠人は自分の言葉が言い終わらないうちに、手にしていた酒ビンを優作めがけて投げつけた。
 優作もこの瞬間を狙っていた。悠人が酒ビンを投げると同時に、飛んでくる酒ビンをすんでのところでかわし、大きく歩幅を取って悠人の懐に飛び込んだ。
 振り下ろされたか細い悠人の腕を掴んだそのとき、悠人の投げた酒ビンが天井の照明器具にぶつかった。蛍光灯がパンと破裂する音についで、酒ビンの割れる音が真っ暗になった部屋に響く。
「危ねぇ!」
 細かく散らばる蛍光灯管の破片は細かく、かなり飛び散る。
 優作は、悠人の身体を押し倒すように、彼の身体をベッドのある部屋へと押し込んだ。
 偶然とはいえ、優作が悠人を押し倒したような形になり、悠人の心は更なる恐怖に溢れた。
 勿論、優作自身は悠人を蛍光灯の破片から守ろうとしただけなのだが、真っ暗になった部屋で大きな男にこうして組み敷かれると、悠人の体中をおぞましい記憶が蝕み始める。
「やっ…、いや……やだ……」
「……悠人?」
 悠人の過敏な反応に、優作は思わず顔をのぞき込んだ。
 暗くて良くは見えないが、悠人は優作を見ていない。虚空に向かって何やらぼそぼそとつぶやいている。瞳孔が開き、心拍数がだんだんと早くなる。息づかいも荒くなり、声は言葉にならない。
「おい? しっかりしろっ」
 尋常ではない悠人の反応に、優作はかなり驚いて、思わず悠人の頬に手を伸ばした。
 その感触に、悠人の身体は一瞬強ばったが、すぐに優作の手を強く払いのけた。
「やめて…。やめ……、いやああああああっ!!」
 最後の方はもはや悲鳴といってもよかった。
 半狂乱になった悠人は、優作の身体の下で大暴れをする。
「悠人! どうしたんだ、おい!」
 必死でもがく悠人の身体を、優作は体格の差にモノを言わせ何とか押さえ込んだ。
 それでも悠人は必死に首を左右に振って、何とか逃げようともがき回る。
 優作は両手で悠人の顔を押さえつけ、何とか自分の方に顔を向けさせようとしたが、悠人は狂ったように騒ぎ立てるだけだった。



探偵物語

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