優作が愛車Vespa 125ET3 VINTAGEのスロットルを回すと、こ気味良いエンジン音をあげて、ベスパは中華街を滑り出した。
 横浜市中区の特に中華街の辺りは、自動車の往来がむずかしく、面倒くさがりの優作の足はたいていベスパである。最も、車を買って維持できるほどの収入があるかというと、ベスパのローンがまだ十五回ほど残っている身には少々厳しい。
 軽快に走る優作のベスパは、指定されたパンパシフィック横浜にはまだほど遠い、まだ中華街の中の小路にある一見民家のような家の前で止まった。ベスパのエンジンを止め、キーを抜くと、小路よりさらに細い通路に入っていった。
 優作の巨躯ではちょっと辛い、細い通路の途中に簡素な作りの勝手口があった。優作はドアノブを回して、彼には小さな勝手口の中に体を滑り込ませた。
 外のバラックのような作りとは裏腹に、内装は簡素ではあるが上品で小綺麗な部屋だった。ムスクの香りが漂う中で、若い男二人が、長いソファーの上であぐらをかき、トランプのようなゲームをしていた。二人は優作に気が付くと、手を挙げて簡単に挨拶をした。
「大老は?」
 同じように挨拶をした後、優作は煙草をくわえながら、男たちに中国語で訊ねた。
「奥ですよ。今日は、客人の予定はないから、多分一人じゃないかと」
 片方の男が、福建訛りの強い中国語で、そう答えた。
「ありがと」
 礼を述べると、優作は部屋の奥にあるドアのほうへ向かった。
 ドアをノックすると、中から壮年の男の声がした。
「入りたまえ」
 声に従い、ドアノブを回して中にはいる。
 膨大な本の山脈の谷間に、髪の毛が白く精悍な顔つきの初老の男性がいた。老人がいる机も、うずたかく積まれた本や資料で、どこからどこまでが机かわからないほどだ。
 老人は読んでいた本から目を離し、眼鏡を取って招き入れた客を見た。
「優作か。まあ、かけたまえ。今、茶でも淹れよう」
 老人が立ち上がろうとするのを、優作は手を伸ばして押しとどめた。
 首を振って、座る様子もないことから、老人はまた黙って座り込んだ。
「いやいい。これから人と会わにゃならんもんで、時間がないんだ。単刀直入に聞く。黄仲正ってヤツについて知りたい」
 老人は片方の眉をつり上げると、側にあった中国系経済情報誌のページをパラパラとめくり、目的のページにあたると、黙って優作に本を差し出した。
「写真の顔を見れば、いくらおまえさんでも思い出すだろう」
 指し示された写真を見て、優作ははっとした。
 精力的で力強い笑顔を浮かべているこの壮年のビジネスマンは、中華系の世界では知らぬ物なしと謳われている、大手企業の重役である。トップの方から見れば、まだまだ若手ではあるが、会社の中で、群を抜いて実績をあげており、いずれは社長かとささやかれている。
「はあぁ、なるほどね」
 優作は頭をボリボリと掻きむしりながら、充分に納得したと言わんばかりの感嘆のため息をもらした。
「実力もさることながら、血筋もモノを言わせているらしい。満州八旗の流れを汲んでいる」
「満州八旗? 清王朝の?」
 中国最後の王朝・清が建国する際に強力な力になったという<満州八旗>は、清朝約三百年の歴史の中でも貴族的な扱いを受けていた。 黄仲正は、その貴族の末裔ということだが。
「まあ、満州八旗といっても色々だろうが。詳しくは知らんが、そうとうな身分に上り詰めていたと見ていいと思う。噂だが、清朝の公主を降嫁してもらったとか」
「てーと、清朝皇室の外戚でもあるわけね。でもって、ビジネスマンとしても頂点に上り詰めようとしているお方かぁ」
 そんなお人が……ねぇ。と、内心思ったが、口には出さない。
 優作は、更に別の質問もしてみた。
「身内は? 家族とか」
「彼は独身のはずだよ。もう四十代後半だし、嫁の一人もいてもおかしくないんだがね。兄がいたが、ついこの間他界しておる。あと、その兄に息子が一人おったはずだが」
「黄仲正の兄の息子……か」
 優作の脳裏に、昼間石川町駅で会った、可愛らしい少年の顔が思い浮かぶ。
「まあ、何の依頼かは知らんが、黄仲正がらみなら気をつけた方がいい。誠実そうな外見と人当たりの良さとは裏腹に、とんでもない食わせ物だという話も聞く。他に聞きたいことは?」
「まあ、今のところはそれだけ聞ければ上等だ。謝謝、大老」
 優作は深々とおじぎをし、時計を確認すると、飛ぶようにして老人宅を後にした。
 慌ただしく去っていった優作の姿に呆れたようなため息をつくと、老人は眼鏡をかけ直して再び本を読み始めた。



 優作はベスパのエンジンスロットを最大限に回し、パンパシフィックホテル横浜へと急いだ。
 老人のところに寄ったので、思ったより時間がかかってしまったが、それに見合うだけの依頼主に対する情報がある程度だが手に入れることができた。
 依頼の裏に、何かきな臭いモノを感じてはいた。その臭いは一層濃厚になってきたが、今更引き返すつもりはない。
 ホテルの近くの道路にベスパを止め、鞄から例の茶封筒を取り出すと、優作は悠然とホテルの中へと入っていった。
 待ち合わせ場所に指定された<バー ジャックス>に入るも、写真の面もちの男は見あたらない。
 はて、と思い、キョロキョロとバーの中を見渡す優作に、少しはげ上がってはいるが、上品で物腰の良い執事風のホテルマンが声をかけてきた。
「失礼します。工藤優作様ですね?」
「あ? は、はあ」
 馬鹿のように呆けた返事をする優作に、ホテルマンはにこりと笑って言った。
「黄様より、お手紙をお預かりしております」
 しわの深い手から渡されたのは、ホテルで使用されている封筒だった。
「どうも」
 素っ気ない返事をして優作は手紙を受け取ると、その場で封を切って手紙を読み始めた。
 手紙の内容は至ってシンプルで、
『同ホテル ミーティングルームにて』
 とだけ書いてある。
 優作が首を傾げていると、初老近いホテルマンが恭しくおじぎをして、優作を手招きした。
「では、ご案内いたします。こちらへどうぞ」
「え?」
 さくさくと進むホテルマンに導かれるまま、優作はわけもわからずただ着いていくのみである。

 案内された部屋に入るには、フロア専用のカードキーを差し込んででないと入れないという、フロア全体がVIP待遇の高級感あふれるところである。フロアすべてが豪華絢爛で、優作は思わず雰囲気に飲まれそうになる。
 とある一室でホテルマンが止まると、部屋の扉をノックした。
「失礼いたします。工藤様をお連れしました」
「ありがとう。お通ししてくれ」
 ホテルマンが扉を開けると、そこはまるで、大企業の会議室を豪華に飾り付けて持ってきたような部屋だった。
 大きな会議用のテーブルにイスがぐるりと並べられていたが、あの中華街の老人のところで見た写真の男がただ一人、奥の方の席にポツンと座っているだけだった。彼の後ろには、黒づくめのスーツを着た大柄でがっしりした体格の男が、直立不動の姿勢で立っている。
「こんばんわ、工藤くん。私が黄仲正だ。わざわざ呼び立てて済まなかったね」
 黄はイスから立ち上がり、満面の笑みを浮かべて、優作に握手を求めてきた。
 優作は帽子を取り、素直に握手に応じた。
「いえいえ。こちらこそ、昼間は留守にしていて申し訳ありませんでした」
 こうして直に会うと、黄仲正は、写真で見るよりも若くてエネルギッシュにあふれていて、とても四十代には見えない。
 うかうかしていると、雰囲気に飲まれそうになる。優作は心の中で、『油断するな』という言葉を、呪文のように繰り返した。
「まあ、立ち話というのも何だから、掛けてくれたまえ。ああ、そうそう。キミはもういいよ。ご苦労様」
 扉の側に立っていたホテルマンに、黄はそう告げると、ホテルマンは恭しくおじぎをした。
「わかりました。また何かございましたら、いつでもお呼びください」
 ホテルマンは一礼をすると、言われたとおり退室して、扉を閉めた。
 足跡が遠ざかるのを確認するかのように、黄は少しの間立ちすくんでいたが、すぐさま優作に対し、人の良い笑みを浮かべて見せた。
「失礼した。まあ、適当な席に掛けてくれたまえ」
 再度、優作に席を勧めると、自分もさっさと元の席に腰掛けた。
 優作は言われるままに、黄より少し離れた場所に腰を落ち着ける。
 黄は側にいる大男に何やら促すと、大男は頷いて鞄から優作の持ってきたものと同じ茶封筒を取り出し、黄に手渡した。
「そうそう。工藤くんは、何か飲むかね?」
「いえ。とりあえず、お話を伺ってからで」
「それもそうだね。では早速、本題に入るとするか」
 軽く優作に拒否されると、黄は首をひょいと傾げて苦笑いを浮かべて見せた。
「それはそうと、その後ろの方は……」
 無粋とは思いつつも、さっきからどうしても存在感のある黒子のことが気になった優作は、つい口走ってしまった。
 言われてようやく気が付いたとでもいうような感じで、黄は答えた。
「ああ。彼は、私の秘書兼ボディーガードといったところでね。名前は劉太載。口数は少ないが、私が唯一信用している部下だ。彼については、あまり気にしてくれなくてもいい。では、話を始めていいかな?」
「どうぞ」
 優作は話を促した。
 黄は、流暢な日本語で、話を始めた。
「まあ、おおまかな話は、手紙と同封の資料を見てもらえればわかると思うが」
「ええ。甥御さんを探して欲しいということですが」
「私は独り身でね。子供どころか嫁もいない。だから、余計に甥の悠人が可愛くてね。ましてやあの子は、幼い頃に両親が離婚する際に非常にこじれたもんで、私はついかわいそうに思って、裁判中だけでもと、一時期引き取って一緒に暮らしていたことがある。その間、まるで自分に息子ができたようで、私はとても楽しかったよ。結局、悠人は父親……私の兄が引き取ることになった。兄の許へ戻ってからはずっと会っていない。二月前に兄が死んで、あの子は今、独りだ。私も、中国の本社に転勤が決まり、いつ日本に来るかはわからない。だから、独りの者同士、また一緒に暮らそうと思ったのだが……何を考えてか悠人は家出してしまってね」
「失礼ですが、家出の原因とかに心当たりは?」
「さあねぇ。私自身、ここ何年も会ってないし、兄の葬式の時も、話をしている暇はなかったから。悠人が何を考えて、家を出たかはさっぱりわからない。ただ、昔、悠人の家族がまだ親子三人幸せに暮らしていたのが、実はこの辺りでね。だから、この辺に来るのではないかとあたりをつけて、中区に詳しい探偵さんを雇おうと思ったんだ。それが工藤くん、キミを雇った理由だよ」
「そうですか。それは光栄ですね。でも、甥御さんが、この辺に来るとは限らないのでは?」
 優作がそう言うと、黄はふるふると首を振ってみせた。
「いや。悠人は必ず中華街に現れる。もうここしか行く場所がないはずだからね」
 言葉の端に何か含んでいる言い様だったが、優作はあえてそれを無視して話を続けた。
「しかし、中区といえば広いですが、中華街だったら、それほど広いところではありませんよ。ご自身か、会社の方、いや、警察に頼んだ方が早いのでは?」
「いや。こう見えても、私も多忙の身でね。それに、会社の人間に、甥が家出をしたなんていうことを、知られるわけにはいかないのだよ。会社の中でもいろいろあってね、私を陥れようとする輩が、これを機に悠人を誘拐、なんてことも考えられる。だからこそ、民間で、外部で、しかも地元に明るく人望もある人間がいいのだ。どうか是非ともお願いしたい」
「うーん……」
 優作は腕組みをして少し唸った。
 口振りから見て、期待されているのはわかったが、中華街だけならともかく、山下公園、みなとみらい地区、港の見える丘公園、元町などを含めれば、とても一人で探し回れるものではない。
 目の前の依頼人に打ち明けるつもりはないが、昼間に探し求めていた少年に会ったとはいえ、今もそこにいるとは限らない。
 煮え切らない優作の態度に、さすがの精鋭ビジネスマンも不安の色が隠せない。
 そこで黄は、とっておきの切り札を出した。
「成功報酬として、もう百万円。前払いした必要経費とは別にお支払いしましょう。これでどうですか?」
 黄の提示に、優作は思わず吹き出しそうになった。勿論、可笑しいと思ったからではなく、驚いたからだ。
 必要経費と合わせて二百万!
 万年金欠病の貧乏探偵・工藤優作には、あまりにおいしすぎる話だった。
 とても大きなアメのような話に、黄仲正に会うまでに抱えていた不審や不安などは一気にかき消えた。
 気づいたときには、口が勝手に動いて、
「お引き受けしましょう」
 などと、快諾していた。
 言ってしまったら、もう後には引けない。
 しまった、と思う心の余裕もない。
「そうですか、よかった! やはり引き受けてくれると思ったよ」
 黄も安堵したかのように、大げさに喜んでいた。
 正式に家出人捜索の依頼を受けた後、フロア専用のラウンジで前祝いと称して、優作と黄は酒を飲みまくった。
 もちろん、黄のおごりである。
 気が付いたら、劉を含めての三人でヘネシー五本を空にしていたのだから、さすがの優作も酔いが醒める思いだった。
 だが、優作が酔い切れなかったのは、超高級ブランデーを水のように飲んだからではない。しこたま飲んでいる最中に小耳に入った、黄と劉の会話が引っかかったからだ。優作を意識してか、小声で、しかも早口の台湾語だった。だが、台湾語も熟知している優作には、会話の内容は充分に理解できていた。
『いいのですか? このような馬の骨のような輩を信用して』
 劉が心配そうな口調で訊ねる。
『大丈夫。一応、別の手は打ってある。もしかしたら、悠人と同じ一半一半同士、何か繋がるものがあるかもしれん』
 そんな会話を聞きながら、優作は頭の奥底で鳴っていた警鐘の正しさを、改めて認知した。
 やはりこの依頼人は食わせ者だ。
 だが同時に、あの疲れ切った家出少年のことも心配になった。あの後、悠人は一体何処に行ったのだろう。暮らしていた頃と変わってしまったこの街に、彼が求める父母の思い出は残っているのか。
 優作は、手に持っていたブランデーグラスに注がれたヘネシーを、鬱になりそうな気分と一緒に飲み干した。



探偵物語

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