山下公園前大通りから少し脇に入った路地に入ると、<Bar トワイライト>と書かれた小さな看板が、ネオンサインを光らせているのが見えた。
「まあ、入れや。小さい店だけど」
 さも自分の店のようにそう言うと、優作は店の扉を開けて、悠人を店内に入れた。
 ピンライトの薄オレンジの明かりだけが頼りの店内だが、暗さに慣れると壁面に埋め尽くされるように置いてある酒瓶が、色とりどりにライトに照らされ、まぶしいくらいである。少々音量が大きめのジャズがスピーカーから流れてくる。ちょっと音量が大きいような気もするが、隣同士で座れば自分たちの会話ぐらいは聞こえるし、他のお客の話し声も余程の大声でなければ聞こえることもない。
 呆然と店内をきょろきょろする悠人の手を取り、優作はカウンター席に座った。
「マーサちゃん。先程はどーも」
「あら、工藤ちゃん。いらっしゃ〜い、って。あら、その子……」
 グラスの手入れをしていたマサが優作の声に顔をあげると、優作の隣には先程優作に見せられた写真にあった少年がいた。こうして実物を見ると、写真よりはるかに可愛らしかった。
 何か言いたそうにマサが悠人を指さそうとしたが、優作は悠人に悟られないよう、そっとマサに目配せし、口に人差し指を充てて見せた。マサも了解したと言わんばかりに、小さく首を縦に振る。
 幸い、悠人はこのやりとりには気が付いていない。おそらくは、初めて入るバーの煌びやかさに、目を奪われているのだろう。
「でも、工藤ちゃんがこんな若い子連れてウチにくるなんて、珍しいわよねぇ。ボク、何か飲む?」
「え? あ、んと……」
 マサに声をかけられた悠人は、ようやく我に返って、あわてて側にあったメニューを取り上げた。
「ソフトドリンクなら、コーラ、オレンジジュース、烏龍茶ってとこかしら。メニューにはないけど、一応、牛乳もあるわよ?」
「じゃ、じゃあ、オレンジジュースください」
「あと、何か食いモンある? こいつ、腹減っているみたいなんだ」
 煙草をくわえて火をつけると、優作はにやにやした笑みを浮かべて、悠人を指さした。
 差し出されたおしぼりで両手を拭きながら、悠人はむっとした表情をしてみせた。
 そんな二人のやりとりに、マサは笑いをかみ殺しつつも、まあまあ、と二人を制する。
「サンドイッチでいいかしら。今日は、スパゲッティ切らしちゃったのよ」
「あ、構いません」
「工藤ちゃんも食べるの?」
 マサに問いかけられ、優作は少しかったるそうに考えてから、首を横に振った。
「オレはいいや。シェリーでももらおうかな」
「何よ。まだ飲むつもりなの?」
 マサは呆れたようにそう言った。
 たわいもない無駄話のようなやりとりをしている間マサの手は、オレンジを絞り、グラスに砕いた氷を入れ、オレンジ果汁を注ぎ入れ、グラスの淵に輪切りにしたオレンジを飾り立てたりと、忙しく動いていた。
「はい、ボク。お待ちどうさま。サンドイッチのほうは、すぐに取りかかるわ」
「おい、オレの酒は?」
 優作は不満げに紫煙を吹かした。
「飲んだくれが何言ってンの。そこのボクがお腹空かせているンでしょ? 大人しく煙草でも吸ってなさいよ」
 マサは優作と目を合わせることなく、冷蔵庫からハムとチーズ、レタスとキュウリとトマトを取り出し、テキパキとサンドイッチ作りに取りかかった。
「ちぇっ」
 不満そうに舌を鳴らした優作は、悠人が飲んでいたオレンジジュースを取り上げると、一口すすり上げた。
「あっ……」
 悠人が文句を言おうと思ったそのとき、オレンジジュースのグラスを持っていたほうの優作の手の甲を、マサが包丁の峰で思い切り叩いた。
「いってぇ! 何すんだよ」
 手の甲をさすりながら、優作が文句をたれる。
. マサは涼しい顔をしたまま、再びサンドイッチ製作作業に没頭し始めた。
「あ〜ら、ごめんなさい。包丁の刃の向きが逆だったわね」
 ごめんなさいと言いつつ、反省のかけらもなくころころと笑うマサだった。
 そんな優作とマサの漫才みたいなやりとりがおかしくて、悠人は思わずぷっと吹き出した。
「お、やっと笑ったな」
「あら、ホント」
 優作が煙草の火を消しながらそういうと、マサも手を止めて悠人の顔を見た。
 悪戯好きな天使のような、可愛らしい笑顔だ。
「笑うとホント、可愛いよな」
「えっ?」
 優しさを含んだ笑顔でそう言われると、悠人は何と返事をして良いのかわからなくなり、アルコールも入っていないのに、一気に顔が赤くなった。
「ほーんと。男の子とは思えないわぁ」
 追い打ちをかけるように、マサも同意する。
 悠人は更に言葉に詰まった。ただ、もじもじと下を向いてオレンジジュースを飲むしかなかった。
「はい。サンドイッチおまちどうさま。中身のほう、サービスしといたわよ」
 恥ずかしくて顔も上げられない悠人の前に、マサ特製のサンドイッチが差し出された。
「あ。ど、どうも……」
 心臓の高鳴りがまだ止まない悠人だったが、目の前に出されたおいしそうなサンドイッチに、改めて空腹感を認識した。
 思い切り一口かぶりつくと、できたてのサンドイッチは、野菜もみずみずしく、とてもおいしかった。
「おいしい!」
 喜々としてそう叫ぶと、一気に皿の上のサンドイッチを平らげてしまった。
 食べっぷりは、やはり年頃の男の子そのものである。
 悠人の食べっぷりにすっかり気をよくしたマサは、胸の前で両手を合わせ、満面の笑みを浮かべて悠人に詰め寄った。
「そんなに気に入ってもらえて、うれしいわぁ。おかわりはいかが?」
「はい!」
 元気におかわりを所望する少年の笑顔に、優作もマサもつられて笑顔になった。
 八切れものサンドイッチとオレンジジュースを飲んで、ようやくお腹が満たされた悠人は、大分落ち着いてきたようだった。
 悠人が満足した頃になって、ようやく優作はシェリー酒を出してもらえたが、あまり飲まないうちに悠人がうつらうつらと眠そうにし始めた。
「おい、大丈夫か?」
 心配した優作が、悠人の顔をのぞき込んだ。
「う、うん……。だいじょ……ぶ」
 と、言いつつも、悠人の声に力は入っていない。
 言葉とは裏腹に、やたらと目をこすり始めている。
 無理もない。一日中さまよい歩いて疲れていたし、お腹も充分に満たされたし、眠くもなろう。
 マサも心配して、悠人の顔をのぞき込む。
「ちっとも大丈夫じゃなさそうよ? タクシー呼んであげようか?」
 マサの言葉に、悠人は一瞬ピクリと肩を震わせ、顔を上げた。
「あ、いや……。でも、オレは……」
 何か言いたそうだが、言葉を濁してブツブツと喋る悠人を無視するかのように、マサは電話に手を伸ばした。
「もう遅いから、工藤ちゃんちに泊めてもらいなさいよ。タクシーで行くほどの距離ってわけじゃないけれど、その足で歩くとなるとシンドイわよ。工藤ちゃんがへべれけじゃなかったら、裏に置いてある工藤ちゃんのバイクで送ってってもらったんだけど」
「あ……。は、はぁ」
 曖昧に返答をしてから、悠人は恐る恐る優作を見つめた。
 シェリーを飲りながら紫煙を吹かしていた優作は、悠人の視線に気が付くとニヤリと笑った。
「まあ、ちらかってはいるけれど、あと一人くらいは寝られるスペースくらいはあるぞ」
「でも……、迷惑じゃないんですか?」
 不安そうに悠人が尋ねる。
 優作は不敵な笑みを浮かべて、悠人の額を人差し指で軽く小突いた。
「ガキがンなことに、気ィ使ってんじゃねーよ。大人の好意は、素直に受け取んなさい」
 優作にそう言われると、悠人は気恥ずかしさに顔を俯かせてしまった。
 悠人のいちいち愛らしい仕草に、優作はニヤニヤ笑顔が止まらない。
 思わず手を伸ばして、悠人の小さな頭を、少々乱暴にくしゃくしゃとなで回した。
 いきなりのことで悠人はびっくりしたが、頭を触ると髪が大分乱されていた。手櫛で髪の毛を整えながら、頬を膨らませて優作を睨む。 やった本人は、反省した風もなく、まだニヤニヤと笑っていた。
 やがて、電話の終わったマサが、受話器を置くと二人に顔を向けた。
「タクシー、あと5分くらいで来るって。大通りで待っているっていうから、そろそろ出た方がいいんじゃないの?」
「そうだな。じゃあマサ、お勘定」
 優作は席を立つと、ズボンの後ろポケットから財布を取り出して、一万円をマサに渡した。
 マサは真剣な顔で驚きながらも、しっかりと一万円札を受け取る。
「めっずらしー! いくら連れがいるっていっても、工藤ちゃんがツケじゃないなんて。地震でも来るんじゃないの?」
「うっせーな。バーカ」
 優作がそう毒づくとすぐに、店内がカタカタと音を立てて揺れ始めた。
 店内は一時騒然となったが、揺れが収まるとまた静けさを取り戻していた。
 揺れとしては、震度1か2程度のものだったろう。
 だが、マサと優作の会話の直後だっただけに、何かシャレにならないものがあるような気がする。
「……釣りは、ツケの支払いに足しといて」
「わかったわ……。バイク、ちゃんと取りに来てよね」
「じゃあ、ごっそさん」
 優作は悠人の手を取り、急ぎ足で店内を出ようとしていた。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
 引きずられるように店を出る悠人は、早口でマサに礼を述べる。
 ドアが閉まり、ドアベルの音がカランカランと鳴る。
「何か、いろいろ変な縁が出てきたわねェ」
 二人の姿が見えなくなると、マサはグラスと食器を片付けながら、独りそうつぶやいた。
 静けさを取り戻した<Bar トワイライト>店内に、複雑な旋律のサックス音が響きわたる。



探偵物語


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