"神がウイットネス・リーを通して与えた啓示"
ここに提示するのは、"地方教会"関係のHP("聴覚障害者に開く聖書真理")に掲載されている、「主の回復」と「神がウイットネス・リーに与えた啓示」です。相手方は私どもがウイットネス・リーの書物などを要約すると、文脈から切り離した議論だとか、意図的曲解だとかの主張をされますので、あえて彼ら自身の言葉による要約をここに提示します。なお、強調は編者によります。
INDEX
主の回復に関して|「地方の立場に立つ教会(地方教会)」について|主の回復の歴史
神のエコノミー|主がリー兄弟を通して与えた啓示と聖書の認識|解 説
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わたしたち「地方の立場に立つ教会」の中の者たちは、神の「回復」のためにいます。「回復」の基本的な定義は、次の通りです。これは、わたしたちの証しを正確に理解するために必要です。
回復という語は、(1)失われていたあるものをもう一度獲得する、(2)あるものを正常な状態に戻す、(3)損害または損失を被った後に正常な状態への復旧、または復帰することを意味します。
神がある事柄を回復しておられるということは、教会歴史の過程で、それが失われ、誤用され、腐敗させられたということです。そして、それを神が当初の状態、状況へと回復しておられるということを意味します。教会は数世紀にもわたる歴史を通して堕落してしまったので、神の当初の意図に従って回復される必要があります。教会に関してわたしたちが見たビジョンは、現在の状態や伝統的慣行には支配されません。
神の当初の意図により、また神の御言葉の中に啓示されている不変の基準によって支配されています。わたしたちは、教会に関する新約聖書の啓示を単なる歴史上の事例とは考えません。現在の教会実行の規準と考えます。
神の回復は20世紀に始まったのではありません。開始の正確な日付を決定することは困難ですが、一応、カトリックの腐敗からの改革の時とすると便利です。回復は改革の時から数回の段階を経て発展しました。ジンゼンドルフ(Zinzendorf)が指導して、ボヘミアで教会生活が部分的に回復されました。プリマス・ブラザレン(Plymouth Brethren)が、数多くの貴重な聖書真理を解明し、さらに内なる命の真正な経験へと進みました。今やキリストのからだの表現である真正な「地方の立場に立つ教会」の確立という段階に達しました。
今日、主は彼の回復の中で二つの事を行なっておられます。キリストのもろもろの豊富な経験すなわち、わたしたちの命としての、またわたしたちのすべてとしてのキリストの享受の回復と、教会生活の実行とを回復しておられます。実際的教会生活は、キリストのもろもろの豊富の享受から流れ出ます。主の回復の中にいるわたしたちは、キリストが計り知ることのできない豊富であり、わたしたちの享受のためのすべてを含む方であることを証しします。そして、神の純粋な言葉の啓示に従って教会生活を実行する負担を、主がわたしたちに負わせてくださったことを証しします。(注:負担とはふつうのクリスチャンの言う重荷 (burden) のこと)
「地方の立場に立つ教会」または「地方教会」は一つの名称を持ちません。わたしたちが保持し、あがめるただ一つの名は主イエス・キリストの御名だけです。何かほかの名称をとることは、彼を屈辱することです。「地方の立場に立つ教会」、「地方教会」と言う用語は一つの名称ではありません。それは教会の地方的性質と表現との記述です。すなわち一つの地方に在る教会 (the church) です。「地方の立場に立つ教会」、「地方教会」という語を大文字で印刷することは重大な誤りです。なぜなら、これはわたしたちの名称が「地方の立場にある教会」、「地方教会」であるのかという印象を与えるからです。月はどの地方で見られようとも単に月であるように、教会はどの地方で建造されようともただ教会です。
また、「エコノミー」という語は、(エペソ人への手紙第1章10節)ギリシャ語のオイコノミヤから来ています。それは家庭内の案配を意味します。その意味はまた執事の務め、行政、分与、すなわち分与の過程を含んでいます。全聖書を貫いて啓示されている神の永遠のご計画の光の中で見るとき、神のエコノミーとは、教会を産出し建造するために、私たちの中へご自身を分与し込むための神の神聖な案配のことを言っています。
教会がエルサレムに設立されたとき、それは単にエルサレムに在る教会として知られました(使徒行伝第8章1節)。同じように今日東京に在る教会の実際的表現は、単に東京に在る教会です。地方の立場にある教会、地方教会として、わたしたちは真正な一つの立場に立って主の御名の中で集まります。
聖書によれば、人のたてた政府は、平和を保ち秩序を維持するために神によって定められたものです。良心のゆえに、すべてのクリスチャンは市民社会の諸権威に従うべきです。こういうわけで、わたしたちはすべての行政上の諸権威に服し、彼らに従います。わたしたちの国家、県、共同体の中で善良な市民として生活します。わたしたちは、神から定められた人がたてた政府に対して、わたしたちのすべての責任を果たす用意があります。(使徒行伝第17章11、12節;ローマ人への手紙第13章1〜7節)
主の回復は定義によれば、聖書の中で聖徒たちに啓示されているように、真理の把握における前進と進歩です。霊的な理解におけるこの進歩は、キリストの全き知識における、すなわち、聖徒たちがキリストを経験することにおける成長へと移ります。その結果はからだの建造であり、それは神のエコノミーを完成して彼の宇宙的な表現を得るためです。マルチン・ルターの時代に事実上の回復が始まってから、各世紀にわたって安定した前進がありました。そして主は多くの信者たちを用いて、彼の回復を前進させられました。七十年間にわたって、主はわたしたちの間で、まずニー兄弟を通して、次にリー兄弟を通して動いてこられ、回復の前進と進歩は容易に理解されるようになりました。最初の数十年間、主はニー兄弟を用いて多くの啓示と聖書の認識を明らかにされました。(詳細のリストについては、日本福音書房から出版されたリー兄弟著「今の時代における神聖な啓示の先見者、ウオッチマン・ニー」177ページから200ページまでを参照)。リー兄弟は1949年に中国から送り出された時、ニー兄弟から受けたものを反復し、強調しました。1958年、主はさらに多くの光と真理をリー兄弟を通して解き放し、リー兄弟の最後の日まで続きました。わたしたちが1958年の秋からリー兄弟を通して受けた真理は、広く九つの部類に分かれます。それは神、キリスト、その霊、救い、命、信者たち、教会、教会の実行、新エルサレムです。それには39の項目があります。
新約聖書にある完全な啓示
主の回復とは真理の回復です。それは聖書の中にありながら、次第に失われてしまったものです。わたしたちはみな新約聖書がこの時代における主の完全な啓示であることを知っています。その中には、神の新約エコノミーと新約における神のご計画の両方が十分に記録されています。その期間は、バプテスマのヨハネが来た時から新エルサレムの出現までを網羅します。
この期間の始まりに、主イエスが来られて、神のために働かれたという記録があります。彼は人の生活のすべての苦難を経過されました。その後、彼はすべてを含む死を成し遂げ、すべての消極的なもの、人、出来事を対処するために、十字架上で釘づけられました。それに続いて、彼は死から出て来て、復活の中へと入られました。復活の中で、彼は天に昇り、栄光と誉れを受けられました。彼はまた、神のために支配するため御座に着かれました。最終的に、彼は神によって高く上げられた支配者、また救い主となられました。そして彼はすべての信者の上に聖霊を注ぎ、福音を宣べ伝え、罪人を救うために力と権威とを与えました。さらに彼は教会の建造のために賜物を与えられました。これらの賜物とは、彼ご自身が成就した使徒たちであって、彼らは救われた罪人を共に集め、さまざまな地方で彼らを教会として建造しました。わたしたちがすべてのさまざまな教会を共に加える時、そこにキリストのからだ全体があります。
このからだがキリストの豊富を享受する時、それがキリストの豊満となるということをも、わたしたちはすでに見ました。この豊満とはキリストの表現のことですが、キリストもまた三一の神の表現です。ですから、教会はキリストの表現であるだけでなく、究極的には、三一の神の表現ということにもなります。このからだの豊満とその表現は徐々に建て上げられていきます。そして、それはキリストのからだとして次第に成長していき、キリストの豊満の身の丈の度量にまで到達します。
その時、キリストは再びやって来られ、千年王国を設立されます。そこで彼は、一方で勝利の聖徒たちに褒賞を与え、他方で、救われたけれども敗北したクリスチャンを懲らしめます。それに加え、彼はユダヤ人たちと地上の異邦人たちの間にいるレムナントを成就されます。これらの事柄がすべて完成された後、千年王国は終わります。するとこれに続いて、新しい天と新しい地とが到来し、新エルサレムが天から出て、神から下ってきます。それは成就された聖徒たちと成就されたユダヤ人とから成っています。この新エルサレムとは、簡単に言って、王職と祭司職です。新エルサレムにいる者はみな、王たちと祭司たちです。一方で彼らは神に仕え、他方で彼らは神のために統治します。成就された異邦人たちは、新エルサレムの周りにいる新しい地の市民となります。これが新天新地における永遠の状況です。この状況の中で、手順を経られた三一の神が永遠に表現されます。これが新約の完全な啓示です。
聖書における神のエコノミー
新約は旧約と関連しています。このことは、ヘブル人への手紙第十章七節によって示唆されています、「その書の巻物の中にわたしについて書かれている」。この書とは旧約を指しており、旧約の明確な言葉か、予表のどちらかの方法で描かれたキリストに関する完全な記録をわたしたちに与えます(ルカ24:27、44、46、ヨハネ5:39、46)。
アウグスティヌスはかつてこのように言いました、「新約は旧約の中に含まれており、旧約は新約の中で説明されている」。わたしたちは次のように言うことができます。「新約は旧約の中にあり、旧約は新約で説明される」。つまり、新約は旧約の中にあり、旧約は新約によって説明されます。
キリストに関する中心路線
新約が旧約に含まれているとは、どういう意味でしょうか? 旧約に含まれている新約の内容とは何でしょうか? ある人たちは、旧約には、キリストに関する多くの約束、予言、予表、影があると言うかもしれません。これは、もちろん正しいです。旧約のすべての約束、予言、予表、影の中心はキリストだからです。しかし、わたしたちはもう一歩踏み込んで、このように尋ねなければなりません。「一体どのようなキリストが旧約の中に約束され、予言され、予表され、影とされてきたのでしょうか?」。あなたはこのようなキリストについて簡潔に述べることができますか?
旧約がキリストを王として提示しているのを見ることは、たとえ啓示がなくてもたやすいことです。創世記第三章十五節によれば、キリストは蛇の頭を砕く方です。しかし、この節はキリストが何であられるかという中心的な事には触れていません。旧約のキリストに関する中心路線とは、キリストは永遠の神であり、肉体を取って来られ、地上で生活し、十字架で死なれ、復活し、昇天し、また下ってこられたことです。この主要な七つの点こそ、旧約の中で約束され、予言され、予表され、影とされたキリストの中心路線です。キリストが永遠の神であられることについて、ミカ書第五章二節は、彼の起源は昔から、永遠の時代からであると言います。さらに、イザヤ書第九章六節は、彼は全能の神であると言っています。
どういう目的で、永遠の神であるキリストが肉体となり、地上で生活し、十字架で死に、死人の中から復活し、昇天され、下ってこられたのでしょうか?聖書の浅薄な知識しか持たない人々はこう言うかもしれません、「キリストが人となり、地上で生活し、十字架につけられ、復活し、昇天し、下ってこられたのは、わたしを地獄から救い、天にもたらすためです」。新約の光の中で、わたしたちは、永遠の神であるキリストが肉体となり、地上で生活し、十字架で死に、死人の中から復活し、昇天し、下ってこられたのは、神の選ばれた民の中に三一の神を分与して、教会を生み出すためである、とはっきり言うことができます。旧約では、「教会」という言葉を見いだすことはできませんが、ある人たちは教会を予表しています。例えば、エバとリベカは共に教会の予表です。ですから、キリストと教会が旧約の中に含まれています。
神聖な啓示の完成
新約は神聖な啓示の完成です。コロサイ人への手紙第一章二五節で、パウロは言います、「わたしは、神の執事職にしたがって、その奉仕者になりました。それは、あなたがたのためにわたしに与えられたものであり、神の言葉を完成するためです」。神の言葉は神聖な啓示です。これは新約以前には完成されていませんでした。新約において、使徒たち、特にパウロが神の奥義であるキリストにおいて、またキリストの奥義である教会において、神の言葉を完成し、わたしたちに神のエコノミーの全き啓示を与えたのです。使徒パウロの時代には、神の言葉と言えば、旧約と初期の使徒たちが宣べ伝えた言葉を含んでいました。初期の弟子たちによって宣べ伝えられた神の言葉は成長し、増し加わったのですが(使徒12:24)、まだ神のエコノミーにしたがって完成されてはいませんでした。これを完成するために、神の啓示がパウロに示される必要があったのです。神の執事職にしたがって、パウロは教会の奉仕者となって、神の言葉を完成しました。もしわたしたちにパウロの書簡がなかったとしたら、どれほどの不足が生じていたか考えてご覧なさい。これらの書簡がなかったなら、神の言葉の完成もなかったでしょう。
パウロは神の奥義であるキリストの啓示を受けました。コロサイ人への手紙第二章二節で、彼は「神の奥義なるキリストを知る全き知識」と言います。エペソ人への手紙第三章四節で、彼はキリストの奥義について述べています。コロサイ人への手紙第二章二節の神の奥義はキリストであり、エペソ人への手紙第三章四節のキリストの奥義は教会です。パウロはまた神の経綸に関する啓示を与えられました(Ⅱコリント13:14、エペソ3:14—19)。ですから、神の言葉の完成は、偉大な奥義であるキリストと教会(エペソ5:32)、かしらなるキリスト(コロサイ1:26—27、2:19、3:11)とからだなる教会(エペソ3:3—6)に関する全き啓示を含んでいるのです。
コロサイ人への手紙第一章二六節と二七節で、パウロは「その奥義は各時代にわたって、また各世代にわたって隠されてきましたが、今や神の聖徒たちに明らかに示されています。神は彼らに、異邦人の間にあるこの奥義の栄光の豊富がどんなものであるかを、知らせたいと願われました。それはあなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みです」と述べています。この奥義とは、今日わたしたちの命であり、将来わたしたちの栄光となられるわたしたちの内にいますキリストご自身です。現在、この栄光はわたしたちの望みです。神聖な啓示の完成とは、奥義として、また栄光の望みとして、わたしたちの中に神を分与しにこられたキリストに関するものであることを、わたしたちはこれらの節から見ます。
神の新約のエコノミー:神の家庭の管理、神の家庭の行政上の按配、神聖な経綸
神の新約のエコノミーとは何でしょうか?神の新約のエコノミーとは神の家庭の管理、神の家庭の行政上の按配、神聖な経綸(計画)です。ここの経綸の意味は、按配、すなわち計画です。
このエコノミー、この経綸はエペソ人への手紙第一章十節と第三章九節で啓示されています。エペソ人への手紙第一章十節は言います、「時代の満了時のエコノミーへ至るためです。すなわち、キリストの中で、天にあるもの地にあるもの、すべてのものを彼の中で、かしらにつり上げようとされたのです」。ここで「エコノミー」と訳されたギリシャ語は「オイコノミア」で、英語の"economy"(エコノミー)はこの言葉から来ています。
神は一つのエコノミーを持つことを計画されました。宇宙のあらゆる王国、すなわち天使の王国も、人の王国も、動物の王国も、植物の王国も、すべてこのエコノミー、この経綸のためであり、それらはその完成に向かって動いています。
エペソ人への手紙第一章十節で「エコノミー」と訳されたギリシャ語は、「執事職」とか「家庭の按配」と訳すこともできます。また「行政」という言葉を使ってもよいでしょう。なぜなら、やがてこのエコノミー、執事職、家庭の按配は永遠の行政となるからです。宇宙全体は、やがて一つの行政の下に置かれるでしょう。ここで行政という言葉を使うのもよいでしょうが、わたしはむしろエコノミー、執事職、家庭の按配という言葉を好みます。
神の目的に関する「エコノミー」という言葉は、多くのクリスチャンにはなじみが薄いかもしれません。エコノミーのギリシャ語である「オイコノミア」はエペソ人への手紙でもう二回使われています。わたしたちはすでに見ましたように、エペソ人への手紙第一章十節で、パウロは時代の満了時のエコノミーにおいて、すべてのものがキリストの中でかしらにつり上げられると言っています。続いて、第三章二節で、彼は神の恵みの執事職に言及し、第三章九節では奥義のエコノミーに言及しています。第三章九節で、パウロは言っています、「万物を創造された神の中に、各時代にわたって隠されてきた奥義のエコノミーが何であるかを明らかにして、彼らが見えるようになるためです」。神の奥義とは、神の隠された目的です。神の目的はご自身を彼の選びの民に分与することです。ですから、神の奥義のエコノミーがあります。この奥義は各時代にわたって、すなわち、永遠から過去のすべての時代を通して神の中に隠されていましたが、今や、それは新約の信者たちに明らかにされたのです。
テモテへの第一の手紙第一章四節で、パウロは「信仰の中にある神の分与(エコノミー)」に言及しています。再び言いますが、「エコノミー」と訳されたギリシャ語は、「オイコノミア」です。ここの「神のエコノミー」のギリシャ語は、神の家庭のエコノミーという意味でもあります。神ご自身をキリストにおいて神の選ばれた人たちに分与すること、これが神の家の行政であって、その目的は、神が一つの家を持って、神ご自身を表現することです(Ⅰテモテ3:15)、キリストのからだです。パウロの務めの中心はこの神のエコノミーです(コロサイ1:25、Ⅰコリント9:17)。
彼の大いなる喜びによって神が立てられた計画
神の新約のエコノミーは、彼の大いなる喜びによって神が立てられた計画です。これについて、エペソ人への手紙第一章九節は言います、「みこころの奥義をわたしたちに知らせてくださいました。これは、神がご自身の中で計画された彼の大いなる喜びによるものです」。神の大いなる喜びとは、神の心の願いを言います。この大いなる喜びとは、神がエコノミー、計画のために(10節)、ご自身の中であらかじめ計画されたものです。この計画は神の大いなる喜び、神の心の願いによって立てられました。
神の大いなる喜びは、神がご自身の中であらかじめ計画されました。これは、神ご自身が神の永遠の目的の意図、起源、領域であるという意味です。神は計画、願いを持っておられ、またその計画にしたがって、彼は目的を持っておられます。宇宙の存在は神の目的にしたがっています。天、地、何億という項目、そして人類は神のあらかじめ計画された願いにしたがっています。ですから宇宙には、一つの願い、神の願いがあります。この願いは神が計画されたがゆえに、だれ一人、何一つ、それを覆すことはできません。神はご自身の中でこの願いをあらかじめ計画されました。彼はこのことについては、だれとも協議されませんでした。
わたしたちは見てきましたように、エペソ人への手紙第一章九節は、神の大いなる喜びに言及しています。すべての人は喜びを求めています。わたしたちがそうであるなら、神も当然、喜びを求めておられるはずです。あらゆる生き物は喜びを求めています。事実、あなたが生きれば生きるほど、さらに多く喜びを必要とします。神は最も生きている方ですから、確かに最も喜びを必要とされます。もし堕落した罪人であるわたしたちでさえ喜びを必要とするなら、生ける方である神はどれほど喜びを必要としておられることでしょうか?
ローマ人への手紙は、堕落した人の状態という観点から始めていますが、エペソ人への手紙は、神の大いなる喜び、神の心の願いという観点から書かれています。それでは、神の大いなる喜びとは何でしょうか? 神の大いなる喜び、それは神ご自身をわたしたちの中に分与することです。これが神の唯一の願いです。神はご自身をわたしたちの中に分与することを「夢見ておられる」と言ってもよいでしょう。彼が求め、切望しておられるのは、彼の選びの民にご自身を分与することなのです。
多くのクリスチャンは、わたしたちにご自身を分与するという神の願いを軽んじています。彼らはこのことを顧みないで、むしろいかに聖となり、霊的になり、勝利を得るかという教えのほうに注意を払うかもしれません。多くの人たちは、神が一つのこと——わたしたちにご自身を分与すること——を欲しておられるということを聞いたことがありません。
ある意味で、信者はあまり多く神の分与を受けなくても、「聖く」されるかもしれません。しかし、そのような聖は真実なものではないので、確固としていません。しかし、神がわたしたちの存在中に分与されるなら、わたしたちは本当に聖くなるでしょう。実際には、聖とは、神がわたしたちに主観的に分与されること以外の何ものでもありません。客観的な神はご自身に対して聖であり、ご自身だけが聖なのです。しかし主観的な神、すなわち、わたしたちに分与された神は、わたしたちの主観的な聖となります。ですから、わたしたちにとって、真の聖とは、わたしたちの存在に分与された神なのです。すべてのことで彼ご自身をわたしたちに分与すること、これが神の大いなる喜び、神の心の願いです。
神がキリストの中で立てられた永遠のご計画
神のエコノミーとは、神がキリストの中で立てられた永遠のご計画です。これについて、エペソ人への手紙第三章十一節は言います、「神がわたしたちの主キリスト・イエスの中で立てられた、永遠のご計画にしたがって」。もろもろの時代にわたる目的は、永遠のご計画、永遠の目的、神が永遠の過去に立てられた永遠の目的です。
神はキリストの中で、永遠のエコノミーを計画されました。聖書で啓示されたそのキリストは三一の神の化身であり、彼は受肉、人の生活、十字架、復活、昇天、降下を含むすべての手順を経られました。このようなキリストの中で、神は永遠のエコノミーを計画されました。ですから、キリストは神の永遠のエコノミーの要素、領域、手段、目標、目的です。キリストは神のエコノミーにおけるすべてです。事実、神の永遠のエコノミーの全内容はキリストです。キリストはこのエコノミーの中心、円周、要素、領域、手段、目標、目的です。エペソ人への手紙第三章によれば、このエコノミーはキリストの中で計画されました。
三一において、選びの民に神ご自身を分与する
神の新約のエコノミーとは、三一において、選びの民に神ご自身を分与する神の計画です。どのようにして神は三一において、選びの民に神ご自身を分与されるのでしょうか? この分与には三つの段階があります。第一に、それは父なる神からです。御父は源であり、起源です。第二に、この分与は経路である御子を通してです。第三に、神の分与はその霊なる神にあってですが、彼は手段、領域です。父なる神から、子なる神を通して、その霊なる神の中で、このような三つの段階によって、神は選びの民にご自身を分与されるのです。(「新約の結論」(1) メッセージ1、2 ウイットネス・リー著 日本福音書房)
主の回復は定義によれば、聖書の中で聖徒たちに啓示されているように、真理の把握における前進と進歩です。霊的な理解におけるこの進歩は、キリストの全き知識における、すなわち、聖徒たちがキリストを経験することにおける成長へと移ります。その結果はからだの建造であり、それは神のエコノミーを完成して彼の宇宙的な表現を得るためです。マルチン・ルターの時代に事実上の回復が始まってから、各世紀にわたって安定した前進がありました。そして主は多くの信者たちを用いて、彼の回復を前進させられました。七十年間にわたって、主はわたしたちの間で、まずニー兄弟を通して、次にリー兄弟を通して動いてこられ、回復の前進と進歩は容易に理解されるようになりました。最初の数十年間、主はニー兄弟を用いて多くの啓示と聖書の認識を明らかにされました。(詳細のリストについては、日本福音書房から出版されたリー兄弟著「今の時代における神聖な啓示の先見者、ウオッチマン・ニー」177ページから200ページまでを参照)。リー兄弟は一九四九年に中国から送り出された時、ニー兄弟から受けたものを反復し、強調しました。一九五八年、主はさらに多くの光と真理をリー兄弟を通して解き放し、リー兄弟の最後の日まで続きました。わたしたちが一九五八年の秋からリー兄弟を通して受けた真理は、広く九つの部類に分かれます。それは神、キリスト、その霊、救い、命、信者たち、教会、教会の実行、新エルサレムです。それには三十九の項目があります。
神
まず、リー兄弟の務めを通して、主は聖書における三一の神の純粋な啓示を回復されました。神は本質において、あるいは実質において唯一に一であり、ハイポスタシス(hypostases)、あるいはパースンにおいて明確に三です。三一の三(父、子、霊)は、永遠に区別がありますが、彼らは決して互いに分離しているのではなく、決して個別に行動しません。そのような三一の神はキリストにあるその霊としての御父であり、信者たちの命また命の供給です。リー兄弟の務めを通して回復された神に関する第二の項目は、手順を経て究極的に完成された神です。神は彼の永遠の存在において変わりませんが、三一の神は彼のエコノミー上の行動において、キリストの中で受肉、人の生活、死、復活、昇天の手順を経過し、命を与える霊として究極的に完成され(Ⅰコリント14:45後半。Ⅱコリント3:17)、信者たちの中に住まわれます。第三の項目は、三一の神の分与です。手順を経て究極的に完成された神は、ご自身を彼の選びの民の中に分与し、彼らを彼の神聖な命で再生し(Ⅰペテロ1:3)、彼の神聖な性質にしたがって造り変え(ローマ12:2。Ⅱコリント3:18)、究極的に彼の神聖な栄光で栄光化し(ローマ8:30)、こうして命、性質、表現において彼であるのと同じにします。第四の、おそらく最大の項目は、神の新約エコノミーの啓示です(Ⅰテモテ1:4)。それは神のご計画であって、神ご自身を彼の選びの民の中に分与することによって彼の永遠の目的を完成し(エペソ3:8-11)、三一の神と三部分から成る人の相互の住まいとしての新エルサレムを究極的に完成し(啓21:3,22)、永遠において彼を完全に表現することです。
キリスト
リー兄弟の務めによって回復されたキリストに関する第一の項目は、生けるキリストが死んだ宗教に相対することです。第二の項目は、からだのかしらとしてのキリストが(コロサイ1:18)、召会の指導者や模範であるだけでなく、さらに内在的に教会のパースンであって、この方からからだ全体が存在し、生き、働くことです(エペソ4:16。コロサイ2:19)。第三の項目は、キリストの受肉、包括、強化における彼の満ち満ちた務めです。この務めを通して、神は完全に彼の永遠のエコノミーを彼の心の願いにしたがって完成されます。キリストは彼の受肉の時期に、神を人の中にもたらし、人性において神を表現し、わたしたちの法理的な贖いを完成し、わたしたちの罪の赦し(コロサイ1:14)、神の御前での義認(ローマ4:25。5:18)、神への和解(ローマ5:10)、わたしたちの地位上の聖別(ヘブル13:12)をもたらしました。キリストは彼の受肉の時期に、彼の復活を通して神の長子に定められ(ローマ1:3-4。8:29)、すべてを含む、調合された、命を与える霊と成り(Ⅰコリント14:45後半)、彼のすべての信者を再生して神の多くの子たちとされました(Ⅰペテロ1:3)。命を与える霊としての彼は強化の時期において、強化されて神の七つの霊と成り(啓1:4。5:6)、彼の有機的な救いを強化し、勝利者を生み出し、永遠に新エルサレムを究極的に完成することによって、教会の堕落を対処されます。
その霊
リー兄弟は彼のすべての務めの中で、神のエコノミーにおけるその霊の重要な役割を強調しました。まず、リー兄弟は、キリストが命を与える霊と成られたことを認識しました(Ⅰコリント15:45後半)。その方は復活におけるキリストの実際です(ヨハネ14:16-20)。第二に、彼は啓示録の学びにおいて、七倍に強化された霊に関する重要な啓示を発見しました(啓1:4。4:5。5:6)。その霊は永遠の方ですが(エペソ4:4)、教会の堕落の時代にその霊の機能と働きは、神のエコノミーの完了のために「七倍に」強化されます。第三に、リー兄弟は彼の務めの中で、新約の啓示にしたがって、その霊が、すべてを含む、調合された、命を与え、内住する、七倍に強化され、手順を経た三一の神の究極的完成としての究極的に完成された霊であるという、最も完全な記述を与えました。第四に、リー兄弟は、その霊としてのキリストの経験が、究極的に完成された霊と、霊なるキリストの神聖で奥義的な領域の中にもたらし、わたしたちはこの領域の中で三一の神が何であるかを享受し、経験することを認識しました。今日、命を与える霊としてのキリストは、物質のものではなく(単に霊的なものだけでさえなく)、神聖で奥義的なものをわたしたちに供給し、わたしたちを神聖で奥義的である領域にもたらしておられます。
救い
リー兄弟は、神の全体的な救いの法理的な面と有機的な面の両方の、とても豊かな理解を持っていました。神の全体的な救いの法理的な面は、神の法理的な贖いのためのキリストの死によって完成され、こうしてわたしたちは神の御前に赦され、洗い清められ、義とされ、神に和解させられ、地位的に神に聖別されます。わたしたちは法理的に贖われ、神に和解させられて、今や神の救いの有機的な面を享受します。それはキリストの命によって遂行され(ローマ5:10)、命を与える霊としての彼によってわたしたちに適用されます。そのような有機的な救いの中で、わたしたちは再生され、聖別され、更新され、造り変えられ、彼のかたちに同形化され、究極的に栄光化されます。
命
ウオッチマン・ニー兄弟は主に用いられて、信者たちが神聖な命を経験し享受することを回復しました。リー兄弟は主に導かれて、この命が実は手順を経た三一の神であり、造り変えられた、三部分から成る人の中に分与されるという、さらなる発展を見ました(Ⅰテサロニケ5:23。ローマ8:10,6,11)。この分与は人をキリストの栄光のかたちへと造り変え(Ⅱコリント3:18)、神の表現とならせます。 リー兄弟は聖書が命の木で始まり(創2:9)、命の木で終わっていることを見ました(啓22:2)。命の木の路線は常に、善悪の知識の木の路線と相対します。リー兄弟の務めにおけるもう一つの主要な強調は、キリストを食べ飲みすることによってキリストを経験し、享受することです(ヨハネ6:54-58)。キリストは今日、命を与える霊ですから、わたしたちは実行上、実際的に、彼をわたしたちの命また命の供給として享受することができます。リー兄弟はわたしたちに、主を食べる最上の方法は、彼の御言葉を祈り読みする、すなわち、神の御言葉をすべての祈りによって受け取ることであることを見せました(エペソ6:17-18)。彼はまた、キリストを享受する最も簡単な方法は、彼の御名を呼び求めることであることを見せました。聖霊の中でなければ、だれも「主イエス」と呼ぶことはできません(Ⅰコリント12:3)。主を呼び求めることは、旧約の聖徒たちも(創4:26。12:8。イザヤ12:3-4。哀3:55)、新約の聖徒たちも(ローマ10:12-13。Ⅰコリント1:2)、喜んで実行しました。リー兄弟はまた、キリストは命を与える霊、あるいは「ニューマ」(「息」)であるので、わたしたちは主を呼吸することができるのを見ることを助けました。実は、主を呼び求めるとは飲むこと(イザヤ12:3-4)、呼吸することです(哀3:55-56)。
信者たち
リー兄弟は聖書から、再生された人と手順を経た三一の神との有機的な結合を見せました(Ⅰコリント6:17)。彼はさらに聖書から、わたしたちと三一の神との関係は結合以上のものであることを見せました。それは手順を経た三一の神と、聖別された人であるわたしたちとの混ざり合いです。この混ざり合いの中で、神としての彼の独自性と人としてのわたしたちの独自性は、はっきりと守られています。神聖な啓示の最高峰は、神のエコノミーの中で、人が神格においてではなく命と性質において神化されるということです。リー兄弟は、わたしたちは神の神聖な命をもって神から生まれ(ヨハネ1:13。Ⅰヨハネ5:1)、彼の神聖な性質にあずかる者であるので(Ⅱペテロ1:4)、命と性質において彼が何であるかになると教えました。 主によってリー兄弟を通してわたしたちに与えられた最後の啓示の一つは、究極的に完成された神と再生された信者たちとの、宇宙的な、神性と人性の合併です。神は彼の神聖な三一において一つの合併であり(ヨハネ14:10-11)、神のエコノミーのゴールは、再生され、造り変えられ、栄光化された選びの民を、三一の神との合併にもたらすことであり、そこにおいてわたしたちと彼とは永遠に一つとなります(ヨハネ14:20。17:21,23)。一九九七年二月、リー兄弟は彼が与えた最後の集会で、神の有機的な救いを完全に経験することは、キリストの命の中で支配することと等しいと言いました(ローマ5:17)。この時代に、わたしたち信者は、キリストを命として、究極的に、新エルサレムにおいて完全に経験し享受することによって、神と共に永遠に命の中で支配するでしょう(啓22:5後半)。
教会
主が教会に関してリー兄弟に与えられた最も初期の啓示の一つは、教会はキリストのからだであるということでした(エペソ1:22-23。コロサイ1:24)。キリストのからだとして、それは一つの有機体であって(ヨハネ15:1-8)、組織ではありません。教会はまた、人類の二種類の人々、すなわちユダヤ人と異邦人からの、贖われ再生された信者たちから成る新しい人です。以前、本来敵であった者たちを、キリストは彼ご自身のからだの中で十字架を通して和解させ、両者を一人の新しい人へと形成し、彼らの間に平和をつくられました(エペソ2:15-16)。リー兄弟は、十字架上でのキリストの働きの結果の一つは、ユダヤ人と異邦人を分けていた規定を廃棄し、こうして一人の新しい人の中ですべての信者が真に混ざり合う道を開いたことであることを見ました。 リー兄弟はまた、キリストの豊満としての教会は、すべての聖徒がキリストの計り知れない豊富を享受した結果であることを見ました(エペソ3:8)。聖徒たちが享受したキリストの豊富は、キリストの豊満となって彼を表現します。教会はまた、キリストの花嫁としてのキリストの増し加わりです(ヨハネ3:29)。それはキリストの配偶者であり、キリストに適合します。リー兄弟はまた、三一の神の有機体であるキリストのからだの有機的な建造について供給しました。宇宙的なぶどうの木とその枝は(ヨハネ15:1-8)、キリストのからだの予表であり、それは三一の神のこの有機体の実際です。リー兄弟はまた、教会の最高の定義は、手順を経た三一の分与と超越したキリストの伝達の結果であるということを見るように、わたしたちを助けました(エペソ1:22)。教会は、キリストの宇宙的な分与の結果であり、あらゆる地方で地方教会として表現されます。これらの地方教会は、地方の立場に立つ燭台であり、ひとりの唯一のキリストを表現します。リー兄弟は、地方教会は過程、手続きであり、キリストの一つのからだは唯一のゴールであることを見ました。
教会の実行
ニー兄弟は初期のころ、中国における主の回復のために、パンをさくこと、浸水によるバプテスマなど、教会の実行の多くの項目を回復しました。そのような実行のゴールは、聖徒たちを霊的な道に戻して、教会生活を遂行し、すべての聖徒がキリストのからだの生ける肢体として正しく機能するように助けることでした。リー兄弟は、すべての聖徒が教会の集会で預言し、その結果キリストのからだを実際的に建造することの重要性を強調することによって、この回復を継続しました(Ⅰコリント14:3-4,24,31)。リー兄弟はまたローマ人への手紙第15章16節から、新約の福音の祭司職を見ました。彼はまたわたしたちを、からだの建造のために必要な四つのバイタルな実行、すなわち、生み、養い、教え、建造することにもたらしました。まず、わたしたちは罪人をキリストに導いて、彼らが神から生まれるようにする必要があります(Ⅰコリント4:15)。次にこれらの新しい信者たちは、親密な方法で、聖書からの神聖な供給をもって養われる必要があります(Ⅰテサロニケ2:7。ヨハネ21:15)。わたしたちが顧みているすべての人は、命の中で成長していくにつれて、真理において、またからだの中の機能において、成就されなければなりません。究極的に、すべての信者はこの模範にしたがって、からだの建造の同じ働きの中にもたらされなければなりません(エペソ4:12,16)。実行から言って、この有機的な建造の働きは、すべての肢体が成就されて預言し、キリストのからだが建造されることで究極的に完成します。
一九九二年に始まり、リー兄弟は教会を、教会の拡増と建造のために新しい道に、すなわちバイタルグループの道に入るよう導きました(ヘブル10:24-25)。バイタルグループで、聖徒たちは相互の愛と牧することの雰囲気の中で共に混ざり合わされ、建造されます。彼らはまた共に労苦して福音をもって未信者を訪問し、教会が継続的に拡増するようにします。
リー兄弟は彼の務めの最後の数か月に、すべての聖徒が混ざり合い、キリストのからだの真の実際をもたらす必要を強調しました。混ざり合いを通して、多くの聖徒たちは成就されて勝利者となり、共に建造されて今日のシオンとなることができます。
新エルサレム
リー兄弟は新エルサレムの把握と評価において、彼より前の聖書研究者たちをはるかにしのいでいました。彼は、新エルサレムは聖書における神聖な啓示の総合計であることを認識するに至りました。聖書のすべての啓示は究極的に、新エルサレムに見いだされる究極的完成を示しています。リー兄弟はまた、新エルサレムは手順を経て究極的に完成された三一の神と、選ばれ、贖われ、再生され、聖別され、造り変えられ、同形化され、栄光化された彼の選びの民とが混ざり合わされて、永遠に、宇宙的な、愛すべき夫婦となることの究極的完成であることを教えました(啓21:2,9-10)。
新エルサレムに関する最高の啓示と、神のエコノミーのゴールに関する最高の啓示は、新エルサレムが神性と人性の結合と混ざり合いの宇宙的な合併であるということです。しるしとして、新エルサレムは、神と人が合併されて永遠に相互内在する一つの実体となること、神性と人性が永遠に混ざり合わされることを表徴します。リー兄弟は主に用いられて、この合併に関する広大な啓示のかぎを開きました。創造の前、神は彼の三一において、一つの合併として永遠に存在しておられましたが、時間の中での彼の働きの大きな結果として、新エルサレムはその合併の拡大となり、それには再生され、造り変えられ、栄光化された彼の選びの民を永遠に含みます(啓21:2-3)。(ウイットネス・リー:「今の時代に神聖な啓示を遂行した生きた供え物」30−42ページ、日本福音書房)
要するに唯一の神が、三であるパースンの御父、御子、その霊の3段階を通して、神を私たちのうちに分与することが神の新約のエコノミーであり、この究極に神と人が混ざり合うことによって教会が神化し(ただし神格においてではないが)、究極的に神と人の混ざり合いによって夫婦として結ばれ新エルサレムに至るというわけです(→「リー語録」参照)。すなわち新エルサレムとは神の人の混ざり合いによる人の神化の究極的完成図というわけです。神を食べることにより、父と子とその霊と教会は四で一となると言います。ウイットネス・リー自身の例話(「神の永遠のご計画」)でいうと、丸ごとのスイカ(神=御父)は食べることができないが、まずスイカを切り分けて小さくし(御子)、それをしぼればスイカ・ジュース(その霊)として容易に食べることができる。しかもそのジュース(その霊)の中にはスイカの全エキスが濃縮して含まれており、これに与れば全スイカ(神)を食べることと同じである、というのです。その神を栄養分として、神が人の内に造り込まれ、混ざり合った究極に、人が神化され、夫婦として結合された新エルサレムの完成があり、これはウイットネス・リーが他のいかなる聖書学者に勝って見出し得た宇宙の奥義と言うわけです。
これらの神の三一性(注)、キリスト、その霊(彼らはなぜか"みたま"とあえて呼ばないで、"その霊"と称する)などの一般のクリスチャンが注意を払わない、あるいはあまり知らない、歴史的教会が堕落して失われていた真理をウイットネス・リーが回復し、それに忠実に従うのが地上における唯一の真のキリストの体の表現である「地方教会(○○に在る教会)」であり、その"神のエコノミー"はリーのみが見出し得た神の奥義というわけです。しかしここで私が本当に不思議に思うことは、「もっとも神と混ざり合って、神化され、聖化されている」はずのウイットネス・リー氏の晩年の行状はどのようなものであったかということです。あの様を見るならば、おそらく"地方教会"の信徒は希望を持つことはできません。そしてこれは一部の指導者たち(吉○、広○氏など)はよくよく知っておられるはずのことです。だから脅しまがいの手段によって真実を封印することに躍起になるわけです。私は現在ウイットネス・リーが主の前でどのような状態でいるのかにひじょうに興味があります。
(注)彼らの神の"三一性"の記述は一見もっともらしいが、これはもともとの「様態論」的説明に対して批判が行われるごとに、その言辞を変化させてきたからです。このあたりの歴史的経緯は解説3、論文4、論文5を参照のこと。