ウイットネス・リーの教え("啓示")の要約
ここで、次の論文[1]、[2]を読まれるための準備として、"ウイットネス・リー神学"の要点を紹介しておきます。ただし"地方教会"では、異端問題を要約によって論じることはルール違反であると主張しますが(愚かな主張です)、何分ウイットネス・リーの膨大な書物をここに掲載することは不可能ですので、この要約に異議のある方は原著に直接当たられることをお勧めします。
この要約は主に、ウイットネス・リー著:「神の永遠のご計画」、日本福音書房刊、によります。本書は彼の膨大な著作"ライフスタディー"のルーツとも言えるものです。リーは一時、自分の"ライフスタディー"を読めば聖書は不要であると宣言したこともあります。
また彼らは「"教え"とか"教義"は命の欠如した死んだものであり、ウイットネス・リーの語ることは神の"生ける啓示"であり、自分たちはその"啓示"にとらわれて、それに従うのであって、リーという個人に従っているわけではない」と主張しております。さらに彼らはある論点に批判がなされると、その言辞を変化させてきた歴史的経緯がある。特に"神の三位一体"に関してはその傾向が強く伺える。詳しくは論文[1]、[2]を参照されたい。
[1]堕落 (Fall)
神は人を創って2本の木の前に置かれました。1本は神の命を表す"いのちの木"、他方はサタンを表す"善悪を知る木"です。"命の木"を食べれば、人は神のいのちを得ることができたのですが、サタンの命を表す"善悪知識の木"の実を食べたため、霊は死んで、体の中にサタンのいのちが罪として入り込み、肉体は変質して"罪の体"すなわち"肉"となって堕落し、魂はサタンと一つとなって"自己"になりました。だから"魂"は「鬼(サタン)が云々する」と書くのです。自己の意見はサタンから出たものです。要するに堕落とは単に罪を犯ただけではなく、サタンが人のうちに内住したことです。
【注】ここのポイントは、リーによると「内住の罪=サタン」とし、"肉"とはサタンの内住により腐敗した肉体であるとし、"自己"とはサタンと一つにされた魂であるとします。
[2]贖い (Redemption)
三一の神は御子として人間の様をとり、人間生活を送り、罪は犯されませんでしたが、その肉体の中にサタンを取り込み、ご自分も罪とされ、十字架につけられました。そしてサタンを墓の中に残して、ご自身は復活されました。こうしてイエスは栄光化(十字架と復活)され、彼は聖霊としてご自身の人性と神性が混ざり合った"万有網羅の命を与えるその霊"となられ、信者の霊に入って、私たちの霊を再生され、霊のうちに住まわれます。こうして信者は、手順を経て加工された三一の神と一つ霊とされました。例えますと、丸ごとのスイカ(父なる神)は食べられないが、手順を経て小さく切り分け(子なる神)、ジュース(その霊)になれば、人間が栄養として内に取り込むことができるわけです。
【注】ここでリーは神の三位(父、子、御霊)を神が手順を経る際の段階あるいは役割・機能の違いであるとする。下の吉○氏の見解も参照されたい。第三位の聖霊も、イエスの死と復活の後は単なる聖霊ではなく、手順を経た神のすべて(その神性と人性)を網羅した"その霊"となられたと言う。すなわち1コリ15:45を根拠に、神は"神と人が混ざり合ったイエス"となられ、その死と復活の後、次の段階としてイエスはその霊 (The Spirit) になられたとして、「その霊=イエス」とする。これがリーの言う"手順を経た神"である。
[3]聖化 (Sanctification)
サタンは信者の体にいて、そこから魂を攻撃をしますが、私たちが古い自己に死ぬことにより、その霊は私たちの霊から魂の内へと浸透し、神-人であるイエスのご性質をその内に造り込み、私たちもその霊と混ざり合って、"神-人"とされます。この神と人の混ざり合い (mingling)こそ宇宙の奥義です。イエスご自身が神と人の混ざり合った存在であり、そのイエスはその霊となられ、私たちの霊に住まわれ、霊からその命を私たちの存在のうちに分与浸透されるのです。こうして私たちも神と人の混ざり合いによって、キリストのコピーである"神-人"とされます。宗派(教派)のクリスチャンには隠されており、神が"主の回復"の民にのみ与えられた"奥義なる啓示"です。
【注】ただし彼らは、イエスは混ざり合った結果、神でもなく人でもない存在になったのではなく、イエスは完全に神であり完全な人である、と言っております。正統な表現を用いて、自己の正統性を担保しつつ、それに自己の"何か"をプラスαするのがリーの特徴である。それを「自分だけが得た啓示」と誇るわけ。
[4]教会 (The Church)
私たちはキリスト教ではありません。カトリックはバビロンであり、プロテスタントの諸宗派はバビロンの娘たちです。しかし私たちは命の欠如した宗教ではなく"主の回復"です。宗派・教派から選び出された神のレムナントです。キリストの体である宇宙的教会の唯一の現れである地方教会の肢体である信者は、キリストを食べ飲みし、その霊で浸透され、互いに享受したキリストを分与し合って、互いに建造されていきます。こうしてついには神格は持ちませんが、教会は神と人が混ざり合って、神になるのです。教会とは団体のキリストとして宇宙に表現された神です。父と子とその霊と教会は四で一です。神が人となったのは、人が神となるためです。究極的に神性と人性の合併としての新エルサレムが完成され、地上に戻って来ます。これこそ神の永遠のエコノミーです。
【注】彼らは最近では、自分たちを"教会"といわず、"召会"と言っています。
[5]三位一体 (Trinity)
これは微妙な問題ですので、私の要約ではなく、彼ら自身の言葉を用います。
(1)ウイットネス・リーの言葉:
反対者たちの口はふさがれ、彼らの書く手は切り落とされたのです。 なぜなら彼らにはイザヤ書9章6節とコリント人への第一の手紙15章45節を 処理するすべがないからです。ある者がどれほどイザヤ9章6節を捻じ曲げようととも、ここに書いてある御父という称号を消し去ることはできません。 この節は、一人の男の子がわたしたちに与えられたこと、彼の名は永遠の父 と呼ばれることを言っています。この父は確かに神格の父です。。。歴史について、二ケア信条について、その他の信条について、わたしに言わないでください。 わたしは信条を顧みません。わたしは御言葉を顧みるだけです。
コリント人への第一の手紙15章45節は「最期のアダム(キリスト)は命を与える霊となった」 と言います。。。あなたは、この霊は神格の聖霊と異なると 信じているのでしょうか?もしそうであれば、あなたは二つの命を与える霊を信じているのです。それは異端です!この戦いをしている時、わたしは敵をずたずたにかみ裂くおおかみです。 - ライフスタディ創世記(6)pp.246-247
(2)"地方教会"最高責任者吉○氏による"聖書真理"のプリントより:
三人格はそれぞれの役割の違いであって、絶対に三神論者(注)が主張しているような別々の三人格ではないのである。。。神の三一性はイエスの神人二性をお持ちのことからも分かるように唯一である。。。彼らのようにあまりにも神の三格位を文字通りに強調する者は皆アリウス異端説のような三神論に落ち込んでしまう。彼らも一体という言葉を使うが、結局は父というお方がおられ、そのそばに御子というお方がおられ、そしてまたそのそばに神の霊というお方がおられ、三人が一つにまとまっているという考え方である。あるいは本質が同じであるから通じ会っておられ、三人が一つにまとまっているという考え方である。‘聖霊が私たちとキリストとを神秘的に結合してくださる’という彼らの言葉はなるほど神秘的で理解に苦しむ。別々に独立している三人格であれば、他人格を私たちを結合することは不可能なことである。。。見えない根源なる神をさす時に御父と呼び、現れなすった神をさす時、御子イエスと呼び、私たちのうちに入られたのを聖霊なる神と呼ぶ。。。三人格は機能的分担の時に啓示されたに過ぎない。人格という言葉自体が不正確である。
(3)あるメンバーの個人ホームページよりの引用:
聖書に三位一体という言葉はありません。この概念はあいまいで、あたかも三人の神がおられるかの印象を与えます。正確には三一の神、あるいは三で一の神という内容があります。すなわち父なる神と、子なる神と、霊としての神があります。神は唯一で、比類なく、ただお一人です。それなのに、子なる神としての御子イエス・キリストが父神に祈る場面が福音書にはあります。また、そこに聖霊を象徴するはとが登場したりします。あたかも神は三人おられるかのようです。いったい、三なのでしょうか、一なのでしょうか。もちろん、疑いもなく神は一です。決して三人ではありません。もし、そうであるなら、神を信じる者はいったいどなたに祈ったら良いのでしょう。実際には主イエスに祈るとき、父を別においている感覚はありません。主に祈るとき、確かに父に聞かれている感覚であり、それは同じ人であるというのが、信者の感覚です。
ではなぜ、聖書は神を三通りに記載しているのでしょう。・・・実は、神が三一であるのは、神のご計画にかかわることであり、神のみこころの成就のため、またわたしたちのためであるのです。彼はわたしたちの中にご自身を分与したいおかたです。わたしたちが神を持つことがわたしたちの救いです。彼はわたしたちに神以外の何かを与えたいのではなく、わたしたちに内でわたしたちの命となられたいのです。それで、父なる神は本質が愛であり、源です。しかし永遠で無限の神のまま、有限な人の中に入ることはできません。神が人と結合するために人となられ、人と接することができる人・神がイエスです。ですから恵みとは人に接し、人が享受することができる神です。人となられた神は十字架で人の代価となることができました。人が持つものを神は共有されました。そして人は神と交わることができます。そして、主イエスは復活し、命を与える霊となられました。それは人・神が人の中に入り、人の命となることができるためです。わたしたちが彼を呼び求めるなら、彼(イエス)は霊ですから、わたしたち人の霊の中に入ることができ、霊から魂に彼は命として浸透することができます。
神は三であり、父、子、霊は区別があり、同時同存されます。しかし神は唯一でもあります。このことについての彼の存在様式をわたしたちが思索することは益がありません。神はわたしたちの命となるために手順を経られた三で一の神です。彼が三一であるのはわたしたちにこの上なく近くなるためです。
【注】これらの記述から分かる通り、彼らは普通に言われる「三位一体論」に対して疑問を呈する。吉○氏の言う「三神論」とは、実は普通のキリスト教会で言われる「三位一体論」のことであり、よって彼らはこの用語を嫌い、あえて"三一の"神などの用語を用いる。実際リーは、神はessentiallyには区別された父、子、聖霊の3パースン(この"パースン"の定義は曖昧である)において同時同在されるが、イザヤ9:6にあるように、みどり児は永遠の父と呼ばれているから、「イエス=御父」であると結論する。またeconomicallyには、1コリント15:45:「最後のアダムは命を与える霊となった」を根拠に、神は神と人の混ざり合った存在イエスとなり、その死と復活の後、栄光化されて今やキリストは命を与える霊(=その霊)となられた、すなわち「キリスト=その霊」とし、また2コリント3:17:「主は今や御霊です」を根拠に、この主とはキリストのことであり、よって「キリスト=その霊」と結論する。結局「御父=御子」、「キリスト=御霊」が結論される。これがリーの言う他のクリスチャンが見落としている"その霊として手順を経て完成された神(the processed and consumated triune God as the Spirit)"である。
リーは批判される度にその言辞を微妙に変化させつつ、本質的には云々、経綸上は云々としながら、様態論と言われることを回避する努力をしてきており、表向きリーはサベリウスの様態論を否定し、もっともらしく"パースン"あるいは"ヒュポスタシス"なる単語を用いるが、その意味は非常に曖昧であり、彼らの主張は上記の記述のとおり、父、子、御霊を等値する。また「"神の三一性"は人との関りにおいて意味を持つものであり、それは神が私たちのうちに入り混ざり合うために必要な過程である」とする。吉○氏の主張のとおり、「役割の違いであって、別々の三人格ではなく・・・人との関りにおける機能分担のときに啓示されたに過ぎない」というわけである。すなわち神の3パースンを、区別された独自の人格を持つ存在としてではなく、神と人の関りにおける役割の違い(=原義的ペルソナ:役者の"仮面"から派生)の意味でとらえていることは明白である(=様態論)。ここに神の目的あるいは経綸とは「神が人にその命を分与し、神と人が混ざり合って、人が神になること」であり、、リー神学("啓示")はすべてこの「神と人の混ざり合いによる人の神化の奥義」を出発点として組み立てられている。
しかし神は人が存在してもしなくても、父、子、聖霊の区別された三位格(Three Persons)において存在され、しかしその本質においては一なる方である。ここの位格とは、明確にそれぞれの(しかし互いに矛盾することの無い)意志を持つ自存者の意味である(彼らはこれを"三神論"と批判する)。また彼らの言う「神は三であり、父、子、霊は区別がある」という際の三としての"区別"は、この三つの位格(Three Persons)としての"区別"ではなく、神が人と混ざり合うための一連の手順を経る際の過程における"区別"とされている。そこで人(教会)が神と混ざり合う結果として、父と子とその霊と教会が四で一にもなり得てしまう。神を三パースン(人格)にある唯一の方としてとらえるならば、決してこのような"四一"なる用語は出るはずもないことである。ここで私が問いたいのは、もし人との関りがなかったら、神はどのような様式で存在されるのか、ということである。リーの発想は人間主体のものであり、神主体のものではない。このような態度から、「神と人が混ざり合って人は神になる」などの"啓示"が生まれる。さらに吉○氏は、イエスにおける神性と人性の2性の問題と、3格位の問題を混同している。アリウスに関する理解も見当はずれであるが、それについては触れない。
ちなみに(2)に頻出する"感覚"ということもリー神学の一つの特徴である。あるカルト専門家はこれを"Sense Theology(感覚神学)"と呼んだ。これはウォッチマン・ニーの言うところの霊の三つの機能−良心、直覚、交わり−のうちの"直覚(Intuition)"のことを意味すると思われる。しばしば"聖霊の内的証し(Inner witness of the Spirit)"とも呼ばれているが、彼らはこれと魂の"感覚"としばしば混同する。よく言われる台詞に「感覚に従う」とか「誰々の感覚によると主の導きは云々」とか言われるが、きわめて情緒的色彩が強い。そしてこの"感覚"によって神の導きを求めることが勧められ、聖書の言葉もしばしば"感覚"が御言葉と照合されるのではなく、御言葉が"感覚"と照合される。この[2]の解説にある通り、神の三位一体についても「同じ人に祈っているという感覚」を判断基準とあるいは証拠としていることが彼らの一つの特徴である。しかるにイエスは、明らかに「父よ、あなたの意志が・・・」と祈られた。また御霊について、別の(原義は"他の同質の")助け主が来ると言われ、「その方が来られる時」と言われた。また自分の証しは一人の証しではなく、御父も共に証しして下さるから、聖書の二人以上の証人が必要であるとすると基準を満たしていることを訴えた。よって、「父と子と聖霊は区別された人格(正確には位格)であり、しかしその本質において一つである」とするのが、正統な三位一体論である。感覚による判断ではなく、御言葉による判断をすべきである。そして普通のクリスチャン同士ではこの問題で議論になることは通常はあり得ない。分からないことは分からないとするのが普通の信仰の姿勢である。