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うぇ〜ん!2010

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『國松 明日香 展』 2005年12月1日(木)〜31日(土)  年中無休&24時間公開

吉田豪介 (美術評論家)
 微妙に加工された円盤と、
繊細な密度を持つ鉄線で構成された
立体作品「水面の風」の連作。
同じ仕様による軽やかな壁面作品。
発想の源泉を初めて公開したような
興味深い展示空間となっている。
発想の源泉を初めて公開!?
〜〜 流れろ  流される前に 〜〜

または

〜〜 水の速度 光の永遠 〜〜

text by うぇ〜ん!久 保AB-ST元宏 (2005年12月19日 月曜日 午前3時28分)
「水脈に向かう B」(ドローイング)28×23cm
は、スピード。
どこまで、行くのだ?

「水脈に向かう J」(ドローイング)28×23cm
は、よどみ。
よどんではいるが、そこに生命は生まれる。

この二つで、本展覧会は、川をイメージしていることが分かる。

さらに、
「水脈に向かう H」(ドローイング)53.7×42.3cm
の、ユーモア。
方向と衝突。

それにしても、
「水脈に向かう G」(ドローイング)63.2×48.2cm
の、殺気は凄い。
水という地獄。


しかし、本展の真髄は、これらではなくて、立体レリーフ群だ。これらのドローイングが、立体化 されているのだ。

「水面の風3」(レリーフ)36×30×10cm
で、方向性の権力下にある荒い削られ方が生んだマチエールで統一された小判状のパーツが、ラン ダムに向きを与えられている。
たどりつく。 俺の存在を、頭から、打ち消してくれ。
この角度が生む光の違いが示すのは、川という乱暴な括り方をされてしまっている水の粒たちの存 在であるかのように一見、感じさせられる。
だが、まったく同じ表象であるはずの面たちが、まったく違う顔を見せている本当の理由は、それ ぞれの面の角度が原因なのではなくて、
國松の手による水滴の一葉、一葉によって、観ている者、つまり私の位置が、鏡の向こう側から相 対化させられているからなのだ。
それに気がつく時、画廊に立つ私は、この画廊が川であることに気がつく。


「水面の風6」(レリーフ)40×42×13cm
小判状の楕円形が、個としての水の存在であるのならば、その上に美しい曲線で影を従いながらス トロークされている黒く細い鉄のラインは、スケッチされた風か。
曲線がたくましい奥行きと、エロチックな影をちらりと見せる時、これらの作品が立体でなければ ならない理由がさらに加えられてゆく。
水の声。


床に置かれた、本展で最も巨大な作品が会場の中央に横たわっている。
準備される=準備された。
ここの画廊は本来は壁掛けの油彩画が中心なので、立体であり、しかも床置きであるとなると、普 通は見る者を驚かさせるはずである。
しかし、私は驚かなかった。むしろ私は、この異形が我々を驚かさなかったことに、驚く。
川だからこそ、
「水面の風10」(彫刻)400×55×32cm
のスタイルにたどり着く必然性があるのだろう。


この作品は奇をてらっているのではなく、実は、作者の今回のテーマ「川」の原型に最も近い作品 であるのだから、
本来であれば「奇をてらった」展示作品ととられる可能性を先回りして、
観る者の無意識の中では、きちんと画廊空間の中で川のイメージが抽象化されて処理されているの で、驚くことはなく、自然に受け入れられるのだ。
中でこそ、見えてくるもの。

観る者の抽象化された無意識を、具体的に確認したければ、床に眼球を寄せ付け、「水面の風 10」の端の部分から真横へ水平に観てみるがよい。
ほら、ほら、もっと沈むのだ。
溺れる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
この眼球の位置は、泳げないものには溺れる息苦しさを体験させ、泳げるものには水中の川の流れ と水の光の愉楽を体験させる。

そう思った時、やや長い画廊は川底となり、
「水面の風8」(レリーフ)240×65×26cm
海ではない。 ほめるな!流される前に! 〜〜 川の光に誘われて。
が、画廊の入り口で横一文字に川の流れの速度と、永遠の光の中へ私を誘い込む。
迷い込ませてやる!
突き当たりの壁に、ただ一筋、準備されている
「水面の風9」(レリーフ)85×170×27cm
落ちろ。
は、垂直に落ちてくる滝となり、
受身になる自分。
中央に横たわる川に水を注ぎ込み、左右の壁に飾られた水 面では、観る者の視線との共犯によって、水が光へと自立する。
私は画廊中央に横たわって、流れてゆく。
人間という川。
自分自身が「川」になって気がつくのは、そう、人間とは、血液という水を持った一本の川な のではないのか!
オフェリア・・・・。
そして、川はダムではない。
突き当たりがあっても、袋小路ではない。
この画廊もまた、突き当たりが左に折れ曲がり、川の水は一気に解放される。
パンタレイ。・・・永遠に回る。
そこで私が観たものは、再びドローイングの王国。
立体は再び、ドローイングに帰ってゆく。

私は國松の声を聞いたような錯覚に、溺れる。
「川でも、水でも、風でも、光でも、なんでもないのだ。」

作家は魅力的な題材からインスパイアされて、イメージしてゆく。その作業の中で、何度も具象と 抽象を往復するのだろう。
大切なことは、具象であるかでも、抽象であるかでもない。
「往復」、そのものが大切なのだ。
水が流れることによって、光を手に入れたように。