「水脈に向かう B」(ドローイング)28×23cm は、スピード。 「水脈に向かう J」(ドローイング)28×23cm は、よどみ。 この二つで、本展覧会は、川をイメージしていることが分かる。 さらに、 「水脈に向かう H」(ドローイング)53.7×42.3cm の、ユーモア。 それにしても、 「水脈に向かう G」(ドローイング)63.2×48.2cm の、殺気は凄い。 しかし、本展の真髄は、これらではなくて、立体レリーフ群だ。これらのドローイングが、立体化 されているのだ。 「水面の風3」(レリーフ)36×30×10cm で、方向性の権力下にある荒い削られ方が生んだマチエールで統一された小判状のパーツが、ラン ダムに向きを与えられている。 この角度が生む光の違いが示すのは、川という乱暴な括り方をされてしまっている水の粒たちの存 在であるかのように一見、感じさせられる。 だが、まったく同じ表象であるはずの面たちが、まったく違う顔を見せている本当の理由は、それ ぞれの面の角度が原因なのではなくて、 國松の手による水滴の一葉、一葉によって、観ている者、つまり私の位置が、鏡の向こう側から相 対化させられているからなのだ。 それに気がつく時、画廊に立つ私は、この画廊が川であることに気がつく。 「水面の風6」(レリーフ)40×42×13cm 小判状の楕円形が、個としての水の存在であるのならば、その上に美しい曲線で影を従いながらス トロークされている黒く細い鉄のラインは、スケッチされた風か。 曲線がたくましい奥行きと、エロチックな影をちらりと見せる時、これらの作品が立体でなければ ならない理由がさらに加えられてゆく。 床に置かれた、本展で最も巨大な作品が会場の中央に横たわっている。 ここの画廊は本来は壁掛けの油彩画が中心なので、立体であり、しかも床置きであるとなると、普 通は見る者を驚かさせるはずである。 しかし、私は驚かなかった。むしろ私は、この異形が我々を驚かさなかったことに、驚く。 川だからこそ、 「水面の風10」(彫刻)400×55×32cm のスタイルにたどり着く必然性があるのだろう。 この作品は奇をてらっているのではなく、実は、作者の今回のテーマ「川」の原型に最も近い作品 であるのだから、 本来であれば「奇をてらった」展示作品ととられる可能性を先回りして、 観る者の無意識の中では、きちんと画廊空間の中で川のイメージが抽象化されて処理されているの で、驚くことはなく、自然に受け入れられるのだ。 観る者の抽象化された無意識を、具体的に確認したければ、床に眼球を寄せ付け、「水面の風 10」の端の部分から真横へ水平に観てみるがよい。 この眼球の位置は、泳げないものには溺れる息苦しさを体験させ、泳げるものには水中の川の流れ と水の光の愉楽を体験させる。 そう思った時、やや長い画廊は川底となり、 「水面の風8」(レリーフ)240×65×26cm が、画廊の入り口で横一文字に川の流れの速度と、永遠の光の中へ私を誘い込む。 突き当たりの壁に、ただ一筋、準備されている 「水面の風9」(レリーフ)85×170×27cm は、垂直に落ちてくる滝となり、 中央に横たわる川に水を注ぎ込み、左右の壁に飾られた水 面では、観る者の視線との共犯によって、水が光へと自立する。 私は画廊中央に横たわって、流れてゆく。 そして、川はダムではない。 突き当たりがあっても、袋小路ではない。 この画廊もまた、突き当たりが左に折れ曲がり、川の水は一気に解放される。 そこで私が観たものは、再びドローイングの王国。 立体は再び、ドローイングに帰ってゆく。 私は國松の声を聞いたような錯覚に、溺れる。 「川でも、水でも、風でも、光でも、なんでもないのだ。」 作家は魅力的な題材からインスパイアされて、イメージしてゆく。その作業の中で、何度も具象と 抽象を往復するのだろう。 大切なことは、具象であるかでも、抽象であるかでもない。 「往復」、そのものが大切なのだ。 水が流れることによって、光を手に入れたように。 |