Text by 久保AB-ST元宏 (2005年5月30日)
うかつにも私は、風景画家は風景を描いているのだ、と、勘違いしていた。 もちろん、それは間違いだ。彼らは自らの内部の愉楽の波長と合った風景を一瞬にして掴み取り、 その選ばれた風景を画布に描く作業をすることにより、自らの愉楽を確認しているのだ。 たとえば、風景画家が丹念に複雑な中間色を使い分けたり、スピーディに原色を刷り込んだりする作業も、 自分の愉楽のレプリカとしての風景を鏡として、自分の愉楽の秘密を画布上に暴露する作業なのである。 この作業が鏡や写真を見ての自画像よりも奇妙であるのは、自分ではない他者である風景そのものに自分を探し出した、ということが一つ、 さらに、探し出した段階ではその理由は分からず、絵を描くことの果てにようやく得る、ということが二つ、 そして、これら全ての過程を支配しているのは描かれようとしている当事者である画家本人であるということ。 理由の三番目を補足すれば、自画像は機械的に提示できる鏡や写真を対象にできるが、 風景画の場合は、まず自分の投影である風景を探し出すという作業が加わるために、より人為的作業なのである。 それらの理由から、風景画家の場合は、描きたくなった風景を選んだ段階で、すでに作画の半分が終わったと言ってよい。 では、波多野のような画家は、どの段階で作画の半分が終えたと言えるのだろうか?
彼の絵を少し離れて観ればすぐに分かることだが、彼の絵は実に絶妙の色配分のパッワークで出来上がっている。 それはまるで、その色配分こそが彼の最終目標であるかのようなぐらいのレベルの高さである。 もし彼が天才であるとするのならば、彼の才能の最も高い位置にあるのは、それだろう。 であるからこそ、「少女・ピアノ」(F100)という作品を描きたくなった波多野の衝動は理解できる。 この絵が持つ上品な抽象性は、本個展の中では異色に感じられた方もいることだろう。 しかし、先に私が述べた「キャラクタライズの手法」としての画法の観点から、女性だけが描かれた絵ばかりを観てみるとよく分かる。 女性しか登場しない絵には、男性が加わる絵と比べるとソフトな印象がある。さらに、男性のみの絵と比べてみると、そのソフトさが際立つ。 もちろん、これらは偶然ではない。 波多野は「男」を描く時に、「神経症的な部分へのこだわり」を画法に取り入れ、「女」を描く時には、「面のダイナミズム」を画法に大きく取り入れる。 この差異は、絵の中にいる「男」と「女」の比率によって見事に数値化できる。 さらに、「面のダイナミズム」は巨大コンビナートのタンクや白い壁など、いたるところに、まるで「女」の代替のように描かれている。 また、「面のダイナミズム」は必要以上に広く描かれている「首」を描く時の執拗さにも現れている。 男であれ女であれ、「首」への興味は波多野の特徴である。 女、巨大コンビナート、首。 これらを描く時に根底にある「面のダイナミズム」は、その周辺に、男、クレーン、指などの「神経症的な部分へのこだわり」を配置することによって世界の一部となっている。
この「部分へのこだわり」が、同じ画面上で「面のダイナミズム」を得た時に起こる「部分超え」が、波多野の作品の「絶妙の色配分のパッワーク」へと昇華する動力なのだ。 この世は無数の「二元論」の同居によって成り立っている。 多角形が画数を増やすことによって、角の数が鋭角な印象を一時的には増やすが、さらに増え続ける過程の果てには、少し離れてみれば円に見えるようになる。 波多野が持つずば抜けた個性とは、そうではない、ということだ。 つまり、彼の絵の中には無数の「二元論」が同居している。 それらが増えれば増えるほど、その無数の末端がお互いに結びつき、巨大な円を形成してゆくのだろうが、 波多野の絵の場合は、そうは成らず、対立したままの「二元論」が、ささくれだったまま不機嫌な視線をこちらに向けているのだ。 さて、どうやら私は結論を先に書いたわりには、さらに設問ばかりを増やしてしまったようだ。 そろそろ、先に述べた結論へと駄文を加速せねばならない。
なぜ、波多野は正面の顔にこだわるのだろうか。 つまり、彼は右目と左目を描きたかったのだ。 そして、彼の作品で最も重要な事実は、彼が描く右目と左目は均一ではない、ということだ。一人の人物が正面を見ている時の左右の目は同じになるべきである。 しかし、鰈のように離れて描かれた人物の左右の目は、どの人物をピック・アップしても、どれもが左右、違う目をしているのだ。 確かに現実の人間の顔も厳密には正確なシンメトリーでは、ない。 しかし、波多野は、いびつなぐらい左右の目を非対称に描く。あえてプリミティブに描いているかのように、だ。 目の非対称は、波多野の絵を写真に撮影したものではよくは分からない。現物の絵を観ると、疑いも無く明らかである。 そうすれば、波多野の描く人物は、 何を見ているのか?=何を考えているのか?
それは人間の抱える両義性の象徴であり、複雑さの象徴である。 右目で信じ、左目で疑う。 右目で愛し、左目で憎む。 一見、分かりやすそうな波多野の絵の「得体の知れなさ」が凝縮されているのが、このアンバランスな左右の目だ。 だから、波多野の絵の人物は正面を向いていなければならないのだ。 波多野 恭輔とは、二元論がからみあうこの世界の風景を描く、風景画家なのである。 |