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Artとは、ニューヨークのホイットニー美術館から、札幌のエルエテまで、どこでもドアの奥で、今夜、パーティが2時から開かれる!Art
Artとは、ニューヨークのホイットニー美術館から、札幌のエルエテまで、どこでもドアの奥で、今夜、パーティが2時から開かれる! 波多野 恭輔 展

 1938 樺太・大泊(サハリン・コルサコフ)で生まれる
 1963 北海道学芸大学旭川分校卒業
 1966 純生美術会(純生展)会員
 1976 北海道美術協会(道展)会友
 1980 北海道美術協会会員
さて、観るか。
会期;2006年5月1日(月)〜31日(水)
★just imagine...♪そして、アートだ!あん♪アン♪ギャラリーどらーる
札幌市北4西17 HOTEL DORAL 1F
年中無休&24時間公開

〜〜 右目と左目のフーガ 〜〜
Text by 久保AB-ST元宏 (2005年5月30日)

うかつにも私は、風景画家は風景を描いているのだ、と、勘違いしていた。
もちろん、それは間違いだ。彼らは自らの内部の愉楽の波長と合った風景を一瞬にして掴み取り、
その選ばれた風景を画布に描く作業をすることにより、自らの愉楽を確認しているのだ。
たとえば、風景画家が丹念に複雑な中間色を使い分けたり、スピーディに原色を刷り込んだりする作業も、
自分の愉楽のレプリカとしての風景を鏡として、自分の愉楽の秘密を画布上に暴露する作業なのである。
この作業が鏡や写真を見ての自画像よりも奇妙であるのは、自分ではない他者である風景そのものに自分を探し出した、ということが一つ、
さらに、探し出した段階ではその理由は分からず、絵を描くことの果てにようやく得る、ということが二つ、
そして、これら全ての過程を支配しているのは描かれようとしている当事者である画家本人であるということ。
理由の三番目を補足すれば、自画像は機械的に提示できる鏡や写真を対象にできるが、
風景画の場合は、まず自分の投影である風景を探し出すという作業が加わるために、より人為的作業なのである。

それらの理由から、風景画家の場合は、描きたくなった風景を選んだ段階で、すでに作画の半分が終わったと言ってよい。

では、波多野のような画家は、どの段階で作画の半分が終えたと言えるのだろうか?
結論から先に言えば、
右目と左目を描き分けた時に、
波多野の絵は完成の半分にまでたどり着いたことになる。と、私は思う。

顔の中心に二つある「目」に代表されるように、
波多野のモチーフには多くの二元論が同居している。
つまり、
男と女、
オトナとコドモ、
人間と犬、
都会と田舎、
裕福と貧乏、
コンビナートと長屋、
お人よしと狡猾、
そして、右目と左目。

これらの二元論が同居しているために、一枚の絵として熟成された時には、
むしろ二元論をかたくなに拒む別の価値観が浮かび上がってきている。
それが何か答えが出る前に、さらには問う前に、絵の魅力が大きく観るものにかぶさってくる。
その異形さこそが、我々が波多野絵画に惹かれる根拠だ。
久保AB-ST元宏の目。

コドモの目。
また、波多野の絵にイラストレーションを観たような錯覚を感じる者も多いことだろう。
たとえば、週刊誌『週刊新潮』の表紙絵を毎週、担当してみてもいいかも、
と、思えるぐらいの歩み寄りがある絵でもある。
このサービス精神にも似た印象を観る者が得る理由は、
波多野が描く先にあげた二元論の両者を別々の画法で描きわけているからである。
たとえば、「男」と「女」では、
男は細かい陰影と角ばった短いラインの接続の繰り返しで描かれ、
女は広い面に対する憧れから描かれている。
さらに、その「男」と「女」を「オトナ」という集合にくくった場合に対峙する「コドモ」は、
「オトナ」が共通して持つ分別気味な画法を無視して、
野生に近い人間の代表として荒々しく小刻みに重ねられる線と、
より不安定な色のばらまきで表現される。

とんぼ
「とんぼ」(F20)

「戻った娘」(S50)
「戻った娘」(S50)
たとえば、「戻った娘」(S50)における都会帰りの娘はどこまでも白く、なめらかな平面を持ち、
男の代表である父親は不器用な多角形として描かれ、
娘への理解を含む母親は白い頬かむりで女の平面を維持し、
コドモはどこまでも粗雑なままに描かれる。
このように、あらかじめ準備された二元論に基づき、
絵の登場人物の役割と性格の差異が明確になる絵画の技法で描き分けているのであるから、
絵を観る者にとっては、考える前に「分かっちゃう」のである。
これは演劇のテクニックであるキャラクタライズの手法を絵画に取り入れたとも判断できる。
つまり、絵画技法の使い分けによる、記号化、である。
そして、その結果生れる観る側の過剰な「理解」が
「波多野の絵は親しみのある絵である」という分類に閉じ込めてしまうのだ。
もちろん、このことは、けっして欠点ではない。
しかし、波多野の波多野たる所以は、「親しみ」どころではなく、むしろ「得体の知れなさ」にこそ、あるのだ。

その「得体の知れなさ」を現しているのが、
「神経症的な部分へのこだわり」と、「面のダイナミズム」という正反対の性格の同居である。
作品「戻った娘」で言えば、
8個のいびつな目が、「神経症的な部分へのこだわり」であり、
それと、
絵の上半分を占めている女の肌のような「面のダイナミズム」への異常なほどの関心との同居だ。

波多野の「面のダイナミズム」は、重ねて塗られる色と面の重層の快楽だけではなく、それぞれの作品の全体を覆っている。
彼の絵を少し離れて観ればすぐに分かることだが、彼の絵は実に絶妙の色配分のパッワークで出来上がっている。
それはまるで、その色配分こそが彼の最終目標であるかのようなぐらいのレベルの高さである。
もし彼が天才であるとするのならば、彼の才能の最も高い位置にあるのは、それだろう。
であるからこそ、「少女・ピアノ」(F100)という作品を描きたくなった波多野の衝動は理解できる。
「少女・ピアノ」(F100)
「少女・ピアノ」(F100)
少女の目。

この絵が持つ上品な抽象性は、本個展の中では異色に感じられた方もいることだろう。
しかし、先に私が述べた「キャラクタライズの手法」としての画法の観点から、女性だけが描かれた絵ばかりを観てみるとよく分かる。
女性しか登場しない絵には、男性が加わる絵と比べるとソフトな印象がある。さらに、男性のみの絵と比べてみると、そのソフトさが際立つ。
もちろん、これらは偶然ではない。
波多野は「男」を描く時に、「神経症的な部分へのこだわり」を画法に取り入れ、「女」を描く時には、「面のダイナミズム」を画法に大きく取り入れる。
この差異は、絵の中にいる「男」と「女」の比率によって見事に数値化できる。
午後の部屋
「午後の部屋」(S50)
「儲け話」(F100)
「儲け話」(F100)
「人の風景Ⅰ」(F100)
「人の風景Ⅰ」(F100)

さらに、「面のダイナミズム」は巨大コンビナートのタンクや白い壁など、いたるところに、まるで「女」の代替のように描かれている。
また、「面のダイナミズム」は必要以上に広く描かれている「首」を描く時の執拗さにも現れている。
男であれ女であれ、「首」への興味は波多野の特徴である。

女、巨大コンビナート、首。
これらを描く時に根底にある「面のダイナミズム」は、その周辺に、男、クレーン、指などの「神経症的な部分へのこだわり」を配置することによって世界の一部となっている。
究極の「面のダイナミズム」絵画とは、裸婦であるのだが、
波多野の興味が裸婦に向わない理由は、
同時に「神経症的な部分へのこだわり」を描かなくては落ち着かないという
彼の大きな個性からである。

ちなみに、小品のサイズでは、スペースが必要な「面のダイナミズム」が出せない。
その点への反論として、小品である「鈍色の刻Ⅰ」(F3)が展示されている。
小品ながらも広くとられた左上の空間は
横に向う筆跡のマチエールと連動したかのように真横に流れる女の髪の毛、
そしてズバッと垂直に落とされる洋服の縦への動き。
またしても波多野は小品の中で「面のダイナミズム」を描ききったのである。
「鈍色の刻Ⅰ」(F3)
「鈍色の刻Ⅰ」(F3)

「出かける前」(F4)
「出かける前」(F4)
このようなサイズの制限が生む葛藤には、部分の主張が応えている。
たとえば、「出かける前」(F4)のテーブル上に
数式のように並べられた赤いトウガラシ(かニンジン?)が、
その役割を果たしている。

今回の個展全体の中で来場者が最も気になったのは、
「人の風景Ⅱ」(F50)で観た絵の上半分を覆うかのような白い壁であろう。
おそらくは、来場者の多くは、この白いスペースの意味を考えようとしつつも、
その答えを保留するという贅沢さに酔いながら、ゆっくりと、となりの絵へと足を向けたのだと思う。
この白いスペースが観るものに与える不安のような気分とは、この部分が「面のダイナミズム」であるのにもかかわらず、
同時に「神経症的な部分へのこだわり」でもあるという離れ業の両立を、
色、筆のタッチ、マチエールなどを総動員して実現させているからである。
白い壁?
「人の風景Ⅱ」(F50)

波多野はコンビナートの巨大な腹を描きつつも同時に、神経質な鶏の群れのようなクレーンのつらなりを描き逃さない。
わん。
「「犬の道Ⅰ」(F30)
千の線。

この「部分へのこだわり」が、同じ画面上で「面のダイナミズム」を得た時に起こる「部分超え」が、波多野の作品の「絶妙の色配分のパッワーク」へと昇華する動力なのだ。

この世は無数の「二元論」の同居によって成り立っている。
多角形が画数を増やすことによって、角の数が鋭角な印象を一時的には増やすが、さらに増え続ける過程の果てには、少し離れてみれば円に見えるようになる。
波多野が持つずば抜けた個性とは、そうではない、ということだ。
つまり、彼の絵の中には無数の「二元論」が同居している。
それらが増えれば増えるほど、その無数の末端がお互いに結びつき、巨大な円を形成してゆくのだろうが、
波多野の絵の場合は、そうは成らず、対立したままの「二元論」が、ささくれだったまま不機嫌な視線をこちらに向けているのだ。


さて、どうやら私は結論を先に書いたわりには、さらに設問ばかりを増やしてしまったようだ。
そろそろ、先に述べた結論へと駄文を加速せねばならない。


「落日」(F8)
「落日」(F8)
波多野が描く人物には、横顔が無い。みんな、正面の顔だ。
完成度の高い作品「落日」(F8)に登場する犬にいたっては、顔は横を見ているのに両目はきちんと正面を向いている。
これは波多野がエジプト美術かピカソの影響を受けたからではなくて、そこに両目がなくてはならなかったからなのだ。
ハーリンと、ぼく?
今回の個展では唯一、小品ながらも、「出かける前」(F4)に出てくる女のみが、横顔だ。
しかし、そうではあっても、中央の横顔の女を挟んで右の犬。
さらに、左の皿の上の黄色いチーズ(?)が、擬似的な正面顔を演じている。


なぜ、波多野は正面の顔にこだわるのだろうか。
つまり、彼は右目と左目を描きたかったのだ。
そして、彼の作品で最も重要な事実は、彼が描く右目と左目は均一ではない、ということだ。一人の人物が正面を見ている時の左右の目は同じになるべきである。
しかし、鰈のように離れて描かれた人物の左右の目は、どの人物をピック・アップしても、どれもが左右、違う目をしているのだ。
確かに現実の人間の顔も厳密には正確なシンメトリーでは、ない。
しかし、波多野は、いびつなぐらい左右の目を非対称に描く。あえてプリミティブに描いているかのように、だ。
目の非対称は、波多野の絵を写真に撮影したものではよくは分からない。現物の絵を観ると、疑いも無く明らかである。
目ーーーー!
「何の話?」(F100)
目の冒険。

そうすれば、波多野の描く人物は、
何を見ているのか?=何を考えているのか?

そこでどうしても触れなくてはならないのは、本個展のクライマックスである「ある日の集まり」(F15)である。
これは組合活動の集会か?でも、子供もいる?
ここで、今までは違う手法で描き分けられていた「男」、「女」、「コドモ」が、全て同じタッチで描かれている。
その効果のために、この個展内のその他の絵を観てきた私たちは、奇妙なフラット感覚を味わうことになる。
描き分けられるべきタッチがフラットになった時に、異様に浮かび上がってくるのが、人物の「目」である。
まるでもう波多野には、「目」以外には興味が無いかのようである。
「ある日の集まり」(F15)
「ある日の集まり」(F15)

波多野の絵に出てくる右目と左目はなぜ、同じ人物の同じ顔の中であるのに、違うのか?
それは人間の抱える両義性の象徴であり、複雑さの象徴である。
右目で信じ、左目で疑う。
右目で愛し、左目で憎む。
一見、分かりやすそうな波多野の絵の「得体の知れなさ」が凝縮されているのが、このアンバランスな左右の目だ。
だから、波多野の絵の人物は正面を向いていなければならないのだ。
波多野 恭輔とは、二元論がからみあうこの世界の風景を描く、風景画家なのである。