ジャンヌ・ダルク ( アナトオル・フランス著,吉江孤雁訳、早稲田大学出版部,大正6) 下篇 三、 パリイ攻擊 |
ジャンヌ・ダルク 下篇 三、パリイ攻擊 ジヤン王 がイギリス人 の手 に捕虜 となつてゐた當時 、パリイ市民 は敵 が國内 の中心地 へ入込 んだのを見 て、この市 も攻擊 されはしないかと恐 れた。そこで急遽 この市 に防禦工事 を加 へ、正面濠 や背面濠 で取 り圍 んだ。パリイ大學側 の郊外村落 は防備 を施 さずに遠隔 の村落 などは燒 き拂 つて了 つた。併 し右方 に在 る一層廣大 な郊外 は、殆 んど市 と續 いてゐるので、その一部分 は矢張 り濠 で圍 んだ。平和 克復 の後 、時 のフランス攝政 シヤルルは、市 の北面 一體 に銃眼附 きの壘壁 を築 き、所々 に角塔 を建 てた。濠 は或 る所 は單線 に、或 る所 は復線 になつてゐた。この工事 は時 の市長 某 が管理 した。聖 アントワヌ稜堡 も亦 た此 の市長 に委任 して築 かせた物 で、これはシヤルル六世 の時完成 した。この堡壘 は東側 のセーヌ河 に近 いレ・セルスタン高臺 から起工 された。この防備線内 には、それまで郊外地 に屬 してゐたサン・ポール以下 七八の區域 が包括 されて、市 はルーヴルまで連續 した。此防備堡壘 には六ヶ所 の門 が出來 た。卽 ち、東 の方 から始 めると、ボオーデ門 (聖 アントワヌ門 )、聖 アヴオワイ門 、聖 ドニイ門 、聖 マルタン門 、聖 オノレエ門 及 びセーヌ門 である。 パリイ市民 はイギリス人 を好 まなかつた。彼等 はこの市 がイギリス人 の支配 にあることを痛 く悲 しんだ。故 シヤルル六世 の歿後 、フランス王 の全權 がベツドフオルド公爵 の手 に歸 した時 には、市民 は大 いに歎 いた。併 し止 むを得 ない事 は、忍 ぶより外 に仕方 がない。市民 はイギリス人 を好 まなかつたが、容貌 も秀麗 で、全 クリスト敎國土中 で最 も君德 に富 むフイリツプ公爵 は稱讃 した。ブールジユの王 に至 ては容貌 も賤 しく心立 も狡猾 なので、何 も取柄 がなかつた。市民 は彼 を輕蔑 し、彼 の部下 を恐 れ戰 いた。と云 ふのは、最早 十年 この方 、彼等 は市中 を荒 らし、劫奪 し、市民 を捕 へて行 つては身請金 を出 させたりするのだ。イギリス人 やブルガンデイ人 も同樣 のことをした。千四百二十三年 の八月 フイリツプ公爵 がパリイへ來 た際 には、その部下 の者等 は、味方同士 なのに拘 らず、彼處 此方 と荒 らしたり劫奪 したりした。が、それは唯 だ一時的 で濟 んだ。然 るにアルマニヤツク方 になると、何時 までも侵掠 し、手 の附 けられる限 りの物 は、のべつ に盜 みをするし、また穀倉 や敎會堂 を燒 き、女子供 を殺 し、尼 や處女 を強姦 し、男等 を嬲殺 しにするのであつた。千四百二十年 には丁度惡魔 の放 たれたやうに、彼等 がシヤムピニイの村 に襲來 して、忽 ちの間 に、燕麥 、小麥 、、 羊 、牛 、女 や子供 を燒 いて了 つた。クロワツシイでは今 一層酷 いことをした。實 に彼等 はクリスト敎徒 に未 だ曾 てなかつたやうな虐殺 を敢 てしたのである。而 して千四百二十九年 に於 ても尚 ほ、パリイの市 には少 なからぬシヤルル王家 の部下 どもが見出 された。シヤルル王家 に極 めて忠義 なクリスチイヌ・ド・ピザンは言 つた、「パリイには數多 の惡 しき者 あり。また善良 なる者及 び王家 に忠誠 なる者 もあり、されど是等 は敢 て聲 を高 くせず」と。裁判所 や、ノオトルダムの高僧會 にさへもアルマニヤツク方 と關係 ある人々 が見出 されたといふ事 は一般 に知 られてゐた。 この恐 るべきアルマニヤツク方 は、かのパテー戰勝 の翌朝 、パリイへ攻 め寄 せるばかりになつた。遅 かれ早 かれ何 れにしてもアルマニヤツク方 は攻 め寄 せるものとのみ期待 されてゐた。イギリスの攝政 の心 は、既 にパリイを敵 の手 に奪 はれたかの如 くであつた。彼 は討洩 された兵士 を從 へて退却 し、ヴアンセンヌ城 に遁 げ込 んだのである。イギリス軍敗北 の三日後 、パリイでは非常 な恐慌 が起 つた。「アルマニヤツク方 が今夜 攻 め寄 せる」と騒 いだ。折柄 アルマニヤツク勢 はオルレアンに在 つてヂイアンに集合 し、オーゼルへ進軍 せよ、といふ命令 を受 けつゝあつたのである。この報告 を聞 いてイギリスの攝政 ベツドフオルド公 は屹度 安心 の太息 を洩 らしたに違 ひなかつた。そして彼 は直 ちにパリイ防禦竝 びにノルマンデイ守備 の準備 に取掛 つたのである。 この恐慌 が通過 すると同時 に、市民 の心 はブルガンデイ方 に傾 いて了 つた。元來 イギリス人 には何 うしても忠誠 を盡 くす心 がなかつたが、今 やそれが愈〻 鮮明 になつた。一方 に於 てはシヤルル王 の提案 に好意 を有 するかの嫌疑 のかゝつた市參事會員 も多 かつた。そこで七月 十二日 に市會議員 の改選 を行 つた。今度 は最 も熱誠 なブルガンデイ黨 が大多數 を占 め、市長 がまたイギリス側 に信用 の厚 いブルガンデイ黨 であつた。この變化 はシヤルル王 に取 つて非常 な損失 であつた。つまり王 は、フランス舊領 の町々 を奪還 するに暴力 を用 ひずして成 るべく平和手段 を採 るといふ政略 を有 してゐたからである。丁度 この時期 に際 して、イギリスの攝政 はパリイ市 の支配權 をブルガンデイ公 フイリツプに引渡 した。しかも彼 は、先 きにオルレアンをブルガンデイ公 に拒 んだのが遺憾 であるからと言 つて、さうしたらしい。かうして、この國中 の最大都市 をブルガンデイ方 の手 に渡 して置 けば、イギリス方 で有 つて居 るよりも却 つて都合 が好 い、却 つて有力 にシヤルル王方 を拒 ぐことが出來 る、とさう彼 は見 て取 つたのだ。卽 ち、パリイ市民 の故 ブルガンデイ公 に對 する好感 が募 れば募 るほど、シヤルル王 に對 する惡感情 がそれだけ強 まる譯 であつて、フイリツプ公 は The Palaus de Justice (正義の宮殿)に於 て父君 の橫死 の顚末 を朗讀 し、アルマニヤツク方 の不信義 と條約違反 とを愬 へ、そしてモントロオの血潮 をして天 に叫 びかけさしたのである。こゝに於 て出席 の人々 は今更 の如 く敵愾心 を目覺 ました。それと同時 に、フイリツプ公 やイギリス攝政 に對 する正當 な忠義 を誓 つた。この後 しばらくの間 は毎日々々 、正式僧職 と非正式僧職 とに依 つて、この同 じ誓 ひが立 てられたのである。併 し市民等 は、その立派 な公爵 に對 する愛情 に依 つてよりも寧 ろアルマニヤツク人等 の冷酷 を想 ひ起 して一層守備 を嚴 にしたのである。パリイ市中 に一つの流言 が傳 はつた。卽 ち、ヷロワのシヤルルは部下 の傭兵等 に、パリイ市 とその市民 の全部 を打任 せて、そして此市 の現在家 の建 つてゐる土地 を耕 してしまふ事 にしたと云 ふ噂 であつた。市民 は悉 くこれを本當 だと信 じた。こんな流言 はシヤルル王 を最 も誣 ひた見方 であつた。彼 は如何 なる場合 にも憐 れみ深 く且 つ溫和 であつた。彼 の顧問官 は、かの戴冠式戰役 を賢 く變 へて武裝 せる平和 の行列 にしたのである。併 しパリイ市民 はこのフランス王 の意向 となると虚心坦懷 に批判 することが出來 なかつた。そして一旦 アルマニヤツク方 にこの市 が渡 らうものなら必 ず火 と劍 にて荒廢 せしめられるものと思 つた。今一 つの事情 が彼等 の恐怖 と惡感 とを強 めた。彼等 は嘗 ては托鉢僧 リシヤールの説敎 を非常 に敬虔 に謹聽 したのであるが、今 やこの僧 がシヤルル勢 に加 つて、その鋭 い能辯 でシヤムパーニユの立派 な町々 を征服 したと聞 いたので、彼 の上 に、神 と聖者等 の呪 ひの下 らんことを祈 つた。市民等 はこの善良 な僧侶 から貰 つて銘々 の帽子 に附 けてゐた聖像入 りの白鑞 を剝 ぎ取 つて棄 てた。そして彼 に對 する痛烈 な憎惡 の結果 、今 まで彼 の勸告 に依 つて廢 してゐたところの博奕 や飮酒 に直 ぐ樣 立 ち歸 つたのである。處女 ジヤンヌも之 れに劣 らぬ恐怖 を彼等 に吹 き込 んだ。彼女 は女豫言者 の役 を演 じて、「眞 に誠 にこれこれのこと成 るべし」といふ調子 で言 つてゐるのだと傳 はつた。「アルマニヤツク方 には女 の形 をした生物 がをる。それの正體 は神 のみ知 り給 ふ。」と市民等 は叫 んだ。そして彼等 は處女 を賣笑婦 と罵 つた。彼等 に取 つては、この一人 の修道僧 とこの一人 の處女 とは實 に無數 の異敎徒 や囘敎徒 どもにもまして恐怖 を注 ぎ込 んだ。市民等 は皆臆病神 に取 り憑 かれてしまつたのである。 シヤルル王 が戴冠式 を行 ひに行 つてゐた間 に、軍隊 がイギリスからフランスへ入込 んだ。イギリスの攝政 は之 でノルマンデイを蹂躙 しようと企 てた。彼 はルーアンへの進軍 を自 ら指揮 した。パリイの防禦及 び監視 は、ルクセンブルグのルウイ、テルーアンヌの監督以下 の歷々 に二千の兵士 とパリイ市民輜重隊 とを添 へて専 ら夫 れに當 らしめた。市民輜重隊 はすべて堡壘防禦及 び大砲操縱 を引受 けさせられた。その指揮者 としては、市 の二十四區 を代表 する名門 の人々 が當 つた。七月 の末 からは、最早 びくびく驚 くことは無用 なほど、十分 に守備 が整 つた。 八月 十日 にはアルマニヤツク方 がラ・フエルトミロンに屯營 したが、パリイの方 では四個 の塔 と二重吊橋 で衞 られた聖 マルタン門 が鎖 された。そして何人 も通行 を許 されなかつた。同月 二十八日 には、シヤルル王 の軍隊 が聖 ドニイ門 を占領 した。それから後 は何人 も市中 を出 なかつた。市 の北面 の平地 を蔽 うてゐる葡萄圃 や野菜畠 にも行 かなかつた。物價 は直 ちに騰貴 した。 九月 の初 めつ方 、各區 を代表 する隊長等 は、各々 の受持區域 の濠 を整頓 し且 つ壘壁 や門 や塔 の上 にある大砲 を整理 した。石工等 は大砲 に用 ひる爲 め幾 千個 もの砲丸 を作 つた。市 の當局者等 は、わがアレエンソン公爵 から丁寧 な挨拶 の手紙 を銘々受取 つた。それは何 れも非常 な名文 で書 かれてゐた。併 しこれは市民 をして當局者 を疑 はしめよう爲 めになされた反間苦肉 の策 と見做 してしまつた。そこでその返事 には、こんな惡意 ある努力 で、最早餘計 な紙 を費 やさないやうに、と言 つてやつた。 ノオートル・ダムの僧職會 では、市民救拯 の爲 めの禮拜祈禱 をするやうにと命令 した。九月 五日 、三門 の砲 は此所 の修道院防衞 の爲 めに特 に許可 された。聖器保管係 りの人々 は手段 を盡 して聖器 や會堂 の寶物 を、アルマニヤツク方 に奪 はれないやうに隱 した。聖 ドニオの胴體 は、金貨 二百枚 に賣 つたが、その銀作 りの足 と頭 と冠 は、保管 した。 九月 七日 の水曜日 、卽 ち聖處女 マリヤの誕生日 の前日 、アレエンソンの公爵 と處女 ジヤンヌの軍隊 は城壁 に迫 つて突擊 を試 みた。日暮 に及 んで退 いた。そして其夜 は市民 も枕 を高 くして眠 られた。明日 は聖 マリヤ誕生祭 の日 なので、凡 てのクリスト敎徒 は之 を聖別 するからである。 これは一大祭典 で、その起原 も非常 に古 かつた。その起原 は次 のやうに記 されてある。昔 、一人 の聖人 があつた。この人 はその一生 を瞑想 の裡 に送 つた。或 る日 のこと、この人 、毎年々々 九月 八日 には大空 にいみじき天使 の樂 の聞 える事 を想 ひ出 した。そこで彼 はこの樂器 の調 と天上 の聲 には如何 な理由 があるが、それをお示 めし下 さいと神 に祈 つた。すると、これは榮 えある處女 マリヤの誕生 の年祭 だといふ答 へを賜 はつた。そしてこの嚴 かなる日 に信仰深 い人々 がこの天使 の合唱 に各々 聲 を合 せて奉祝 するやうに敎 へよと云 ふ神 の命令 を受 けたのである。この事 は早速法王初 め敎會 の要職 たちへ傳 へられた。その後 卽 ち、九月 八日 は聖母 マリヤの誕生日 として一般 に聖別祝賀 されることゝなつた。 パリイ市民 は、如何 にアルマニヤツク勢 でもこんな貴 とい祭日 には働 きをせずに靜 に聖日 を守 るであらうと考 へた。 この木曜日 卽 ち九月 八日 の午前 八時頃 、處女 ジヤンヌ始 めアレエンソンの公爵 、ブールボン公爵 ブーサツク及 びレーの諸將 、ヴァンドームの伯爵 、ラヴァールの諸卿 の面々 、各々部下 を率 ゐて總勢 一萬餘人 、肅々 として聖 ドニイ路 からパリイに程近 いラ・シヤペルの村 に屯營 してゐたのである。祭奠 の眞盛 りなる十一時 と十二時 の間 に、彼等 はレ・ムーランの頂 きに到着 した。その麓 には豚市 が開 かれてあつた。そこには一臺 の絞首臺 もあつた。五十六年前 のこと、人民 から言 はすれば聖者 らしい生活 をした一婦人 が、宗敎裁判 に依 つて異端 の宣告 を受 け、生 きながら焚殺 されたのもこの場所 であつた。 シヤルル王 の軍勢 は先 づ第 一に何 うしてもこの最 も堅固 な北面 の堡壘 に——シヤルル五世 堡壘 に現 はれたであらう? どうも解 し難 い。つひ二三日前 、彼等 はセーヌ河 に架橋 した。それに依 つて見 ると大學方面 を攻擊 するかのやうに見 えた。彼等 は同時 に二方面 から攻擊 する積 りなのか? さうらしくもある。或 は彼等 は本意 か、不本意 で、その計畫 を放棄 したのか?何 うも分 らないのだ。彼等 はシヤルル五世 堡壘 の下 に、輕砲 、重砲 、長砲 、臼砲 などを夥 しく集 めた。そして數多 の手押車 には濠 を埋 める爲 めの粗朶 や、濠 に架 する柵 や、七百個 からの梯子 を載 んで來 た。これらは城攻 には大切 な材料 なのだがそれに拘 らず、後 に分 るやうに、彼等 は最 も必要 な物 を忘 れて來 た。それ故 彼等 は肉薄戰 や大仕掛 の戰鬪 をやる爲 めに來 なかつた。彼等 はこの國内 で最 も大 きく最 も名高 く最 も繁華 なこの市 に眞晝間 の攀城威嚇 を試 みに來 たのである。この大仕掛 の企 ては疑 ひもなく御前會議 に提出 されて、そして決定 されたものである。王自 らも、これに對 して冷淡 でもなければ反對 でも無論 なかつた。シヤルル王 はこのパリイ奪還 を欲 してゐるのだ。併 しその願望 を成就 する爲 めに彼 は果 して軍隊 と攻城機械 のみに依 つたかどうかは、やがて見 られるであらう。處女 は今度 の企 てに就 て首腦側 の有 してゐる決意 のほどを少 しも打明 けられてゐないやうだ。彼女 は首腦側 の決議 に就 て殆 んど相談 に與 かつたことがない。然 し彼女 は、恰 も死 ねば必 ず天國 に入 る如 く、今日 こそは必 ずパリイに入 られるものと確信 した。何故 と云 へば、最早 三年 の間 、彼女 の「聲 」は彼女 の耳 にパリイ攻擊 のことを囁 いてゐたからである。併 し、一 つ驚 くべき點 は、聖者 の如 き彼女 として、この聖 マリヤ誕生 の祝祭日 に、敢 て干戈 を動 かすことに同意 したことなのだ。これは彼女 が五月 五日 の「昇天祭 」のときに取 つた行動 とも又同月 八日 に「聖 なる安息日 を尊 びて戰 を始 めてはならぬ」と言 つたことゝも全然反對 し矛盾 してゐる。またモントピロワで聖 マリヤ昇天祭 の日 に戰鬪 に加 り、大學 の先生 たちから非難 されたこともある。要 するに彼女 はその「聲 」の勸告 に據 つて行動 し、その耳 に囁 く漠然 たる囁 きに基 づいて決心 するのである。かう自分 の幻 の傀儡 となる人々 の靈 感 よりも不調和 な矛盾的 なものは無 い。兎 に角 、處女 は今日 も常 と同 じく自 ら正義 を爲 しつゝあるものと確信 してゐたのである。灰色 の防備堡壘 に圍 まれたパリイ前面 のレ・ムーランの頂 きに陣列 を布 いたフランス勢 は、その直前 に最外廓 の濠 を瞰下 した。それは深 さ十七八呎 の狭 い乾燥 した濠 であつたが、その向 うに阜一 つ隔 てゝ殆 んど百呎 の幅 ある水漫々 たる深 い濠 があつた。つまりそれが市 の城壁 を繞 つてゐたのである。直 ぐ右手 に聖 オノレエ門 があり、それは數個 の砲塔 に擁 せられてゐた。そして前哨防備 として木柵 で圍 まれた防寨 を備 へてゐた。 パリイ勢 はこんな祝祭日 に敵 の攻擊 を受 けるとは豫期 しなかつた。それでも各堡壘 は決 して無人 ではなかつた。そして城壁上 には數多 の軍旗 が飜 へり、別 けても聖 アンドルの大白旗 はその銀色 の十字章 を輝 かしてゐた。 フランス勢 は、敵 の砲彈石塊 を避 ける爲 め、ムーランの岡 を少 し下 つて陣 を布 き、その臼砲 や長砲 を配列 して敵 の城壁上 へ發砲 する用意 をした。この部面 の敵隊 は軍 の首部隊 で、最大 の戰線 を指揮 するものであつた。フランス勢 は侍從騎士 サンヷリエの指揮 で、五六人 の隊長始 め、一隊 の兵士 が聖 オノレエ門 に迫 つて、其所 の木柵 に火 を掛 けた。敵 の衞戌兵等 が堡壘内 へ退 いて、別隊 の敵 の來 る樣子 もなかつたので、レー將軍 の隊 が眞先 きに突進 した。處女 はその先頭 に立 つてゐた。彼等 は聖 ドニイ門 と聖 オノレエ門 との中間 に止 つた。そして第 一の濠 を苦 もなく越 えた。そして向 うの阜 へ出 ると、彼等 は敵壘 から釣瓶落 しに雨霰 と降 り來 る弩箭弓矢 に身 を曝 した。ジヤンヌは今日 も矢張 りその軍旗 を勇敢 な一兵卒 に持 たせてゐた。彼女 はその阜 に上 るや否 やパリイ方 に向 つて叫 んだ、「この市 をフランス王陛下 に引渡 せッ。」 ブルガンデイ勢 はまた彼女 がかう言 ふのも聞 いた、「イエスの名 によつて、早 く私等 に降參 するがよい。若 し日 の中 に降參 しなければ、否應言 はさず力 づくでも乘取 るのだ、さうなつたらお前等 は何 の憐 れみもなく殺 されてしまふのだ。」彼女 は阜 の上 に止 つたまゝ、前面 の廣 い濠 を槍 で探 つて見 て、その深 さと水層 の多 さに驚 いた。それでも彼女及 び彼女 の兵士等 は九日 の間 も偵察 した上 で、此所 が最 も攻擊 に都合 の好 い地點 だと選定 した場所 なのだ。彼女 が攻擊 の畫策方法 を知 らなかつたにせよ、それは當 り前 である。併 しながら同 じ阜 に立 つてゐた武人 どもが彼女 と一緒 になつて、その濠 の深 さ、水層 の多 さに面喰 つてしまふとは何事 だ。要塞 の諸防備 を偵察 することは確 かに兵家 のいろは である。有爲 の將士 は先 づ第 一に、その要塞 に濠 や澤 や柵 などの防備 の有無 を確 めてそれ相當 の用意 を整 へない間 は、決 して攻擊 に取掛 らないのだ。その點 から言 へば、レー將軍及 びアレエンソン公 の軍隊 は實 に最 も拙 い冒險家 にも劣 るのだ。こんな輕卒 な無智無謀 は殆 んど信 を置 けない位 ゐだが、或 ひは、彼等 はその濠 の深 さは十分承知 して置 きながら、處女 に敗北 させようと思 つて、かう知 らぬ風 をしてゐたのかも知 れない。さうだとすれば彼等 は處女 を係蹄 に掛 けようとして彼等自身 も引掛 つたのである。卽 ち彼等 は皆進退谷 まつて其處 に立竦 ねたのであつた。 その中 の或 る者 は氣乘 しない風 に粗朶 を投 げ入 れた。敵壘 からは散々 に弓矢 を射 かけた。そしてやがて防備兵 は段々引込 んで了 つた。併 し午後 四時頃 になると、市民 が、群集 して來 た。聖 ドニイ門 の大砲 が轟 いた。敵 と味方 とは弓矢 や罵言 やを交換 した。時 は進 み、日 は沒 した。處女 は仕切 りなしに槍 で濠 を探 りつゝパリイ市民 に降伏 せよと叫 んだ。 「この、淫婦奴 ッ! この、あばすれ奴 ッ!」と一人 のブルガンデイ人 は叫 んだ。そして彼女 に向 つて弓矢 を放 つた。彼女 の一方 の脛甲 が裂 けて、太腿 に傷 ついた。別 のブルガンデイ人 が彼女 の旗手 を射 て、その片足 を傷 つけた。旗手 がその方向 を見上 げると、この矢 が來 て彼 の眼 と眼 の間 に立 つた。旗手 は斃 れた。彼女 は傷 ついたけれども尚 ほ、敵 の射程外 に退 いて、大音聲 に味方 を勵 した。併 し、何 の爲 すところもなかつた。夜 の十時 か十一時頃 、退却 の命 が下 つた。彼女 は退却 の命令 に從 ひたくなかつたが、併 し無理 に伴 ひ去 られた。彼女 は止 むなく、「本當 に、この市 は取 られたのに」と口惜 しがつて退却 した。 フランス軍 は、今朝出發 したところの、ラ・シヤペルへ引 あげた。彼等 は今朝 粗朶 や梯子 を運 んで行 つた手押車 に負傷者 を乘 せて歸 つた。この日 フランス軍 は攻城材料 の大部分 を用 ひないで敵 の手 に遺 して來 たのである。彼等 は退却 の際 は可 なり慌 てたに違 ひない。軍用行李 などは途中 で放棄 して、それに火 を掛 けた、そして其 の火 の中 に戰死者 の死體 を投込 んでしまつた。これは實 に羅馬 の異敎徒 の行爲 に似 た恐 ろしさである。併 し敵 は一人 も追擊 しなかつた。それで無事 に彼等 は元 の陣地 へ還 つたのである。若 しこの日 の戰 を戰術上 からのみ觀 たら、疑 ひもなくフランス方 は大違算 をなし、又精力缺乏 だつたのである。併 しこの敗北 の因 つて來 る處 は單 に戰術 のみではない。軍 を指揮 した人々 も國王 も顧問官 も確 にこの日 パリイ入城 が出來 ると期待 してゐた。併 しどうしてか?卽 ち彼等 がレームズ市 に入 つた如 く、またその他 の町々 に入 つた如 くしてゞある。シヤルル王 は市民 の同意賛成 に依 つて、すべての舊領都市 を囘復 しようと決心 してゐた。パリイ市 にも、つまりこの方法 を用 ひたのである。 シヤルル王 は戴冠進軍 の間 ぢう、シヤムパーニユの町々 を囘復 するに先 づその監督僧正等 や名門等 から入 り込 んで行 つた。この同 じ手段 でパリイにも向 つたのである。彼 はパリイの修道僧等 ーー別 てもメルンの托鉢僧團 と係合 を附 けた。その監督僧 ピエル・ダレエー師 は彼 の爲 に働 きつゝあつた。この監督僧 は澤山 の雇手先 を使 つて、市 を騒擾顚覆 させようと、切 にその好機會 を覘 つてゐた。攻擊戰 の際 も彼等 は市中 にゐて頻 りに働 いてゐた。午後 になつて愈々 市民 の心 が騒立 つて來 たら、 「皆 な自分 の身 の安全 を計 るがよい。敵 は乘込 んだ! もう駄目 だ!」と叫 んで歩 いた。すると、説敎 を聽 いてゐるやうな市民 は慌 てゝ家 へ歸 つて戸 を鎖 し、外 に出歩 いてゐる人々 は敎會堂 に遁 げ込 んだ。併 し騒 ぎは靜 まつた。當局 の官吏 などは、シヤルル王 が、決 してワイワイ連 のやうに力 づくでこの市 を乘取 るやうなことはしないと知 つてゐるので、今度 の攻擊 もから 威 しに過 ぎないと信 じた。 その翌朝 、卽 ち九日 の金曜日 、處女 は曙 と共 に起 き出 づるや、直 ちに進軍準備 の令 を下 すやうにとアレエンソンの公爵 に言 つた。彼女 は今日 こそ必 ずパリイに迫 つて陥 れずには歸 らないと、強 く決心 したのである。 フランス軍 は昨日 非常 に手痛 い損害 を蒙 り、別 ても攻城輜重 の殆 んど全部 を失 つたにも拘 らず、處女 のやうな數人 の指揮官等 は今 一度 襲擊 を試 みたく思 つた。一方 には之 に反對 の人々 もあつた。そこで何 れにするかと討論 してゐる最中 に、パリイの貴族等 が五十人許 り來着 した。これは市民中 でも第 一流 の階級 の人々 であつた。彼等 はブルガンデイ方 を棄 てゝシヤルル王 の方 へ降伏 して來 たのである。これを見 ると全軍 の士氣 は遽 に振 つて、直 ちに進軍 し始 めた。そこへシヤルル王 からの使者 が來 て、この進軍 を差止 めて、そして處女 を、聖 ドニイへ引返 さした。國王 は、徹頭徹尾 平和手段 に依 つてパリイを囘復 する積 りなのである。 この聖 ドニイに於 て、わがジヤンヌに一 つの凶事 が降 りかゝつた。これは、彼女 の戰友等 に強 い印象 を與 へ、そして彼女 の戰運 に對 する彼等 の信仰 を減 ぜしめたやうに思 はれる。當時 の習慣 に做 ひ、この軍隊 にも非常 に澤山 の淫賣婦 が從 いてゐた。各人 が一人 づつ獨占 してゐた。そしてそんな女 は「amietes 」(小さな友達)と呼 ばれた。かうして女等 が居 れば軍規 が紊 れるし、特 に其樣 な罪深 い生活 が怖 しいところから、ジヤンヌは彼女等 を堪 へ忍 ぶ事 が出來 なかつた。丁度 この時次 のやうな數々 の話 があつたと廣 く世間 に傳 はつた。 このフランス軍中 の或 る兵士 が、「情婦 」を有 つてゐた。その女 は見發 れないやうに甲冑 を纏 うてゐた。ジヤンヌは之 を知 つてゐるので貴族 や隊長等 に「この隊中 には女 がゐる」と言 つた、が、彼等 は知 らないので一人 もゐないと言 つた。そこで處女 は軍隊 を集 めて、その中 から「これがさうだ」と指摘 した。 やがてその醜業婦 に「お前 はヂイアンの者 だ。そしてお腹 が大 きくなつてゐる。若 しさうでなかつたら、私 はお前 を殺 すところなんだ。お前 は既一人 の子 を殺 したのだ、今度 のは決 してさうしてはならない。」と言 つた。處女 がかう言 つたので、その女 は子 を分娩 するまで監禁 して置 かれた。彼女 は處女 の言 つた事 は本當 だと告白 した。 その後 また處女 は、「この陣中 には女 どもがゐる」と言 つた。すると、この軍隊 には最早 屬 いてゐないが、丁度其所 に居合 せた二人 の醜業婦 が、そこそこに遁 げ出 した。處女 はその後 を追 ひかけて、「この馬鹿 な女 ども、私 の隊 には來 てならないと禁 じて置 いたではないか。」と叫 んだ。そして劍 を引拔 き、その一人 を打 つて死 に至 らしめたのである。實際 のところ、ジヤンヌはこの種 の女 を忍 べなかつた。そんなのに出遇 ふ毎 に彼女 は追拂 うた。到 る所 の陣營 で彼女 は同 じことを度々實行 したのである。然 るに今 またこの聖 ドニイでも、ジヤンヌはその種 の女 どもを見出 した。併 し今度 は唯 だの叱 りや威 かしだけでは滿足 できなかつた。劍 でその一人 を打 つた、すると何 うしたのか劍 が折 れた。それは抑 も例 の聖 カトリーヌの劍 であつたらうか?紛 ふ方 もない、その名劍 であつたと信 ぜられる。さうなると、夢幻的 な物語 をよく信 じたその當時 の人々 の心 には、この事件 がいろいろと解釋 された。彼女 はその劍 と共 にその力 をも失 つた、と思 ひ做 す人 もあつた。 シヤルル王 はクレールモンの伯爵 に副官數人 を附 けて、この地方 の守備 を司 らした。そして九月 十三日 に、聖 ドニイを出發 した。處女 は進 まないながら仕方 なしに王 に從 いて行 つた。彼女 は今 まで着 てゐた鎧 を聖母 マリヤの像及 び聖 ドニイへ奉納 した。當時 の武士 の習慣 では、一度 傷 を受 けると、よし死 なずとも、その鎧 を聖母 や聖者 に奉獻 するのであつた。處女 もその習慣 を守 つたのである。 <パリイ攻擊 了> [(下篇 四)へ続く] 底本: ジャンヌ・ダルク 1917年 早稻田大學出版部 譯者: 吉江 孤雁 (喬松 )(1880.09.05 - 1940.03.26) 原著:Vie de Jeanne d'Arc 1908 著者:Anatole France (1844.04.16 - 1924.10.12) ※ この章の冒頭、底本では「ジヨン王」だが、『ジヤン王』に修正した。—— 1356年のポワティエの戦いでエドワード黒太子率いるイングランド軍にフランス軍は大敗し出陣していた仏王ジャン2世はイングランドの捕虜となった。 文中の「時の摂政シヤルル」とは、彼の子で王太子であったシャルル五世のことであり、ジャン二世が虜囚のままロンドンで没すると、後を継いだ。
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ジャンヌ・ダルク 下篇 三、 パリイ攻擊 底本:国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 所収 / ジャンヌ・ダルク ( アナトオル・フランス著,吉江孤雁訳、早稲田大学出版部,大正6)
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(縦書き表示 powered by 涅槃2(Nehan2-1.22)− 縦書き文庫提供) ※ 底本324頁の冒頭のフランス王の名前について、原著:仏語版では、"le roi Jean" と記されているので、「ジヤン」と修正した。なお、英語版では "King John" と記されている。 上篇一章でも、例えば、「ブルガンデイ公ジヨン」等と記載されている。どうも吉江孤雁先生の抄訳「ジャンヌ・ダルク」は、オリジナルの仏蘭西語版ではなく、英訳版からの重訳であったらしいと推察される。仏蘭西語版に従えば、"duc Jean de Bourgogne" なので、普通「ブルゴーニュ公ジャン」と訳していただろう。
履歴:
2013-05-30 : 振り仮名誤記や体裁等、三ヶ所訂正(rev. 1.01 ) 2012-04-26 : 縦書き組版エンジン:涅槃2(Nehan2)を利用して縦書き化掲載。(rev. 1.00 ) |